第三章 信仰の向上を図るために

 

 3、信仰の向上を目指して

 

 ⑥ 浄霊の真価

 

「私は全責任を以って、私の言の偽りの無い事を誓う」

「(前略)医術とは何ぞやと言へば、人間のあらゆる疾患を治癒し、完全なる健康体たらしむるのが、真目的である事は、今更言を俟たない処である。故に、真の医術が完成さるるに従ひ、人間の罹病率は年と共に減るべきであり、又、病気の種類も漸減し、其当然の結果として、人間各自の天寿、即ち天より享けたる齢丈の年数を重ねて、苦痛のない眠るが如き自然死の人が増加してゆかなければならない筈である。(中略)
  然らば、現代医学の誤謬は、如何なる点に存するのであらふ乎。それは実に、其出発点に於て、重大なる錯誤がある事である。それが、此書中に詳述してあるから、熟読玩味するに於て、何人と雖も豁然として其蒙が啓け、病気の真因も、健康の要諦も、天日の下に晒さるるが如くで、無医薬療病に依って、病患は根絶さるる事を、覚り得るのである。
  実に此新日本医術であり、明日の医学とも言ふべき観音力療病と健康法の真髄こそは、人類の歴史有って以来恐らく空前であらふ程の、一大福音である。又、私が余りに狂人にも等しい、大言壮語する事に対して、反って疑を持つ人がないとも限らない事であるが、それは、例えば如何に食物の美味を説明しても、口へ入れなければ判らないのと同じである。兎に角、実験と体験である。私は全責任を以て、私の言の一点偽りの無い事を誓ふものである。(後略)」             

 (「新日本医術書 序論」昭和11年4月13日)

 

  

「医学や薬の誤を知らせるというのが根本」

「(前略)神様の最後の目的である理想世界――地上天国を造るというその時期になつたのです。そこで今迄の色んな間違つた事を分らせ、そうしてそれを無くさなければならない。ですから病気は薬毒だ、間違つていると言つた処で、斯うして(御浄霊)治す。それを見せなければ人間は信じませんから、斯ういう治す力を私に与えて、医学や薬の誤を知らせるという意味で、それが根本の意味です。(後略)」             

 (「御教え集12号」昭和27年7月27日)

  

「浄霊は霊の曇りの解消法」

「(前略)従って貧乏も争いも浄化の表われで、私の曰う病貧争悉くがそれである。処が一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、之は生命に関するものであるからで従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。勿論そうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明かである。それを簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べた如く浄霊は独(ヒト)り病気のみではない事である。(後略)」 

 

                   (「浄霊と幸福」地34号  昭和27年3月25日)

  

「病気を治すには、曇を取るしかない」

「(前略)浄霊ですね。こうやると、ここ(掌)から霊光が放射されますが、之は光の霊なんです。ですから、ピカピカ目に見える光は、光の体なんです。で、光の霊は今言う様に、目に見えないが、光の体より強いんです。光の体丈なら、レントゲンとか電気とかでやれば治る訳なんですがね。光の霊と体は、反対の働きをする。霊の方は毒素を溶かすんです。体の方は固めるんです。ですから、レントゲンとか太陽燈は、光の体ですから、毒素を固めるんです。レントゲンなんかかけると、豆粒の様にコチコチに固まるんですね。霊の方は溶かすんです。
それで、之(浄霊)でやると、霊が行つて、霊の曇を溶かすんですね。溶かすと黴菌が発生しなくなるんです。霊の曇と言うのが黴菌の因(モト)ですからね。ですから、こう(浄霊)やる事は、黴菌を殺す事でなくて、黴菌の発生源をなくする事です。ですから、その点丈でも素晴らしい進歩をしている訳ですね。
処が、医学の方では、薬毒で、むしろその曇を増やす様にしているものですね。薬毒の曇と言うのは、薬を作つて、薬から黴菌を発生する様にして――黴菌は医学が作つているんですね。そうして、その黴菌を殺そうとして一生懸命やつているんですから、恐らく、愚と言うか無智と言うか、例え様もないですね。そう言う事も説明して、いずれ目を覚まさせるんですがね。
そこで、病気を無くす――病気を治すと言う事は、今言う曇を取る事よりない。曇を取るには、霊の光を放射するよりないんだからね。それを先づ解らせるのが一番ですね。そうすれば、医学と浄霊と、比較が根本的に違うんですね。根本的に違うと言うより、こつちの方は、病気の根本を治す。先の方は病気の根本でなくて、結果ですね。現われたものですね。
丁度、同じ理窟ですよ――今、不幸な者が出来ると、それを社会事業――色んな救貧事業、慈善事業、養老院、孤児院だ。何だ彼んだ色んな、保険とか――健康保険とか、災害保険とか色々ありますが――そうしてやつてますが、丁度医学と同じです。あれは黴菌になつたのを殺しているんです。不幸な人間が出来ると言う事が因(モト)なんだから、即ち霊の曇ですね。それを取れば良いんだ。それに気がつかないのと、気がついていても不可能なんですね。だから、メシヤ教と言うのは凡ての因(モト)を解決しているんだから、因を解決すれば、病貧争絶無の世界が出来るんだから、理窟はそう難かしい事はないんです。(後略)」
                                  

 (「御教え集7号」 昭和27年2月26日

 

 

「浄霊とは幸福を生む方法」

「本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といっても勿論浄化であり、其因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言う迄もないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。(中略)
  人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態が其儘霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命の其根本は霊界にあるのである。(中略)だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。というのは之が神の天則であって霊主体従の法則も厳として冒す事が出来ないからである。故に幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、茲に浄霊の大いなる意義があるのである。」    

 (「浄霊と幸福」地34号  昭和27年3月25日)

 

 

浄霊の仕事は、火の洗礼の仕事」

「(前略)旧約聖書に“ヨハネは水の洗霊をしキリストは火の洗霊をする”というのがありますが、水の洗霊という事はノアの洪水になるわけです。つまり形があるのです。火の洗霊というのは火素の洗霊なのです。これはつまり目に見えないわけです。ですから浄霊で浄めるという事は火の浄霊なので、これはやっぱり火の洗霊というわけです。浄霊の仕事というものは火の洗霊の仕事なのです。(後略)」

 

                (御教え集23号  昭和28年6月17日)

  

「その霊を救うのが浄霊」

「(前略)此処で肝腎なことを言いましょう。それは何かというと、そんな立派な天国を造るには地球の上をきれいにする、つまり大掃除であります。そのためには神様は先ず霊界から浄めるのでありまして、つまり汚いものを焼きすててしまう訳であります。これがキリストの言われた火の洗霊であって、これによって霊界が浄まれば、霊主体従の法則通り現界が浄まり、茲に地上天国出現となるのあります。
  処が、右の如く霊の穢れた人は焼かれ滅びるとしたら、そういう気の毒な人を一人でも多く救わなければならないから、その霊を救うのが浄霊であります。それで浄まった人だけが大峠を無事に越せる人間となるばかりか、その功によって自分自身も救われるのでありますから、先ず一挙両得というわけであります。つまり神様の大愛の御取次というわけであります。」
                 

 (ハワイ教会落成式に賜った御言葉  昭和29年2月26日)

 

 

「来るべき審判を無事に切り抜け得る資格者を作る」

「(前略)罪穢の沢山ある人程、大浄化に耐える事が出来ず、永久に此世をおさらばとなるより致し方ないが、それに引換え、善は易々と生き残り得るのであるから、どんな浄化が来ても、耐えられる程の状態に置かれていなければ安心出来ないのである。従って最後の審判とは、罪穢の多い人は怖るべきであるが、少ない人は寧ろ有難いのである。何となれば最後の審判の後に来るもの、それは此世の天国であって、歓喜の生活者となり得るからである。
  それに就て、本教の出現であるが、以上説いた如く、審判を無事に切り抜け得る人間を、一人でも多く作るのが目的で、之が神の大愛であり、私に課せられた大使命でもある。其唯一の方法としての浄霊であるから、浄霊とは独り病気を治すのみではない。来るべき審判を無事に切り抜け得る資格者を作るのであるから、此仕事を知ったなら本教が如何に大きな救世的ノアの筥舟(ハコブネ)であるかを認識されるであろう、本教の名が救世教と言うのも、右の理由に外ならないのである。 

(「最後の審判とは」 昭和26年6月27日)

  

「霊肉一致の完全人間を作る」

「(前略)本教の病療法は素晴しい医学には違いないが、吾等の終局の目的は、天国的理想世界を造るにあるのだから、肉体の健康のみでは本当ではない。肉体の健康と共に精神的健康たり得なくてはならない。
  所謂、霊肉一致の完全人間を作ることである。このような完全人間の増加によって、ここに地上天国は形成されるのである。愈々、天の時来って、艮(トドメ)の宗教として出現したのが本教であることは、右によってみても肯き得るであろう。何よりの証拠は、本教に入信するや、直に誰もが奇蹟的治病能力を発揮し得る事実にみても明かである。」

 

      (「一人対一人では駄目だ」 年代不詳)

 

  

「霊肉共に健康な人間にする」

「(前略)とに角病気をなおすとか、その人を救うという事は、ただその人を健康にするだけではないのです。健康にすると共に立派な人間にするという事が最後の目的ですから、ただ体が丈夫になって働くというだけでは人類は救えません。つまり霊肉共に健康な人間にしなければならないという事が根本です。」 

                             (御教え集22号 昭和28年5月25日)

  

「病気の治る事が発展の主因」

「(前略)本教発展の理由は信徒によって行はれる浄霊という病気を治す方法である。之によれば病気は実によく治る。凡ゆる療法を受けても治らない者や、医師から死の宣告を受けた者等の重難症が、速かに治るばかりか、病気なるものの本体も、健康の真相も、徹底的に把握されるのである。従って文字通りの安心立命を得て、歓喜の生活者となるという訳で入信する事となる。勿論、他の信仰的理由もあるが、病気がよく治るという一事が、本教発展の主因となっている。(後略)」

                (「神霊の実在  科学で立證さる」 昭和25年12月13日)

  

「奇蹟の顕著な事と多い事が宗教の値打」

「(前略)救世教では、私の弟子がキリストがやった様な奇蹟も行うし、他の宗教の教祖がやる様な事は、信者さんでも充分現わせるのですから、そこに違いさがあります。だから奇蹟の顕著な事と多い事が宗教の値打です。ところが既成宗教はそういう事がないので、だんだん理窟の宗教になっていったのです。一般に対してはお説教宗教です。大体お説教というものは宗教ではないのです。それは道徳です。“人間はこういう気持をもて”とか“こういう行いをしなければいけない”と言うが、そういう道理を説いて心を良くするという事であっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。ところが奇蹟を現わす事ができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。だから私の方では、あんまりお説教はやりません。しかしそれも少しは結構です。ところが今までの宗教はお説教専門なのです。又、“こういう様に養生しなければならない”“こういう物を食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない”というのでは本当のやり方ではないのです。そういうのでは仕様がありません。黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。というのは、やはり宗教が持つ力です。その力を現わしたものが奇蹟となるのです。(後略)」   

 (御教え集19号 昭和28年3月15日)

 

「薬は恐ろしいという時代が来ます」

「(前略)如何に浄化が強いかという事と、それに対するやり方――そういう事を考えなければいかんという訳ですから、それ丈の注意をして置きます。段々霊界が変つて来ますから――変つて来るという事は浄化が強くなるという事です。その代り治りもずつと早くなります。浄霊の効目が強くなりつゝあります。(中略)そんな様な工合で薬というものが効かないという様な例が非常に増えて来た、という事は面白いと思います。もつと進むと今度は薬は恐ろしいという時代が来ますから、それからがこつちの領分です。メシヤ教の治し方より他は駄目だという時代がいずれは来ますから、それからは目の廻る程忙がしくなります。それが段々近寄りつゝあります。人の憂を喜ぶのではないが、楽しみもあります。」                      

 (御教え集13号  昭和27年8月7日)

 

  

「本教の救いとは、人間理想の夢の実現」

「(前略)どんな人でも、数日間教修を受けただけで、驚くべき治病能力を発揮出来るのである。博士から見離された病人でも治せるし、自分で自分の病気も治せるので、殆んど信じられない位である。併し事実は厳然たる事実であるから、疑う人は先ず実地に触れてみられたいのである。其ような訳で本教へ入信するや、月日が経つにつれて、自分も家族の者も日を逐うて健康になってゆき、遂には病なき家庭となり、元気溌剌たる者のみになるので、一家は明るく、凡てが順調に運び、真に歓喜の生活者となるのである。勿論何年も何十年も、医者や薬の御厄介になっていたのが、全然縁切りとなって了うから、経済上からも、精神上からいっても、其利益の莫大なる想像も出来ない程である。之こそ全くの天国の救いであって、今日の如き地獄の世の中に喘いでいる人は、到底信じ得られない程で、之こそ人間理想の夢の実現でなくて何であろう。(後略)」 

 

   (「天国的宗教と地獄的宗教」昭和26年10月24日)