第四章 浄化作用と再浄化
1、浄化作用について
① 浄化作用は神の恩恵
「病気とは感謝すべきもの」
「(前略)今日迄の凡ゆる学説は一様に-病患なるものは「健康の破壊」となし、窮極に於て生命を失ふものとされてゐた。又宗教に於ては「神の戒告」或は「罪穢に対する刑罰」ともされてゐた。従而病気とは恐るべきもの、悲しむべきもの、呪ふべきものとされてゐたのである。然るに私の説は「病気とは祝福すべきもの、喜ぶべきものであって、全く神が人間に与へた最大なる恩恵であり、又自然の生理作用でもあるといふのである。故に病気によって人間の健康は保持され寿齢は延長される」のであるから感謝すべきものである。(後略)」
(「人口増加率逓減の問題」昭和22年2月5日)
「(前略)私の言ふ病気なるものは、神の恩恵であって、病気なる浄化作用によって、体内の毒素が軽減又は排除さるるのであるといふ意味を思ふ時、洵に感謝に堪へない気持が湧くであらう。寧ろ病気の一層強烈であれかしと願ふ心にさへなるものである。又病気恢復後、毒素軽減による健康増進の希望も起る以上、それが亦一つの楽しみとなるのである。(後略)」
(「病気に感謝せよ」昭和18年10月5日)
「理窟に合わなければ神様はどうしようもない」
「(前略)理窟に合わない事をすれば理窟に合わない結果になってしまいます。少なくとも信仰にはいって居ながら堕胎などをするという事は、とんでもない罪を犯したのです。それも、あとのやり方が理窟にあっていて、そうして非常に悔悟して、自分はとんでもない間違った事をしたと言って御詫びをすれば、或いは助かったかも知れないが、そういう事も支部長はあんまり言わなかったらしいので、私がそう言ったらびっくりしてました。
そうすると支部長のやり方が最も間違っていたのです。それでも支部長がそれに気がついて、心から御詫びをして、父親か母親に子供の浄霊をさせるというようにすると、助からない事はなかったが、神様は厳しいのです。
しかし理窟に合えば、神様は愛ですが、理窟に合わなければ神様はどうしようもないのです。神様は御利益を幾らでも与えたいのです。ところが資格がないのです。例えてみれば金銭にしても、神様は幾らでもザルなり財布なりに入れてあげたいので
すが、この財布の中に汚たない物があるから入れられないのです。それを掃除すればよいのです。
ですから人間の方で命を助かりたい時には、人間の方で助かる状態にすればよいのです。それをしてないから、神様の方にも規則がありますから、神様自身がその規則を外す事はできないから、助けたくても助けられないという事になります。(後略)」
(御教え集22号 昭和28年5月26日)
「病気は浄化作用---神の恩恵中最大なもの」
「(前略)毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄化作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものというべきである。(後略)」
(「病気とは何ぞや 寒冒」 昭和26年8月15日)
「浄化は有難いもの」
「本教は病気の事を浄化というが、之程いい言葉はあるまいと思う。それも嘘ではなく本当でもあるからである。第一此言葉から受ける感じは、頗る気持がいいが、之に反し病とか病気とかいう言葉位気持の悪いものはあるまい。併しよく考えてみると、此言葉も満更間違ってはいないと思う。というのは病は結構なものである事を知らないから、余計な心配する。つまり気を病むものだからであろう。夫に就てよく信者同志の話合ってるのを聴くと、『お蔭でやっと浄化が起りました』とか『浄化の御蔭で近頃は、大分身体の工合がよくなりました』とか『浄化は有難いものですね』なども、実に快い言葉である。(後略)」
(「浄化の言葉」 昭和27年5月21日)
「苦しめたりする人は、自分の曇を除つて呉れている」
「(前略)仮に一家にどうしても信仰に入らない人があつて、其人が反対したりするが、そうすると反対された人の方は、始終やきもきしてますが、そのやきもきする方に曇がある。其人に曇が無くなつて魂が浄まると、他の人が悩み苦しめる事は出来なくなる。すると其人は信仰に入る事になる。あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為に飛んでもない事になつた、あいつは飛んでもない損をさせた。又いくら言つても入らないとか、そういうのはやつぱり御自分を見なければいけな
い。それはそれ丈の曇がこつちにあるからなのです。それに依つてこつちの曇を除つて呉れるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇を除つて呉れているわけです。浄化作用の仕事をやつて呉れているわけです。そこ迄来ると、感謝してもよい事になつて来るのです。(後略)」
(御教え集15号 昭和27年10月6日)
「浄化作用は大慈大悲の表れ」
「(前略)つまり浄化作用ということは、神様はどうしても、間違った事は正さなければならない、汚ないものは掃除しなければならない、という事と、一人でも人間を助けようという両方なのです。「大慈大悲」という事を昔から言われてますが、「大慈」というのは助けてやろうという大いなる愛です。それから「悲」というのは、それにはどうも犠牲者が出る、可哀想だ、そういう御心の現われが「悲」です。ですから「大慈大悲」というの
は、意味から言うと逆のようですが、そういうように考えてゆくとよく分るわけです。だから観音様に「大悲菩薩」という御名前があり、大いに悲しむというわけです。これからは犠牲の方が多いから「大悲菩薩」のお働きというわけです。」
(御教え集26号 昭和28年9月25日)
「穢れを浄化する、そういうものが自然発生する」
「(前略)何時も言うとおり、相応の理というものは、何でも穢れれば自然にその穢れを浄化するという、そういうものが発生するのです。ですから世の中に悪い奴が多いという事は、悪い奴が必要なのです。これは大乗的の見方ですが、人間がずるい事をして金を溜め、財産をつくる。そうするとそういうずるい事をしたものは穢れてますから、どうしてもそれを掃除しなければならないのです。そうすると泥坊が必要であり、巾着切りも空巣狙いも必要なのです。必要というよりか、悪い奴がそう
いうものをつくるのです。掃除をさせるようなものです。
ですから悪い黴菌がわくという事は、人間が間違った事をして、毒素や膿のような物を溜めるから、どうしてもそれを掃除するものが自然に発生するのです。自然に発生して、それが伝染して伝染病や何かになって、それによって掃除するのですから、つまり言うと、人間にそういった害を与えるようなものは、害を与えるようなものを人間がつくるのです。だから人間の一切の災(ワザワイ)というものはみんな浄化作用の道具です。己が汚たない物を溜めるから、それを掃除するものがあるので、それが自然に出来るのですが、本当は自然でなくて人間がつくるのです。そこをよく知ればいろんなそういった災
というものは仕方がなく、やむを得ないものです。(中略)
凡てそういった頭で見るとよく分ります。自分が苦しみ、ナンテ不運だろうという事を嘆く前に、そういった不運やそういう事をつくるという事です。自分がこしらえるのだからして、誰を恨む事もないので、まず己を恨むよりしようがありません。
今の人間はそれを知らないからして、自分の罪を棚に上げて、人が悪い、社会が悪い、教育が悪い、政治が悪い、制度が悪い、と何でも彼んでも自分以外に原因があるように考えるのです。それを又偉い学者とか偉い人が〈自分等もそう思うのですから仕方がないが〉大いにそういう事を言いふらすのです。だからみんながそう思い、そう思うから何でも彼んでも人を恨み世を恨み、始終不平満々としている。
そのために自分で又罪をつくり、その罪を掃除しなければならないいろんな苦しみや何かを起こす。そこで又恨むというので、結局二進も三進も行かなくなって自殺するとか人を殺すとか、いろんな事になるのです。人を殺すという罪は、自分が霊界に行っていろんな苦しみをするという事になります。ですから根本を間違えているために、どこまでも悪い事をするのです。(後略)」
(御教え集24号 昭和28年7月16日)
「メグリを消してしまわなければ 恵を与えられない」
「(前略)天地の律法があり、その天地の律法はどうしても守らなければならないのです。神様もそれを外すわけにはゆかないのです。ですからこの人ならこの人が信者になって、とても一生懸命にやっているとすると、神様は恵を与えたいが、その人のメグリを消してしまわなければ与えるわけにはゆかないのが天地の律法です。
ですから一生懸命で、熱心でなかなか恵まれない人がありますが、それは前のメグリが残っていて、それがとれないために恵を与える事ができないのです。
丁度ここにザルがあるとして、そのザルに物を入れてあげたいという場合に、ザルが汚ごれているために掃除をしてきれいにならなければ物を入れられないのです。そういう場合に、神様の方で急がれる場合には荒っぽくとるのです。大変な危難を受けるというのがありますが、これはそういう訳なのです。
その例として或る家で長男が道楽で、金を湯水のように使って困る、親の財産は無くなるというので、どうしたものかと私に相談に来たのです。"神様のおかげで良くしてくれ金を使わないようにしてくれ"と言うから、"それはできない、むしろ使った方がよい"と言ったら、びっくりして、どういう訳ですかと、その母親が来てましたが、そう言うので、"あなたの所の財産は罪がある。本当にできた財産ではない、先祖が他の人をいじめて作ったとかいう金だから、神様はあなたの信仰に対し、あなたにお蔭をあげようと思うが、罪の固まりがあっては駄目だから、それを早く無くしなければならないので、長男は
それを無くする役目をしているのだから、早く無くなった方が、あなたの家の罪が無くなってよいのだ"と言ったが、分らなくて、とうとう駄目になりました。(後略)」
(御垂示録23号 昭和28年8月1日)
「過去の不純財産の浄化は御守護」
「(前略)例えば祖先が道に外れた事によつて、即ち払うべきものを払はなかつたり、出すべきものを出さなかつたり、人を苦しめたりして金を貯めたのがよくあるが、その人が信仰に入つて大きな御神徳を与えて下さるのに、過去の不純な財産が邪魔になる。即ち嚢の中が汚れていては好いものが入れられぬので、その嚢を奇麗にするのである。又こういう事もある。火事などで焼けるのは汚れを非常に早くとられる訳である。普通相場に手を出したり息子が道楽したりしてなくす事もあるが、其浄化が済むと屹度あといい事になる。よく道楽息子が、金を湯水の如く使うのは祖霊がするので、それをしないと一家断絶するのでそれを救うためで、これは割合長くかかる。然し霊的の事を人間は知らないから怒つたり悲観したりするのであるが、後はきつとよくなる。或は入信した人は或程度不純なものがとれてからは、ウンと神
様から結構な御神徳を下さるもので、此人もそれである。勿論うんと財物を下さる。普通は御神徳で火事を免れるものだが、此人は不純物が沢山あつた訳だ。浄化にも病気とは感謝すべきもの」
「(前略)今日迄の凡ゆる学説は一様に-病患なるものは「健康の破壊」となし、窮極に於て生命を失ふものとされてゐた。又宗教に於ては「神の戒告」或は「罪穢に対する刑罰」ともされてゐた。従而病気とは恐るべきもの、悲しむべきもの、呪ふべきものとされてゐたのである。然るに私の説は「病気とは祝福すべきもの、喜ぶべきものであって、全く神が人間に与へた最大なる恩恵であり、又自然の生理作用でもあるといふのである。故に病気によって人間の健康は保持され寿齢は延長される」のであるから感謝すべきものである。(後略)」
(「人口増加率逓減の問題」昭和22年2月5日)
「(前略)私の言ふ病気なるものは、神の恩恵であって、病気なる浄化作用によって、体内の毒素が軽減又は排除さるるのであるといふ意味を思ふ時、洵に感謝に堪へない気持が湧くであらう。寧ろ病気の一層強烈であれかしと願ふ心にさへなるものである。又病気恢復後、毒素軽減による健康増進の希望も起る以上、それが亦一つの楽しみとなるのである。(後略)」
(「病気に感謝せよ」昭和18年10月5日)
「理窟に合わなければ神様はどうしようもない」
「(前略)理窟に合わない事をすれば理窟に合わない結果になってしまいます。少なくとも信仰にはいって居ながら堕胎などをするという事は、とんでもない罪を犯したのです。それも、あとのやり方が理窟にあっていて、そうして非常に悔悟して、自分はとんでもない間違った事をしたと言って御詫びをすれば、或いは助かったかも知れないが、そういう事も支部長はあんまり言わなかったらしいので、私がそう言ったらびっくりしてました。
そうすると支部長のやり方が最も間違っていたのです。それでも支部長がそれに気がついて、心から御詫びをして、父親か母親に子供の浄霊をさせるというようにすると、助からない事はなかったが、神様は厳しいのです。
しかし理窟に合えば、神様は愛ですが、理窟に合わなければ神様はどうしようもないのです。神様は御利益を幾らでも与えたいのです。ところが資格がないのです。例えてみれば金銭にしても、神様は幾らでもザルなり財布なりに入れてあげたいのですが、この財布の中に汚たない物があるから入れられないのです。それを掃除すればよいのです。ですから人間の方で命を助かりたい時には、人間の方で助かる状態にすればよいのです。それをしてないから、神様の方にも規則がありますから、神様自身がその規則を外す事はできないから、助けたくても助けられないという事になります。(後略)」
(御教え集22号 昭和28年5月26日)
「病気は浄化作用---神の恩恵中最大なもの」
「(前略)毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄化作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものというべきである。(後略)」
(「病気とは何ぞや 寒冒」 昭和26年8月15日)
「浄化は有難いもの」
「本教は病気の事を浄化というが、之程いい言葉はあるまいと思う。それも嘘ではなく本当でもあるからである。第一此言葉から受ける感じは、頗る気持がいいが、之に反し病とか病気とかいう言葉位気持の悪いものはあるまい。併しよく考えてみると、此言葉も満更間違ってはいないと思う。というのは病は結構なものである事を知らないから、余計な心配する。つまり気を病むものだからであろう。 夫に就てよく信者同志の話合ってるのを聴くと、『お蔭でやっと浄化が起りました』とか『浄化の御蔭で近頃は、大分身体の工合がよくなりました』とか『浄化は有難いものですね』なども、実に快い言葉である。(後略)」
(「浄化の言葉」 昭和27年5月21日)
「苦しめたりする人は、自分の曇を除つて呉れている」
「(前略)仮に一家にどうしても信仰に入らない人があつて、其人が反対したりするが、そうすると反対された人の方は、始終やきもきしてますが、そのやきもきする方に曇がある。其人に曇が無くなつて魂が浄まると、他の人が悩み苦しめる事は出来なくなる。すると其人は信仰に入る事になる。あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為に飛んでもない事になつた、あいつは飛んでもない損をさせた。又いくら言つても入らないとか、そういうのはやつぱり御自分を見なければいけな
い。それはそれ丈の曇がこつちにあるからなのです。それに依つてこつちの曇を除つて呉れるのです。ですから自分を酷い目に遭わせたり苦しめたりするという人は、自分の曇を除つて呉れているわけです。浄化作用の仕事をやつて呉れているわけです。そこ迄来ると、感謝してもよい事になつて来るのです。(後略)」
(御教え集15号 昭和27年10月6日)
「浄化作用は大慈大悲の表れ」
「(前略)つまり浄化作用ということは、神様はどうしても、間違った事は正さなければならない、汚ないものは掃除しなければならない、という事と、一人でも人間を助けようという両方なのです。「大慈大悲」という事を昔から言われてますが、「大慈」というのは助けてやろうという大いなる愛です。それから「悲」というのは、それにはどうも犠牲者が出る、可哀想だ、そういう
御心の現われが「悲」です。ですから「大慈大悲」というのは、意味から言うと逆のようですが、そういうように考えてゆくとよく分るわけです。だから観音様に「大悲菩薩」という御名前があり、大いに悲しむというわけです。これからは犠牲の方が多いから「大悲菩薩」のお働きというわけです。」
(御教え集26号 昭和28年9月25日)
「穢れを浄化する、そういうものが自然発生する」
「(前略)何時も言うとおり、相応の理というものは、何でも穢れれば自然にその穢れを浄化するという、そういうものが発生するのです。ですから世の中に悪い奴が多いという事は、悪い奴が必要なのです。これは大乗的の見方ですが、人間がずるい事をして金を溜め、財産をつくる。そうするとそういうずるい事をしたものは穢れてますから、どうしてもそれを掃除しなければならないのです。そうすると泥坊が必要であり、巾着切りも空巣狙いも必要なのです。必要というよりか、悪い奴がそう
いうものをつくるのです。掃除をさせるようなものです。ですから悪い黴菌がわくという事は、人間が間違った事をして、毒素や膿のような物を溜めるから、どうしてもそれを掃除するものが自然に発生するのです。自然に発生して、それが伝染して伝染病や何かになって、それによって掃除するのですから、つまり言うと、人間にそういった害を与えるようなものは、害を与えるようなものを人間がつくるのです。だから人間の一切の災(ワザワイ)というものはみんな浄化作用の道具です。己が汚たない物を溜めるから、それを掃除するものがあるので、それが自然に出来るのですが、本当は自然でなくて人間がつくるのです。そこをよく知ればいろんなそういった災
というものは仕方がなく、やむを得ないものです。(中略)
凡てそういった頭で見るとよく分ります。自分が苦しみ、ナンテ不運だろうという事を嘆く前に、そういった不運やそういう事をつくるという事です。自分がこしらえるのだからして、誰を恨む事もないので、まず己を恨むよりしようがありません。今の人間はそれを知らないからして、自分の罪を棚に上げて、人が悪い、社会が悪い、教育が悪い、政治が悪い、制度が悪い、と何でも彼んでも自分以外に原因があるように考えるので
す。それを又偉い学者とか偉い人が〈自分等もそう思うのですから仕方がないが〉大いにそういう事を言いふらすのです。だからみんながそう思い、そう思うから何でも彼んでも人を恨み世を恨み、始終不平満々としている。
そのために自分で又罪をつくり、その罪を掃除しなければならないいろんな苦しみや何かを起こす。そこで又恨むというので、結局二進も三進も行かなくなって自殺するとか人を殺すとか、いろんな事になるのです。人を殺すという罪は、自分が霊界に行っていろんな苦しみをするという事になります。ですから根本を間違えているために、どこまでも悪い事をするのです。(後略)」
(御教え集24号 昭和28年7月16日)
「メグリを消してしまわなければ恵を与えられない」
「(前略)天地の律法があり、その天地の律法はどうしても守らなければならないのです。神様もそれを外すわけにはゆかないのです。ですからこの人ならこの人が信者になって、とても一生懸命にやっているとすると、神様は恵を与えたいが、その人のメグリを消してしまわなければ与えるわけにはゆかないのが天地の律法です。
ですから一生懸命で、熱心でなかなか恵まれない人がありますが、それは前のメグリが残っていて、それがとれないために恵を与える事ができないのです。
丁度ここにザルがあるとして、そのザルに物を入れてあげたいという場合に、ザルが汚ごれているために掃除をしてきれいにならなければ物を入れられないのです。そういう場合に、神様の方で急がれる場合には荒っぽくとるのです。大変な危難を受けるというのがありますが、これはそういう訳なのです。
その例として或る家で長男が道楽で、金を湯水のように使って困る、親の財産は無くなるというので、どうしたものかと私に相談に来たのです。"神様のおかげで良くしてくれ金を使わないようにしてくれ"と言うから、"それはできない、むしろ使った方がよい"と言ったら、びっくりして、どういう訳ですかと、その母親が来てましたが、そう言うので、"あなたの所の財産は罪がある。本当にできた財産ではない、先祖が他の人をいじめて作ったとかいう金だから、神様はあなたの信仰に対し、あなたにお蔭をあげようと思うが、罪の固まりがあっては駄目だから、それを早く無くしなければならないので、長男は
それを無くする役目をしているのだから、早く無くなった方が、あなたの家の罪が無くなってよいのだ"と言ったが、分らなくて、とうとう駄目になりました。(後略)」
(御垂示録23号 昭和28年8月1日)
「過去の不純財産の浄化は御守護」
「(前略)例えば祖先が道に外れた事によつて、即ち払うべきものを払はなかつたり、出すべきものを出さなかつたり、人を苦しめたりして金を貯めたのがよくあるが、その人が信仰に入つて大きな御神徳を与えて下さるのに、過去の不純な財産が邪魔になる。即ち嚢の中が汚れていては好いものが入れられぬので、その嚢を奇麗にするのである。又こういう事もある。火事などで焼けるのは汚れを非常に早くとられる訳である。普通相場に手を出したり息子が道楽したりしてなくす事もあるが、其浄化が済むと屹度あといい事になる。よく道楽息子が、金を湯水の如く使うのは祖霊がするので、それをしないと一家断絶するのでそれを救うためで、これは割合長くかかる。然し霊的の事を人間は知らないから怒つたり悲観したりするのであるが、後はきつとよくなる。或は入信した人は或程度不純なものがとれてからは、ウンと神
様から結構な御神徳を下さるもので、此人もそれである。勿論うんと財物を下さる。普通は御神徳で火事を免れるものだが、此人は不純物が沢山あつた訳だ。浄化にも時期があつて、私など二十年位借金で苦しみぬいた。今にうんと金が入ると人に話してから十年位たつて、昭和十六年に借金を全部すませた。それから予想外に金が入るようになつた。金が欲しい欲しい思う時には中々入らなかつたが、諦めて神様任せにしたらそれからどんどん入る事になつた。(後略)」
(教えの光 昭和26年5月20日)
やまい みたまきよ こよ かみ めぐ
病とは 身魂浄むるものなれば 此上なき神の恵みなりけり
(S26. 5.28)
いたつ おそ つも
つみけがれ きよ かみ めぐみ
病きを 怖るな積りし罪穢 浄むる神の恵なりせば
(S26. 5.28)
いのち あや ほど いたつ
い めぐ ひた うれ
生命さえ 危うき程の病きも 癒えて恵みに浸る嬉しさ
(S23. 7. 1)
かみ あい ちから かみ はな やす う
神は 愛なり力なれば 神を離れて安んじ得べきや
(S26. 5.28)
時期があつて、私など二十年位借金で苦しみぬいた。今にうんと金が入ると人に話してから十年位たつて、昭和十六年に借金を全部すませた。それから予想外に金が入るようになつた。金が欲しい欲しい思う
時には中々入らなかつたが、諦めて神様任せにしたらそれからどんどん入る事になつた。(後略)」
(教えの光
昭和26年5月20日)
やまい
みたまきよ こよ かみ めぐ
病とは 身魂浄むるものなれば此上なき神の恵みなりけり
(S26. 5.28)
いたつ おそ つも つみけがれ
きよ かみ めぐみ
病きを 怖るな積りし罪穢 浄むる神の恵なりせば
(S26. 5.28)
いのち あや ほど いたつ
い めぐ ひた うれ
生命さえ 危うき程の病きも 癒えて恵みに浸る嬉しさ
(S23. 7. 1)
かみ あい ちから かみ はな やす う
神は 愛なり力なれば 神を離れて安んじ得べきや
(S26. 5.28)