第四章 浄化作用と再浄化
1、浄化作用について
「人間の心言行が病気を生む」
「(中略)病気が発生するといふのは霊的原因としては、自己の邪念や不純行為により、魂に曇を生ずるからであります。
茲で、病原に対して、霊的定義を下してみませう。
『病気とは-人間の悪念及び悪行為に因る罪穢の堆積が精霊を曇らし、それが、血液の溷濁となるので、その汚血を、心臓と肺臓が、燃焼と洗浄作用をする結果、それの残渣が物質化して毒血となり、膿汁となり、それの排除作用が、即ち、病気現象である』
魂は「人間の小雛形」ともいふべきものであるから、魂の方の胸のあたりへ曇が発生すると--心を通じて精霊へ移り、肉体へと映るのであります。(中略)
之を別な意味からの定義にすれば、
『病気とは-健康保持の為の、又は、死を免れしむる為の不断の浄化作用の苦痛である』
このやうに人間は--
『病気によって、健康保持が出来、病気によって死を免れるのである』
と聞いたら、現代人は驚倒するでありませう。然し、今日迄それに気付かなかっただけであって、病気といへば直に不治を連想し、死を予想して恐怖して来た事の、如何に大きな誤りであったかが知られるのであります。」
(「病気発生の原因」療講 S11.7.)
「人間の想念と言葉が異常気象を生む」
「(前略)風水の原因は天地間の浄化作用であって、何故浄化作用が発生するかというと、霊界における曇り即ち眼に見えざる汚濁が堆積するのである、それを風力によって吹き払い、雨水によって洗滌される、それが為の暴風雨である、然らば右の如き曇りとは如何なるもので如何にして堆積するかを解説してみるが、それは人間の想念と言霊によるのである、即ち想念の悪に属するものとして不平、憎み、呪い、嫉み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が、霊界を曇らせるのである。
次に言葉であるが、気候が悪いとか悪天候とか米の不作とかいうような自然に対する不平や、人に対する非難攻撃、怒号罵声、秘密欺瞞、咎め、愚痴等、凡て悪から発するものは想念界の次位である言霊界を曇らすのである、それ等種々の曇りの堆積の量がある程度を超ゆる時一種の毒素が発生し、人間生活に支障を来すことになるので、その自然浄化が発生する、それが天地の法則である、前述の如く霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に草木特に農作物にも悪影響を与える結果凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである、故に今日日本各地に於る松や杉を枯死させる害虫の発生も此理によるのであるから、人間が大いに向上しない限り、之を防ぐ事は難しいのである、言い換えれば日本人自身の過が、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、人間の想念と言霊は大いに慎しまなければならないのである。(後略)」
(「大三災と小三災」光22号 昭和24年8月13日)
「一切が浄化作用」
問:「病気は浄化作用だという事は良く分らせて戴いている人はありますが、他の事になりますと悪い事があったという観念が抜けない人がある様でございます」
答:「それも一切が浄化作用なのですが、一寸のみ込みにくいのです。心配事も浄化作用です。だから悪い事や心配事があるという事も、やっぱり仕方がないので、その浄化によって境遇が良くなるのです。」
(御垂示録16号 昭和27年12月1日)
「一切の苦しみは浄化作用」
「(前略)つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。凡ての悩み苦しみの因は悉く浄化作用である。例えば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。此様に普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。之が真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
処が前記のように苦しまないで魂が浄まる其方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併し信仰にも色色あるから、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。そこへゆくと我メシヤ教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。」
(「運命は自由に作られる」地41号 昭和27年10月25日)
「浄化作用というものは一切にある」
「(前略)だから浄化作用というものは一切にあるのです。これを大乗的に言うと、もっと面白い浄化作用があります。仮に、火事で焼けるのは無論そうですが、泥坊に盗られるとか詐欺師に引掛って瞞まされるとか、それから最近の問題の保全経済会とか、いろんな貯蓄で損をする人が沢山ありますが、これはやっぱり浄化作用です。
その人の持っている金の中に非常に汚ない金があるのです。そういう金はどうしてもその人が持つ事ができないので逃げてしまうわけです。こっちにそういった汚ない金があるからして、誰かが何かの手段でその人から取るという、一つの浄化作用によってそうなるのです。
だからああいったものも、そういった一つの浄化機関になっているわけです。そうすると、そういうものも必要という事になりますが、これは必要不必要という事でなく、凡て汚ないものはきれいにするというように神様がこの世界を造られたのです。(後略)」
(御教え集30号 昭和29年1月26日)
「詐欺にあつたと云う事も浄化作用」
「(前略)詐欺――之は入信が後れた為にこうなつたんですね。然し詐欺にあつたと云う事は浄化ですからね。物質の浄化で本当は結構なんです。この人は、未だ曇りがある為に、或程度取れなかつたら信仰に入れない。そこで祖霊が詐欺にあわせて物質に損害をあわせて、曇りを取ろうとした。だから、本当云えば結構なんです。色々損したりするのは霊的に云うとそう云う意味ですからね。それが判ればむしろ感謝したい位のものです。(後略)」
(御教え集1号 昭和26年8月18日)
「昔から、凡て浄化作用は苦しみに依って除るという事になっている」
「(前略)よく、奥さんが信者になつていて、どうも親父は分らないと言つて煩悶しますが、親父が分らないと言つて煩悶するのが浄化作用なのです。その奥さんの浄化作用なのです。だから奥さんが浄化されるという事は、それ丈曇があるからです。ですからその奥さんの曇が除れると、その親父は反対出来なくなり、やつぱり信仰したくなるのです。やつぱり相応の理です。其点を良く知らなければならない。“あいつはオレがあんなに親切にするのが分らない、むしろオレを苦しめたりいじめたりする、けしからん”と言うが、それはやはり自分に曇があるからです。ですから人間の一切の悩み苦しみは、みんな浄化されているわけです。“あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつの為になんて酷い目に遭つた”とかと言う“あいつ”というのは浄化作用をやつて呉れている人です。其点が分ると、自分を苦しめる人を恨む事が出来なくなるのです。それを知るのが人間には肝腎です。で、凡て浄化作用は苦しみに依つて除るという事に、昔からなつている。そこで信仰すれば良いという事になるが、信仰と言つても難行苦行をするのです。無理に断食をしたり水を浴びたり、苦しむ様にするのです。よく、お百度参りをしたり、襦袢一枚で町を駈出したりするのがありますが、あれでやはり魂が浄まるのです。処がそれは夜の世界の時代だつたから、どうしても地獄的に身魂を浄めるのです。処がメシヤ教はそれとは反対に楽しみ乍ら、苦しまないで浄めるのです。(後略)」
(御教え集15号 昭和27年10月7日)
「災も同様、凡ては浄化作用」
「これは以前もかいた事があるが、本来人間というものは神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。処が何しろ祖先以来の薬毒があり、又生まれてからも本当の事を知らないが為薬毒を入れるので、それが為病気に罹る事もあるが、これも止むを得ないのである。併し神様はお役に立つ人が病気の為働けないとすれば、神様の方では損になるから、速かに治して下さるのは当然で、何等心配はないのである。処がそれを知らない人達は、薬と称する毒を用いて、病気を抑えるのであるから全く真理に外れており順調に治る訳はないのである。
この事は独り病気ばかりではない。それ以外凡ゆる災も同様であって、凡ては浄化作用である。併し同じ浄化作用でも原因によっては浄化の形も自ら異うのは勿論である。例えば金銭や物質の罪である盗み、使い込み、人に損をかける、分不相応の贅沢をする等々の罪穢はヤハリ金銭や物質で償われる。世間よく金持の息子などが道楽者で、親の遺した財産を湯水のように使う事なども、親や祖先の罪障消滅をさせられるのである。それというのは祖霊が自分の血統(チスジ)を絶やさぬよう、益々一家繁栄を望む為、子孫の中の一人を選んで浄化に当らせるのであるから、この場合何程意見しても糠に釘である。(中略)
又火事で焼け、泥棒に盗られ、詐欺に遭い、相場や競馬、競輪等で儲けようとして損をしたり、商売の失敗、病気で金を使う等々、凡て物質の罪は物質で浄化されるのであるから、仮令人間の法律は免れ得ても、神の律法は絶対であるから、どうしようもない。
従って人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、凡て相応の理によって浄化が行われるのである。(中略)
又世間よく焼太りなどというが、これも浄化が済んだから運がよくなった訳である。彼の熱海の火事にしてもそうで、焼ける前と今日とを比べたら、雲泥の相違である。(後略)」
(「御神意を覚れ」栄237号 昭和28年12月2日)
「病気も暴風雨も火災も清浄作用」
「(前略)吾々が常に言う病気とは人体の浄化作用であり、人体に毒素が或程度溜るや、これが健康に支障を及ぼすため毒素排泄作用が発生する、つまり清浄作用である、これなくしては人間の健康は保ち得ないからで、それが一切の原則で全く神の大なる恩恵である、(中略)
火災の原因を説明するのに、病気を持出すのは可笑しく思うだらうが、実は病気の原因も火災の原因も同一であるからである、何となれば火災も浄化作用の表はれであるのである。
又吾々が常に言うところの暴風雨の原因であるが、これも霊界に汚穢が溜る、即ち曇りである、この曇りの原因とは人間の悪の想念と、悪の言葉と行為によるので、その浄化清掃作用が暴風雨である、即ち風によって吹き払い水で洗い流し、天日で乾燥させる、それで浄まるのである。
右の如く病気は人体の清浄化であり暴風は地上空間の清浄作用であるとすれば、右の外の物質は勿論地上建造物である、建造物と雖もその汚れが或程度堆積するや、それの浄化作用が発生する、それが火災である、勿論家屋の汚れとは、その建築に要した金銭に不純のあるためとその家屋使用に当って不純行為の堆積である。(後略)」
(「火災の霊的考察」昭和25年5月20日)
「流失家屋、溺死者、火災等、全ての災害は曇りの為」
「(前略)破砕され流されたりする家屋は、その物の霊に汚穢が充ちた為であり、溺死した人間はやはりその人の霊に罪穢が溜って、生存の資格が失われたからである。これで大体分ったであろうが、序だから今一つの事をかいてみよう。それは火災である。これも知らるる通り、年々増加の趨勢にあり、国としての損害は軽視出来ないものがある。これ等もやはり浄化であって、夫々の建造物に罪穢が溜っているからである。それは今日どんな家でも土地購入、建築等に費した金が汚れていると共に、使用の場合その家屋を大なり小なり間違った事をするからで、これも現代生活上或程度は止むを得ないが、それでも神仏の信仰者か余程善徳を積むとしたら、それだけ穢れは消されるからいいが、そういう人は滅多になく、殆んどは罪の溜め放題であるから、どうしても火で焼き浄めなければならないからで、それが火災の原因である。火災の多いという事は無信仰者や悪徳者の如何に多いかを物語っている訳である。又山林もよく焼けるが、これも購入費やその目的に含まれている不正や邪念の汚れの為であるのは言う迄もない。
以上の如く現代人は神を信ぜず、霊的智識なく、只物質のみを頼りにする以上、災害の多いのも当然であって、これが厳正なる神律であるから致し方ない。それに盲目なるが為末梢的手段のみで防ごうとする以上、根本的でないから、結局賽の河原の石積と同様である。従って結論としては人事を尽くすと共に、神を本位として罪穢を溜めないようにする事で、それ以外万全の方法はない事を心得べきである。(後略)」
(「颱風の霊的考察」 昭和28年7月29日)
「色々な苦しみ---霊的借金を返してる」
「(前略)之は物質的な借金の話ですが、宗教的に言うと霊的借金が大変なんです。みんな病気で苦しむとか、色んな災わいとか、金で苦しむとか、色々ありますが、それは霊的借金を返してる訳ですね。その苦しみなんです。だから、つまり今の人間は霊的の借金と物質的の借金と、両方で苦しんでいる訳ですね。つまりメシヤ教がやつている事は、先ず肝腎な根本である霊的借金を返す方法と、それから神様が借金を減らして下さるのですね。それでまあ、幸福になつて、地上天国が出来る訳なんです。(後略)」
(御教え集7号 昭和27年2月15日)
「徳積みが遺伝に影響する」
「(前略)徳を積むと遺伝があつても起らずに済み、間違つた事をすると、遺伝がもつと大きく出る場合もある。(後略)」
(御教え集1号 昭和26年8月28日)
「家の罪穢と徳が子供に影響する」
「(前略)其処の家なり親なりのメグリが多いために、それ相応の恵みなり御守護なりがあるわけです。それが、プラスよりマイナスの方が多いという時には助からないわけです。ですから、その理窟が分れば、子供が片端とかいろんな場合には、親ができるだけ徳を積むという事が、治る一番の原因です。
それから又こういう事があります。どうしても助からない子供は、一生を不幸に終り、子供が生きて居ると親も不幸だ、という場合には、神様は早く死なせます。そうすると親は悩みがとれるから非常に楽になります。それは大変な御神徳になるのです。この子供は治るかさもなければ命が無くなるか、どっちかにしてもらわなければ、親がたまらないわけです。そういう場合に、医者が手術したり、いろんな事をしたために、どうしても助からないと、決まった子供は、早く霊界にやって下さるのです。そうすると、親が、決まりがつきますから……そういう御神徳もあります。ですから、治るか駄目か、どっちかという片付き方が早くなるわけです。(後略)」
(御垂示録29号 昭和29年3月1日)
「時により祖霊は、病気や苦痛を与へる」
「元来祖霊は我子孫に対し、幸福である事を欲するあまり、不幸の原因である過誤や罪悪を行はしめざるやう常に警戒してゐるものである。然るに其子孫が偶々悪魔に魅入(ミイ)られ、天則違反の行為ありたる時、それを戒告する為と、犯した結果としての罪穢の払拭をさせようとするのである。それ等の方法として、病気又は其他の苦痛を与へるのである。(後略)」
(「祖霊の戒告」昭和18年10月23日)
「祖先の罪穢が人間を曇らせる」
「現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像すれば判る。
故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於ける、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現はれるのである。(後略)」
(「大光明世界の建設 病気の原因と其解消」 昭和10年9月15日)
「罪穢による---霊的から来る病気は治り難い」
「(前略)人は悪を想ひ悪の行為を累(カサ)ねるに従って漸次曇が増量する。然るに曇の濃度が或程度に達する時、それを解消すべき自然浄化作用が起る。勿論霊界に於ける鉄則であるから、如何なる人と雖も免れ得ない。そうして右の浄化は多くの場合病気となって表はれるが、時としては他の形即ち種々の災害等による事もある。勿論右の曇と雖も、体的には毒血、膿の溜積である。然し乍ら体的方面からでなく罪穢による--霊的から来る病気は治り難く長年月を要する。結核、カリエス、癌等執拗なる症状の多くは、之に属するのである。
罪穢を払拭する方法としては、苦悩によるか又は善行を重ねるかの二つであるが、後者を選ぶ方が如何程安易であるか知れない。(後略)」
(「罪穢と病気」天 昭和22年2月5日)
「信仰に入ってから犠牲になるのは・・・」
問:「救世教は救いの宗教であると御教えいただいてますが、神様の大愛とは、時によっては寿命のある者を殺し、時によっては寿命の無い者を更に命を長くする、というように考えても宜しいものでしょうか」
「つまり神様に殺されるのでなくて、自分自身で滅びるような運命にするのです。その人によっていろいろで、それは単純には言えないので、複雑極まるものです。
それから又、祖霊の関係があります。即ち祖霊が、祖先以来の罪が非常に多いために誰かを犠牲にしなければならない。それともう一つは、祖霊の罪の種類によって、現界で働くよりか霊界で働いた方が罪が早く消える場合もあるのです。ですから、犠牲にする場合と、霊界で働かせる場合と、そのためにそこの子孫の、大勢居る中で、誰かを代表者にして、祖先の罪を早く消す場合は、むしろ祖霊が神様に御願いして、早く罪をとっていただきたいという場合には犠牲にした方がよい事になるのです。だからそこのところはいろいろあるのです。けれども、要するに、信仰に入ってから犠牲になるのは非常によい理由があるのです。
昨夜読んだお蔭話の中にも、丁度そういうのがありました。子供だか何かが亡くなって、母親が非常に嘆いて、幾らか神様を怨むような気持があったのです。その内に祖先の霊か何かが憑って来て、それはこういう理由だという事をすっかり話したのです。それで初めて“大変よい事だった、有難い”という事が分って、非常に感謝しているというような事が書いてありました。だから非常に複雑な意味と、いろいろな事がありますから、簡単には言えないです。
それから、信仰に入ってからは、どんな事があっても、それは良くならんがための一つの形をとるのだから、喜んでよいわけです。それは時日がたつと必ず分ります。」
(御垂示録29号 昭和29年3月1日)
「信仰に入った後の浄化、それは幸せになる資格」
問:「神は浄化を与へて御救ひ下さる反面、苦痛をも与へられるのは罪業の許しでせうか、又はその刑罰でせうか。」
答:「苦痛も浄化です――或人に信仰をすゝめても入らず、此の救ひの綱に捉れと云ってもついて来ないのは、その人が綱までまだ距離があって直ぐには来られないのです。
そんな場合その人が自力で苦痛をなめると罪が少し消え従って距離が短くなって綱まで来れるのです。いくらいゝ教へを説いても手の届かない人が多いのです。之は時を待つ外ない。苦痛はすべて浄化です。自力の浄化です。所が御浄めの浄化は他力だから楽なんです。然し他力でも罪により苦しみますがね。又死ぬ人もある。が、死ぬ人は多くの場合心から神に縋る事もない人だと見ていい。全生命をすてゝ神に縋ればまア助かります。一度死んでも助かります。周囲の人々が忠告がましく医者にかゝれとか云ふと、信仰のない人は直に迷って了ふが、迷ふ途端神とのつながりが切れて了ふんです。尤も周囲が判らない時徹底して云ふと警察問題にもなるから余り強くも云へない場合がある。それは仕方がない。随分気の毒な人がありますよ。
(中略)人が一度信仰に入ると神は御恵みを下さらうとするが汚れたものがある場合、それを浄めて下さる。それは幸せになる資格を与へて下さるのです。信仰に入ると必ずいきなり幸せになるとは云へない。先づ汚れを取り除かねばならない。よく教導師になり専門に御浄めをし出すと疥癬にかゝるのは此の理です。それは魂が先づ浄められるから従って肉体も浄められるのです。――前の世で罪汚れをためて霊界へ行き、浄化が不充分で又現界に出て来る時、浄化の続きをせねばならない。善人であって不幸な人といふのは大体これです。」
(御光話録 昭和23年6月18日)
「熱心になればなる程一層苦しむ」
「(前略)又斯ういう事もある。それは信仰へ入ってからの苦しみである。しかも熱心になればなる程一層苦しむものである。
そこで信仰の浅い人はつい迷いが起るが、この時が肝腎である。この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して、早く御利益を下されようとするが、まだ汚れがあるから浄めねばならないので、入れ物の掃除としての浄化である。その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、それが済むや思いもかけない程の結構な御蔭を頂けるものである。(後略)」
(「御神意を覚れ」栄237号 昭和28年12月2日)
「悪い事も浄化の為」
「(前略)善い事は無論結構だが、悪い事も浄化の為で、それが済めばよくなるに決っているから、ドッチへ転んでも結構な訳で、無病結構、病気結構としたら、これこそ真の安心立命である。といってもこれは信仰者に限るので、無信仰者は寧ろ反対であり、苦しみが苦しみを生み焦れば焦る程悪くなるばかりで、遂には奈落の底へ沈むようになる。この理によって人間幸福の秘訣はこの道理を弁える事である。」
(「御神意を覚れ」栄237号 昭和28年12月2日)
「信仰に入っての浄化と未信者の時の浄化とは違う」
「(前略)霊界は層になってますから、そのとおりが写るので、つまり層というのが人間の魂の居所なのです。ところがこの魂という奴が人間全体を支配しているのですから、魂の居所という事が資格です。だから魂の資格さえ上になっていれば全然苦しみはないわけです。しかしそうかと言って人間今までにいろいろな罪穢れや薬毒やいろいろなもので汚しているから、その掃除をされなければならないのです。
そこで、信仰に入ると魂だけは先に上の方に行ってしまいます。そうすると魂だけが光を持つと、肉体にある汚れがどうしても魂と相応しないから、魂の地位だけにきれいにならなければならない。浄まらなければならない。それが浄化作用です。だから信仰に入ってからの浄化作用と未信者の時の浄化作用とは意味が違うわけです。その区別を知っておかなければならないのです。
未信者の時の浄化作用というのは、その人の健康を維持するために自然に浄化作用が起こるのです。その浄化作用が起こらなければその人は死ななければならないのです。だから人間できるだけ生きて働けるように自然浄化が起こるのです。自然浄化とは悩み苦しみによって掃除されるわけです。そこで、よく修業などをして、断食をしたり、山に籠(コモ)ったり、いろいろな難行苦行をするという事は、その掃除をするために自分から苦しみをするわけです。普通の人は他動的に苦しみがぶつかって来るのですが、難行苦行という奴は自分から進んで難行苦行の世界にぶつかってゆくわけで、自動的です。その点が違うわけです。ところが苦しみによって浄められる事を知らないからして、苦しみを逃れるために又いろんな嘘の事をやるのです。ごまかしとか、金が足りなくて苦しめば人を瞞して金を得るとかして、次の罪を作るから、苦しみを取りながら次の苦しみを作っている。
結局二進も三進もゆかなくなって地獄のドン底に落ちるというので、これは世間に沢山あります。ですから病気もやっぱりそうです。病気を免れるために薬で一時的に固めようとして、第二第三の病気を作るというのと、今言った事とは同じ理窟です。そういう事が今まで分らなかったのは、勿論信仰のないためですが、今までの信仰では徹底して説いてなかったです。他の抽象的(チユウシヨウテキ)に苦しみは罪のためだというように単純に考えていたのです。(中略)」
(御教え集30号 昭和29年1月27日)
「お金を損する事で罪穢れがとれる」
「(私の部落(三重県某村)で部落民が醵金して潅漑用の井戸を掘りました。この井戸の深さは六百尺で鉄管の太さは十二吋、総重量は十五噸に及びました。処が最後の鉄管を入れようとする直前、あッといふ間に車の心棒が折れ二十四、五尺も下へ落ちてしまいました。この為二ケ月間の労力と七、八十万円の経費が全く無駄になりはしないかと心配して居ります。之は自然を無視した結果でせうか。或は他に何か霊的原因がありませうか。)
こりゃあ、霊的に何かありますね。こんなバカバカしい話ってあったもんぢゃないですからね。或は何かゞ邪魔してるかな。――ま、この部落に相当な罪穢れがあるんですね。そこで、この位の損をしなくちゃどうしてもいけないんですね。結局、こうして罪がとれるんです。つまり、之にかけた金が穢れてるんですよ。穢れた金を或程度とらないと水を出して貰へないんですね。だから之はやり直せばいゝ。そうすりゃ今度は水が出ますよ。損した様で結局は損ぢゃないんで、それで或程度罪が消えるんですからね。それが判ったら罪の消えるのをむしろ喜ぶべきですよ。(後略)」
(御光話録18号 昭和25年4月23日)
「不潔な金はどうしても掃除しなければならない」
「(前略)だから無論病気が主ですが、病気以外の色んな災難とか悪い奴が瞞(ダマ)して損をかけるとかいう事は沢山ありますが、そういう事もやはり其人の持つている金が不潔な金、間違つた金、ずるい事をして溜めた金、というそういう不潔な金は何うしても掃除しなければならない。その代りに黴菌人間が瞞して捲上げる。という事は一つの浄化作用です。
そうしてみると、あいつに酷い目に遭つたとか悪い奴に瞞されたとか泥棒に盗られたとか、色んな事で損したり苦しめられたりする事は、其人自体に不潔物があるからです。処が面白いのは害虫人間が又浄化される事になるのです。そうするとそれを浄化するのは、やつぱり害虫人間です。丁度薬で病気の苦しみを抑えて、その薬毒が又苦しみを作るというそういつた経路と良く似ているのです。(後略)」
(御教え集14号 昭和27年9月7日)
「この神様は非常に厳密な神様」
「(前略)昨日聞いた話で、今度の大祭の余興にアザブさんが灰田勝彦を頼みに行ったのです。そうすると馬鹿に高い事を言うのだそうです。それで“随分高いではないか”と言うと、支配人が“救世教なんて泥棒みたいな事をして金を取っているのだから”と言ったのです。ところがその人がそれから三、四日たって死んでしまったのです。
(明主様申し上げます。京都と大阪の間を自動車で走っている時に、丁度雪が降っておりまして、その時京阪国道から下に辷り落ちて死んでおります)
自動車で死んだそうですが、これははっきりした事実です。前にもこういう事がありました。私がまだ東京の宝山荘に居た時日蓮宗の学者で、名前は忘れましたが、誰でも知っているくらい有名な人です。その人が私の書いた「明日の医術」の本を見て、何でも非常に悪い事を言ったのです。“こんな事を書いて人を瞞ますとはインチキも甚だしい”という様な事です。もっと酷い事を言ったのですが、私は忘れました。それで丁度一年ほどたってから、街路で轢死したのです。それも、最初は自動車に何処かぶつかって電車道に倒れて、ハッと思った時に電車が来て顔を轢いたのです。ですから顔が目茶々々になったのです。その時に中島さんが“とうとう罰があたった”と話しに来ましたが、そういう事がありました。そういう事はまだありますが、この神様は非常に厳密な神様なのです。(後略)」
(御教え集20号 昭和28年3月7日)
「霊層界の地位が地獄なら、どうしてもそのとおりに写って来る」
「(前略)始終うまくゆかない、苦しみや災難があるという事は、そういう段階に霊が居るわけなのです。だから幾ら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。漸く金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならない事が次から次へと起こって来るのです。
病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人は大抵、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないという事になると、必ず病気の心配が起こるのです。そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふいになって、それでも足りないで借金するというような事は随分多いです。というのは、つまり霊層界の地位が地獄に居るから、どうしても地獄のとおりに写って来るわけです。(後略)」
(御教え集30号 昭和29年1月25日)
「苦しむのも結構じゃないか」 -------- 〔「景仰」より〕
「私がお世話させていただいていた信者の方で、それは奥さんですが、非常に浄化のきびしい方がありました。
病気はよくなったのですが、その他の面で、次から次へと苦しいことが起こって来るのです。苦しいことが起こるのは、その人の「めぐり」によるもの、すなわち曇りであることは、一応承知していますから耐え忍んでいます。
また、『神様は御守護を下さろうとしても、その人に曇りがある場合、まずその人の曇りを払拭しなければならない』という御教えもありますから、大いに元気をつけていたものです。
しかし、あまりにも浄化が続くので、私はお導きの関係上、明主様にお伺いしたことがあります。
私が詳しくご報告するのを、“いかにもひどい浄化だ、さぞ苦しいであろう”といったお顔で、じっと聞いて下さいました。
ご報告し終わって、さていかなるお答えをいただけるものかとお待ちしておりますと、ただひと言、強い語気で、『結構じゃないか』とおっしゃいました。
私はハッとして、思わず「これだ!」と心の中で叫びました。
もちろん私はお言葉をそのまま伝えました。ところが、その信者さんは、そのお言葉によって、一転機を来たし、どんどんよくなりました。」