「(中略)私は科学者ではないから、科学的に説明はしないが、実際と経験によって、真の栄養学は如何なるものであるかといふ帰納的論理を以て説くつもりであるから誤謬はないと思ふのである。そうして、今日栄養学といへば、カロリーやヴィタミン説に捉はれ、それによって凡て律してゐるが、私は断言するのである。ヴィタミンが全然無い物を食ってさへも、人間は立派に生きてゆかれる事である。
そうして医学に於ての研究なるものは、食物の方にのみ偏して、人体内に於ける消化機能や栄養製産機能の作用を無視してゐるので其点に根本的誤謬がある。元来人体内の凡ゆる機能なるものは実に偉大なる科学的製産者であって、凡有る食物を自由自在に変化させるのである。然るに、医学に於ては、此変化力といふ意味が未だ知られてゐないのである。然らば、此変化力とは如何なるものであるか。
例へば、米飯や菜葉や芋や豆を食っても、それが消化機能といふ魔法使によって変化し血液となり、筋肉となり、骨となるといふ事である。然るに米飯や菜葉を如何に分析しても、血素の微粒、肉素の一粍だも発見し得られないであらう。只だそれを食する事によって、体内で自然に各素が製出されるのであって、全く神秘偉大なる変化力である。故にヴィタミンの全然ない食物を摂取しても、それを幾つかの機能の端倪(タンゲイ)すべからざる活動によって、ヴィタミンのAもBもCもアミノ酸もグリコーゲンも、其他未発見のあらゆる栄養素が製出さるるのである。
従而、右の理によって考える時、斯ういふ疑問が起るであらう。即ち血液素の全然無い物を食ふ事によって血液が出来ヴィタミンの絶無である物を食ってヴィタミンが製出されるとしたなら、栄養と称して血液を飲んだりヴィタミンを摂取したりしたら、それはどういふことになるであらうかといふ事であるが、それは斯ういふ結果になるのである。
即ち、血液やヴィタミンが入るとすると、それ等を製出すべき機能は、活動する必要がないから休止するのである。従而、それ等体内の一部の機能と雖も休止する以上相互関係にある他の機能も、休止又は退化するのは当然である。
卑近な例ではあるが、彼の牛が草や藁を食ふ事によって、彼の素晴しい牛乳といふ美味な栄養汁が出来るが、之は牛の体内の消化機能の活動による変化力のためで之を今日人間が如何に機械力を以てしても、草や藁から牛乳を製出する事は不可能であらう。
右の理によって、ビタミン等の栄養素を摂取すれば或期間結果は好いとしても、其後に到って漸次機能が弱り、全身的弱体化するのは当然である。恰かも車に乗れば一時は楽であっても漸次足が弱るといふのと同様である。故に栄養食を摂れば一時は身体は肥え、血色は良くなり、統計的にも好成績は表はれるが或期間を過ぎれば弱体化するのである。故に、今日栄養食実験の結果、一二年の統計に表はれたる好成績に幻惑されて、栄養食奨励の策を樹てるのであるが、実に困ったものである。
故に、右の意味に於て人間の生活力を旺盛ならしむるには、栄養機能の活動を促進させなければならないのである。それには栄養の少い物を食って、体内の栄養製産機能を働かせるやうにする事である。勿論運動の目的も其為である。故に実際上昔から農民は非常な粗食であるが、粗食をするから彼丈の労働力が湧出するのである。もし農民が美食をすれば労働力は減少するのである。又、満洲の苦力(クーリー)の生活力が強靭なのは有名な話であるが、彼等は非常な粗食であって、而も三食共同一な物を食ってゐるといふのに察ても私の説は肯定し得らるるであらう。然るに今日の栄養学に於ては、種類を多く摂る事を推奨するが之等も実際に当嵌らない事は言ふまでもないのである。(中略)
今一つの例を挙げてみよう。ここに機械製造工場があるとする。その工場は原料たる、鉄や石炭を運び込み、それを職工の労作と、石炭を燃やし機械を運転し種々の順序を経て初めて一個の完全なる機械が造り出されるのである。それが工場の使命であり、工場の存在理由であり工場の生活力である、之が儻(モ)し完成した機械を工場に運び込んだとすると、工場は職工の労作も器械の運転も必要がない。煙突から烟も出ないといふ訳で其工場の生活は無いのである。従而職工も解雇し、機械も漸次錆ついて其工場の存在理由は消滅するであらう。
人間も之と同様であって、栄養食を摂るとすると、本来栄養食とはより完成した食物である。而もヴィタミンの如き栄養素は特に完成されたものであるから、体内の工場は労作の必要がないが故に機能の弱るのは当然である。故に、此意味に於て人間は、成可原始的粗食を摂って体内機能がそれを完全栄養素に変化すべく活動させるやうに為すべきである。その活動の過程其ものこそ、人間の生活力となって現はれるからである。
又、近来、食物を出来るだけ咀嚼すべしと謂ふが、之も大いに誤ってゐる。何となれば余りによく咀嚼すれば胃の活動の余地が無くなるから胃は弱るのである。従而半噛み位即ち普通程度が可いのである。昔から"早飯の人は健康だ"といはれるが、之等も一理あるのである。
又、今日の栄養学は、穀類の栄養を軽んじてゐる。栄養といへば副食物に多く在るやうに思って種々の献立に苦心してゐるのであるが、之も謬ってゐる。実は、穀類の栄養が主であって、副食物は従である。寧ろ、副食物は、飯を甘(ウマ)く食ふ為の必要物である-と解しても可いのである。此例として、私は先年日本アルプスへ登山した際、案内人夫の弁当をみて驚いたのである。それは白い飯のみであって、全然菜は無いのである。梅干一個も無いのである。私は「飯ばかりで甘(ウ)まいか」と訊くと"非常にうまい"と言ふのである。それで彼等は十二三貫の荷物を背負って、頗る嶮路を毎日登り降りするのであるから驚くべきである。是等の事実をみて、栄養学者は何と説明するであらう。
右の如く、菜がなく飯ばかりで非常にうまいといふ事は一寸不思議に思ふであろうが、それは斯ういふ訳である。元来人間の機能なるものは、環境に順応するやうに出来てゐるから、粗食を持続すれば、舌の方が変化してそれが美味となるのである。此舌の変化といふ事は、あまり知られてゐないやうである。故に、反対に美食に慣れると、それが段々美味しくなくなるので、それ以上の美食を次々求めるといふ、贅沢な人の例をよく見るのである。(中略)」
(「栄養学」明医二 S17.9.28.)
「(中略)栄養に関する一大誤謬である。(中略)其最も甚だしい点は、栄養学は食物のみを対象としていて、人体の機能の方を閑却されている事である。例えばビタミンにしろ、ABCなどと種類まで分けて、栄養の不足を補わうとしているが、之こそ実に馬鹿々々しい話である。それは前述の如く体内機能が有している本然の性能を無視しているからである。
というのは其機能の働きが全然判っていない処に起因する。機能の働きとは人体を養うに必要なビタミンでも、含水炭素でも、蛋白でも、アミノ酸でも、グリコーゲンでも、脂肪でも、如何なる栄養でも、其活動によって充分生産されるのである。勿論全然ビタミンのない食物からでも、栄養機能という魔法使いは、必要なだけは必ず造り出す事である。
此理によって、人体は栄養を摂る程衰弱するという逆結果となる。即ちビタミンを摂る程ビタミンは不足する。之は不思議でも何でもない。というのは栄養を体内に入れるとすると、栄養生産機能は活動の余地がなくなるから退化して了う。言うまでもなく栄養とは完成したものであるからである。
本来人間の生活力とは、機能の活動によって生れる其結果であるから、機能の活動特に消化機能の活動こそ生活力の主体であって、言わば生活力即健康である。そうして機能を活動させる事とは未完成な食物を、完成にすべき機能の労作である。何よりも空腹になると弱るというのは食物を処理すべき労作が終ったからであり、早速食物を摂るや、再び活動を始めると同時に、身体が確かりするに見て判るであろう。而も人体凡ての機能は、相互関係にある以上、根本の消化機能が弱れば他の機能も弱り、回復すれば他も回復するのは当然である。
又人間に運動が健康上必要である事は言う迄もないが、それは外部的に新陳代謝を旺盛にするからで、勿論内部的にも相当好影響はあるが、根本的ではなく支援的である。どうしても消化機能自体の活動を促進させなければならない。それには消化のいいものでは駄目で、普通一般の食物がいいのである。処が医学は消化の良いもの程可とするが、実は消化の良いもの程胃を弱らせる。其上よく噛む事を奨励するが、之も右と同様胃を弱らせる。此例として彼の胃下垂であるが之は胃が弛緩する病気で、全く人間が造ったものである。というのは消化のいい物をよく噛んで食い、消化薬を常用するとすれば、胃は益々弱り、弛緩するに決っている。(中略)
以上によってみても判る如く、医学は殆んど逆的方法であるから、健康がよくなる筈がない。又他の例として斯ういう事がある。乳の足りない母親に向って牛乳を奨めるが、之も可笑しい、人間は子を産めば育つだけの乳は必ず出るに決っている、足りないという事は、何処かに間違った点があるからで、その点を発見し是正すればいいのである。処が医学ではそれに気が付かないのか、気が付いてもどうする事も出来ないのか、口から乳首迄筒抜けになっているように思っているとしか思えない。
之が飛んでもない間違いで、牛乳を呑むと反って乳の出が悪くなる、それは外部から乳を供給する以上、乳を生産する機能が退化するからである。又病人が栄養として動物の生血を呑む事があるが、実に呆れたものである。成程一時は多少の効果はあるかも知れないが、実は体内の血液生産機能を弱らせる、其結果却って貧血するようになる。
考えても見るがいい、人間は、白い米やパンを食い、青い菜や黄色い豆を食って、赤い血が出来るにみて、何と素晴しい生産技術者ではないか。血液の一粍だもない物を食っても、血液が出来るとしたら、血液を飲んだら一体どういう事になろう、言う迄もなく逆に血液は出来ない事になる。そこに気が付かない栄養学の蒙昧は、何と評していいか言葉はない。彼の牛という獣でさえ、藁を食って、結構な牛乳が出来るではないか、況んや人間に於てをやである。之等によってみても、栄養学の誤謬発生の原因は、全く自然を無視した処に原因するのである。
そうして、人間になくてならない栄養は、植物に多く含まれている。何よりも菜食者は例外なく健康で長生きである。彼の粗食主義の禅僧などには長寿者が最も多い事実や、先日九十四歳で物故した英国のバーナード・ショウ翁の如きは、有名な菜食主義者である。(中略)又私は曩に述べた如く、結核を治すべく三カ月間、絶対菜食で鰹節さえ使わず、薬も廃めて了ったが、それで完全に治ったのである。
此様な訳で私は九十歳過ぎたら大いに若返り法を行わうと思っている。それはどうするのかというと、菜食を主とした出来る丈の粗食にする事である。粗食は何故いいかというと、栄養が乏しい為、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならない。それが為消化機能は活溌となり、若返りとなるからである、とすれば健康で長生きするのは当然である。(中略)
之等の例によっても判るが、今日の栄養学で唱える色々混ぜるのをよいとするのは大いに間違ってをり、出来るだけ単食がいい訳である。何故なれば栄養生産機能の活動は、同一のものを持続すればする程其力が強化されるからで、恰度人間が一つ仕事をすれば、熟練するのと同様の理である。それから誰しも意外に思う事がある、それは菜食をすると実に温かい。成程肉食は一時は温かいが、時間の経つに従って、反って寒くなるものである。之で判った事だが、欧米にストーブが発達したのは、全く肉食の為寒気に耐えないからであろう。
之に反し昔の日本人は肉食でない為、寒気に耐え易かったので、住居なども余り防寒に意を用いていなかった。服装にしても足軽や下郎が、寒中でも毛脛を出して平気でいたり、女なども晒の腰巻一、二枚で、今の女のように毛糸の腰巻何枚も重ねて、尚冷えると言うような事などと考え合わすと、成程と思われるであろう。
今一つ茲に注意しなければならない重要事は、近来農村人に栄養が足りないとして、魚鳥獣肉を奨励しているが、之も間違っている。というのは前述の如く、菜食による栄養は根本的で、頗る強力であるから、労働の場合持続性があって疲れない。だから昔から日本の農民は男女共朝早くから暗くなる迄労働する、もし農民が動物性のものを多く食ったら、労働力は減殺される。何よりも米国の農業は機械化が発達したというのは、体力が続かないから、頭脳で補わうとした為であろう。故に日本の農民も動物性食餌を多く摂るとすれば、機械力が伴わなければならない理屈で、此点深く考究の要があろう。
右によってみても判る如く、身体のみを養うとしたら、菜食に限るが、そうもゆかない事情がある。というのは成程農村人ならそれでいいが、都会人は肉体よりも頭脳労働の方が多いから、それに相応する栄養が必要となる。即ち日本人としては魚鳥を第一とし、獣肉を第二にする事である。其訳は日本は周囲海というにみてもそれが自然である。
元来魚鳥肉は頭脳の栄養をよくし元気と智慧が出る効果がある。又獣肉は競争意識を旺んにし、果ては闘争意識に迄発展する。之は白人文明がよく物語っている。白色民族が競争意識の為、今日の如く文化の発達を見たが、闘争意識の為戦争が絶えないにみて、文明国と言われ乍ら、東洋とは比較にならない程、戦争が多いにみても明かである。
以上、長々と述べて来たが、要約すれば斯ういう事になる。人間は食物に関しては栄養などを余り考えないで、只食いたいものを食うという自然がいいのである。其場合植物性と動物性を都会人は半々位がよく、農村人と病人は植物性七、八割、動物性二、三割が最も適している。食餌を右のようにし、薬を服まないとしたら、人間は決して病気などに罹る筈はないのである。故に衛生や、健康法が、実際と喰違っている以上、反って手数をかけて悪い結果を生むのであるから、凡て自然に従い、あるがままの簡素な生活をする事こそ、真の文明人の生き方である。」
(「栄養」結革
S26.8.15.)
「今日の営養学上、ヴィタミンがどうとか、カロリーが幾許あればいいとか言ふことは、実は、枝葉末節の問題であって、営養の根本は食物の霊気其物にあるのである。然し、此霊気なるものは、試験管では測定出来ないものであるから、如何に研究しても今日の学問の程度では判らないのである。カロリーとかヴィタミンとか、蛋白とか、含水炭素とかいふ物は、実は、霊気を取除いた後の糟の如きものである。
各項に於て細説したる如く、人間は霊と体で成立ち、活動してゐるものであるから、食物も、其霊体両方の営養が必要なのである。凡ゆる食物、夫等も悉く、霊体で成ってゐるのであるから、新しい食物、即ち新鮮な野菜、漁りたての魚程、霊気を多分に含まれてゐるのである。此理に由って、食物の腐敗するのは、霊気が放出するからである。食物にも霊気保持期の長短があって、穀類は一番保持期が永く、蔬菜類がその次であって、魚が一番短いのである。之は腐敗の時間をみれば、能く判るのである。
随而、新鮮な物程、霊気が濃い訳である。併し、干物にすれば、比較的長く保持されるのは、塩の霊気を借りる為と、水分を抜く為とである。(水は元来、右進左退の活動であって、空気とは反対の運動リズムである)缶詰は、密閉して、空気を遮断する為、空気中に放散すべき霊気が、保持されるからいいのである。
人間の精霊を養ふには、食物の霊気であり、人間の体を養ふ物は食物の体である。然るに、人間の活力の根源は、霊気の充実にあるのである。体の強弱は、実は、霊気の充実と否とにあるのである。然るを以て、健康の根本は、霊の多量に含む物を食へばいい。さすれば、精霊の活力を益し、精霊の活力が増せば、肉体の強健を増すからである。彼の各種の滋養剤の如く精製されたものは、霊気が発散して、稀薄になってゐるから、精霊を養ふ力は殆んど無くなってゐる為、何程、滋養剤を摂ると雖も、活力は増さないのである。それよりも寧ろ、新鮮なる野菜の如き物を食す方が、どれ程賢明であるか知れないのである。(中略)
人間を構成してゐる、凡ゆる物質は、幾百種に上るか判らない。主なる物としては血液、細胞、筋骨、毛髪、水分、石灰質等、其一つ一つの中に、幾種類も成分が含まれてあるのである。又各種の臓器、夫等が皆一秒の間も停止する事無く活動しつつある。そのエネルギーは何に依るかと言ふと、孰れも、食物から抽出されたる、霊素と体素とである故に、凡ゆる食物の成分には、人間の生活力に必要なる成分を、含有されてゐないものはないのである。故に、理想から言へば、出来得る丈種々の食物を摂るのがいいのである。何が薬だとか、何がいけないとか、人間が理屈を付けるのが、間違ってゐるので、此点からも、食べ度いと思ふ物を、種々食べるのが、一番いいのである。」
(「真の営養学」医講 S10.)