B-1、栽培に関する諸注意
「栽培法についての注意点」
(前略)次に栽培法について誤謬の点が相当あるようだから、ここにかいてみるが、本教信者になって私の説を読んだり、聞いたりし乍らも、素直に受入れられない人もあるが、何しろ先祖代々肥料迷信の虜となっている以上無理もないが、この際それを綺麗サッパリ棄ててしまい、私の言う通りにする事である。それについても種子であるが、報告中にある農林何号とか、旭何々などとあるが、これは何等の意味をなさないので、自然栽培に於ては一般に使う種子なら何でも結構である。つまり肥毒さえ抜ければ、どんな種子でも一級以上の良種となるからである。要は肥毒の有無であって、信者中から何年か経た無肥の種を貰うのが一番いいであろう。その場合種子も近い所程よく、県内位ならいいが、相当離れた他県などでは成績が悪いから止した方がいい。それと共に土の肥毒であるが、肥毒が無くなるにつれて快い青色となり、茎は固くしっかりし、分蘗も数多くなり、毛根も増え、土深く根張るから、倒伏も少なく、それらの点でよく分る。そうして堆肥についてまだ充分徹底していない様だが、最も悪いのは稲田に草葉を入れる事で、これは断然廃めた方がいい。稲作はいつもいう通り藁を短かく切り、土深く練り込めばいいので、余り多くてもいけない。というのはそれだけ根伸びを阻止するからである。又度々言う通り藁には肥料分はない。肥料は土そのものにある事を忘れてはならない。つまり藁を使うのは土を温める為で、寒冷地には使っていいが、温暖地には必要はない。これが本当の無肥料栽培である。
それから土の良い悪いであるが、これも余り関心の要はない。何故なれば悪土でも無肥なれば年々良くなるからで、連作を可とするのもこの意味である。又浄霊であるが、これは肥毒を消す為で、肥毒がなくなれば必要はない。以上大体気の附いた点をかいたのであるが、その他の事はその場所の風土、気候、環境、位置、日当り、潅漑、播種と植附の時期等適宜にすればいいのである。
最後に特に注意すべき事がある。それは自然栽培と信仰とは別物にする事である。というのは信者にならなくとも予期通り増産されるからである。それが信者でなくてはよく出来ないと誤られると、折角の本農法普及に支障を及ぼすからである。事実信者未信者を問わず効果は同様である事を心得べきである。従って浄霊も余り度々行わなくともよい。成可く人に見られないよう日に二、三回位で充分である。つまり出来るだけ信仰と切り放す事を忘れない事である。
(「自然栽培に就いて」革自 昭和28年5月5日)
「自然栽培移行に伴う注意事項」
(前略)ここで注意すべき事がある。それは自然栽培に切替えても、その水田の土と種子に残っている肥毒の多少が大いに影響する。例えば本栽培にしても或水田は一年目から一割位の増収になる処があるかと思えば、一年目二年目共一、二割の減収で、漸く三年目になってから一、二割の増収となり、漸次予期の成績となるのである。従って先ず普通としては一年目従来と同様、二年目一割増、三年目二割増、四年目三、四割増、五年目から五割増とみれば、先ず間違いはあるまい。従って若し余りに成績の悪い場合は人為肥料が多量に残っている為であるから、一時客土によって緩和すればよい。
今一つ重要なる一事がある。それは硫安の如き化学肥料は、稲が吸収する以上、その劇毒が仮令微量であっても、人間は一日三度宛腹の中へ入れるのだから、不知不識の内に人体に害を及ぼすのは当然である。近代人の罹病率が多くなったのも、そうした原因もないとは言えないであろう。(後略)
(「農業の大革命 五カ年にして米の五割増産は確実(一)」革自 昭和28年5月5日)
「自然栽培の注意点」
この自然栽培を実施する時に、ただ斯ういう点があります。例えば今迄の有肥栽培の稲を自然栽培に切換えた最初の年は、当初実に貧弱なものです。丁度一種の麻薬中毒患者が麻薬を止めると、馬鹿みたいになりますがそれと同じで、今迄肥料をやっていたのをやめるから、一時その様な状態になるのでそこでみんな驚くのですが、それでも辛抱していると、秋になる頃には復活して産額は殆ど同じ位になります。次の年になれば、前の年よりはいいですが、それでも最初の間は見られません。三年四年と経つと段々よくなって、五年目になると五割増産になります。それでこの頃は信者以外の人でも大分真似をするようになってやっているようです。結局今の人間は迷信にかかっているのです。肥料迷信、薬毒迷信です。それを打破していかなければならないのです。
(「竹内四郎氏外との御対談(二)肥料迷信打破も急務」栄194号 昭和28年2月4日)
「藁、枯草落葉の使い方」
(前略)稲に与える肥料は、藁を出来るだけ細かく切り、土へよく捏り交ぜればいいので、それが自然である。藁は稲の産物であるからで、これは根を温める効果がある。又野菜の方に枯草や落葉がいいのは、畠の近くには必ず林があり、落葉、枯草があるにみてそれを使えという意味である。そうしてであって、この窒素こそ神が与えた肥料で、地表を透過し地上或程度の高さに達して滞溜し、それが雨によって地上へ降下し地面に浸潤する。これが自然の窒素肥料で天から降ったものであり、勿論量に於ても過不足なく丁度いい位なのである。では何故窒素肥料を使い始めたかというと、これには理由がある。彼の第一次大戦の折、独逸(ドイツ)に於ては食糧不足の為、急激に増産せねばならず、そこで空中から窒素を採る事を発見し、使用した処大いに増産されたので、それ以来世界的に普及されたのであるが、右は一時的効果であって、決して長く続くものではない。何れは窒素過剰に陥り、土が弱って減産する事になるが、その理がまだ判らないのである。つまり麻薬中毒と同様であると思えばいい。(後略)
(「農業の大革命 五カ年にして米の五割増産は確実(一)」革自 昭和28年5月5日)
「堆肥、入れすぎると中毒に・・・」
(前略)それから、こういうのがあつたです。年々非常に良く出来ていたが――一年も少し増えて、二年も少し穫れて、三年目は一層良く穫れた。最初から良いので、今年はうんと穫れると思つた。それで、土用中に堆肥をうんとした方が良いと思つて、枯草をうんと入れた。それで、良いのは良いが枯草を土用中に入れたのがいけなかつたと言うのが、本人も解つて、書いてあつたが、堆肥中毒にかかつていた。本当言うと、堆肥も要らない位なものです。土許りで良いんです。稲作は、気候が寒い処は、暖める為に藁を切つてやる。処が、中には藁を五、六寸に切つてやつてある。之じやしようがないですよ。だから私の言うのは、精々一分か二分位です。それを土に切り混ぜると、早く腐つて、満遍なく行きますからね。だから、長いとちよつとしかいかない。それに根伸びが悪い。それを、長いと思つて、今度は二、三寸にしてやつたが、それじやしようがない。そうしていくと、どんどん増産になるんです。五割増産と言うのは、私は内端(ウチワ)に言つているんですよ。本当言うと、十割は大丈夫ですよ。或いはもつと行くかも知れない。(後略)
(御教え集6号 昭和27年1月25日)
「堆肥尊重の害」
(前略)それからもう一つは、堆肥に依つて出来ると――堆肥尊重に偏る――そういう点が大いにあつたですね。処が佐渡の方は堆肥をやらなくて――中には、今年から堆肥をやらないで、土許りにすると言う人もありますがね。堆肥をやつた程出来が悪いんです。尤も、先に御蔭話の中に堆肥をやり過ぎて悪かつた。前の年は堆肥をやらなくて成績が良かつた。処が、次年に堆肥をやり過ぎて悪かつたというのがありますが、それを見ても堆肥をやり過ぎるといけない。堆肥をやり過ぎると、やはり土を殺すんです。私のに書いてある通り、堆肥というのは土を固めない事と、稲なんかは根を温める為と、野菜物は乾くから水分を成可く保存して置く為に行う――そういう意味で書いてありますからね。だから例えて見れば、稲なんか暖い土地――暖い処は藁を切つてやらなくても良いんですよ。あれは根を温める為だ。土を温める為だと、私は書いてありますがね。寒い処はやつた方が良いが、暖い処はやらなくても良いんですよ。それから余り乾かない処はやらなくて良いんですね。それから、土が固まらない処ですね。固まらない処はやらなくても良い。ですから――土が古くなると、余り固まらなくなります。(後略)
(御教え集9号 昭和27年4月27日)
「今迄の肥料迷信を抜く」
自然栽培の報告が沢山集まったので、今度特集号を作ろうと思ってます。大体の事は今までに幾度も説明してありますが、まだ幾らか肥料迷信がぬけきれないというわけです。丁度作物の肥料がぬけきれない様に、作る人の頭の肥料迷信もぬけきれないわけです。どうも土に対する認識が薄いのです。土というものの地力を出さないほど出来が悪いのです。それから、土だけを当(アテ)にして、土だけを尊ぶ心を持っている人は非常に成績が良いのです。だからこれも薬毒と同じで、今までと反対に考えてくればいいという事になります。お蔭話の中で一人だけは、丁度六年目で六割以上増産になった人がありますが、これは私の言うとおりにやって、言うとおりの結果になったわけです。(後略)
(御教え集19号 昭和28年2月25日)
「少しずつ栽培地を増やす」
「北陸の方で、二年目三年目になつて漸く有肥と同じになり――福井、富山、石川で御座いますが、地域的に邪神と言いますか――」
そこは肥料をうんとぶつかけた処です。肥料が多い為に肥毒が抜けるのに暇がかかつたんですね。それで今年普通と同じになれば、来年は増産になると言う訳ですね。
「自然栽培の御垂示は良く解りますが、経済的に困難となつて居り、又この儘で行くと減つていくんじやないかと言う考えが致し――」
然しそれは当り前で、私が言つた通りです。最初は減る場合がある。と、それは段々続けて行つて、肥毒が無くなるに連れて増産になる。と言うのは、私が言つてある通りです。経済上にあるなら、一ぺんにやらないで、仮に一町あるとすれば、そのうちの二割なら二割――最初はね。二段丈やる。それから、その次は三段やる。次に四段やる。すると、一方の有肥の方は今迄通りやる。無肥料の方が一旦減つても、段々増えていく。そう言う様に、漸進的にやると良い。土地によつて、肥料を多く使う処と少なくする処が、非常にあるから、そう言う処は肥毒を余計受けている。だから、肥毒が減るのに暇がかかると言うんだ。酒飲みでも、うんと大酒飲みもあるし中位もある。大酒飲みはうんと暇がかかる。
「一般からは、事実は事実だと、自然栽培を全然受けつけられません」
それはしようがないじやないか。薬毒のひどいのと同じで、薬毒のひどい人を、直きに健康にしようとしても出来ないからね。その理窟の解らない人は、解る迄おつぽらかすよりしようがない。解つた人は良いが――肥毒が抜けるのを待つよりない。それも厭なら止(ヨ)すよりないね。
(御垂示録5号 昭和26年12月8日)