第六章 正神と邪神
2、邪神について
「神は創造者、破壊者は悪魔、故に邪神も必要」
「黒龍は邪神である。乙姫が欲の執念の為、邪神になった事がある。すべて黒は悪魔であるから、気をつけなくてはいけない。青龍――青大将などこれに属する。(善悪中間)。支那に多い。黄龍も多い。
邪神は神様に対する邪神、兇党界が元で、働くのも邪神、間違えて働くのも邪神である。
悪魔は凡てに渉ってある。一時アクマになり、改心して良くなるのも沢山ある。
世界の凡ゆる事は、破壊と創造を繰返している。神は創造者であり、破壊者は悪魔である。故に邪神も必要である。」
(講話集補 年代不明)
「邪神は死力を尽して妨害活動をする」
「(前略)本教の主宰者たる神霊は世界の大転機に際し救世の力を揮はれる以上、邪神界にとっては空前の脅威であり、最後の断末魔である、故に本教が追々大を成すに到れば邪神は追詰められ、改心するか没落するか二者何れかの決定的運命に追いつめられる事で、之を知っている彼等は、何としても此脅威から免れなければならない、其結果死力を尽して妨害活動をするのである。
そして邪神の眷族も何万あるか殆んど数え切れない程である、勿論頭目もあれば上中下の部下もあり力もそれに相応している、彼等邪神群は、本教妨害に当って役立ちそうな者が選抜され、人間一人一人に憑依される、人間とは勿論無神論者であり、唯物主義者であり、稀には唯心主義者もあるが、之は何かの動機によって邪念発生する場合邪神の虜となる事もある、邪神が憑依するやその人間を自由自在に駆使する、その手段として頭脳を占領し想念を奪って了う、例えば本教へ対して何となく癪にさわる、虫が好かない、困らしてやりたい、やっつけてやれという観念が執拗に浮ぶ、処が知性的人間にはそれに合うような想念を起させる、即ち迷信邪教であるからブッ潰すのが社会の為であると思い込ませるのである。(後略)」
(「善悪の戦ひ」 昭和25年3月18日)
「現在は邪神の最後の足掻き」
「(前略)今、最も著しい事は、邪神の必死的活躍である。何しろ何千年といふ長い期間、大いに巾を利かして来た彼等は、没落の運命の迫るに従って、最後の足掻きといふ奴で、乗るか外るかの暴威を揮ってゐる。そうして邪神にも頭目があり、今最も活躍してゐるのは、赤龍竝びに黒龍で、その眷族に至っては、無慮十億近くに上るのだから大変なものである。彼等にも上中下の階級があって、階級により夫々の役目がある。彼等と雖も命令された仕事は忠実に成し遂げやうとして一生懸命である。といふのは其功績次第で出世もし、論功行賞にも与る張合があるからである。勿論総本部に鎮座まします頭目からは、一々指令が出て、霊線を通じて、人間に憑依せる副守護神に伝達されるのである。此場合人間界に於る其人の地位や階級に相応する眷族が働きかける訳で、彼等の任務としては凡ゆる手段を講じて、人間を悪に悪にと導こうとする。 (後略)」
(「邪神活躍」 昭和25年12月25日)
「昼の世に於ける邪神」
「【問】みろくの御代には邪神はどうなりますでせうか。
【答】邪神は居るには居る。兇党界は邪神の根拠である。
霊界が昼間になると活動が出来ぬから、活動をせずじっとしている。明るいと邪霊は活動出来ない。幽霊でも心霊研究でもそうで、暗くしないとやらぬ。
仏様に上げる燈明などは之からは必要がない。悪霊も働けぬ。浄霊すると苦しがるのは光を恐れるのである。邪神は自分の何万といふ眷族を霊線によって働かせる。
昼になると神様の霊線は一層力強くゆくが、邪神の霊線は行かないので、じっとしてしまう(萎縮)のである。(邪神は光を恐れる。以前私に狐が憑らうとしたが、どうしても憑れなかった。三尺位しか来れぬ)」
(講話集補 S24・8・9)
「【問】兇党界の三巨頭の霊は光明世界に於ては如何になるので御座いましょうか。
【答】或一個所へ押込められ出られない。如何なる兇党も、光に遇ふと活動出来なくなる。
光明世界は明るい為に、手も足も出なくなる。封じ(閉じ)込められたと同じである。」
(講話集補 S24・5・11)
「身魂磨きは邪神の役目、邪神は善人を作る砥石」
「(前略)それから人間の理窟では到底分るものではありません。神様の方は実に深いのです。たとえてみれば、医者は邪神と思うでしょう。健康な体を薬で弱らせたりして、結局命までとるという事は、とんでもない邪神です。ところがその邪神のために救世教というものが現われたのであるし発展しつつあるわけで、若し医者が片端(カタハシ)から病人を治してしまえば、救世教は発展しません。救世教がドンドン発展して威張れるという事は、医学という邪神のためなのですから、そうなれば邪神というものは大変なよい働きをしているわけです。
しかしなにも態々こっちでそういうように計画的にやるわけではないので、そういうようになっているのですから、それを良いとか悪いとか批判する事はできませんが、そういうようなものです。だから何時も言うとおり、今まで教団でも、邪神のために随分助かったり、随分よい功績があります。だから、良い悪いは言ってかまいませんが、決めるのがいけません。何となれば神様というのは、やっぱり悪い方を利用するのです。それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。(後略)」
(御垂示録23号 昭和28年8月1日)
「邪神の邪魔も必要」
「(前略)(邪神が)邪魔をすると言うが、それは見方によるのです。本当は邪魔ではないので、必要なのです。つまり浄化作用の一種なので、その人に穢れがあるから、穢れを取るにはその人を苦しめなければならない。それから時期があるから、その時期を延ばすために邪神が邪魔するのです。ですから今言ったとおり、正邪両方を主神が作ったのですが、邪というものも必要なのです。邪というのは、邪魔したりする事ですが、その人を磨くにはそういう事も必要なのです。或る期間は邪だが、イクオール正なのです。
「明主様の意向に邪魔する邪神というのは、表面的にはあるような形の場合と、そうでない場合と」
邪魔しているという事はどうして分りますか。
「何かと御神業に差障りがあるという事でございます」
どうして差障る又は差障らないという判断が分りますか。
「それは分りません」
あなたの目には邪魔するように見えるが、神様の方ではそれでよいのです。だから人間の小智小才で判断して“あれが悪い”とか“これが悪い”とか言うが、実は御自分の方が悪いのです。例えば“医者というのはけしからん。病人を作り、人を死なせる。病気を治らないようにしている。詐欺だ、けしからん”と言うが、医者がそうだから救世教が発展するのです。若し医者がそうでなかったら、救世教の信者は一人もできないです。そうすると医者は大変な役をしているわけです。だから医者がそうして病気を作っている事は、神様の方からは必要があるのです。それはいずれ説きますが、今はまだ早いから言わないのです。
ですから人間が、善いとか悪いと言う事はできるが、結論は人間ではつかないのです。“あいつは悪い、お邪魔している”という事も、それは確かに邪魔しているから、邪魔しているという事を言うのは差支えないです。しかし“だからあいつはやっつけなければならない”という事はいけないのです。というのは、若しやっつけなければならないものなら、神様がやっつけるのです。“あれは邪魔しているようだが、やっぱり神様の方で御都合があるのだろう”として、善いとか悪いとか決める事はいけないのです。(後略)」
(御垂示録30号 昭和29年4月1日)
「邪神の特色」
「【お伺】邪神は殊更正神らしく見せかける様に思われますが如何でしようか。
【御垂示】之は無論そうであつて、最初から邪神と判られては人間の方で警戒するから、邪神の目的は立たぬ。どこまでも正神と見せかけて間違つた事、悪い事を、善い事、正しい事の様に思わせるものである。邪神はいはば人間界の詐欺師のようなものである。これを認識しないと邪神の術中に陥るのであるから、余程はつきりとした眼識をもたねばならぬ。
私の「信仰雑話」をかいたのも、一つはそういうものにしつかりした判別力を植付けるためでもあるから、どうしてもこれによつて智慧証覚を磨かねばならぬ。随而邪神の言動は立派に見えても必ずどこかに欠点のあるもので、容易に見破り得るのであるが、人間はその判断がつかぬため他愛なく騙されるのである。例えば共産主義の如き之は自己の階級だけを愛し、他を打倒しようとする間違つたものであるが、主義者は之こそ大衆を救う唯一のものであり、絶対の真理だと信じてやつている。それだけに又非常に強い処がある。」
(教えの光 昭和26年5月20日)
「邪神の活躍も終わる」
「(前略)約三千年、本当言うと二千六百年ですが、之が最初三千年の積りだったが神様の方で力を強くしたんですね。それで邪神の方も書きます。邪神の方の活動ですね、大変なんです。こう言う宗教的なものは今迄何もないが中味をさらけ出す訳です。今迄は之を分らせる事が出来ない。何故分らせる事が出来ないかと言うと時期が早いからです。やはり成功しないからです。と言うのは色々夜の世界と昼間の世界の関係もありますからね。邪神の方の活躍ですね。未だずっと先までやる積りだったが段々神様の方でも強くなって、邪神の方がこの辺で往生する事になる。邪神の活躍というのももう直きなんです。それで五六七の世が出来るんですがね。大本教のお筆先にありますが、「遅き速きはあるが一度神の申した事に違ひはないぞよ」之は千変万化邪神に対抗していく事になるので、今迄の私とメシヤ教に対する色々な手も邪神との闘いです。今もって続いている訳ですがね。段々こっちの方が勝って行く訳です。もう一息ですね。もう一息でこっちが本当に勝って行く。そこでその期限と言うのは来年あたりですね。来年は勝って行く。然し先でも色んな妨害があるんです。五六七の世まで続くんです。然し先の方で段々弱って来ますから同じ闘いでも楽になって来ますね。ですからもう僅かです。もう一息です。(後略)」
(「御講話(速記)」昭和26年9月21日)