概 論
3,浄化作用に就いて
(中略)次に、人間が一度病気に罹るや、それを駆逐解消すべき、人間自体の大活動が起るのである。それは、自家製造の薬が出来るのである。人間の肉体は、元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもので、病気といふ不純物が侵入するや否や、肉体内に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、即時薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。
それは素晴しい薬や器械であって、実によく治すのである。毒な物を食へば、早速、体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。悪い黴菌が飛込めば、熱といふ大殺菌作用の治療法が行はれ、又、物に中毒をすれば、内臓へ入れまいと外部へ押出して、皮膚に赤く斑点を現はし、痒みと熱を以て消失せしめ、又中毒によっては、腎臓の大活動となり、水分で洗ひ、小便に依って排泄せしめ、塵埃を多量に吸へば、痰にして吐き出す等、実に巧妙を極めたものである。
であるから、凡ゆる病気は、自然に放置してをけば大抵は治るのである。それを知らないから、科学で研究された薬や療法を用ゆるので、それが自然治療作用へ対して、大いに妨害になり、病気を長延かせるのである。之を実證するには、諸君、儻し病気に罹ったら極めて自然に放置せられよ。(中略)
但し、其場合、徹頭徹尾自然を尊ぶので、寝たければ寝、起き度ければ起き、歩き度ければ歩き、食べ度ければ喰べ、喰べ度なければ食欲の起る迄は、二日でも三日でも喰べないでいい。熱が高ければ水枕位はいいとして、出来る丈、手当をしないのがいいのである。斯うすれば、如何なる病気も、実によく治るのである。
自然療法を推奨すると、医学は全然、必要がないかといふと、そうばかりでもない。医学の中にも、全然、無益でないものもある。それは、細菌学、衛生学の一部、戦争の際の外科、歯科医学、接骨等である。」
(「自然療法」医講 S10)
「凡そ人間が此世の生を受けるや、遺伝毒素即ち最初に述べた天然痘毒素を主なるものとして種々の毒素を保有してゐる事は前項に述べた通りである。そうして之等の毒素の支障によって健康が完全に保持出来得ないから、体外に排泄せらるべく絶えず自然浄化作用が行はれるやうに造られてゐるのが人体である。そうして自然浄化作用が行はれる場合或程度の苦痛が伴ふので、その苦痛を称して、"病気"と名付けられたのである。」
(「病気の真因」明医一 S17.9.28)
「(中略)私の発見した-病気は浄化作用である-といふ、その浄化作用といふ意味は、言ひ換へれば、一旦固結した処の毒素に対し、自然的に溶解作用が起るといふ事である。従而、溶解作用発生以前は、何等病気症状はないから健康体と同様である訳である。
即ち、毒素保有者と雖も、それが固結してゐて、聊かの溶解作用の発生がない時は、健康体として自己自身もそう信じてゐるし、且つ顔色も体格も健康そうであるから、仮令、医家が健康診断を行ふと雖も、今日の医学の診断では、浄化発生以前の固結毒素を発見し得られないから完全健康と誤るのは致し方ないのである。故に、医家の診断に於て、模範的健康とされたものが、間もなく発病して死に到ったといふやうな実例がよくあるのは、右の如き理に由るのである。
従而、毒素を保有し乍ら、浄化未発生の人に対して、私は擬健康といふのである。然るに、本医術の診断に於ては、右の如き擬健康である毒素保有者に対し、保有毒素の尽くを知り得るのである。医学に於て、病気潜伏と称するのは、此保有毒素を想像して言ふのであらう。
そうして医学の診断に於て、血圧計とか、ツベルクリン反応、赤血球の沈降速度梅毒の血液検査等に表はれたる症状を以て、潜伏疾患を予想するのであるが、それに対し如何なる臓器又は如何なる局所に潜伏病原があるかを適確に知り得ないのであるから疾患の発生を防止し得ないのは当然である。此意味を以てすれば、近来唱ふる予防医学などは全く意味をなさないのであって、結局空念仏に過ぎないと私は思ふのである。
昔から、人は病気の器と謂ひ、いつ何時病み患ひがあるかも知れないと案じ、又釈尊は人間の四苦は生病老死であるとし、病は避け難いものとされてゐるが、それ等は何れも擬健康であるから、何時浄化作用が発生するか判らないといふ状態に置かれてゐるからである。故に、真の健康者が増加するに従ひ、右の如き言葉は消滅してしまふであらう。
右の如くであるから、真の健康とは、全然無毒の人間でなければならないのである。そういふやうな完全な健康体は、今日の日本人には、恐らく一万人に一人位であらう。何となれば、九拾歳以上の長命者は、右の如き健康者であるからである。然るに本医術によれば無毒者となり得るのであるから、完全健康体となり、九拾歳以上の長寿者となる事は、易々たるものである。」
(「真の健康と擬健康」明医二 S17.9.28)
「如何なる人間と雖も、先天性及び後天性に種々の毒素を保有してゐる、それ等の毒素は人間が神経を使ふ個所へ集注するといふ、私の唱ふる説に従へば、神経を最も使ふ局所としては首から上である、頭脳を初め眼鼻口耳等で手足は休むことがあっても右の機能は覚醒時中は一刻の閑さえなく活動してゐる、従而、毒素は之等の附近に集溜するのは当然で、大多数者が何時も訴へる首の周り肩の凝り等も其為である、此集溜毒素は時日を経るに従ひ一旦固結するが固結が或程度に達すると、反対作用即ち溶解排除作用が発生する、之を吾等は浄化作用といふのである、其際必ず発熱を伴ふが、それは毒素排除を容易ならしむる為の固結の溶解作用で、それによって固結は液体化するのである、此自然浄化が感冒であって喀痰鼻汁汗等の排泄物はその表われであるが、感冒の極軽微な浄化作用は、大抵の人は平常と雖も持続しているのである、(中略)」
「大三災と小三災」 S24.8.13)
「吾々が常に言う病気とは人体の浄化作用であり、人体に毒素がある程度溜るや、これが健康に支障を及ぼすため毒素排泄作用が発生する、つまり清浄作用である、これなくしては人間の健康は保ち得ないからで、それが一切の原則で、全く神の大なる恩恵である。(中略)」
(「火災の霊的考察」 S25,5,20)
「(中略)毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄血作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものというべきである。(中略)」
(「病気とは何ぞや」 S26,8,15)
「愈々之から病気に就ての一切を解説する順序となったが、抑々病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。従って体内に汚物さへなければ血行は良く、無病息災で年中溌剌たる元気を以て活動が出来るのである。としたら一体汚物とは何であるかといふと、之こそ薬剤の古くなったもので、毒血又は膿化した不潔物である。(中略)」
(「病気とは何ぞや」文創 S27)