第六章 正神と邪神

前章では、霊界や霊的事象について学びましたが、主神様の御経綸は、この地上に神の住んでいるすばらしい世界、所謂、神界の天国というものをこの地上に具現、建設しようという遠大な計画の元、正邪、善悪の争闘を繰り返しつつ、物質文化の発展を優先して今日まで進められました。
地上天国とは理想世界であり、今まで人間が経験した事のない世界ではありますが、それはユートピアとかパラダイスというような言葉に代表される、人間が自由に好き勝手なことが出来たり、思うことが思うように出来たりする単なる「楽園」ではありません。
神様は非常に寛大ですが、実は厳格であり厳しさを備えておられます。そして、その中心には主神様がおられ、神様のお決めになったルール、神様も敗れない神律に沿った世界、例えば霊層界の霊籍のように、有徳者が上に住むような世界、人格の向上が許された者が住む世界、これが言い換えれば地上天国であるわけです。
人間がそのルールに従い、本来の魂の輝きを取り戻し、地上天国に住するに相応しい人間になるために、御教えは存在します。言わば、我々の進むべき方向を、どういう立場や境遇にあっても、常に正しい方向に案内してくれる羅針盤であるわけです。そうして、神を中心において真理の御教えに求め、御教えに適うような心言行ができるような人間になるように謙虚に努力精進しつつ、ある程度霊体の曇りが払拭された人にして、初めて、その世界・・・地上天国に生存することが許されるのだと思います。
その世界を造るため、そこに住む人間を造るために、正邪、善悪があるわけで、その為この章では、その対峙する正邪、善悪について徹底して学んで、主神様、メシヤ様の御心を理解して、自らの進歩向上を目指して、誤解のない、間違いのない、本来の信仰をしていきたいと思います。
その為にこの最後の章では、その対峙する正邪、善悪について学んでいきたいと思います。

 

「陽陰はすでに善悪」

「(前略)元来主神は全宇宙そのものがその御所有物であつて善も悪もないが、神典にある如くその主神から分れて霊系の祖が高皇産霊神、体系の神が神皇産霊神となられた。之は陰陽の神であり、陽陰はすでに善悪である。そして悪に属する神を邪神、善に属する神を正神という。この善悪が始終摩擦し争闘しつつ人類は生成化育し、今日の如く輝しい文化の発達を見たのである。(後略)」

 

                (「教えの光」昭和26年5月20日)
 

「主神様の観方」

「主神は善悪両方を造った。之を好むように造った。人類は未だ野蛮未開で、獣性が多く残っている。現代は幼稚極まる文化である。正神と邪神と戦ひ文化を進歩さしている。主神は之を上から見下している。絶対の善も絶対の悪もない。戦争も吾等にとっては良かった。」
                                         

(講話集補 S23)

 

「正神と邪神を主神様が作った」

「(前略)近代医学は邪神がつくつて、邪神が経営していると思つていれば間違いない。そこで、それを目覚めさせるべく神様が私を使つてやつているんです。その意味によつて今「文明の創造」を書いているんです。之は来年あたり出来る心算りですが、そうしたら、英文に訳して世界に頒布する。先ず、世界の識者の目を醒ます。そうして、段々浄霊なんかも世界中の人間がやる様になります。それではじめて人類は根本的に救われる訳です。

  併し、そうは言うものの、邪神が全然悪いものではない。やつぱり、今迄は必要だつた。と言うのは邪神がそう言う具合にしないと、物質文化はこう言う風には発達しなかつた。発達させるには邪神がそうしなければならない。話が長くなるから、この位にして――之は今に段々書きますが、そんな様な具合で――結局世界を支配している主の神様が、悪をつくり、邪神をつくり、善をつくり、正神にそれを喰い止めさせたりして、段々理想世界の下拵えが出来たんですね。大体、下拵えは出来たんです。今度は、邪神が本当に改心して良くなれば、世界中が五六七の世になるんですからね。今、その目前に来ている。(後略)」

 


(御教え集3号  昭和26年10月1日)
                      

 

 「主神に善悪なし」

「【問】入信しても邪神の虜(トリコ)となり、又熱心な信者でも邪神に引かれる傾向がある様に存じますが、この様な所での教導師の心得に就て御教示を御願ひ申し上げます。

【答】これはね、邪神に負けるとか、引かれるとかいふこの人の心が間違っているんです。邪神かどうかって事は人間には判らないんですよ。神様でないと判るもんぢゃないんです。だから、こんな事をいふ人は神様の地位を冒してるんです。つまり「裁いてゐる」んですね。キリスト教の聖書にも「裁く勿れ」ってあるでしょ、それですよ。邪神が憑いてるかどうかって事は決して人には判らないんで、却ってそういふその人が或は邪神かも知れない。だからこんな事は絶対に言っちゃいけないし、又言へないんです。こんな人は、自分の気に入らない人はみんな邪神にしてしまふもんですよ。所が邪神だなんて言はれる人で、馬鹿にいゝ働きをする人もあるものです。又誰が見てもいい人であっても、実は反対の事もありますしね。だから神様でなければこういふ事は判らないんですよ。

  神様はいろんな人を使はれますからね、芝居と同じ様なもんで、善人許りでは芝居にならないんです。そして、しんからの邪神と、邪神に憑かれている人とは違ふし、それから邪神の眷族といふのも何十万、何百万となくゐるんです。つまり、主神(スシン)の下に陰陽の神がこういふ風にあるんです。(御煙草三本で―〈の形を御示しになられる)こっちが善で、こっちが悪ですね。そうしておいて地上の経綸をなさるんです。だから「主神に善悪なし」で善悪無差別、正邪一如って言ひますがね、ほんとに正邪が判らないんです。

  所が、之一方だけぢゃ又いけないんで、はっきりと厳しく、善をすゝめ、悪をしりぞける面もなくてはいけない。そこで観世音菩薩っていふ御方は悪を咎めず、善悪無差別に救はれるんですが、観音様の御本体の国常立尊は絶対に悪は許さないんで、閻魔大王ともなられて審判をされるといふ厳正司直な神様なんです。つまり経(タテ)ですね。観音様の善悪無差別の方は緯(ヨコ)ですよ。その一方だけに片寄ると仕様がないんです。この二つの面がなくてはならないんで、時と場合、そして相手によって千変万化して行くんです。」   

 

 (御光話録9号  昭和24年)


 この御教えにある如く『陽陰はすでに善悪』というお言葉からも判るように、主神様以外は全て正か邪であるわけです。また、地上天国誌58号の「明主様に御救い願う霊界よりの通信」にあるように、メシヤ様が赤龍、黒龍の邪神といえどもお使いになられて地上天国建設を進められているご様子が判ります。
このように、メシヤ様は善悪両方をお使いになって御経綸を進めておられるということは、主神様=メシヤ様ということが容易に理解できると思います。
そうであれば、メシヤ様とお呼びするという事はどういうことであるのか、もう少し色々と考える必要があるのではないでしょうか?
 さらに、学びを深めていただくために下記の御教えを抜粋、掲載しました。拝読していただければと思います。


「人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行を為す事」

「(前略)そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。丁度、子に対する親の愛の一層拡充されたものといへるのである。故に、罰をあてるといふ事は正神には決してないのである。然し乍ら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷ふか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害を受けるといふ其事が、罰が当ったやうに見へるのである。
  然し斯ういふ事もあるから注意すべきである。それは邪教信仰者が、その信仰から放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく災害を蒙らせる事がある。それ等は全く罰が当ったと同じ意味であるが、之等は脅迫信仰に多いので、そういふ事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番それを突破するに於て邪神は手を引くから、其後は何等の障りはないのである。要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行(オコナイ)を為すに於て、天下恐るべきもはないのである。(後略)」
                    

(「神と悪魔」昭和18年10月23日)

 正神を信ずれば曇りは消え、邪神を拝めば曇りが増す」

「(前略)人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、霊衣とは一種のエーテルであって、これは霊から放射される光で朦朧体ではあるが、肉眼で見る人もある。そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。即ち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。故に正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。処が普通人は霊的智識がない為神とさえいえば悉く正神と思うが、これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているに拘らず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神か又は弱神であるからである。故に正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。(後略)」 

 

 (「正邪の戦い」 昭和28年7月25日)
                          
     

 「人間は常に正邪何れかに操られている」

「(中略)霊線は人間に於ては生きてゐる親近者のみではない。死後霊界に於ける霊とも通じてをり、正神に連結してゐる霊線もあり、邪神に連結してゐるそれもある。正神は善を勧め、邪神は悪を勧める事は勿論で、人間は常に正邪何れかに操られてゐるのである。(後略)」
                   

(「霊線に就て」信 昭和24年1月25日)

 

「正神からは光、邪神からは悪気を受ける」

「(中略)神仏と雖も正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、邪神は光処か一種の悪気を受ける事になるから、思想は悪化し不幸の人間となるのである。故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。又正神と雖も、神格の高下によって光の強弱がある。そうして高位の神仏程その信徒に奇蹟の多いのは、霊線の光が強いからである。(後略)」

 

(「霊線に就て」信 昭和24年1月25日)



「良心が勝てば永遠の栄へとなる」

「(前略)絶対愛の神の御意志と、絶対悪の悪魔の意志とは両々相対して、常に葛藤を続けつつあるのが、今日迄の人類社会のあるがままの姿である。(中略)此意味に於て、個人の小さなる意志想念の世界に於ても、常に神と悪魔と対立し、闘争してゐる事は、何人も日常体験してゐる処であらう。そうして個人に於ては神の意志は良心であり、悪魔の意志は邪念であるから、良心が勝てば永遠の栄へとなり、邪念が勝てば身の破滅となる事はいふまでもない。何となれば、神の御意志は栄へを好み給ひ、悪魔の意志は破滅を喜ぶからである。(後略)」
                   

(「神と悪魔」昭和18年10月23日)

 

「最高の神様は十であり、邪神は九分九厘」

「(前略)色々の災いは、全く神と悪魔の戦いによる事であって、どんなに邪神の方で、彼の手此手で攻めて来ても、到底歯の立たない事をよく示している。というのは、いつもいう通り、最高の神様の御力は十であり、邪神の方は九分九厘で、一厘力が足りないから、結局、邪神の方が負けるに決っている。処が面白い事には、霊界が段々明るくなるに従い、邪神の力もそれにつれて段々弱ってゆくから、何れは往生して手も足も出なくなり、遂に滅びて了うのは間違いないから、それからが愈々五六七の世の建設の段取となるので、それを楽しみに、大いに奮励努力しようではないか。」        

 

(地29号「巻頭言」 昭和26年10月25日)

 

「正神界からは正気、邪神界からは悪気が流れてきている」

「(前略)正神界からは霊線によって人間の本守護神に正気を送流しつつあるに対し、邪神界に於ても人間の副守護神に対し、霊線によって悪気を送流してゐるのである。此理によって一人の人間と雖も、世界的に繋がりがあり、その一挙一動は全世界に響くものである以上、軽率な行動は出来ないのである。(後略)」           

 

(「兇党界」 昭和18年10月23日)

 

 

「邪神を拝めば曇りが増し、正神を信じれば曇りは消される」

「(前略)正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。処が普通人は霊的智識がない為神とさえいえば悉く正神と思うが、これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているに拘らず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神か又は弱神であるからである。

故に正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。この厚さは普通人は一寸位だが、善徳者になると五寸から一尺位に及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。大宗教家などは数国若しくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストの如きはこの種の人である。処が救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、併し今日まで救世主は未だ世界に現われた事のないのは歴史が示している。(後略)」                 

 

 (「霊と体」 昭和28年9月10日)

                  

「正神にも91の階級がある」

「(前略)私のいふ神とは正しい神の事であって、世人は、神といへば全部が正しいものと想ふやうであるが、実は等しく神と雖も、正神もあれば邪神もあるのである。(中略)
そうして今日迄は、寧ろ邪神の方が多く、正神は少なかったのである。何となれば夜の世界であったからである。

  爰で、今一つ重要な事がある。それは一神説と多神説であって、キリスト教の如きは一神説であり、日本神道は殆んど多神説である。之はどちらにも理由はあるのであるが、日本だけでいへば多神説が正当である。それは神は一神にして多神であるといふ説が本当であるからである。そうして人間界に階級がある如く、神にも階級がある、その階級は私の研究によれば九十一あるのである。昔から八百万の神と謂はれるが、全くその通りであらう。(後略)」
                       

 

(「神と悪魔」昭和18年10月23日)
                          

 

「神の階級は181」

「(前略)私の言ふ神とは正しい神であって、邪神ではないといふ事も変な訳であるが、神には邪はなく正そのものが本質であるからである。従而茲でいふ邪神とは、本来正しい神であり乍ら一時的過誤に陥ったといふ訳である。何故神にして過ちを侵すかといふに、正神邪神は常に闘争してゐる。其場合八百万の神と雖も最高級の神から最下級の神に到る迄の階級は百八十一とされてゐる。従而二流以下の神は往々邪神に負ける。即ち或期間邪神の虜になるのである。(後略)」                  

 

(「善と悪」天  昭和22年2月5日)

         

「正神と邪神は信仰の結果が違う」

「(前略)茲に注意すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動の面白からざるものがある。愛が無く利他的観念が乏しかったり、又は虚偽、不正を平気で行ふといふ人があるが、之等は信仰の目標である神仏が邪であるからで、それに就いて斯ういふ話がある。茲に一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を査べた。処が胴巻に百円の札束があったので詰問した所、此金は○○寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないといふ。之などは邪宗信者の典型であらう。従而斯様な信仰者は一生懸命信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。故に信仰に熱心であればある程健康を増し、家庭は円満となり、家は富栄え、他人から敬愛されるといふやうになるこそ、正しい信仰の結果で、勿論その神は高級なる正神正仏である。

  又斯ういふ事もある。全くの至誠を以て神に仕へ、熱烈なる信仰を捧げ長年月に及ぶも病気、貧困、不幸等絶えず襲ひかかり、苦悩の生活から離脱出来ない人があるが、それに対し道理をつけて善に解釈する。即ち神の試練又は罪障消滅なる言葉である。又難病の場合、宗教家に相談すると、曰く人間は須(スベカラ)く死生に超越せよなどといふのである。然るに私は思ふ。右の両方共正神であるが、実は二流以下の神で絶対の力がないからである。然らば今日迄凡ての宗教、凡ての神は何故絶対力を発揮し得なかったかといふ点であるが、之には理由がある。即ち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかったのである。」                

 

(「善と悪」 昭和22年2月5日)

         

「邪神界も正神界と同様の組織がある」

「(前略)邪神界にも階級があって、人間個々の霊的階級に相応し憑依するので、上級から下級に至る迄差別があり、之も正神界のそれと同様の組織になっている。(後略)」
                     

(「九分九厘と一厘」 昭和27年1月9日)

 

                      

「今までは邪神の天下」

「(前略)今日まで何千年間、世界の神霊界を自由にして居たのは、実に邪神であったのである。此神幽現三界の関係を詳説するには、孰れ適当の方法を持って説くつもりであるが、今は読んでだけ置いて貰へば良いのである。
  神典古事記にある、天照大御神が岩戸隠れをなし給ふた事は、神話や仮空的伝説では断じて無いのである。即ち前述の邪神の横暴と言ふ事と、此の事とは密接なる関係があるのであって、其事あって以来世は常暗となり邪神の跳躍に移ったのである。其れが為めに人は善を行ひ正を踏むと雖も、真に幸福になり得ない。成程死後霊的には神として尊信はされ得るが、生ある内、体的の幸福は得られ難いのであった。(中略)

  然るに斯の如き不合理の世界は、今や終滅期に臨んで居るのである。其れは何か、東方の光が現はれたからである。観世音菩薩が秘め置かれた、絶対の正義の力を揮はれる時期が来たからである。其れは言ふ迄も無く善の栄える世界、悪が滅びる世界である。善を行ふ人が霊体共に栄ゆる世界である。
  東方の光は太陽の光である。この光に因って世界は白昼と化するのである。数千年に渉る夜の世界は、茲に終焉(シュウエン) を告げんとするのである。(後略)」


(「観音運動の目標たる大光明世界とは善の栄ゆる世界なり」  昭和10年8月16日)

        

「宗教でも正教と邪教がある」

「如何なるものにも善悪正邪があり、宗教でも正教と邪教がある。全然邪教といふものはないが、大抵は堕落の結果横道へ外れたり、外道に堕ちたりする。今迄は最初は良い目的で始めたものが中途から邪神に利用される。即ちその宗教が力が弱いから邪神に負けるのである。世間は新しいものを邪教視するが、新しいものには良心的なものが多く、比較的古いものに邪教が多い。古いもの程黴が生えたり破損したりなどしてをり、邪神に負け易いからである。宗教によつて救はれるといふ事は、入信以前よりは幸福になるものでなくてはならぬ。例えば身体が丈夫になるとか、貧乏だつたのが豊かになつたとか、家庭が融和する状態になつたとかいふやうに。」

                     

 (地上天国4号  昭和24年5月25日)

     

「正神は正しい事でなくては利益をくれない」

「 (世間ではよく弁財天や稲荷等を守護神として祀りますが、之は信頼出来る事でございましょうか。又その場合、その守護神はその人の本副並びに正守護神とどんな関係でございましょうか。右御教示御願い申し上げます。)


(信頼出来る。お願いすれば御利益くれる)弁天様などにも――、願言を届けない訳にはゆかない。もし叶えねば、神の役目がすまぬ。然し大抵の神は神力がないから、充分叶える事が出来ぬ。然し正守護神の力を増さしむるとか、副守護神に言いつけたりはしてくれる。(命令はする。――間接的の守護)豊川稲荷など守護神を貰ふといふ事を言ふ。すると狐の眷族が憑く。そして種々悪い事をしてくれる。正神系の神は正しい事でなくては利益をくれぬ。」
                                  

(講話集補S23・12・8)