第三章 信仰の向上を図るために
1、因縁使命の自覚
ところで、メシヤ様ご自身の夜昼転換がこの御神示を受けた昭和元年の12月とするならば、私たちにとっての夜昼転換は何時でしょうか?
また、そういう転換の時期はあったのでしょうか?
もしそのようなことが今までになかったとしたら、折角メシヤ様との出会いを許されていながら、大変残念なことです。
その原因は様々ありますので、一概には言えませんが、そのような場合、他人に責任を転嫁せず、もう一度自分自身に返して、自分の誕生から、入信に至るまでの経緯、そして現在の自分という、現在まで歩いてきた道のりをふり帰り、整理していただければ、問題解決の糸口が見出せるものと思います。
私の場合、メシヤ様とのご縁は幼少期にまで遡りますが、皆さんはいかがでしょうか?
初めてメシヤ様のご浄霊をいただいた時、または御教えに触れた時、または、入信した時でしょうか?その時、私たちは何を感じたでしょうか。何かしら言葉にならないある不思議な感じを、または心に引かれる何かを感じたのではないでしょうか。それとも、自分の意思とは裏腹に、入信してしまったのでしょうか?
このようなことを一度整理してみていただきたいと思います。
私たちの身の周りには、いくらメシヤ様のことを伝えても分からない人が多くいることを思えば、メシヤ様と自分との関係には何か目には見えない不思議なものがあると思います。
何故、浄霊力伝授を受けたり、入会したりしたのでしょうか?
そこには、目には見えない不思議なものが働いていると思います。その不思議なものとは?一体・・・。
また、浄霊力伝授を受けたり、入会したりした後の私生活は、・・・以前と少しずつでも変わっているでしょうか?。
この辺りの事も含めて学んでいきましょう。
「(前略)一月三日、明主様には、「今の私の現在の御用は万神の働きを全部私一人でやっているのだ。なぜならば、みんなの身魂が清まらざるために、一切はそれまで皆私がやっているのだ。いよいよの時初めて諸々の御用を申し付ける。身魂の清まった者から各々の因縁によって、その人その人に、それぞれに因縁通りの御用を申し付ける。その時、初めて因縁ある者に諸々の御用が頂戴出来る」のだとの御話がありました。なお又「その人その人により、神格をも頂ける」のだとの御言葉でありました。(中略)
一月九日、(中略)明主様には「神様を信じることは良いが、人間を信じてしまってはいけない。人間には間違いがあるから、ただただ私の命令をそのまま行えばよいのだ。」と、大変有難い御言葉を頂き、誠に有難いことでありました。(後略)」
(明主様の御眼力(十)岡庭真次郎)
このように述べられていますが、「人間を信じてしまってはいけない」という所を、人間は勿論ですが、教団あるいは執行部に置き換えて考えていただければ、いいのではないかと思います。
そして、「私の命令をそのまま行えばよい」ということは、御教え通りにするということであり、教団から出る方針が御教えに照らし合わせて、御教え通りであれば間違いないと判断して方針に従うという事が大切なことではないかと思います。もし間違っていた時は・・・。
読者の皆さんは、どのように考えられるのでしょうか・・・。
「一生懸命にならなくても大光明世界は出来る」
「(前略)天地が崩れても出来る。邪魔しやうと何しやうと大光明世界は出来る。そして全世界は統一される。人類始って以来ない結構な事になる。それが何百年、何千年先の事ではない。昭和三年から三十年間といふ。之で大体大光明世界の基礎が出来る。(中略)
只今から世界は一歩々々そうなって行く。その時はすべてが非常に結構な事になる。皆が一生懸命にならうとなるまいと出来る。ただ一生懸命にならぬと置去りにされる。代りはいくらでもある。この人がグズグズすると、此人がするといふ工合になり、折角自分が役になり、結構な使命をいひ付けられても、お代りが出来る。そうすると永久に取残される訳であります。もしか疑はれるならば、やってみられるといいのであります。兎に角結構な空前の大事業に携はらして戴く、此位幸福な事はないのですから、取残されぬやうにすればいいと思ひます。
観音様は難しい無理な事は仰有らぬ。喜んで愉快に出来る事しかやらされぬ。
今迄世界の凡ゆる大仕事など、皆非常な苦心惨澹した。今度の仕事はそうではない。苦心惨澹したら出来ない。ボンヤリしてブラブラしてゐても出来ぬ。例えば、飯を食ふにも茶椀と箸をとる位の事はしなければならぬ。それだけの手順は尽さなければならぬ。(中略)
どういふ事を一番気を付けなければならぬかといふと、お祭りや講話会に御無沙汰する事がいけない。それをしないと決してうまくゆかない。いざといふ時に間に合はないからお取替えになる訳であります。
それで月に一回以上は本部等へ必ず参る事で、それも難しい事でない。他の宗教などは朝の五時頃に起きて行かなければならぬ。一日一回は必ず行かなければならぬ。そんな強制的な事をせぬから苦しい事はいらぬ。そして後は出来るだけ運動をして拡めればいい。今、会員を沢山造らなければならぬ。それも無理に奨めたりするなどする事はいけない。気持よく話して先方から進んで信仰に入るやうにしなくてはいけない。その点も大いにいい。
要するに、観音力はどっちか極端になってはいけない。どうしても信仰に入れぬ人は説いてはいけぬ。又信仰に入るやうすすめてはいかぬ。機会をみてあっさりやればスラスラと入る。 (後略)」
(「玉川郷秋季大祭御講話」昭和10年11月11日)
「これは神様御経綸の直接の御用である」
「(前略)観音会は最奥天国に相応する教である。人の為に働く等はつまらん等という者は最奥天国でないのであって、此の様な人は又それ相当の信仰を求めて行くのである。
観音会は世界人類の為に働くのであって、自己の栄達等は問題外であるが、自己栄達を問題外にして世界人類の為に働くことにより、結局自己の道が拓けてくるのである。之に反して世界人類の為なんて馬鹿々々しい等と、自己栄達のみに心を傾ける人こそは逆に落されるのである。世界人類の為に働く事の如何に大きな御用であるかは、神様御経綸の直接の御用であるからである。(後略)」
(「人の生死の状態」昭和10年8月15日)
「神の意図を理解する」
「人間が現世に生まれるという事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。この事を真に把握せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に終る惧れがある。然らば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界言変えれば地上天国を建設する事である。(後略)」
(「霊層界」昭和22年2月5日)
「時の認識こそ、大神業に参加が許される資格」
「(前略)私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリストの再臨ともいはない、之は或時期までは神様から発表を禁じられてゐるからでもある、(中略)今日確実にいえる事は、世を救ふべく大経綸を行ふ事である、之は現に私が行ひつつある事実を見れば判る、救世教の名を冠したのもその為である。(中略)
いよいよ時期熟して世界は茲に一大転換と共に、天国樹立といふ神の理想実現となったのである。此事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。」
「五六七大祭」昭和25年3月11日)
「神様が人を入信さす」
「入信するには人によって時期がある。時期が来れば入信する。最後の時期はどうしても入信しなくてはならぬ時である。人によりいろいろであるから、それは時期が来ないのであるから、それを待つ事である。人間は人を入信さす力はない。神様が人を入信さすのである。人間は橋渡しをするので、手を引くのは神様である。人間は人間を審判く事が出来ぬと同様で、それだけの権能を与えられていない。
(中略)即ち、時期が来れば入信しなければならぬよう神様が順序を立ててくれる。又、霊界で祖霊が、沢山救はれているのをみて、自分の子孫に対し入るように種々する。であるから私の方では宣伝したり、新聞雑誌には出さない。霊界の霊の働きが一番力がある。」
(年代不詳)
「入信の時期も遅速がある」
「(前略)その人それぞれの罪の軽重、因縁、使命等によって、入信の時期も遅速があるから、総ては神様にお任せしていればいいのである。(中略) そこで何より心得べき事は、信仰の根本は本人の自由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本である。それを何でも彼んでも無理に分らせようとするから逆効果となり、反って入信の時が遅れるのである。これに就いて一番知らねばならない事は、世の中の事は二二が四ではいけない。二二が、六、二三が七というように、理外の理のある事を悟るべきで、特に信仰に於てをやである。つまり何事も結果によって判断すべきで、これが千変万化、融通無碍の観音行であるから、この理を充分肚の底へ畳み込んで活動すれば、必ず巧くゆく筈である。」
(「御神体奉斎に就いて」昭和29年4月7日)
「入信する(会員になる)ということは」
「(前略)だから、「三毒、五濁」ってのは人間の罪穢れを分類したものですね。そして之を滅する方法はいゝ事をする事です。いい事はしないで滅するのだったら苦しむんですね。然し、この苦しむ方は骨が折れる割合に効果が少いんです。
所が、いゝ事をする方は人に喜ばれ尊敬されて、罪が消えるのもとても早いんです。これが信仰ですね。だから、教修を受けて入信するって事は、穢れを消滅する方法を覚える事と、之を行ふ事を知るんですね。そこで、たゞ教修を受けたゞけぢゃ、まあ受けないよりよっぽどいゝけれども、ほんとうに罪穢れを除るにはそれだけでは十分ではないですね。――」
(御光話録6号 昭和24年3月)
「(前略)人間の罪悪を分類してある。之(罪穢)を滅する方法は人を助け徳を積む事である。苦しむ事――いろんな苦しみにより滅するのは、骨が折れて効果が薄い。然しもっと楽で効果的なのは信仰で、教修を受けるのは罪穢を消滅する方法を覚える事である。であるから、教修を受けただけではいけない。罪穢を除るといふのは、一人でも人を幸福にするとか、導く事をするのである。(後略)」
(「受教修の意義」講補 S24年3月20日)
「この教えにも因縁、系統で入った」
「(資格者が、自分は罪が深いから尊い御道の御手伝ひをさせて頂くと考へる事と自分は神より選ばれた人間だと幾分高く評価する考へ方とはどちらが正しいでせうか。)
別に――どちらも正しいですよ。罪が深いから働くって言ふのも変ですよ。罪の深い浅いぢゃないんです。罪が深いからって言ふんなら、殺人強盗にもいゝ機関なんですが、(笑声)やはり因縁ですからね。それから神様に選ばれた人間だと思ふ事はいゝけど、別に高く評価する必要はありませんよ。無論選ばれたには違ひないが、それだけぢゃ高い価値はありませんよ。この教へにも因縁、系統で入ったんですからね、それから働きがあって非常に仕合せになり、いゝ地位になったら、それだけ高く評価するのはいゝですけどね。だからこの信者になったからって、たゞ選ばれたゞけで何もしないって言ふのは間違ひですよ。」
(御光話録7号 昭和24年4月23日)
「自分は祖先の延長」
「現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像すれば判る。
故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於ける、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現はれるのである。(後略)」
(「病気の原因と其解消」昭和10年9月15日)
「ない命を救われたのは、私有財産でなくなる」
「(前略)こういふ事は知っておかなければならない。一度、もう全然駄目だと言はれた人がこちらによって生き延びた場合、その人の命は前のものと違ふんです。私有財産ではなくなるんです。神様が必要があって寿命を延ばされたんだから、神様の御役に立つ仕事をしないといけない。この様にして救はれた人が、又金儲けだとか何だとかいゝ加減な事をやり始めると、その人はきっと駄目になります。
以前に鉱山をやってゐた人で、心臓が駄目になって死にかけた時御浄霊ですっかりよくなった。すると、又鉱山の方に夢中になり始めたので、治してやった人がいろいろ言ひきかせたけれどもどうしても聞き容れない。その中に直ぐ又死んでしまったといふ事がありましたがね。之は大切な事です。」
(御光話録6号 昭和24年3月)
「その人を救うと、その系統の人が救われる」
「(前略)全て、神様は型でやるからして、色々な型がある。(中略)その型を私は神様から見せて貰うばかりでなく、色んな事をやるんです。ですから、小さい事が非常に大きい事になつていくんです。信者さんが、一人々々居ますが、この中で、一人で何百万、何千万の型をやつている人が居る。私が最初始めた時、数人の型が集まつて、その人達が或民族を代表し、一国を代表し、地方を代表する――何億、何千万の代表をしている。だから、以前に私は、イギリスの型、インドの型と良く言つたものです。その人を救うと、その系統の人の数が、ずつと多くなつて救われる。その次に、その又一人々々が救われる。そう言う風に世界は出来ている。神様の経綸と言うものは、そう言う風にやつていくものです。 (後略) 」
(御教え集3号 昭和26年10月1日)
「信仰も自分一人ではない---自分は代表者」
「(前略)神様の型という事は面白いので、ひとりそういつた様なもの許りでなく、人間がそうなつている。米国人の型、英国人の型、支那人の型。中にはアフリカ人の型もある訳です。そういう人の一人々々が信者になつて救われると、それが広がつて――そういつた型になる訳なんです。それがずつと広がつて一国になる訳です。 (中略)
そんな様な訳ですから、信仰でも自分一人ではないんです。何万人何十万人の、自分は代表者になつているから、自分をそう軽く見る事は出来ないです。そうかといつて、俺は何処の国の型なんて言うと自惚れが出ますからね。(後略) 」
(御教え集11号 昭和27年6月27日)
「一人の人間の行動---全世界に響く」
「(前略)神の方に八百万あるやうに、悪魔の方にも八百万あるのである。そうして正神は此世界に善を行はんとするに対し、邪神は悪を行はんとし、常に相対峙してゐるのである。丁度人間の中心に於て本守護神と副守護神と闘争してゐるやうなものである。(守護神については後に説く事とする)故に正神界からは霊線によって人間の本守護神に正気を送流しつつあるに対し、邪神界に於ても人間の副守護神に対し、霊線によって悪気を送流してゐるのである。此理によって一人の人間と雖も、世界的に繋がりがあり、その一挙一動は全世界に響くものである以上、軽率な行動は出来ないのである。(後略) 」(「兇党界」 昭和18年10月23日)
これらの御教えからすると、数多くの人の中から、因縁・系統によって選ばれて、神に許されて先祖の働きによって入会させていただいていることが理解できると思います。
また、「一人の人間と雖も、世界的繋がりがあり、軽率な行動は出来ない」と言われて、信者一人一人の自覚と共に、その心言行の及ぼす影響が如何に大きいかということを、述べておられます。
我々信者としては、このお言葉を戒めとして、慎重な言葉遣いや行動をとりたいものですね。
さらに、メシヤ様は次のようにおっしゃっています。
「私は自分から救世主と名乗る事は好まない」
「(前略)救世主即ちメシヤなる言葉は、洋の東西を問はず、時の古今を問はず、如何に言ひ古された事であらう。全人類待望の救世主なる超人間的力の持主が、現実に此世の中に生れるべきものであらうかといふ事であるが、一部の宗教信者を除き、世界の大多数者は、単なる理想的希望でしかない、大きな夢でしかないと思ってゐると見るのが間違ひない事であらう。尤も俺は救世主だと誇称する人も稀にはあったが、時の推移と共に何れも消えてしまふにみても、未だ真の救世主は表はれない事は明かな事実である。
私は自分から救世主と名乗る事は好まないのである、といって救世主ではないと断定する事も出来得ないといふのが偽らざる告白である。実に救世主出現といふ事程重大なる問題は、人類史上曽てない事は今更いふ迄もない。此意味に於て決して軽々に論議すべきではない事も勿論である。飜って考ふるに、救世主出現は単なる人類の理想と極める事も出来得まい。何となればキリストの再臨もメシヤの降臨も、ミロク下生も、往昔の聖者が予言してゐるに於てをやである。故に、何時かは出現の可能性がある事を信じない訳にはゆかないのである。
之から私の心理描写にとりかかるのであるが、私は救世主の第一条件として以前から考えてゐた事は、何よりも先づ人間の病気を解決する事であって、人間の健康を完うし天寿を得させるといふ事の絶対的方法を授けると共に、それへ具体化する力を有する-その資格こそ救世主としての最大要素であらねばならない。勿論肉体の健康と相俟って、精神の健康が伴はなくてはならないのである。
ナザレの聖者キリストの曰った、「汝世界を得るとも、生命を失へば何の利かあらん」といふ有名な言葉によってみても明かである。此意味に於て、人類から病気を滅消し得る力のない宗教も、宗教家も、その価値は限定的のものしかないといえるであらう。私は此理論を常に抱懐してゐたのである。然るに、私が信仰生活に入って十数年を経た頃の或日、病気の根本原理と、その解決法とを知り得たのである。嗚呼、其時の私の驚きと喜びは、何人も想像はなし得ないであらう。何となれば今日迄の世界の人間のうち、之程大きな発見をしたものは絶無であったからである。如何なる大発見も大発明も、此事に比較すれば問題にはならない。実に私といふものは何たる不思議な運命を持って生れたものであらう。」
(「救世主は誰だ」昭和23年10月20日)
メシヤ様自身、「不思議な運命を持って生れた」と、おっしゃっておられます。そして、今やメシヤとして御力をお揮いになろうとされている時であります。
そういう時に、この世に生を受け、メシヤ様に繋がった我々信者は、これから何をなさなくてはいけないのか?どのような心構えで何を進めていくのか?
そういったことに対して、次のようにおっしゃっておられます。
「ミロク世界実現前、当然経なければならない其過程に対処する心構え」
「吾等が唱える五六七世界の実相は目下執筆中で、何れ発表するつもりであるが、茲では五六七世界建設までの過程に就て些か述べようとするのである。
勿論、五六七世界とはキリストの予言した天国であり、釈迦の唱えた所謂みろくの世である。然るに此理想世界たる五六七の世は、今や呱々の声を挙げんとする寸前に迫っている事である。
私の霊感によれば、今霊界に於ては既に五六七世界の土台は築かれたのである。之によって近き将来、いとも現実的に此地上に出現する事は、疑う余地はないのであるから、何と有難い時節に生れたものではないか。之を慮う時、吾々は歓喜が湧き起るのである。
それに就て知らねばならない事は、例えば今茲に一大豪壮な建築物を建造せんとする場合、今迄その土地に存在していた古い家は破壊されなければならない。勿論その古材の中から、新建築に役立つものを選び、洗い浄め、削り治して使用する事は勿論であって、今や五六七世界建設に当っても、それと同様な事象が行われるであろう。
それに就て今後発生する凡ゆる事態が、人間の眼からみて理屈に合わないような事や、無益と思う事、破壊的の事等もあるかも知れないが、それは汚穢の一大清掃である事を知らねばならない。然し一切は神意の具現である以上、人間の凡眼によって、兎や角判断する事は出来ないとすれば、人間たるもの大いに謙譲の態度を以て、一切の推移に順応すべきである。此事を霊感によって知識し得た吾等は、常に偉大なる神意を曲解せざるよう戒意し、正しい神観を以て今後人類の経験にない、如何なる異常事や崩壊作用も、信仰に徹する者の特権として与えられたる安心立命の境地に住し、生を楽しみつつ時を待つべきである。
斯様な甚だ掴み所のない言い方も、深遠なる神の密意は現在具体的に言う事を許さないからである。
要するにミロク世界実現前、当然経なければならない其過程に対処する心構えを述べたまでである。」
(「五六七世界の建設」昭和25年1月30日)
この中で「大いに謙譲の態度を以って・・・」とありますが、このことについては、次のように御教えいただいております。
「お使いいただけることに感謝する」
「(前略)ですから観音様の御都合により、その時の仕事の上において誰を使ふか判らぬ。今後と雖も観音様は必要があれば誰でも使ふ。もし使はれた人が、俺がこうであるから使はれたとか、俺がどうだからと思ふと間違がある。観音様から斯ういふお見出しに与るといふ事は、一生涯の光栄で、それに対しては唯感謝より外何もない。感謝して有難いと思へば後又使はれる。少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使ひにならぬ。
此点は大変重大な事で、観音会がだんだん発展する上に於いても、観音様は非常に和らかく て厳粛で、沢山な人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐり此人はといふ人だけ残し、そういふ人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、たゞパッと拡げない。世間ではよく形だけみせるやうにするが、こういふ行り方は非常に観音様は嫌はれる。場当りのいい或一時的の仕事などはなさらない。要するに真実で飾り気のない事、人間のやうに衒ひも何もない。本当のお試しとは、自己といふものを全然みない。本当に世界人類を救はなければならぬといふ止むにやまれぬ状、また此の世の中の状態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、見てはをれぬ、然し人間の力ではどうする事も出来ぬ、然し観音様が観音力を揮はれるにつき、その一部にも加へてもらって、そして力限りやらして貰ふといふそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。
こういふ様に、一寸考えが違ふと、大きい違ひが出来る事になる。どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様の為と思ふと、その人の存在は大きい存在となる。之は生長の家の物質は心の影といふのと似てゐる。自分を見せやうとすると空虚になる。世の人の為と思って自分を無視すると、無視した自分が立派に存在する。ここの道理のはっきり判った人は、本当の働きが出来る。神の道がある。自分の都合よくなりたい、よくしたいといふ念が、少しでもあるとすれば、物が思ふ様に行かぬ。
自分を空虚にする、自分を無視すればする程、自分の実在は確かになる。此点だけが肝腎な悟りで、此前お話したが、お釈迦様の時代に目連尊者といふ人がゐて、母が地獄で苦しんでゐるのが見えるので、どうか助けやうと思っても助からぬ。他の人はいくらでも助かる。で、お釈迦様に、お母さんを出さうと思ふが、どうしたら地獄から出せるかと聞くと、お前のお母さんはお前が忘れればいいといはれた。そこで考へた結果、はっと思った。
俺は天下万民を救ふ使命によって働いてゐるのに、自分の近親の者親の事ばかり思った為救へなかった。大変な間違ひをした。第一に天下万民を救はなければならぬと、それからは母の事も忘れ、一切衆生を救ひの為活動して、一年経って地獄を覗いてみると、もう地獄には母は居なかったといふのであります。
自分を良くしたいと自分だけよくしやうとすると、先づそうなさなければならぬ。人をよくしやう、人を助けやうとする時に自分はよくなる。信仰の妙諦はここだけなんであります。(後略)」
(「御講話」 昭和10年8月11日)
特に「信仰の妙諦はここだけ」とおっしゃっておられます。自分を出さず、心を無にしてということは「我」を出さず「素直」に、身の回りに起きてきた事に対して対応していく、実践していく姿勢が大変重要です。
人それぞれ長所もあれば短所もあり、特徴も違えば能力も違い、十人十色ですから、自分に合った考え方、進め方、御用の仕方があるものです。そのことについてメシヤ様は、次のように御教え下さっています。
「その人に与えられた能力によって御用は違う」
「(資格者と致しまして、人を救う事、信仰の向上を図る事、御奉仕とを如何様な順序に考えましたら宜しいものでございましょうか。又金銭物質の御奉仕の意義、方法につきましてお伺い申し上げます)
恐ろしい質問だね。それは、どっちが肝腎だという事を考えるその事が間違ってます。そういう事は考えないのが本当です。というのは、神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もあるのです。向上は全般ですが、各々その使命があるのです。というのはそういう事情になって来るのが使命ですから、そうなったらそうすればよいのです。
金が集まって来て、人を浄霊するよりもというのは、そういう使命があるのです。又金がない、信者を沢山作るというのはそういう使命があるのです。それは周囲の事情がそうなって来ますから、ただ素直にそのままを考えて進んで行けばよいのです。それから向上という事は、一番の事は智慧正覚です。いろんな事が分る事です。分ると言っても間違った分り方ではいけません。その標準は御神書です。御神書に書いてある事が大体“なるほど”と思えれば、それは智慧正覚が大分上がっているのです。“どうも分 らない”というのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智慧正覚が向上しているのです。病状をみて、この人はこの病気だという事を当てれるのは、余程智慧正覚が上がってなければならないです。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分るというのなら智慧正覚が向上しているのです。」
(御垂示録22号 昭和28年7月1日)
「こっちで思っても駄目な人は駄目なので、諦らめるという事が肝腎」
「(前略)つまり神様の方が激しくなるわけです。大本教のお筆先に“神激しくなれば、人民穏やかになるぞよ”というのがありますが、なかなかうまく言ってあります。そういうようなわけで、曖昧(アイマイ)であったのがはっきりしてくるというわけです。
だから分る人は救われる人で、分らない人は滅びる人と、こういう工合にだんだん決まってくるのです。ところが分らない人の、滅びる方がずっと多いのです。ですからどんな人でも救われると思う人が、今までは大部分でしたが、そうではないので、救われる人の方が少ないのです。ですから救ってやりたい救ってやりたいと、こっちで思っていても駄目な人は駄目なので、諦らめるという事が肝腎です。それでミロクの世という素晴らしい世の中ですから、あんまり汚ない、訳の分らない人間は、かえって邪魔になるわけです。神様の方では人口を増やすのは何でもないのです。今でも増え過ぎて困るのです。ですから倍くらいにするのは何でもないのです。又、将来その方が有利です。捨てられて滅びる人は実に可哀想なものですが、これはどうも仕方がありません。ですから、その点をよく心得ておくべきです。
これは何時も言うとおり、今度の御神業は、人がやるのでなくて、神様がやるのですから、骨を折らなくてできる御神業です。ですから骨の折れるような難かしい事は避けた方がよいです。楽にスラスラと行く事だけをやればよいのです。だからかえって楽で非常によいです。そこが天国を造る宗教としての適ったやり方になるわけです。今までは地獄の中で天国を造ろうとするのですからして、まだまだ天国を造る時が来てないのです。地獄の中で天国を造るのだから、苦心惨憺(サンタン)して非常に骨が折れるのです。人間はそういうのを長い間見て来ましたからどうしても苦しむ事がよいように、つい思うのです。だから今言ったような事を本当に意識するには、なかなか骨が折れますが、その点はよく気がつくように心掛けて居なくてはいけません。(後略)」
(御教え集23号 昭和28年6月7日)
「どっちが世の為になり、多くの人が幸福になるかを考へて・・・」
「(私は数年前御守りを頂き職業(漁師)の傍ら御救ひの御手伝ひをさせて頂いて居りましたが、最近御救ひの方が多忙になり殆ど漁師の方は出来ません。そこで御道一方だけで進みたいと思ひますが、家族や親類が強く反対して居ります。如何致したら宜しいでせうか。)
こりゃあ、御救ひ一方にしたがいゝですよ。家族や親類の反対は全然構はなくていゝですよ。それにこの人は「御救ひの方が多忙だ」って言ふんだから。
私がそうでしたよ。皆反対だったんですが、私は頑としてそんなのに耳を傾けずにやってたんです。実際、この位立派な、いい事はないんですからね。魚をとって人に喰はせるよりか、この方がいゝですよ。漁師をやる人は他に沢山あるんですしね、これで人を救った方がどんなにいゝか判りませんよ。――職業を選ぶ場合だってそうですよ。どっちが世の為になり、多くの人が幸福になるかを考へて、こっちの方がいゝと決ったら、誰が反対しようとどんどんやってくんですよ。私だってそれで押し通したんです。よく、当局が調べるとか、弾圧されるとか、医師会が妨害するとかいろいろ聞きますがね、私はそんなの何とも思ひませんよ。何故って、私のやってる事の方があっちでやってる事よりずっといゝんですからね、それを止めようとするのは悪いんです。正しい神様が居られる以上悪が勝つなんて事は絶対にないんですからね。
それから又、こっちが確固たる信念を持ってると反対者はなくなるもんですよ。反対者があるとか、いろいろ妨害されるのはこっちに未だ隙がある事も多いんです。いくらかでも迷ひとか弱い所なんかゞあると、そこを狙って――やはり霊ですからね、邪神が邪魔するんです。こっちが十が十決心して隙がなければ、邪神はどうにも出来ないんです。
そうなると反対する者も諦めますよ。そしてその中に「あゝあれは成る程いゝんだな」っていふ事が判って来て、お辞儀をして来たり、賛成したりする様になるんですから、この人も家族や親類の反対なんかにはビクともしないでやっていゝですよ。」
(御光話録17号 昭和24年)