第三章 信仰の向上を図るために

 

3、信仰の向上を目指して

 

 

「メシヤ様を真似る」

 

「メシヤ様は、『人類救済のために余を真似よ』『メシヤ教の教えは厳しくなり、少しの間違いも許せない』と仰せになる。」          

                                       (お言葉 昭和29年7月13日)

 

  

「メシヤ様のお言葉通りやらなかったら救われない」

 

「(前略)信者になった以上――じゃない、メシヤ教の浄霊で救って貰った以上――つまり私のやり方を言つて、その通りやらなかったら救われっこないですね。だから、そのお詫びをするんです。頭に激痛――之は、祖霊さんが戒告したんです。それでも気がつかないんでお腹が膨張したりしたんです。それで治る訳ですがね。本人が心からお詫びしなければ駄目ですね。」

               (御教え集7号 昭和27年2月27日)

 

この御教えの通り、間違いに気付いて「心から本人がお詫びすれば」御守護いただけるというのが神の人間に対する大慈悲心の表れと言えますが、御晩年、メシヤ様の「御神格」の高まりに伴う29年4月24日の「お言葉」には、

『今まではお詫びをすれば許され、ご守護をいただいたが、これからは、お詫びだけでは駄目である。先に悔い改め、そして心よりお詫びしなければ許されない。また、お詫び申し上げてもお許しがあるのはそれだけの理由がなくてはならない』

 と仰せられています。信者である以上、より一層、御教えを軽く考えず「神のお言葉」として受け止め、お言葉通り、御教え通り実践できるように務めることが、今後はさらに求められると思います。

そういう意味では、専従者、資格者はさらに厳しく守り実践しない限り、御守護いただくことはできないものと思います。

 メシヤ様の「御神格」の高まりと共に、資格者、信者にも“神の御心に適う自分作り”を厳しく求めていたことが拝察されます。

 

  

「神格をいただく道」

 

「(前略)神とは、言い換えれば完全なる人間という事である、故に人間は努力次第で神にもなり得るのである、そうして本当の宗教の行り方は一歩々々完全人間即ち世にいう人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない、然らば完全人間とは如何なる意味であらうかというと真理即ち神意を骨とし、人間生活を肉とみるのである、即ち如何なる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、常に天空海濶的心境に在って、日常の言動は融通無碍時所位に応じ何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである、又規律を尊び、怠惰を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適の如く、何事も極端に走らず、人に好感を与える事を之努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、人事を尽して神意に任せる態の信念を以て進むべきである。

人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、斯の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者というべきである、勿論信仰の妙諦も是に在るので、此様な人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。(後略)」 

                     (「神懸り宗教」 昭和24年5月30日)

 

  

「魂が固まれば、代理ができる」

 

「(前略)今まで何億という人類が拝んで来たキリスト、釈迦を私が助けたというのですから、“そんな人間が現われる事はない、頭がどうかしている”と言うかもしれません。あなた方は不断から知っているでしょうが、それを“これだ”という所までゆけば、魂がすっかり固まったのですから、そうするとそれによってその人の力が強くなるのです。それこそ私の代理として立派に力をふるい、仕事が出来るわけです。だから今言った事をよく心に入れて大いにやって下さい。」

 

           (御教え集33号 昭和29年4月12日)

 

 

「信仰の臭みのない常識人になるように」

 

「(前略)メシヤ様は、○○氏の信仰姿勢を見通され『信者は信仰が進むに従い信仰一途となる。それは大変いいことである。しかしその反面、社会性のない偏った人間性となリやすく、社会から見た場合常識のない人間に見える。大事なことは、信仰心があってそして信仰の臭みのつかない常識人になるように努めなくてはいけない』と御教えを賜わる。(後略)」 

 (御言葉 昭和29年7月18日)

 

 

「悪を制御する力を持つには信仰が必要」

 

「(前略)人間は神から与へられた良心を発揮させ獣から受ける悪に勝てばいいのである。といってもそれには自ら限度がある。即ち善も悪も決定的に勝負をつけてはいけない。此意味は人といふ文字を解釈すると実によく分る。それはノは天から降った形で、神の分霊であり、乀は地上に居る獣の形である。としたらノが上の方から押へてをり、乀はノを支へてゐる形である。であるから人とはノと乀との間になるから、人間の文字もよく当嵌ってゐる。即ち人間は善と悪とを両有してゐる。天性で幾分でも善が勝ってゐれば間違ひないのである。従って人間は向上すれば神となり、下落すれば獣となるので、此理によって人間の限りなき欲望も、或程度で制御する事が出来るので、之が真理であるとしたら、限度を越へれば人ではなくなり、Xの形となる。即ちバッテンであるから抹消の意味であり、亡びるのである。右の理によってどうしても人間本来のあり方は、悪を制御するだけの力を有たねば安心が出来ないのであるが、それには力が要る。其力こそ神から与へられるべきものであるから、信仰が必要となる。さすれば如何なる世にあっても、何等不安なく、永遠の幸福者となり得るのである。(後略)」            

 (「精神病と癲癇」 昭和27年)

 

  

「信仰の極致は神への恋愛」

 

「(前略)私は、信仰に関してどこまでも深く究めなければならない、という覚悟を以て大本教に関する書籍、特にお筆先は繰返し、繰返し熟読したものである。(中略)

神秘に就て少しかいてみるが、人間の意欲の中で、此神秘を探りあてようとする事程魅力あるものはあるまい。信仰に熱が増すのは神秘探究心からである。従而昔から神秘の多い宗教程発展するのである。尤も神秘の表現化が奇蹟であるから、神秘と奇蹟とは切っても切れない関係にある。本教の異常の発展も之が為であると共に、既成宗教不振の原因も是にあるのである。

面白い事には宗教と恋愛と相通ずるものがある。宗教の神秘に憧がるる点と、恋人に憧がるる点とがよく似てゐる。従而信仰の極致は神への恋愛である。此点恋愛と異ふ処は、誰かが言ったやうに、恋愛は結婚が終極点であるとの通り、結婚が成立すると大抵は魅力の大半を失ふものである。処が神への恋愛は、其点大いに異う。といふのは、一つの神秘を暴けば、次の神秘を求める、知れば知る程愈よその奥を究めようとする、そこに信仰の妙味があるのである。(後略)」       

 (「入信以後」 昭和24年12月30日)

 

 

「常に魂の進歩向上を図る」

 

「人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。処が世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思はれたり、旧人扱ひされたりする。成程在来の宗教信者は、そういふ傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛けねばならない。

先づ何よりも大自然を見るがいい。大自然に於ては、一瞬の休みもなく新しく新しくと不断の進歩向上を続けてゐる。(中略)森羅万象悉く進歩向上しつつある実態をみて、人間と雖もそれに傚(ナラ)ふべきが真理である。

此意味に於て、私と雖も去年より今年、今月より来月といふやうに、飽く迄進歩向上心の弛まないやう努めてゐる、といっても只物質的の事業や職業や地位が向上する、といふそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。要するに人格の向上である。此心掛けを持って一歩づつ気長に、自己を積み上げてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かづつでもいい。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのやうに実行せんとする心掛け、それだけでもう既に立派な人間になってゐる。そのやうにすれば、世間からは信用を受け万事巧くゆき幸福者となる事は請合である。

(中略) 本教は知らるる如く、世界の転換期に際し、全人類救ひの為に、誤れる文化に目醒めさせ、理想的新世界を造るにある以上、飽く迄新人たる事を心掛けねばならない。私がいつもいふ廿一世紀的文化人にならなくてはいけないと言ふのは、その意味である。」

                  (「新人たれ」 昭和25年10月11日)

 

  

「神の御意志を知ること」

 

「(前略)之程文化が発達し乍ら、人類の幸福は更に伴わないばかりか、苦悩は増大の傾向にさえある。そうして何千年前から偉人や聖者、碩学等の傑出した人物が輩出し、智脳を絞り努力に努力を重ねて成った現代文化であるとしたら、最高峯の文化といえよう。従って之程の文化の内面に、著しい誤謬などありよう筈はないと思うであろう。処が前述の如く、一大誤謬を知った私としては、一日も早く、一人でも多く解らせ、幸福を頒ち与えると共に、新しい理想的新文化の世界たらしめん指針を与えたいので、之が神の御意志である。(後略)」    

(「本教と私」 昭和25年11月25日)

 

  

「苦しまないで魂が浄まる方法が信仰」

 

「(前略)普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまり或程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。之が真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。

処が前記のように苦しまないで魂が浄まる其方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。併し信仰にも色色あるから、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。そこへゆくと我メシヤ教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。」 

 

       (「運命は自由に作られる」 昭和27年10月25日)

 

  

「何事についても伊都能売で」

 

「(前略) 今年の座右の銘とでもして聞いて貰いたい。何時も言う通り伊都能売ですね。伊都能売の働きにならなければいけない。と言う事は、つまり大乗と小乗――大乗が緯で、小乗が経ですからね。それを結んだ真中が伊都能売だと、始終言つてますが、処がどうしても、大乗になつたり小乗になつたり、片つ方にずれちやうんですね。結ばない。結べないんですね。そう言う人が沢山ある。之が根本なんですよ。メシヤ教の意味と言うのは。そこにあるんです。今迄の宗教は、みんな――経か緯かなんです。どつちかです。結んだものは一つもない。結んだ宗教はないんですからね。(中略)で、経と緯を結ばないと極端に行つちやうんです。その点がいけないんです。(中略)だから、凡ての問題について、やはり経緯結ぶ――丁度真中ですね。それに行かなければならないですね。処が世の中の事を見ると、何うしても結びの処にいかないんです。(中略)今迄の人間の思想ですね。或いは習慣とか、凡てそう言うものに、皆んな慣れないから、どつちかに偏つちやうんですね。ですから、信仰も片つ方は馬鹿に窮窟な、真直な信仰ですね。大変良い様ですけれども、そうかと言つて、片つ方は馬鹿に融通がきいて楽そうで、どうも――あれで信仰は良いものかしら、あれで信者かしらなんて言う人がありますから、やつぱり両方偏るんです。そこの旨い調和ですね。そう言う風な一つの修業ですね。今迄の修業と言うのは、恐ろしく骨の折れる、苦しいのが修業と思つているが、之はそうでない。却つて楽になる修業ですね。やり良くなる修業ですね。そう言う事は、一番肝腎な事として、その修業をやられたいと思うんですね。(後略)」

 

                    (御教え集6号 昭和27年1月1日)

 

  

「信者と未信者では浄化作用の意味が違う」

        

「(前略)霊界は層になってますから、そのとおりが写るので、つまり層というのが人間の魂の居所なのです。ところがこの魂という奴が人間全体を支配しているのですから、魂の居所という事が資格です。だから魂の資格さえ上になっていれば全然苦しみはないわけです。しかしそうかと言って人間今までにいろいろな罪穢れや薬毒やいろいろなもので汚しているから、その掃除をされなければならないのです。そこで、信仰に入ると魂だけは先に上の方に行ってしまいます。そうすると魂だけが光を持つと、肉体にある汚れがどうしても魂と相応しないから、魂の地位だけにきれいにならなければならない。浄まらなければならない。それが浄化作用です。だから信仰に入ってからの浄化作用と未信者の時の浄化作用とは意味が違うわけです。その区別を知っておかなければならないのです。未信者の時の浄化作用というのは、その人の健康を維持するために自然に浄化作用が起こるのです。その浄化作用が起こらなければその人は死ななければならないのです。だから人間できるだけ生きて働けるように自然浄化が起こるのです。自然浄化とは悩み苦しみによって掃除されるわけです。そこで、よく修業などをして、断食をしたり、山に籠(コモ)ったり、いろいろな難行苦行をするという事は、その掃除をするために自分から苦しみをするわけです。(後略)」

                                           

(御教え集30号 昭和29年1月27日)

 

 

「曇は信仰と徳の程度により、大きくも小さくも除れる」

 

「(前略)人間として悪い事をすると悪い結果が必ず来る。即ち因果応報で、之は間違いのない事実であり、真理である。どんなにしても善でなくては栄えない。

人を苦しめれば自分が苦しむ。人を幸福にすれば自分が幸福になる。そうすると善い事をした方が得だという結論になるから、人間は善事を目標としなくてはならぬ。

次に苦しみも何かの必要があつて造られたもので、現実の苦は如何にして祓除し得るかである。それは神から苦悩の元たる曇を除つて戴く外はなく、神仏の光によつて除つてもらうのである。本教の浄霊はその為に出来たもので、此浄霊により神の光が放射され曇は解消し、苦悩はさつぱりと除れるのである。そうして此曇は信仰と徳の程度により、大きくも小さくも除れるのである。邪念や言葉の罪などは、朝夕神仏を礼拝する事によつて大方は浄められるが、それのみでは本当でない。やはり人を幸福にする事が肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救われぬ。先づ多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。(後略)」  

(教えの光 昭和26年5月20日)

 

  

「何事に対しても素直で従順になる」

 

「(前略)現われること、人から交渉あることも、住む土地も、みんな因縁があるのです。つまらないようなことでも、それに従わないと、やっぱり悪いのです。よくそれを通じて自分の思ったとおりを突き抜こうとしますが、ロクなことはないです。だからそういうのは我です。「よし、オレがこう思ったら、誰がなんと言ってもやり抜いてみせる」「どんな事情があってもやり通してみせる」という、これが危ないのです。それよりか、ちょっとやってみていけなければ止してしまうのです。さっぱり信念がないように見えますが、ところがそうではないのです。つまりそこで素直、運命に従順ということが一番よいのです。(後略)」        

(御垂示録29号 昭和29年3月15日)

  

 

「人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行いを為す事」

 

「(前略)正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。丁度、子に対する親の愛の一層拡充されたものといへるのである。故に、罰をあてるといふ事は正神には決してないのである。然し乍ら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷ふか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害を受けるといふ其事が、罰が当ったやうに見へるのである。

然し斯ういふ事もあるから注意すべきである。それは邪教信仰者が、その信仰から放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく災害を蒙らせる事がある。それ等は全く罰が当ったと同じ意味であるが、之等は脅迫信仰に多いので、そういふ事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番それを突破するに於て邪神は手を引くから、其後は何等の障りはないのである。要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行(オコナイ)を為すに於て、天下恐るべきもはないのである。(後略)」          

 (「神と悪魔」昭和18年10月23日)