第三章 信仰の向上を図るために
3、信仰の向上を目指して
③ 常に魂の転換、人格の向上を図る
「水晶の心となるように修行する」
「(前略)御教えのすべては、ご讃歌にあり、これを何遍も心をひそめて拝読すれば何が大切で、何をしなければならないか分かってくる』と御教え頂く。また、『お前の我の働きが信念になっており、とても性格が固いところがある。また、物事を決めてかかり、己の考え方で、他を振リ回すことが時に見られる。如何に気・心配るも神意に添わねば無駄である。一切を無にして、心よリ神を敬愛して生きよ。授かる幸せ、明るき幸せ、神の慈悲に感謝して生きよ』とおさとしの言葉賜る。更に、『水晶殿は、水晶世界の型である。水晶世界になれば、水晶の心にならねばならぬ。一寸の邪念があってもいけない。一切を無にしなくてはいけない。我があっては神意に添わない。その水晶の心となるように修行すれば、神様より素晴らしい力が頂ける』とご垂示あらせられる。」
(お言葉 昭和29年7月6日)
「特に誠が大切」
「(前略)凡ゆる問題を解決する鍵は『誠』の一字である。 (中略)凡ゆる忌わしき問題は誠の不足が原因である。宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければそれは形骸でしかない。
嗚呼、誠なるかな誠なる哉、人類よ、問題解決の鍵は、ただ誠あるのみである。」
(「誠」 昭和24年1月25日)
「完全に一歩々々近づかんとする修養が正しい信仰的態度」
「真の信仰とは言語行動が常識に外れない事を主眼としなければならない。世間よくある神憑式や、奇怪な言説、奇矯なる行動等を標榜する信仰は先づ警戒を要すべきである。処が多くの人はそういう信仰を反って有難く思う傾向があるが、之等は霊的知識の無い為で無理もないが、心すべきである。又自己の団体以外の人々と親しめないというような独善的信仰も不可である。真の信仰とは世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団のみにこだわらず、排他的行動をとらないようにするのが本当である。
(中略)
私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事であるとも思う。勿論世の中に完全という事は望み得べくもないが、少くとも完全に一歩々々近づかんとする修養--之が正しい信仰的態度である。故に信仰に徹すれば徹する程平々凡々たる普通人の如くに見えなくてはならない。そうなるのは信仰を咀嚼し、消化して了ったからである。その人の言動が如何にも常識的であり、万人に好感を与え、何を信仰してゐるか判らない位にならなければ本当ではない。人に接するや軟かき春風に吹かれる如くで、謙譲に富み親切であり、他人の幸福と社会福祉の増進を冀(ネガ)うようでなくてはならない。
私は常に言う事であるが、先づ自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福である。然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。」
(「常識」 昭和24年1月25日)
「理想的信仰を目指し、信仰の醍醐味を体験する」
「(前略)本来信仰の理想とする処は常に安心の境地に在り、生活を楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉(ミナ)神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。之が法悦の境地であって何事も人事を尽して後は神仏に御任せするといふ心境にならなければならないのである。
私は常に、どうしても判断がつかぬ難問題に逢着した時、観音様に御任せするといふ事にして、後は時を待つのである。処が想ったよりも良い結果を得らるる事は幾多の体験によって明かである。殆んど心配したやうな結果になった事は一度も無いといっても可い。又種々の希望を描くが、その希望よりも必ず以上の結果になるから面白い。斯ういう事もある。何か悪い事があるとそれを一時は心配するが、きっと良い事の前提に違いないと思い、神様に御委せしてゐると、必ず良い事の為の悪い事であった事が判り、心配したのが馬鹿らしくなる事さえ往々あるので、実に感謝に堪えない事がある。要するに私は奇蹟の生活者と思ってゐる。私が言う信仰の醍醐味とは即ち此様な次第である。」
(「信仰の醍醐味」 昭和24年1月25日)
「信仰の主要目的は我と執着心を除る事」
「(前略)信仰の主要目的は我と執着心を除る事である。私は此事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けてをり、其結果として第一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果が良い。或教に「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。
そうして霊界に於る修業の最大目標は執着を除る事で、執着の除れるに従い地位が向上する事になってゐる。(中略)そうして曩に述べた如く、執着の権化は蛇霊となるのであるから怖るべきである。人霊は蛇霊となる際は、足部から漸次上方へ向って、相当の年月を経て蛇霊化するもので、私は以前首が人間で身体が蛇といふ患者を取扱った事があるが、之は半蛇霊となったのものである。
従而信仰を勧める上に於ても、執念深く説得する事は熱心のようではあるが、結果はよくない。之は信仰の押売となり、神仏を冒涜する事となるからである。凡て信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差控え、機の到るを待つべきである。」
(「我と執着」 昭和24年1月25日)
「信仰は円転滑脱自由無碍でなくてはいけない」
「人間生活に於て何事もそうであるが、特に観音信仰に於ては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。円転とは丸い玉が転がるといふ意味であるから、角があっては玉が転がらない。世間よくあの人は苦労人だから角が除れてるといふが全くその通りである。処が世の中には角処ではない、金平糖のような人間がゐる。斯ういふのは転がる処か、角が突っかかってどうにもならない。そうかと思ふと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。それも自分だけなら未だいいが、他人までもその型の中へ押込んで苦しませるのをいいと思ふ人があるが、之等は小乗的信仰によくある型で、所謂封建的でもある。斯ういふ行り方は信仰の上ばかりではない、社会生活に於てもカビ臭くて、鼻もちがならない。
そうして自由無碍といふ事は型や枠を造らない、戒律もない、天空海かつの自由で、無碍もそういふ意味である。ただ自由といっても我儘主義ではない、人の自由も尊重する事は勿論である。(後略)」
(「観音信仰」 昭和24年4月20日)
「信者は心から尊敬される人になること」
「(前略)私は普請をする時にはいつも職方と意見が異ふ。どういふ訳かといふと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべてが謙遜となり、奥床しく見えるから、そういふ人は心から尊敬されるようになる。故に観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。」
(「観音信仰」 昭和24年4月20日)
「真の信仰者とは---神様に信用される事が最も尊い」
「宗教信仰者は世間無数にあるが、真の信仰者は洵に寥々たるものである、然らば私は真の信仰者とは如何なるものであるかを書いてみよう。
如何程立派な信仰者のつもりで自分は思っていても主観だけでは何等の意味もない、どうしても客観的にみてのそれでなくては本物ではないのである、そのような信仰者たるにはどうすればいいかという事を先づ第一に知らねばならない、そうなるには理屈は簡単である、それは人から信用される事である、例えば彼の人の言う事なら間違いない、あの人と交際をしていれば悪い事は決してない、あの人は立派な人である――というように信用される事である。
それでは右のような信用を受けるにはどうすればいいかといふと之も訳はない、何よりも嘘を言はない事と自分の利益を後にして人の利益を先にする事である、いはばあの人のお蔭で助かった、あの人につき合ってゐれば損はない、実に親切な人だ、あの人と遇ふといつも気持がよい-といふようであれば、何人と雖も愛好し尊敬する事は請合ひである、何となれば自分自身を考えてみれば直ぐ判る、右のような人と識り合ふとすればその人と親しく交際したくなり、安心して何でも相談し、いつしか肝胆相照し合ふ仲になるのは当然である、今一つ言ひたい事は、どんなによくしても一時的ではいけない、恰度米の飯と同じようで一寸は味がないようだが長く噛みしめれば噛みしめる程味が出てくる、人間は米の飯とは一日も離れる事は出来ないと同じやうに私は常にいふのであるが、人間は米の飯人間にならなければいけない(中略)
以上は、人間に対しての話であるが今一歩進んで神様に信用されるという事、之が最も尊いのである、神様から信用されれば何事もうまくゆき歓喜に浸る生活となり得るからである。」
(「信仰は信用なり」 昭和24年6月18日)
「真の信仰とは、自湧的で、拘束のない事」
「(前略)元来信仰というものは、人間の魂の底から自ら湧き出で、止むに止まれず信仰する態度こそ本当のものである。然るに転向そのものを罪悪の如く教えられ、それに従はねばならぬ事は、全く一種の脅迫によって信仰を持続させようとするのであるから、自由意識を圧迫し、自己欺瞞である。此様な信仰こそ神の御旨に適う筈はないのである。真の信仰とは、飽迄自湧的で、何等拘束のない事を忘れてはならないので本教が大乗を主とする所以もここにあるのである。」
(「転向者の悩みに応ふ」 昭和24年12月20日)
「約束の厳守、時間の励行を疎かにしない」
「(前略)誠のある人は何よりも約束を重んじよく守る事である、単に約束を守る守らないだけでは世人は大した事とは思はないが、実を言うとなかなかそうではない、即ち約束を守らないという事は人を偽った事になるから一種の罪悪を犯した事になる、約束の中でも一番軽視し勝ちなのは時間である、時間の約束をしておき乍ら守らない事をよく考えてみるがいい、即ち先方は当にして待ってゐるのでその退屈や焦心はなかなか苦痛である、諺に曰ふ「待たるる身になるとも待つ身になるな」といふ事でも判る如く、待ってゐる人の心持を察すべきで、其心が湧かないのは誠がないからである、とすれば外の事は如何に良くても何にもならない事になる、従而神の信者たる者は約束の厳守、時間の励行を疎かにしてならない、もしその実行が出来ないとすれば、先づ信仰の落第生である、信者たるものよろしく肝に銘じて忘れてはならないのである。」
(「誠の有る無し」 昭和25年1月28日)
「昼のリズムは凡てが引きのリズム」
「(前略)夜の世界に於ては何事に於ても突く事を好む。大にして国と国とが互いに突き合う。戦争がこれである。衝突という事も突き合いである。古代に於る戦争は剣で突き合った事は明かである。それが転化して交際することもつき合いという。文字が違うだけで言霊は同一である。突進むという言葉は勝利を意味する。全く月の働きであり、夜の世界を表わしている。
右に引換え、ヒキ、ヒクは、退く事である。引寄せる、陣を退く、敗北する、腰を低くする――というように凡て月と反対であり、此理によって昼の世界は凡てがヒキの働きであるから、負ける事を善しとする。人間では謙譲である。之では争いの起りよう筈がない。吾々の方では風邪を引く事は良いとしている。本教団の目的が病貧争絶無の世界を造るという。その争がなくなるのは以上の意味から考えらるるのである。
本教団は日即ち火素の活動が主である以上、月でなく引きを心に銘じて活動すべきで、それによって多くの人が引寄せらるるのである。
又日は玉であるから、円満清朗。円転滑脱でなくてはならないのは勿論である。」
(「日と月」 昭和25年1月30日)
「我を出さない事、素直にする事、嘘をつかない事」
「人間生活上、我程恐ろしいものはあるまい、霊界の修業は我をとる事が第一義とされてゐるにみても知らるるのである、私は以前大本教信者の時お筆先の中に斯ういう一節があった、「神でさえ、我でしくじりたのであるから、我程怖いものはないぞよ」とあり又「我がなくてはならず我があってはならず、我があって我を出さないのがよいのであるぞよ」とあり、此意味たるや実に簡単にして我の実体を道破してゐるには感銘に堪えなかったのである、それによって私も大いに反省した事は勿論である。
又お筆先に、人間は「素直が一等であるぞよ」との言葉も、実に至言と思った、というのは、今日まで私の言う事を素直に聞いた人は洵に順調に行き失敗はないが、我の強い為なかなかそうはゆかない人もある、その為よく失敗するのをみるのは、実に辛いものである。
右の如く我を出さない事と、素直にする事と、嘘をつかない事が先づ信仰の妙諦である。」
(「我を去れ」 昭和25年2月18日)
「信者は常に進歩向上を心掛けること」
「人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。処が世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思はれたり、旧人扱ひされたりする。成程在来の宗教信者は、そういふ傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛けねばならない。(中略)
私と雖も去年より今年、今月より来月といふやうに、飽く迄進歩向上心の弛まないやう努めてゐる、といっても只物質的の事業や職業や地位が向上する、といふそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。要するに人格の向上である。此心掛けを持って一歩づつ気長に、自己を積み上げてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かづつでもいい。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのやうに実行せんとする心掛け、それだけでもう既に立派な人間になってゐる。そのやうにすれば、世間からは信用を受け万事巧くゆき幸福者となる事は請合である。(後略)」
(「新人たれ」 昭和25年10月11日)
「信仰の基準は、優しさと奥床しさ」
「現代の人間を観る時、最も欠除してゐるものは、優しさと奥床しさであらう。
先づ茲では本教を主としてかいてみるが、例えば自分の信仰がどれ程進み、身魂がどの位磨けたかを知るには一の標準があって、これは左程難しい事ではない、何よりも人と争う事を好まなくなり、優しさが湧き奥床しさが現はれる、斯ういう心と態度になるこそ磨けたとみてよく、此点最も信仰の価値を見出すのである、其様になった人にして一般から好愛され、尊敬され無言の宣伝となるのである。
処が、今日の世の中を見ると、右のような優しさと奥床しさが余りに欠けてゐる、何処を見ても人に対しアラ探し、憎悪、咎めだて等洵に醜い事が目につく、特に現代人の奥床しさなど無さすぎるといっていい、何事も利己一点張りで露呈的で理屈がましく、人から嫌はれる事など余り気にかけないのは、自由主義が行過ぎ我儘主義になったと見る外はない、最も見苦しいのは、他人の事となると暴露的で、排斥主義で、人情の薄い事甚だしい、此様な人間が殖えるから社会は暗く、冷たく人生の悲観者が益々殖える(後略)」
(「優しさと奥床しさ」 昭和25年10月25日)
「誠とは信仰から生れるもの」
「(前略)人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は時所位に応じ、事情によって最善の方法を見出す事である。然しそうするには叡智が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。故に魂の曇りをなくする事が根本で、それが即ち誠である。誠とは信仰から生れるものであって、此理を知って実行が出来れば、大悟徹底した人というべきである。」
(「解脱」 昭和26年1月25日)
「何事も「程」を守れ---程とは伊都能売の働き」
「(前略)程の字を標準にして、世の中の色々な事をみると、何にでも実によく当嵌る、例えて言えばやり方が足りないとか、やりすぎるとかいう事や、右に偏ったり、左に偏ったりする思想、金があると威張り、ないと萎びたりするというように、どうも片寄りたがる、多くの場合それが失敗の原因になるようだ、彼の論語に中庸を得よとの戒めもそれであろう、昔から程々にせよとか、程がいいとか、程を守れという言葉もそれであって、つまり分相応の意味でもある。
之に就て、信仰的に解釈してみると、いつもいう通り、本教は経と緯、即ち小乗と大乗を結べば其真ン中が伊都能売の働きとなるというので、之も詮じ詰めれば程の意味である、従而人間は第一に程を守る事で、程さえ守っていれば、凡べてはスラスラとうまく行くに決っている、嗚呼程なる哉、程なる哉である。」
(「程とは」 昭和26年8月8日)
「人の善悪を批判する前に、自分の腹の中の善悪を見る事」
「よく信仰に熱中の余り自分の属している教会の会長始め、役員等の行り方が面白くないとか何とか非難して、それを改革しようと忠告したりしても、それが容れられない場合、非常に気を揉む人も時々あるようだから、之に就いてかいてみよう。
右のような考え方は、全く誠から出たのであるから、悪いとはいわないが、大いに考慮を要する点がある、というのは其考え方は小乗信仰であるからである、本教はいつもいう通り大乗信仰であるから、世間並の考えとは大変違っている。其点が認識出来ないと、神様の思召に適わない事になる、何よりも彼の人は善人だとか、悪だとかいうのは、已に慢心である、何となれば人間の善悪は神様でなくては判らない筈で、以前もかいた事があったが、大いに慎まなくてはならない。
若し間違ったり、悪人であれば、神様がチャンとお裁きになられるから少しも心配はないのである、だから人間が心配や取越苦労などするのは、神様の御力を信じていないからという事になるではないか、其證拠には今迄間違った信仰の為に、神様から裁かれ、人によっては命迄失った事実は沢山あり、古い信者は幾度も経験しているであろう、だから人の善悪を批判する前に、先ず自分の腹の中の善悪を見る事である。(後略)」
(「之も慢心」 昭和26年9月12日)
「人を裁く勿れ」
「此事に就ては、信者の中にも不知不識間違える人がよくあるからかいてみるが、之も以前私はかいたように思うが、今でも時々耳にするので再びかくのである。よくアノ人は善いとか悪いとかの批判をしたり、酷いのになると、アノ人には邪神が憑いているから、気をつけろなどと言う人があるが、之こそ大変な間違いであって、人を邪神という人こそ、実は御自分に邪神が憑いているのである。何故なれば人間が人間に対して、善悪正邪など分るものではない。というのは之こそ神様の領分に属するからである。だからそういう人は人間の分際で神様の地位を侵しているようなものだから、飛んでもない慢心脱線である。
従って斯ういう人こそ、邪神と見て間違いはないので、大いに注意すべきである。勿論そういう人は本当に神様を信じていないからで、よく彼の人の信仰は間違っているとか、アノ教会の行り方は悪いから改革せねばならぬなどと、真面目臭って言うが、若し信者の中で本当に悪い人があるとすれば、神様はチャンと裁いて下さるから神様にお委せしていればいいので、少しも人間の心配など要らないのである。それが信じられないとしたら、其人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、之程の慢心取違いはあるまい。というように我メシヤ教は最高の神様が、一切統轄なされているので、間違った人に対しては、神様は最初其人を覚らせるべく御気づけをされるが、それで覚らない時は命迄召上げられる事がよくある。今迄にもそういう例のあった事は、古い信者はよく知っているであろう。
従って人を裁く勿れという格言をよく守ると共に、寧ろ絶えず自分自身を裁いていればいいので、そういう人こそ本当に神様が分っている人である。」
(栄157号 昭和27年5月21日)
「信仰の妙諦とは・・・」
「(前略)一番いけないのは、あの人はあゝやつちやいけない。あの人は間違つている。と言う事がいけないんですよ。人の良いとか悪いとか言う事は、人間には解らないんだからね。神様以外には解らないんだからね。あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言う事は、神様の為さるべき事を犯しているので、大変な事です。だから、人を見ないで自分を見るんです。自分は間違つているかいないかと見るんです。それが本当の誠です。人の悪い事を諌める――注意するのが良い事と思つているが、それが大変な間違いです。一般社会ならそれで良いですが、此の教団の信者になつた以上はいけないんです。若しその人が間違つていれば、神様が捻つちやいますよ。何でもないです。若しそうでないなら、人間が神様の力より上になつちやう事になりますよ。(中略)それが信仰の妙諦なんですよ。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「神様にお気に入られる事---神様は多勢寄せて選り別ける」
「(前略)人から悪く言われると言う事を、一寸でも気にする様じや未だ信仰が浅い。何故ならば、我々は人を相手にしているんではない、神様を相手にしているんです。神様にお気に入られれば良い。人間と言うのは本当の事が解りつこないんだからね。一生懸命にして、人が見て呉れないと言うのは、人間社会での通例のこととし、そんな事は気にしないで、神様にお気に入られる事です。
神様にお気に入られると言う事は、何う言う事かと言うと、人を助ける――一人でも病人を助ける。健康にする。一人でもそうだから、十人百人となると、お気に入られるから、それを行つていれば良い。ややこしく考えればややこしいが、簡単に考えれば簡単なんですよ。
それで信者も多いし、今に段々増えて来ますがね。中には間違つた人もあるし、飛んでもない人も来ますよ。多い中にはね。けれども神様はそれを多勢寄せて――それは因縁のある人ですがね。因縁に就いても話しますがね。それから選り別けるんですよ。
選り別けた結果、何うしても役に立たない――こう言う人間は居ない方が良い。住む資格がない者だと言うのが幾人かありますね。そうすると、その人間を教団からつまみ出さなければならない。教団の方で出すと、先方が怨む――怨むと、その想念が邪魔するから、怨まない様に神様は一つの間違つた事を造るんです。之が因縁なんです。
そうすると、そのつまみ出され様とする人が皆信ずるんです。だから、神様が丁度良い様にする。あの人は教団から離れる、惜しい。と気を揉むが、神様はそう言う必要があつて――教団からつまみ出す指導者を作るんです。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)