第三章 信仰の向上を図るために

 

3、信仰の向上を目指して

 

⑤ 下座行の実践

 

 

「人を邪神だという事は、神様に対する大変な冒涜」

「(前略)私は今迄、あの人は悪い、気を附けなければならないと言われても、矢張りその人を使いもするし、会いもするし、色々やります。やつぱり大局から見ると、何かお役に立つ事をしているんですよ。で、之は大本教のお筆先に「今度は三千世界の大芝居だ」と言う事があるが、これは面白い事ですね。つまり芝居なんですよ。芝居と言うものは善人許りじや芝居にならないんです。悪役がなくちやね。善人が悪人に苦しめられるという事が、一つの、狂言の筋なんですからね。そう言う点から言つても――教団には悪役はないんですが、その人の考えが、良いと思つて――信者の為だと思うんですね。神様の為だと思うんですが、それが智慧が足りない為に間違つた事を良い事と思う事がよくあるんです。叡智ですね。神様の為と思うが、そうじやなくてお邪魔になる事があるんです。叡智と言うものが必要なんですが、叡智と言うものは相当の修行しないと得られないんです。又互に言い合つて居ることに、話を聞いて見ると、どつちも合つている場合がある。それも芝居の役としてやらせられているんですから、だからさつきも言う通り、一番まずいのは決める事です。よく、邪神々々と言いますが、あれが一番悪いですね。之は口にしてはいけないですよ。邪神だつて良い働きするんだからね。神様には必要なんです。自分が邪神にならなければ良い。人の邪神は気にする事はない。大きにお世話です。だから私は今度も書きましたが、人を邪神だと言う事を言う人があるが、それはその人が神様になるので、神様の地位を犯しているんだからね。邪神と言われるが、言う人は大変なものですよ。神様の地位になるんだからね。神様じやない、人間とすれば、大変な冒涜ですね。神様になつちやうんじやなくて、神様の上になるんだから、この人は本当の邪神が憑いていると言う事になる。第一邪神か邪神でないかと言う事は分るものではないですよ。狐が憑いているから邪神だと言うが、狐だつて立派なのがあるんですよ。若し必要がなければ、神様が無くしちやいますよ。必要だからあるんでね。善悪を決めると言う事は中々難かしいものですよ。あいつは邪神が憑いてると思う。その思う事は良いが、あいつは邪神だから気を附けろと人に言います。と、言うことが罪になる。あの女は、俺は惚れた。あいつは良い女だと、それ丈は構わないです。仕方がないですからね。キリスト教では、姦淫の罪になりますがね。けれども手を握れば、そこで罪が発生する。」  

                               (御垂示録8号  昭和27年4月1日)

 

 

「人の良いとか悪いとかいう事は、人間には解らない」

「(前略)一番いけないのは、あの人はあゝやつちやいけない。あの人は間違つている。と言う事がいけないんですよ。人の良いとか悪いとか言う事は、人間には解らないんだからね。神様以外には解らないんだからね。あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言う事は、神様の為さるべき事を犯しているので、大変な事です。だから、人を見ないで自分を見るんです。自分は間違つているかいないかと見るんです。それが本当の誠です。人の悪い事を諌める――注意するのが良い事と思つているが、それが大変な間違いです。一般社会ならそれで良いですが、此の教団の信者になつた以上はいけないんです。若しその人が間違つていれば、神様が捻つちやいますよ。何でもないです。若しそうでないなら、人間が神様の力より上になつちやう事になりますよ。それで、今度書きましたから、新聞に出します。そう言う点に於て、世の中と余程違いますからね。それが信仰の妙諦なんですよ。
  結局、何んでも決めるのがいけない。決めると間違う。決められない事もあるんだからね。だから、大体決めてはいけないと言うことにして、それから決めなければならない事は決める。それは、事と次第によつて色々あるんだから――決めないと決める様にするのもいけない。そこが千変万化、幽玄微妙の境地なんです。だから、それに少しでも近寄つて行けば、その人は本当に身魂が磨けているんです。之は今迄の信仰にはないんです。之は高い信仰なんです。そう言う人の信仰は間違ないんです。それが真理なんだからね。
  そう言う頭で物を考えると、兎に角面白いですよ。世のなかのことをそう言う考えで見ると、非常に良く判る。それが大乗と言うんですよ。大乗道は芯になるんです。処が、小乗人間に大乗を説くと、往々間違があるんでね。大乗はやたらに説けない。だから、覚りで行くんですがね。覚りでいつて、その人が会得すれば大したものです。(中略)」

 

           (御垂示録8号  昭和27年4月1日)
 

 

「小乗的に物事を決めない事」

「(中略)一番肝腎な事は、小乗的に物事を決めない事です。というのは、一番分りやすいのは、人間の考えでは分らないと思えばよいのです。ところが小乗的考えの人は、自分で理窟をつけてそれが本当だと思い込んでしまうのです。だから一生懸命にやりながらかえって間違ってしまうのです。これは大本教のお筆先にうまい事を書いてあります。“人民が良いと思ってした事は、神の眼から見れば間違っている事が沢山あるぞよ”というのがあります。
だから良いと思い善と思っている事が、実は神様のお邪魔になる事があります。それは自分の思う事が本当だと思うからです。そう思うという事は慢心なのです。だからお筆先には慢心取違いを一番注意してあります。それで“人民の眼で分るような、そんなチョロコイ仕組は致してないぞよ。神界の事は、分らんと思いたる人は分ったのであるぞよ”というのがありますが、御神書を読めば何処かしらにチャンとありますから、それさえよく気に止めて判断すれば、別に難かしい事も何もないので、かえって楽なのです。
だから間違っている事をやっている人は、骨折ってます。いろんな苦しい事をし骨折ってやってますが、それは間違っているからです。楽々と行くのが本当なのです。それが今までの宗教とは違います。今までの宗教は地獄的宗教であって、天国的に救う事はできない宗教です。
というのは力がないのです。救世教は天国を造る宗教であるから、そのやり方も天国的やり方でなければならないのです。結局力です。今までの宗教は力がなかったのです。キリストにしろ釈迦にしろ力がないのです。だから理窟はいろいろうまく説くが、実際の力がないから、本当に救えなかったのです。(中略)
それで力というものは霊体一致すると力が出るのです。今までは霊体が一致しなかったのです。霊体一致という事は、火と水がチャンと結ぶと本当の力が出るが、今までは結ばなかったのです。というのはキリストは緯の教えを説いて、釈迦は経の教えを説いて、離れ離れになっていて結ばなかったから力が出なかったのです。ですから力という字は、経の棒を引いて緯を結んで十の字になっているが、結ぶと初めて力が出るのです。そうして左進右退に廻り始めるのです。ですから力という字は、十の字になって左進右退に廻るのですが、文字は神様が作ったのですが、実によく出来ているものです。人間でも「人」という字が霊と体になってます。尤も今の人は逆で「入」の字になってます。そういうわけです。(中略)
  そういうようで、力という字は、「チ」は「霊」で、「カラ」は「体」という事を言いますが、「空ッポ」という事です。そこに「チ」「霊」がはいるので、生きた人間というわけです。そこで霊と体が組んで、初めて力が出るのです。それでスというものは世界です。それで今までの世界というのは空ッポなので、まだ魂がはいっていなかったのです。肝腎な中身がなかったのです。(後略)」                    

                           (御教え集23号  昭和28年6月16日)

  

「信者は身魂を磨き、曇りのないようにしておく事」

「(前略)私から放射されるものは、言わば光の弾丸である。言う迄もなく普通の弾丸と異う処は、彼は人を殺すが、吾は人を生かす。彼は有限であるが、吾は無限である。
  以上大体の説明であるが、之は私の力のホンの一部分であって、全体を説明するには容易ではない。何よりも今後私のやる仕事を活眼を開いて見て貰う事である。智性の働く人なら或程度分らない筈はない。信仰的にいえば身魂相応にとれるのだから、此意味からいっても、信者は精々身魂を磨き、曇りのないようにしておく事で、そうすれば正覚を得て私の力徳が分る筈である。」 

 

                       (「私の光」 昭和27年5月25日)

  

「左向けと言われれば左を向ける人こそ信仰の極致」

「(前略)よく“この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける”という事は人間の考えです。ところがそういう事で開けるという事はまずありません。かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。
そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、大抵人間の考えとは逆に行くものです。ですからつまりぶつかって来たという事は、神様は“助けよ”という思召しだと考えるのです。こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというような事がありますが、それが将来案外な働きをするものです。“この人はこの地方の有力者だから、是非なおそう”とするが案外駄目です。そういう事が多いです。これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。
  むしろそういう人の方が多いです。だからぶつかって来た人は、なおせという思召しで、フラフラになるのは放ったらかしておけという思召しです。だから病気がスラスラとなおる、又言うとおりの事をする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。
それから側の人が医者にかかれかかれと言うのは、医者にかかった方がよいのです。そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。今の場合に、皆が医者にかかれかかれと言うのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。“あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ”と頑張るのはとんでもない事です。
そしてこういう分らず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。そこが大乗と小乗との違いです。
だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。それを“あいつはああいう事を言う”と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。

                         (後略)」(御垂示録21号  昭和28年6月1日)

  

「先方が嘘をついても、咎める間は駄目」

「(前略)私は女中などが“こうした方がよい”とかいろんな事を言うが、私はそのとおりに言う事をきくのです。決して人によって区別したりしません。神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりする事がよくあるのです。それから又邪神が偉い人にかかって迷わせるという事もありますからそこに言うに言われないところがあります。
  よく神憑りになって、狐なら狐が憑って来ますが、そうすると狐に瞞まされてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。狐に瞞まされた方がよいのです。いろんな事を言いますから、“そうかなるほど”と言っているのです。それでこれはどういうわけですかと聞くと、先はペラペラと返事をします。そうしてやっているうちに今度は狐自身がボロを出して来ます。それで狐は謝まるのです。私はそういう事が随分ありました。
瞞まされるものかと思っている時は、かえって瞞まされたり怒ったりするのです。狐が全然嘘の事を言っていてもそうですか”と感心して聞いているのです。そうすると狐の方で間違ってしまうのです。これは実に味わうべき事です。そうしていたら何でもありません。凡てに結果がよくて円満に行きます。そこが大乗でなければならないのです。
ですから先が嘘をついても、それを咎める間は駄目です。なるほど、そうですか、と感心しているのです。しかし肚の中では分っていなければなりません。そこまで人間は横着と言うか、そうならなければならないのです。
道具屋が来て私を甘く見て、“これはこういう物だ、これは贋せ物だ”と言うから、“そう言えば全くですね”と言うが、肚の中では何を言ってやがるのだと思ってます。これは馬鹿野郎だな、オレがそんな事を知らないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。そうしているうちに、“うまい事を言う、なるほどそうだな”と教えられる事があります。支那の何とか言う人は“人によって話を区別するな”という事を言ってます。つまらない人足か、それこそ百姓などが言う事で非常に教えられる事があるのです。
ですから人によって区別をしないようにする事です。何でも自分の耳にはいった事は一応気に止める必要はあるのです。(後略)」                      

 (御垂示録21号  昭和28年6月1日)

   

「信仰者は下座の行が大切」

「下座の行という詞(コトバ)は昔からあるが、之は人間処世上案外重要事である。しかも信仰者に於て殊に然りである。信仰団体などに、教義を宣伝する先生に、どうも下座の行が足りないように見える事が屡々ある。昔からの諺に「能ある鷹は爪隠す」とか、「稔る程頭を下げる稲穂かな」などという句があるが、何れも下座の行をいうたものである。
  威張りたがる、偉く見せたがる、物識ぶりたがる、自慢したがるというように、たがる事は反って逆効果を来すものである。少し許り人から何とかいわれるようになると振りたがるのは人間の弱点であって、今迄世間一般の業務に従事し、一般人と同様な生活をしてゐた者や、社会の下積みになってゐた者が、急に先生といわれるようになると「俺はそんなに偉く見えるのか」というように、最初は嬉しく有難く思ってゐたのが、段々日を経るに従い、より偉く見られたいという欲望が、大抵の人は起るものである。それ迄は良かったが、それからがどうも面白くない。人に不快を与えるようになるが、御本人はなかなか気が付かないものである。
  神様は慢心を非常に嫌うようである。謙譲の徳といゝ、下座の行という事は実に貴いもので、文化生活に於て殊にそうである。多人数集合の場所や、汽車電車等に乗る場合、人を押し除けたり、良い座席に傲然と座したがる行動は、一種の独占心理であって面白くない。(後略)」

 

                   (「下座の行」 昭和24年1月25日)
   

 

「人ではなく、絶えず自分を裁いていればいい」

「(前略)よくアノ人は善いとか悪いとかの批判をしたり、酷いのになると、アノ人には邪神が憑いているから、気をつけろなどと言う人があるが、之こそ大変な間違いであって、人を邪神という人こそ、実は御自分に邪神が憑いているのである。何故なれば人間が人間に対して、善悪正邪など分るものではない。というのは之こそ神様の領分に属するからである。だからそういう人は人間の分際で神様の地位を侵しているようなものだから、飛んでもない慢心脱線である。
  従って斯ういう人こそ、邪神と見て間違いはないので、大いに注意すべきである。勿論そういう人は本当に神様を信じていないからで、よく彼の人の信仰は間違っているとか、アノ教会の行り方は悪いから改革せねばならぬなどと、真面目臭って言うが、若し信者の中で本当に悪い人があるとすれば、神様はチャンと裁いて下さるから神様にお委せしていればいいので、少しも人間の心配など要らないのである。それが信じられないとしたら、其人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、之程の慢心取違いはあるまい。というように我メシヤ教は最高の神様が、一切統轄なされているので、間違った人に対しては、神様は最初其人を覚らせるべく御気づけをされるが、それで覚らない時は命迄召上げられる事がよくある。今迄にもそういう例のあった事は、古い信者はよく知っているであろう。
  従って人を裁く勿れという格言をよく守ると共に、寧ろ絶えず自分自身を裁いていればいいので、そういう人こそ本当に神様が分っている人である。」          

 (「人を裁く勿れ」 昭和27年5月21日)

   

常に謙虚に---人の事は言わない事」

「私はいつも信者にいっている事だが、アノ人は善だとか悪だとか、御邪魔になるとかならないとかいっている人もあるようだが、そういう人がまだ少しでもあるのは充分教えが徹底していない訳である。そうして度々言う通り、人の善悪を云々するのは、徹頭徹尾神様の地位を冒す訳で、大いに間違っているから充分慎んで貰いたいのである。それは勿論人間の分際として人の善悪など些かも分る筈もないからで分るように思うのは全く不知不識の内に慢心峠に上っているからである。
従って斯ういう人こそ、実は信仰の門口にも入っていない証拠である。又御経綸にしても人間の頭で分るような、そんな浅いものではないので、この点も大いに心得ねばならないのである。何しろ三千世界を救うというような、昔からまだないドエライ仕組なんだから、余程大きな肚にならなければ、見当など附く筈はない。つまり小乗信仰の眼では、節穴から天井を覗くようなものである。(中略) 要するに人の善悪よりも自分の善悪を裁く事で、他人の事などは無関心でいる方が本当である。(後略)」          

                           (「裁く勿れ」 昭和28年5月13日)

 

「謙虚と卑下とー緒にしてはいけない」

「『それから“私の様なものが”ということは、これは大いなる間違いである』とお叱り給わる。『謙虚と卑下とー緒にしてはいけない。謙虚であるべき所は謙虚たるべきだが、卑下はいけない。“自分のような者″という事は絶対に思ったリ言ったりしてはいけない。どんな人でも神の御子である。神様がおつくりになったものである。‘’自分のような者”と卑下するのはまるで神様に意見するような形となる。すべて神様がなされていることであるから自分勝手に自分を考えてはいけない。またお前を使っているのはわたしだ。わたしが使う者に“私のような者”と言えば神様は変な者を使っているという事になるのではないか』と御教え賜わる。」
                            

 (お言葉 昭和29年7月3日)
 

 

〔参考〕 「気持ちが落ち込むのは薬毒の為」

「私が頭頸部の御浄霊を賜わるようになってから頭も大変よくして頂いた事を自覚していたが、時として物を考えようとすると思考が分裂してまとまらず、無意味な妄想や、自分の意志と全く相反した不快極まる想念が沸いて混乱に陥ったり、ついには頭脳活動が停止したかと思う程無能力的になる。こういう事が度々あると、次第に自己の頭脳に自信がなくなり、なすべき事も段々出来なくなる。そういう時「これは自分の想念や行いの間違いによって曇りをつくり、その為に脳力に変調を来たしているにちがいない」と思うようになった。そしてその事を明主様に御伺いすると、『何を言っているのだ、決してそんな事はない、みんな消毒薬の為だよ、まだまだウンと消毒薬が延髄部に固っている。よほど消毒薬を入れたものとみえる。お前の頭には普通人の何倍もの薬毒があり、それが頭の中で渦巻いているのだ』と御垂示賜わり、私は直ちには信じられぬ程ビックリしたのである。自分が今迄になくよくして戴いた事から頭の方の薬毒は充分減らして頂いたし、消毒薬は手術部に固結しているだけで、ただ信仰の至らぬ為の症状とのみ思っていた私には、消毒薬がこんなにも執拗な恐ろしいものであり、延髄の固結までもそれである、とは、全く気づかなかったのである。
 私はこれ程に御明示戴いた事もいつしか忘れ、この時の浄化の時も再び深刻な地獄的想念に悩んだ。自分はなすべき御用も何一つ出来ぬ身をもって、かほどまでに大神様の御手数をかけ奉るのは何たる恐れ多く勿体ない事であろう。常に限りない大御恵みを頂きながら当然の御用さえ出来ぬとすれば信仰している意義はなく、生きていて何の甲斐があろう。このように何にも出来ぬのはよほど深い罪があるからに違いない。肉体の支柱たる脊髄まで傷つけられ、その薬毒の為こうまで苦しまねばならぬのは、よほど前世において、大神様に背き奉った最大の罪を身魂に背負っており、その罪に相応する医療の被害を受ける運命になったのではあるまいか、と思い、明主様にお伺いした。すると、
 『お前は一体、前世で神様に背いた覚えがあるのか』とお聞きになった。「それは何とも判りません」とお答えすると、
 『そんな不確実な事を考えるのは変ではないか、物事はもっと現実的に考えるべきである。手術を受けさした親も病気を治してやりたい一心でやったのだし、医師とても同様善意でやった事であって、誤った医学以外には誰にも罪はない訳ではないか。それが事実であり、最も正確な見方である。信仰者はすべて罪悪的非現実的に考えるし、無信仰者は唯物的にのみ考えるがどちらも本当ではない。私は何れにも偏らぬ最も正しい考え方を教えるのである』と御諭し賜わった。
 人類の罪を赦し給う救世主神の御眼には、人間の罪悪はあたかもお認めにならぬかのごとく、ただ罪悪を生み不幸を作る薬毒を滅せんとの大悲の大御心しかお待ちにならぬがに私には感ぜられた。そして又私は、常に陥りやすい既成宗教的、病的な考え方の急所をつかれ、悪夢からさめたような喜びを覚えたのである。結局私は頭脳をよくしていただいた為に、次々起った薬毒の浄化の為に、深い罪悪感に陥ち、自ら地獄を作っていたのであった。(後略)」

 

            (「薬毒の恐怖」瓢箪「地上天国63号」掲載)