第三章 信仰の向上を図るために
3、信仰の向上を目指して
⑦ 浄霊を取り次ぐに当って
ここでは、浄霊をお取次ぎする場合にあたり、気をつけなくてはならないことについて少し触れておきます。この項と共に、「神示の医学」「6、神示の医学の特徴」を拝読していただくことをお奨めします。
「浄霊する時は神様の代理」
「(前略)浄霊っていふのは神聖な事なんで、浄霊する時は神様の代理をしてゐるんですからね。(後略)」
(御光話録11号 昭和24年8月21日)
「施術者の霊衣の厚い者ほど治療成績が良い」
「(前略)本治療を施術の場合、施術者の霊衣の厚い者ほど治療成績が良いのである。又、多くの患者を扱へば扱ふだけ治療効果が顕著になる事である。故に、本治療士は一人でも多く患者を扱ふべきで、それはどういふ訳かといふと、本治療は卓越せる効果があるから治癒した多くの患者が感謝する。その感謝の想念が光となって、治療士の霊体に入り、霊衣は益々厚くなるので、霊波の放射が強力になるからである。
故に、本医術の根本は、術者の霊衣を厚くする事である。それは短期間の講習によって或程度霊衣が厚くなり、施術の体験を多く積むに従って増々厚くなるのである。(後略)」
(「霊波と霊衣」昭和18年10月23日)
「数多くやれば強くなる」
「(同じ様に御光を頂いてゝも、人によりその御力に格段の相違がある様に存じますが之はどういふ訳でせうか。)
全くね、浄霊する人によって大変な違ひがありますからね。――之は結局霊力の強さによるんですが、長く、そして数多くやってる人は強いんです。一、二年やってもどうにもならない病人を、私が二、三度やると治ってしまひますからね。それ位人によって違ふ――まあ、違ふのが当り前ですがね。――(笑声)
(後略)」
(御光話録13号 昭和24年7月23日)
「霊統によっても違う」
「(前略)この霊力が違って来るのにはいろいろ原因がありますが、第一は、日本人には三種の系統があるんです。本当の日本人である大和民族と朝鮮系と支那系のこの三つですね。そして所謂日本人の中で一番多いのは支那系で、之は百人の中六十人位、朝鮮系は三十人位、それから十人位が日本人です。だから本当の大和民族は極く少いんです。ま、多く見て十分の一でせうね。之は霊統ですよ、血統の方はいろいろまじりますが、霊統は混り乍らもちゃんと繋っているんです。それで、日本人の霊統の人が浄霊すると非常に力が強くてとてもよく治るんです。それから朝鮮、支那の順ですね。然し、この区別は一寸判りませんよ、顔を見たって判らないし、名前でも判りませんしね。(後略)」
(御光話録13号 昭和24年7月23日)
「気の毒でたまらないから治して上げようって人」
「(前略)次はその人の心ですよ。この信仰に入って「成程、之は非常にいゝ事だ、世の中の人は全く地獄に苦しんでゐる。之を一人でも多く助けなくちゃいけない」っていふ心の人はどうしても治りがいゝし、「まあまあ信仰して御利益を頂いて、安楽に暮せりゃそれでいゝ」なんて思ってる人はそれ程力が強くなく、やっぱり治りが悪いですよ。
それから又、これは生れつきだからどうにもならないけど、よく言ふ「きかない気」の人は治りがいゝですね。
然し、どうしたって誠の多い人ですよ。本当に気の毒でたまらないから治して上げようって人は治りが一番いゝですよ。この人を治したら金がうんと入るとか、出世するとか、勢力を得るとかいふ気持でやると、一寸治りがよさそうに見えても、結局は余りよくないですね。やっぱり、その人の心通りになるんですからね。心が神様の御心に合ってゐる人は、何と言っても御守護も強く、力も亦強いもんですよ。心持ち次第で同じ霊線が来ても、その人の体を通る時に違って来てしまふんです。綺麗な水でも濁った所を通ればやっぱり濁ってしまふし、濁ってない所を通れば、どうしても水が綺麗なのと同じでね、そんなもんですよ。(後略)」
(御光話録13号 昭和24年7月23日)
「信仰の深い事が判って来ると、霊力も強くなる」
「(前略)それから、根本から言ふと「覚り」っていふ事もあるんです。信仰の深い事が判って来ると、霊力も従って強くなります。勿論、深いと言ってもどこまでも深いものなんですがね。丁度、ピラミッドの様なもんですよ。(御煙草二本で∧の形を御示し下さる)この辺が(∧(ヤマノイチ))普通に活動してゐる人の程度ですが、この辺(∧(ヤマノイチ))になると霊的に位がついて来て、霊力がずっと違って来るんです。もう、この辺(∧(ヤマノイチ))から上になると神秘が判るんで「見真実」となるんですが、一番上は主神で、ここになるともう判らぬものは何もないんです。御釈迦は、まあこの辺(∧(ヤマノイチ))だったんですが、この一番上まで上った人は未だ誰も居ないんですよ。…」
(御光話録13号 昭和24年7月23日)
「(前略)何病気でもそうですが、浄霊の霊力の強い弱いによって治る治らないという事があります。その霊力というのは力を抜くほど強くなるのです。ですから力を抜く事が大事です。本当に力が抜けるようになったら大したものです。あとはその人の信仰の深さによって霊力が強くなります。という事は智慧正覚が根本です。(後略)」
(御垂示録22号 昭和28年7月1日)
「一番力の出るのは神様の御用をする人」
「(講習をする先生により御光の力は違ふのでせうか。)
えゝそれは違ひますよ。その人の霊の階級で力が違ふ。又信仰の程度、生れつき、それから経験などにもよります。一番力の出るのは神様の御用をする人です。之は重要です。一番大きいことです。たゞあの人はどうといふ風に定めることは出来ない。それは同じ学校を出ても、立派な人間もあれば駄目なのもあるのと同じです。」
(御光話録 昭和23年5月28日)
「力を抜けばずっと治る」
「(前略)浄霊してどうも治りが悪いという時には、確かに力が入るのだから、できるだけ力を抜けばずっと治るようになります。なにしろ御守から霊光が出て、掌から出るのですから、ちょっとでも力が入ると、霊光を塞いでしまうのです。やっぱり人間の力で神様の霊光を塞いでしまう、と言うよりか、薄くしてしまうのです。そこに気が付けばよいのです。ですから一生懸命に御浄霊をするという事がいけないのです。前にも言ったとおり、一生懸命ではなく、逆に楽な気持でやるという方がずっと効果があります。だから、思うよう――という事も少し変で、その人の思いようによるが、割合に治りが悪いという時には力が入っているのだという事が一番です。浄霊しながら鼻唄でもうたいたいくらいの気持でやるのが一番よいのです。それで、神様に御願いするのはいくら一生懸命になってもよいのです。(後略)」
だからよくお蔭話に“一生懸命に御浄霊をさせていただいて、どう”という事がありますが、あれはどうも工合が悪いです。そうかと言って、力を入れないで霊が通らなければいけないから、そこが難かしいところです。通そうとすると力が入るから、力を抜いて霊を通すようにするのですが、それが一つの修業です。」
(御垂示録25号 昭和28年10月1日)
「浄霊の場合、神様に治していただく、自分は道具」
「(前略)浄霊の場合には自分が治すのではないので、神様に治していただく、自分はその道具だから、そのつもりになって居ればよいわけです。私などもやっぱりそうです。(後略)」
(御垂示録25号 昭和28年10月1日)
「神様の方の病気に対する知識を豊富に」
「(前略)一番の武器は浄霊ですから、そこで病気を治すという事が根本ですから、そのつもりで、だんだん病気についての知識……と言っても、これは医学的でなく、神様の方の病気に対する知識というものを豊富にしなければいけません。何時も言うとおり、急所を見付けるという事は、やはり知識が豊富でないと見当がつかないわけです。ですから病気に対する研究会とか座談会というものもやると結構だと思います。
それから又病気に関しての分らない事は、書面でもよいですから聞くようにする事です。というのはつまり本当の医学、霊的医学、新しい医学をつくるようにしなければいけないと思います。それは医学と違って、そう解剖学的に知らなくてもよいのです。勿論、ただ霊的ばかりでも、治るには治るが暇がかかるわけです。同じ浄霊するにもピタッと急所に見当がつけばずっと早く治ります。それを、見当はずれなどをやっていると非常に暇がかかるわけです。だから霊的と体的の両方の事をよく知った方がよいです。(中略)ですから教師などは病気に対する知識をできるだけ磨くようにしなければいけないと思います。(後略)」
(御教え集25号 昭和28年8月5日)
「順序を乱さなければ治りも良い」
「(前略)患者が浄霊に来ますが、その時に一番先にやるのは、一番重い病気の人、つまり苦痛の大きな人を一番先にやれば良いのです。それからさのみ苦痛のない人が幾人も居る場合には年齢順にやればよいです。そうすれば理窟に合ってます。
しかし年齢順だからと言っても赤ん坊は又別です。ギャーギャー泣いていろんな事をすると外に障りますから、煩(ウル)さくない様に早く済ますという事は理窟に合ってます。そういう事が何もない時には先ず年齢順からやるというのが理窟に合っているわけです。それから常識的に考えると、非常に身分のある人や何かで、非常に用事が多い人などは先にやる、という事も又理窟が立ちます。それから来た順も必要です。どっちにしてよいか分らない場合には来た順です。それから来た順でも、苦痛のある人とか重い病気の時は、待っている人に一応断わるのです。“この人は重いから先にやりますから”という事を一言断わればよいです。
順序から言うと、第一は病気の重いのからやり、その次が来た順、その次が年齢順で、後は常識的に考えればよいのです。そういう順序を乱さなければ治りも良いのです。(後略)」
(御教え集20号 昭和28年3月17日)
「人間と神様の地位に高下があることを忘れてはならない」
「(前略)浄霊でも出鱈目ではあんまり効かないのです。それですから私なども、不断家内などがどんなに苦しんでいても、決して向うでやってもらいたいと頼むまでは絶対にやってやらないのです。“此処が苦しいから”“此処が痛いからやっていただきたい”と言えばよいですが、人間というものは変なもので謎をかけるのです。“ああ此処が気持が悪い”とか“此処が苦しい”と言うのですが、私は知らん顔をしているのです。向うが頭を下げるまではやらないのです。それはべつに意地が悪いのでも何でもないのです。そうでなければなおりが悪いのです。一番悪いのはよく押し売りをします。“さあやってやろう”と言ってやりますが、それがいけないのです。尤も赤ん坊は別ですが、分別がある以上は先方が御願いすると言ってからでないとやっても効果がないのです。ですからそれをよく心得ておかなければならないのです。丁度何かの場合に御利益をいただきたいと神社仏閣に行って、どうかお助けいただきたいと言うのなら御利益をいただけるのです。それをその辺をボヤボヤと行ったり来たりして居れば、何をしている、と神様だって横を向かれます。というのは人間と神様の地位に高下のある事を忘れてはいけないのです。それから“なおしてやるから御礼しろ”とか、又“なおったら信仰にはいらしてもらう”というのならよいですが、“なおったら信仰にはいってやる”というのは、どっちが上だか分らない事になります。大体、なおったら御礼するという事も、今までは神様を傭って使うようなもので、賃金をやるようなものです。これだけの仕事をするから、これだけの賃金をやろう、という事では神様だって横を向かれます。(後略)」
(御教え集22号 昭和28年5月27日)
「命に係わる病人に対しては特別な配慮を・・・」
「(前略)どういうわけで死んだかという事を質問に来なければなりません。それを来ないという事は解せません。そんな人は教師を止めた方がよいです。これはどういうわけで死んだのかという事を質問に来るべきではありませんか。それが何よりも肝腎な事です。今日来ないという事はどうかと思います。この間も“理窟に合わない事はいけない”と、あれほど言ってあるのですから、そういう時こそ“どういう訳で死んだのか”という事を聞きに来るのが理窟に合っている事ではないですか。それを来ないという事になると、このくらい理窟に合わない事はありません。そういう人は当分遠慮してもらう事です。そうして大いに責任を感じてもらうのです。なるほど自分が悪かったという事に気がついたら御詫びに来るのです。さもなければ、私としても、そんな無責任極まるような人に教師として宣伝してもらうという事は困ります。その事を知ったのは何時ですか。
「二十七日でございます」
浄霊した人にいろいろ聞きましたか。
「出て来ませんので」
呼んで聞けばよいのです。そうして今日連れて来て、私に詳しく話をすべきです。これは重大問題です。あなただって、どういう訳かを聞きたいでしょう。そうするとあなたも無責任です。甚だ理窟に合いません。やっぱり神様は、ボヤボヤした人や、とぼけたような人はキュッとやられるのです。だんだん時期が進んで来るに従って神様はやかましくなって来ます。やかましくと言ったところで、べつに無理や理窟に合わない事はないのです。人間の方が理窟に合わないのです。それをチャンと戒告されるのです。なにしろだんだん医学の方はギュウギュウと押しつめられるから、先方でも何とかしなければならないというので、こっちの欠点とか問題になりそうな事をいろいろ狙いつめてますから、なかなかウッカリしては居られないのです。どんな事があってもチャンと理窟が立つように心掛けて居なければならないのです。そこは家族で反対する者はなかったですか。
「ございませんでした」
警察には誰が行ったのですか。
「医者が連れて参りました」
それは医者にかからないで死んだら検死をしなければならないから、それが当り前です。そういう規則になってます。医者が警察に知らせるという事は当り前です。死ぬという事は、その前に余程重態になってましたか。
「尿を全然排泄しなかったそうでございます」
それなら直ぐに医者を呼ばないという事はないではないですか。それは甚だ間違ってます。それは問題にされるのは仕方がありません。そういう問題を起こした不注意を、問題を起こした浄霊の担任者は、一刻も早く御詫びに来るのが本当です。今日はこういう会合があるのに全然出て来ないという事は問題になりません。そういうのは教師を止めなさい。それが新聞に出たためにどのくらい影響するか分りませんから、自分が過ちを犯して、どのくらい神様に御迷惑をかけたか分りません。その責任を感じて一刻も早く御詫びをせずには居られないはずですが、それを来ないという事は、それだけで全然信仰も何もありません。贋せ信仰です。又、それに対して、あなたが大いに言わなければならないが、それに気がついたかどうか知らないが、まあ気がつかなかったのでしょうが、気がつかないで家を出て来るという事も感心しません。この頃いろんな注意を時々していますが、やっぱり御神書の読み方が足りなかったり、私の言う事を気に止めなかったりするからです。救世教というものがだんだん発展するに従って、世間から注目されます。大本教のお筆先に“抜身の中に居るような気持でなければならんぞよ”というのがありますが、よく政治家などが“ガラス張りの中に居るような”と言いますが、ガラス張りの中に居るというよりかもう一層強めたものです。抜身の中に居て、スキがあったら切りつけられるというくらいの気持でなければならないのです。やはり一つの戒告ですから、やはり神様はその人だけの注意でなくて、やはりそういう見本を作って他の全部の人に知らせるという事です。ついこの間も“合理的でなくてはならない、理窟に合わなくてはいけない”という事を言いましたが、それほど危ぶなくて重態であるにかかわらず医者を呼ばないという事は、とんでもない事で、理窟に合わない事です。チャンと理窟に合う事をして居れば何でもなかったのです。そういう事が問題になって新聞に出たりすると非常に悪影響をします。神様の御神業に対するどれほどのお邪魔になるか分りません。百のよい事を一朝にして覆えしてしまいます。又あれに出た事が非常に響きます。そういう事が入信者が増えるに対して悪影響するのが数字の上に実によく現われてます。だからそれこそ、べつに命に関わらないような病人はよいですが、少し危ぶない病人は腫れ物に触るような気持で、神経過敏になってやらなければならないです。いくら一生懸命にやっても、そういう問題を起こしたら、今までの功名を抹殺して、まだもう一層余りあるというくらいのものです。それで“自分はとんでもない間違いをした、一刻も早く御詫びしなければならない”というような気持があるような人なら、そういう問題は起こりません。(後略)」
(御垂示録21号 昭和28年6月1日)
「どっちに転んでも間違いないやり方が一番」
「(前略)どっちに転んでも間違いないというやり方が一番よいのです。そういうずるいやり方が一番よいのです。正直なやり方が馬鹿なのです。これからはそういうずるいやり方でやる事です。ちょっと変だと思ったら、まず医者に見せるのです。注射の一本や二本うっても別に大した事はないので、差し支えありません。注射が悪いと言っても一時的ですから、そうしておいて後は適当に考えればそれでよいのです。本人が又かかりたいと言うのなら仕方がないので、そうなったら手を放すとよいです。何時も言うとおり、あせりと無理がいけないのです。この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行く事はありません。(後略)」
(御垂示録21号 昭和28年6月1日)
「心の底に誠があれば、できるだけ横着でよい」
「(前略)病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、“それは結構だ、全くそのとおりだ”と言って、感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分ると思います。“私の方ではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたの御随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたの方で採用するしないはあなたの御随意だ”というように言うのです。
それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。
要するに人間、心の底に誠があればよいのです。あとはできるだけ横着でよいのです。心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持があったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。それが千変万化です。ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。つまり円転滑脱と言うか、それです。
だから人間は、難かしい事ですが、アクが抜けなければいけないです。何時も言うとおり、大抵な事は負けるのです。議論とか、そういういろんな事は負けるという事です。これが一つの修業です。先方の嘘も本当に聞いてやるという、一つのつらい所ですが、そこを平気で我慢できるようになる修業です。これが本当の生きた修業です。
それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものではありません。いずれは必ず先方が悔悟なり分るなりして謝まるとか、或いはそれが若しか分る事になると、今度はこっちを非常に尊敬します。あの人は偉い、オレが前にあんな下らない事を言ったが、それを真面目に聞いてくれた。余程腹ができているに違いないと、それからは信用する事になります。(後略)」
(御垂示録21号 昭和28年6月1日)
「浄霊の一番の修行というのは、力を抜く修行」
「(前略)大した事でなくて直きに治る様な事で御守護の電報が来ますが、あれはどうも治し方が違つているんですね。浄霊が違つているんですね。というのは矢張り力が入るんですよ。で、力を抜いてやれば何でもなく治るという事が、治らないという事はそういつた訳ですね。
だから浄霊の一番の修行というのは、力を抜く修行ですよ。力を抜いてその霊が向うに通らなければならない。だから本当いうと難かしいんです。やり方は楽なんです。だから楽で難かしいと、こう思わなければならない。通そうとすると力が入るんですね。そうでなく力を抜いて霊を向うに通す。之をやると非常に良く治る。兎に角力が入つちやいけない。若し治りが悪いと、力が入つたなと気がつかなければならない。私が始終そうです。
私が、一寸誰か浄霊してやる場合に、力を抜くと非常に良く治る。可笑しいなと思うと、不知不識力が入つている。ですから力を抜く修行ですね。それが出来るに従つて良く治ると、こういう風に思つていいですね。」
(御教え集10号 昭和27年5月15日)
「患部に奥深く滲透するようにする」
「 (観音様や大先生に御すがりするといふ事は――)
急所に当てる方が治り易い。観音様や大先生に縋る事は悪くはないが、余りしつっこくなると自力になって了ふ。要は自分は観音様の道具だといふ想念で御浄霊をすればよいのです。霊にも体にも余り片寄らない事が大切であり、治病の一般原則は霊を患者の体に深く入れてやる事です。例へば胸をやる場合は背中を狙ってやる気持で御浄霊すればよい。もう病人に治病力があるのだからそれを利用したらよいのです。」
(御光話録 昭和23年12月8日)
「手の力を出来るだけ抜く事と、患部に奥深く滲透するようにする。此矛盾のような方法であるから、熟練が肝腎である。次に霊射は勿論直線である。アインシユタインの説のような光線屈曲はないのである。」
(地上天国24号 昭和26年5月25日)
「反対する人があつたら、浄霊の場合は注意する」
「(前略)よく、邪神々々と言つてますが、邪神が一番目掛けているのは、信者なんです。それで、大きな問題ではないんですが、時々小さい問題が、教団の中にあるんです。処が、信者さんの場合は、邪神にやられても、世間の人がやられる様なのとは違う。世間の人は、本当に悪い事をするが、そうではない。信者さんが邪神にやられると、良い事と思つている事が、結果が悪いんです。それを注意しなければならない。信者さんは、之が教団の為だと一生懸命やる。それが、実は反対の結果になると言う事がよくある。
この間九州で起つた問題は、一軒の家で、そこの娘さんか何かが病気で死んだんですが、それで、医者にかからなかつたとか言う問題ですが、それは誰がそうしたかと言うと、そこの家の長男ですが、病人は二十幾つかの娘で、その兄貴ですね。地方の新聞に投書したらしい。
今迄そう言う問題を見ますと、必ず青年が問題を起すんです。起すんでなく、問題にするんですね。例えて見れば、その家の親が死ぬとか、兄妹が死ぬとかする場合に、不断から――浄霊している時から反対しているんです。そんなインチキ宗教で、病気を治すなんてけしからんと言う。今学校で教育を受けた者なら、そう考えるのもしようがないです。唯物教育によつてそう言う思想になつているから、偶々家の誰かが信仰で病気を治そうとすると、反対ではないが、憤激的になるんですね。そんな様な具合ですから、病気も治り悪(ニク)いんです。その想念が邪魔していますからね。
ですから何時も言う通り、一家の内で非常に反対する人があつたら、触れない方が良い――止(ヤ)めるんですね。その霊が邪魔するんです。だから結果が悪いんですね。すると、そうれ見た事か、俺が言つた通りだ、じや問題にしてやろうと言う事になる。法律的な事はないんですがね。地方新聞なんかに、よく出る様ですが、そこで一家の内に非常に反対する人がある場合――そう言うのは見合わせる。病人は頼りますから、――中々それを振り切ると言う訳には出来ない。そこの処を旨くやるんですね。成るべく、そう言うのは避けると言う方針にした方が良いですね。問題の起るのは皆んなそうですね。(中略)
だから、今言う反対者に遭つた場合は注意すると言う事丈心得て置くんですね。(後略)」
(御教え集6号 昭和27年1月3日)
「危急の場合はメシヤ様に御願いする」
「(御浄霊の時「此の病人が一日も早く治りますように――」と観音様に御願ひする気持になりますが、矢張り之も抑へた方が宜しいでせうか?)
抑へなくて結構ですよ。抑へた方がよいと言ひましたか?それは何か間違ったのでせう。観音様に御祈りし御願ひするといふ気持が本当です。特に危急の場合は、「大先生御守護を御願ひ申し上げます」と言ったら宜しい。その時は私が神様の代理になりますから。然し、普段何でもないのにやられてはこっちは困りますがね。」
(御光話録1号 昭和23年11月8日)