第三章 信仰の向上を図るために
3、信仰の向上を目指して
④ 利他行の実践
「多くの人を助け、人類を救う」
「(前略)それで一番神様の思し召しにかなうということは、多くの人を助け、人類を救うということです
。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるということが一番です。だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になることです。神様が、その人を見放しては神様の方に損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞をたくさん奏げるということは、決して悪いことではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かって多くの人を助けるという動機になるわけです。ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。(後略)」
(「御教え集23号」昭和28年6月27日)
「利他愛観念の心を作る」
「(前略)幸運者となるにはどうすればいいかと言うと、分り切った話であるが、善の種を蒔けばいいので、昔からいう善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、悪の種とは人を苦しめ、損害を与え自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。としたら甚だ簡単のようだが、それが仲々難しいので、人世は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである。
それには勿論信仰より外ないが、茲で注意すべきは単に信仰といっても色々あるから、充分選択しなくてはならないのは言う迄もない。処で自画自讃ではないが、我メシヤ教こそ其条件に最も合致している信仰であるから、不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信される事を御勧めする次第である。」
(「運命は自由に作れる」昭和27年2月27日)
「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」
「(前略)私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、殆んど道楽のようになっている。私は常に如何にしたらみんなが幸福になるかということを念っている。之に就て斯ういう事がある。私は朝起きると先づ家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。此点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかに就て、何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵詈怒号(バリドゴウ)のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事が何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で執着を嫌う。之が私の本性である。
以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって、私は、「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない。」と常に言うのである。
私の最大目標である地上天国とは、此私の心が共通し拡大される事と思っている。此文は些か自画自讃的で心苦しいが、聊かでも裨益する処あれば幸甚である。」
(「私というもの」 昭和25年1月30日)
「一人でも多く信仰に導き救ってあげるのが一番」
「(前略)ただ神様の見方、神様の解釈、要するに神霊観を、今までの考え方と違えなければなりません。それで一番神様の思召しに適うという事は、多くの人を助け、人類を救うという事です。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるという事が一番です。だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になる事です。神様が、その人を見放しては神様の方に損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞を沢山奏げるという事は、決して悪い事ではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かつて多くの人を助けるという動機になるわけです。ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。(後略)」
(御教え集23号 昭和28年6月27日)
「徳積とは人を幸せにする事」
問:「徳を積めば良いという事で、どうする事が一番徳を積む事になるかという事をよく聞かれますが、その一番の事は明主様の御仕事の御手助けになる事をさせて戴くという事が一番良いという事でございますから」
答:「それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合わせにする事です。要するに徳を積む事です。それが明主様の御仕事の手伝いをするという事になるのです。」
(御垂示録16号 昭和27年12月1日)
「神様にお気に入られると言う事は、人を助ける事」
「(前略)私が――昔ですが、「私のことをこう言う悪口言つている」とか「こう言う事言つている」と言うと私は大笑いをするんですよ。可笑しくてしようがないんでね。自分で不思議になる。私は悪口を言われると可笑しくなる。自分で、悔しがりそうなものですが、悔しがらない。相手が可哀相になりますがね。可笑しくてしようがない。それから、私が笑つて居ると、相手は張り合いがなくなるんです。人に依つては人を威かしたりして、一つの興味を覚えるのがある。併し私に言つても、私は笑つちやうからね。相手にならないのです。人から悪く言われると言う事を、一寸でも気にする様じや未だ信仰が浅い。何故ならば、我々は人を相手にしているんではない、神様を相手にしているんです。神様にお気に入られれば良い。人間と言うのは本当の事が解りつこないんだからね。一生懸命にして、人が見て呉れないと言うのは、人間社会での通例のこととし、そんな事は気にしないで、神様にお気に入られる事です。神様にお気に入られると言う事は、何う言う事かと言うと、人を助ける――一人でも病人を助ける。健康にする。一人でもそうだから、十人百人となると、お気に入られるから、それを行つていれば良い。ややこしく考えればややこしいが、簡単に考えれば簡単なんですよ。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「正しい信仰で徳を施し、人を救うこと」
「(前略)いつもいう如く万有の法則は霊主体従で、人間と雖もそうである以上、霊界に於ける霊の地位如何によって幸不幸が決まるのである。これが真理であるから、この事を知ってよく守りさえすれば、幸福者になるのも敢て難しい事ではない。という訳で現在如何に幸福と自分も思い、人に思われても霊界に於て天国に籍がなければ、その幸福は一時的で早晩在籍通りの地位に転落すると同様、現在如何に不幸であっても、其人が正しい信仰によって徳を施し、人を救うというように善事を行えば相応の地位に向上し、幸福者となるのである。
そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界に於ける千古不滅の鉄則であるから信ずる外はない。」
(「薬が不幸を作る」 昭和28年1月25日)
「理解出来ない人程救う必要がある」
「(問:火素の増量により治り方が大変顕著になりましたが、又一面毒素を多く保有してゐる人が溶解を始めた場合死亡する事も多いと存じますが如何でせうか。この場合相手が御道を理解してる時は宜しいですが、理解してゐない時は手をつけない方が宜しいかと存じますが如何でせうか。)
これはいけませんね、こういふ考へ方は。第一、理解してる人は救ふ必要がありませんよ。理解出来ない人程救ふ必要があるんですよ。それが救なんです。そうでしょ。だから、理解してない人程して上げなけりゃいけませんよ。
それからね、やった結果がどうなるかって事を心配するのは極く悪いんですよ。人間の方で結果をどうこうって決めるのは神様以上ですよ。こういふ事はよくあるんですがね。結果が悪いと御道の為にならないって考へて心配する人がありますが、之は大間違ひですよ。たゞ、気の毒だ救って上げたい――といふ気持、それが慈悲であり、惻隠(ソクイン)の情なんです。已むに已まれず救ふっていふのが本当で、又その方が御利益もあるんです。人間の方でなんだかんだって考へると御利益もないんですよ。(後略)」
(御光話録19号 昭和25年4月13日)
「一人でも多く導き救うといふ事は、大変大きな事」
「(前略)大体そんな訳で、すべて罪により病気が起る。その罪なるものは、早く解消する事が肝腎で、それは観音様のお額をお祀りする事が肝腎で、それ以上はどうするかといふと、徳を積む、いい事をする。よく積善の家に余慶ありといふが、之は絶対真理です。
一つでもいい事すれば箔がつく、徳がつくとよくいふが、それは何かといふと、例へば自分が病気を治された、それでいいのではない、何時祖先の罪が係はってくるか判らぬ。他の人にも話すといふ誠がなくてはならぬ。
一人でもよくなるやうに、商売の間を一人でも多く導き救ふといふ事は、大変結構な事である。一人を救ったばかりでなく、その人により何人救はれるか判らぬ、大変大きな事になる。
一人が救へば又他を救ふ。こうして徳を積む、之が大変結構で、之によりどうしても、観音様は御褒美として良い事がくる。特に今度の観音様はそういふ点の栄へは大きい、今迄にも沢山あるが。
観音様はとても大きく下さる。何となれば観音様は主神で、全世界を自由にし得る神で、金持でいへば日本一の金持だし、否世界一の金持、同じ金持でも中位のと小位のと違ふ。
同し番頭でも、同し働いても大変違ふ。要するに観音様は、世界一の所有者で、何でも持っておられる。観音様に戴くといふ事は、どんな大きな事になるか判らないのであります。
その人は徳がつくから、善い事も沢山出てくる、思はぬ良い事が出てくる。家は栄へる、よくなる等、徳を積んだ報ひは、仏教の方などで説いてあるから……。言ふまでもなく、特に観音様は全世界を救はれる事を始められた。
で、治るのは、罪の重荷を観音様がとって下さる。一般では、その罪をお医者や薬がとってくれると思ふから違ふ。顕微鏡みたやうなものなど、そんなもので罪はとれぬ。それは罪をとる為に出来たものではない。肉体に現はれたものを消滅しようとする。
観音会では、人間に観音光を与へる。すると子孫が祖先から受けた罪は解消し、この人の魂が光り、光が放射して祖先の罪は許されて天国へ行く。天国ではみな観音様のお側へ行く。ですから祀るより早く行く、根本的であります。
今迄の宗教には、こういふ実例がある。神道や大本教などで、祖先を祀ると子孫は救はれたと思ふ。それで、今迄信仰した宗教で祀ったものを撤廃する、所がそうではないので、祖先もその宗教に必ずしも入らぬ。現在一家の家でも、今迄の宗教をすてて、すぐに新しい宗教へ入る事は出来ない。生きてる人でさへすぐに入れぬ。(後略)」
(「御講話」年代不詳)
「人の喜びを見て自分が喜ぶということが一番」
「(前略)誰しも感じのいい人に接すると、その人も感じが良くなり、次から次へと拡がってゆくとしたら、心地よい社会が出来るのは勿論である。故に忌わしい問題、特に争いは減ると共に犯罪も減るから、精神的天国が生まれる訳である。然もこの事たるや、金は一文も要らず、手数もかからず、その場からでも出来るのであるから、こんな結構な話はあるまい。というと至極簡単に思えるが、事実はそんな旨い訳にはゆかないのは誰も知るであろう。
というのはこれは外形的御体裁では駄目だからで、どうしても心からの誠が沁み出るので、その人の心の持ち方次第である。つまり利他愛の精神が根本である。これに就いて私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から自分で言うのも可笑しいが、どこへ行っても人から憎まれたり、恨まれたりする事は余りない。親しまれ慕われる事の方が多いのである。そこでその理由を考えてみるとこれだと思う一事がある。それは何かというと、私は何事でも自分の利益や自分の満足は後廻しにして、人が満足し喜ぶ事にのみ心を置いている。といっても、別段道徳とか信仰上からではなく、自然にそうなる、つまり私の性格であろう。換言すれば一種の道楽でもある。そんな訳で得な性分だとよく人から言われたものだが、全くそうかも知れない。然も宗教家になってから一層増したのは勿論である。そこで人が病気で苦しんでいるのを見ると、居ても立ってもおれない気がして、どうしても治してやりたいと思い、浄霊をしてやると、治って喜ぶそれをみると、それが私に写って嬉しくなる。それが為以前は随分問題を起し苦しんだものである。というのはもう駄目だと思ったら早く手を引けばよかったものを、本人や家族の者に縋られるので、つい利害を忘れて夢中になり、遠い所を何回も行って、暇をつぶし、金を使い、その揚句不結果になって失望させ、恨まれたり、愚痴られたりした事もよくあったもので、その度毎に俺はもっと薄情にならなければいけないと、自分で自分を責めたものである。
この私の性格が地上天国や美術館を造る援けともなったのであるから、こういう性格を神が与えたものであろう。例えば、結構な美術品や絶佳な風景を見ると、自分一人楽しむのは張合もないし、気も咎めるので、一人でも多くの人に見せ、楽しませたいと思う心が湧いて来る。という工合で、私は自分だけでなく、人に楽しませ喜ぶのを、自分も楽しみ喜ぶという事が一番満足なのである。」
(「感じの良い人」 昭和29年4月21日)
「信仰者の愛は大乗であって、利他愛である」
「(前略)最も言ひたい事は、愛の大小である。即ち曩に述べた家庭愛や周囲愛は小乗的愛で、利己愛の部に属するが、一般人は此種の人が一番多く、所謂普通の善人型で、無信仰者にもあり、別に非難の点はないが、本当の信仰者となると、全然違ふのである。信仰者の愛こそは大乗であって、所謂利他愛である。此大乗愛が最大に拡充されたものが、即ち人類愛であり、世界愛である。(後略)」
(「正愛と邪愛」昭和25年10月18日)
「信仰の根本は利他愛」
「(前略)その信仰というものは人間の欲望の制限ができるのです。自己愛という自分だけ良ければ人はどうでもいいという思想、考え方というものが、むしろ反対になるのです。まず自分の利益を考えないで人の利益を考えるという利他愛の思想が信仰の根本ですから、(後略)」
(御教え集17号 昭和27年12月7日)
「真を行うには人良かれの精神で」
「 (真を行ふには如何致したらよいでせう。)
自分の事を第二にし他人を良くするのが誠である。即ち人良かれの精神、利他的精神である。世の中とか社会の為になる事を行ふ事である。真とは嘘の反対で本当の事である。然し乍らただ正直のみでも困る。智慧が働かなくてはいけない。常識的判断がよい。自分の国家とか階級だけ良くするのは善い様に見えて真ではない。それは小さい真であるから突つめれば真でなくなつてしまふ。どうしても人類愛を本として判断しなくてはならない。」
(地天4号 昭和24年5月25日)
「善は利他的観念、他人をよくする。人良かれといふ事。之は大乗も小乗もない。他人良かれの人が集まればよい。自分を善く見、他人を悪く見る観念から争ひが起る。
神は愛なり、力なりで、愛をもってみれば人を咎める事はない。人を善とか悪とか決めるのは僣越である。人間が人間を見て分るものではない。常識でみれば大体判るが、本当の事は判らぬ。之は神の領分である。要は人間が人間を裁く事は出来ぬ。(後略)」
(年代不詳)
「神の愛とは世界人類全部を幸福にさす無限の愛」
「(前略)神の愛は世界人類全部を幸福にさす無限の愛である。神にもいろいろあり、日本の神は小さい神、第三、五流位の神は限られた愛である。大先生の仕事は人類愛で、無限に大きい。之が本当のものである。
利己愛を次にする。自分は天国に救はれたいといふのが利己愛で、人を天国へ救はなければならぬ、之が神の愛である。すると自己が救はれる。利他愛でなくてはならぬ。」
(昭和23年12月18日)
「成功者の没落」
「(前略)人間は善徳を行ひ、多くの人から感謝を受くべきであり、決して人を苦しめ、憎悪の念を抱かしむべき事は避けなければならないのである。(中略)
世間よく急激に出世をした成功者は成金輩が、何時しか失敗したり没落したりするのは如何なる訳かといふと、自己の手腕や力量によってそうなったものと思ひ、増長慢心し、利己的独善的な行為が多くなり、国家社会の恩恵を忘れ、感謝報恩の念が乏しくなるので光よりも曇が多くなり、いつしか霊衣が薄らぎ没落するのである。又何代も続いた名家や富豪などが没落するのは、元来、社会的上位にある者は、それだけ国家社会から尊敬され優遇されてゐる以上、それに酬ゆべき善徳を施さなければならないのである。然るに、己の利害のみ考へ、利他的行為が乏しいので、曇の方が増量するから、終には形体は立派であっても、霊体は下賎者同様になってゐるから、霊主体従の法則により、遂に没落するといふ訳である。」
(「霊波と霊衣」昭和18年10月23日)