第一章 メシヤ様の御神格

 

 7、神人合一

 

 メシヤ様は、昭和10年に「大日本観音会」として宗教で進めようとされていましたが、当時の社会的背景によって、官憲による弾圧を受けたりする中で、宗教として進むのを諦め、「大日本健康協会」とか「岡田式指圧療法」という形で病気治療として、戦争が終わるまで雌伏のときを過ごされ、その間に多くの弟子の養成をなされました。

 そうして戦後、信教の自由が許されると、「日本観音教団」という宗教法人として再び、活動を再開されました。そして、昭和25年2月4日に「世界救世(メシヤ)教」を立教されます。

 そしてその時には、次のような大変重要な御論文を発表されています。

 

「開教の辞 世界救世(メシヤ)教の誕生に就て」                                                            

                                                     (救48号 昭和25年2月4日)

                                                       

 「昭和廿二年八月三十日、宗教法人として創立された日本観音教団並びに同二十三年十月三十日同じく創立された日本五六七教会は、今回自発的に解散し、右両会を打って一丸としたる新しき構想の下に、本年二月四日立春の日を期して、標題の如き宗教法人世界救世(メシヤ)教の創立出現となったのである。

之は、非常に重大な意義があり、勿論神の深き御旨に由るのであって、人間の意図でない事は今更言うまでもない、何時も吾等が唱える処の、霊界に於ける夜昼転換の時期に愈よ入ったからである、之も吾等が常に言う処の仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅と共に観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にして言えば仏滅を意味するのである、従而、観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。

以上の如く霊界が昼となる以上、之が現界に移写するに於ては、夜の文化は当然不用なものは滅び有用な物のみが残る事となるのは当然である、それのみではない、長年月に渉る暗黒時代によって人類の罪穢の少なからず堆積せる以上、それの清掃作用が行はれなくてはならない、右の滅ぶべき不用物とは之を指して言うのである、而もそれと同時に昼の文化の建設が開始さるるのである、斯の如き空前絶後の一大転機とは、何を指すのであらうか、全く何千年否何万年以前より決定してゐた神のプログラムなのである。

又別の言葉を借りて言えば大規模な世界的破壊と創造が行はれるのである、嗚呼斯の如な重大時期に際会しつつある今、神の大愛は如何なる形に表はれるかを知らねばならない、即ち其具体化としては一切が滅ぶものと生き残るものとの何れかに決定さるるのである、然し乍ら右は止むを得ないとしても神の恩恵は、一人でも多く滅ぶるものを救はせ給はんとして、神の代行者を選び救世の大業を行はせ給うのである、又その使命達成の機関として運用されるのが本教であるから、本教の使命たるや実に大なりというべきである、此意味に於て愈よ切迫せる最後の時期に当っての活動こそ括目すべきものがあらう、其結果吾の唱導する地上天国こそ最後の目標でなければならないのである。

私は、これまで顧問の名の下に、いはば蔭にあって経綸を行ってゐたが、漸く基礎的工作も出来上ったので、茲に表面的活動に移る事となった訳である、端的に言へば、いよいよ本舞台に登場する事となったのである、従而各般に渉って漸次組織形体は固より、活動の形式も新しく生れるのは勿論である。

そうして、祝詞にもある如く観世音菩薩、光明如来、メシヤ(救世主)、彌勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊である以上根本は変るのではない、いはば時期に応じて御神霊の活動範囲が拡充するのであるから、御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない、未だ種々発表したい事もあるが、時期の推移に従って漸次発表する段取となるので、今は此辺に止めておくのである。

最後に言はなければならない事はこれ迄は観世音菩薩の御働きであったから、言はば東洋的であった、然るに時期切迫の為どうしても一大飛躍によって全人類を救はなければならない、とすれば世界的に拡充する必要がある、世界救世教の名に因る所以である。

今一つは観世音菩薩は、善悪無差別的の救済であったが、愈よ地上天国が目前に迫り来った、今日茲に善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった、所謂悪のトドメである、従而救ひの力も決定的でなくてはならない、その力こそメシヤの揮はせらるる大神力である。嗚呼、慶賀すべき時とはなったのである。」

 

 この「開教の辞」の中には、大切なことがたくさん掲載されておりますが、その中でも善悪を立別け、悪を滅しなければならないとして、「悪のトドメ」の時である事について書かれて、締めくくられております。そして、世界救世(メシヤ)教としてこの内容でもって進めようとなされました。

 しかし、その3ヶ月後には天国会系の密告により事件が起き、メシヤ様の逮捕、そして「頭脳の拷問」と言われるような官憲による厳しい取調べを受けました。

事件後、「教団が潰れるかと思ったよ」とおっしゃられたほど、大変厳しい法難に遭われましたが、この時ご自身の御神格にかかわる大変重大な神事が、側近の者が誰一人としていない、牢獄の中でありました。

 この出来事にかかわる御教えを抜粋して、ここに紹介したいと思います。

 

 

「一つの神秘」              

(栄83号 昭和25年12月20日

 

「先頃、私が入獄中、種々の神秘な事があったが、時期の関係上全部知らせる訳にはゆかないから追々知らせるとして、今は只一つだけの事をかいてみよう。

忘れもしない、今度の事件で留置されたのは、昭和廿五年五月廿九日であったが、間もなく留置所にいるのは十八日間という神様からのお知らせがあった。それは数えてみると六月十五日迄となる。処が当日の二三日前位から一大神秘が起った。之も或程度以上は知らせられないから、其中の差支えない部分だけ茲にかいてみるが、確か六月十三日であった。

朝から何となく腹が痛いので、そのままにしていた処、午後になると下腹部一面が猛烈な痛みとなって来た。多分急性腹膜炎だろうと思ったのは、何しろ私の身体も、昔の薬毒がまだ相当残っていたから、其塊りが溶けはじめたに違いないと思って、自分で浄霊した処、どうやら我慢出来る程度にはなったが、まだ何となく気持の悪い痛みが続いた。いつもなら二三十分も浄霊すれば治って了うのに、此時ばかりは半日経っても、一日経ってもすっきりしない。とうとう一晩中大した程でもないが、痛み通しで翌朝になって了った。

そこで私も不思議に堪えず、神様のお知らせを仰ぐと、之は大きい御経綸の為で、止むを得ないのだから、少しの間我慢せよとの事なので、どうしようもなかった。と共に“そうだ”翌六月十五日は恰度十八日目に当る。而も、私の著書にもある通り、昼の世界になる黎明の第一歩が、昭和六年六月十五日である。としたら之に関聯があるに違いない、つまり腹の中を充分清掃する為の準備的浄化、という訳がハッキリ判った。(中略)

愈々、六月十五日となった。すると朝まだき、今日の重大な意義がハッキリして来た。というのは以前かいた著書に、私のお腹の中に光の玉があるという事で、之を読んだ人は知っているだろうが、此光の玉には今迄魂がなかった。処が愈々今日○から○った或高位の神様の魂が宿られた、即ち右の御魂が現世に生誕された事になるのである。之から此神御魂が段々御育ちになり、成人されるに従って、玉の光は漸次輝きを増し、将来大偉徳を発揮さるるに到るのである。

そうして面白い事には、翌十六日には朝から食欲が全然ない。やっと昼頃になって牛乳だけが欲しくなったので、差入屋に頼んで取寄せ、コップに一杯呑んだが、其美味さは格別だった。其時成程と思った事は生れたばかりの赤ン坊だから、乳が呑みたいのは当り前で、確かに之が型なんだ。という訳で愈々大経綸の第一歩を踏み出す時となったのである。

即ち花が散って実を結ぶという、其実の種の中心のポチが、腹の中へ宿ったので、実に人類始まって以来の大慶事である。

処が此様な万人祝福すべき空前の重要神業が、一人の部下もいない陰惨なる牢獄内で行われたという事は、何たる皮肉ではなかろうかと、私は熟々惟われたのである。此一事によってみても、神様の経綸なるものは、如何に深遠微妙にして、人智を許さないものたる事を知るであろう。此前後の経路は法難手記にあるから茲では略す事とする。」

 

 

神人合一」                   

(栄155号 昭和27年5月7日)

 

「よく昔から神人合一という言葉があるが、実際からいってそういう人は、今迄に一人もなかったと私は思っている。成程釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者にしても、神人合一の如く見ゆるが、実は神意の伝達者であって、判り易く言えば神の取次者であったのである。という訳で世人は神人合一と、神の取次者との区別を知らなかったのである。即ち神の取次者は神憑りや、神の命によって行動するのであるから常に神や仏陀を祈り、其守護を仰ぐ事にしているのである。

処が私はそういう事は全然やらない。信者も知る如く、神を祈る事もないし、神の指示を仰ぐ事もない。只自分の思うがままを実行していればいい訳で、甚だ簡単である。としたら今迄に例のない事とて、変に思うかも知れないから、茲に差支えない点だけをかいてみよう。いつも言う通り私の腹には光の玉がある。之は或最高の神様の魂であるから、私の言動凡ては神様自身が、私を自由自在に動かしているのである。つまり神と人との区別がない訳で、之が真の神人合一なのである。

従って私に在られます神霊は、最高の神位であるから、之以上の神様は世の中にないのであるから、他の神様に頭を下げる意味はないので、何よりも信者が日々顕わしている奇蹟がそれを證拠立てている。其奇蹟たるやキリストの顕わした奇蹟以上の奇蹟が、常に顕われているので、私の弟子でもキリストに較べて何等劣る処はないのであるから、此一事だけでも私の神格は想像つく筈である。

今一つ言わねばならない事は、今日迄の悉くの聖者は、将来天国的世界が実現するという予言はしたが、自分自身造るとは曰われなかったのは、全く神格が低く力が足りなかったからである。私は自分自身が病貧争絶無の地上天国を造ると宣言しているのは、右の理由によるからである。という訳で今後私は今迄にない幾多の驚くべき経綸を行うから、それをよく見て貰いたいので、到底人間業とは考えられないような事が、ドシドシ出て来るであろう。」

 

 

「神様と私との関係」              

 

(地57号 昭和29年2月25日)

 

「これは昔からよくある事だが、宗教の教祖や自称生神様などは、よく神様に伺いを立てるとか、神様の御託宣を仰ぐとかいって神憑りになり、自問自答をしたり、自動書記や心に浮かぶ等の行り方であって、言わば間接的方法である。処が昔から神との交通はこの方法より外にないのは衆知の通りである。処が私という者は全然異っていて、未だ嘗て世界に例のない存在であるから、一通りかく必要があると思うのである。

私も以前は神との交霊的方法によって御蔭を得た時代もあったが、これは重大な事柄に限ったのである。その場合色々面白い事があった。例えば心配事がある時など伺いを立てると、神様は何事も言われず、只呵呵大笑されるのみで、私はハハア心配するなとの事と解したのである。処が日の経つに従い果してその通りであったので、今度は私の方も呵々大笑したので、こんな事も度々あった。そうして私が大本教信者であった頃は、国常立尊という神様が時折お憑りになったが、その神様は崇高な威厳と厳しい霊感のあった事は今でも覚えている。併し一番憑られたのは何といっても観音様で、絶え間なしという位であった。勿論その時の気持は、何ともいえない和かさで、大慈大悲の御心が溢れていたのである。(中略)

まだ色々あるので何れはかくが、ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際留置所の中で、頗る神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴の○○○○○の神様であって、出所早々散花結実の書を千枚かいて主なる信者に頒ち与えたのも、その時の経綸によったのである。処がその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままを行ればいい事になったのである。

このような訳を知ってから分った事は、神様に伺うというのは、最初にかいた通りこれまでの行り方であって、間接的である。処が今度のようになった私としては、未だ嘗て世界に例のない事は勿論で、釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者は判らないが、恐らく私程の神との直接的ではなかったと思うのである。何故なれば今日残されている幾多の功績を見ても分るのである。」

 

 

「光の玉の中に心、種が入った」

 

「 (前略)私のお腹の中に光の玉があり、今迄中に心がなかった。その種が六月十五日留置場中で入った。その種が髄になる訳である。之は悉しくは言えぬ。大本教のお筆先の一輪の身魂で、種が育つに従ひ、光の玉は大きくなる。そして現界は昼間になるし、現界に大きな変化が起る。即ち大浄化が起る。今迄は霊界だけが昼間であった。すると穢れのある所は凡て浄まって行く。之がキリストの言った、世の終り、最後の審判――である。

種は或所から――天から降る訳である。それから十日経って朝から、大浄化が始まった。種は――人間でいえば赤ン坊である。十六日は何にも喰べられぬ。乳が飲みたくなり、牛乳を呑んだ。十四日の日、朝夢をみた。富士の山の上に御殿があり、そこへ上る。周りは夢にも、景色-雪のあるうちで、未だ寒い訳で、梅の咲く頃である。昔から一富士、二鷹、三茄子といい、斯んな良い夢はなく、明日は出られる事と思ったら、翌日「君出なさい」と言ふ。釈放されると思って外へ出ると見知らぬ警官が、今日は静岡へ行く――といふ、身の廻りのものを整え、自動車に乗せられ、喜んだのは逆で、刑務所の表の方へ着いた。手続を済して中へ入ると、新しく出来たアメリカの監獄のようで、之は長くゐても辛くないと思った。一輪の身魂が宿る――神様に聞くと、一旦日本の真中へ行かなくてはならぬと言はれた。刑務所は静岡の真中になる。 (後略)」            

 

(「御講話(速記)」昭和25年8月1日)

 

 

「私が拝む神様はない」

 

「それからこう言う事を知らなければならないんですがね。それは、昔から宗教の教祖とか言う人が、何でも一々神様に御伺いするんですね。そうすると御託宣が出て、神様がこう仰言つた。とか言うんですがね。そうすると、それを聞いた人は大変有難がるんです。有難く思うんですね。処が私はそんな事はしないですね。唯、其場々々で簡単に言つてのけるので、有難味がないんですね。だから、ともすればそれを軽く思つて聞き逃しちやう訳ですね。で、何かあると、こう言う事を以前にお聞きした。之だと言う事に気が附くんですが、初めは中々そう思わないんです。それですから私の言う通りやらない人も随分あるんですよ。

それは何う言う訳だと言うと、私は神様に聞く必要はないんです。私のお腹に居られる神様は最高の神様です。自分が言う事行る事が、その儘神様が行つている事と同じですからね。つまり直接なのですね。処が、今迄の宗教の教祖と言うのは間接なんです。キリストにしろ、自分はエホバの命に依つて生まれたとか、天の父だとか、何とか言いますが、あれはやつぱり間接的なんです。で、私に居られる神様は、エホバと同じなんですからね。そこで、私は神様を拝んだ事がないですね。

何処の何の宗教でも、御祭だなんて言うとやつぱり神様に、教祖が恭しく礼拝するものなんですがね。私はやらないんです。と言うのは、私が拝む神様はないんですよ。若し神様があるとすれば、私より皆下だからね。だから、神様の方で私を拝んで良いんですよ。

それですから、御守を一つ書くにも、普通は斎戒沐浴して、羽織袴で恭しく書くんですが、私は夏なんか裸でアグラかいて書く。だから知らない人は有難味はないんですがね。私は何んでも無造作にやつてのけるんです。難しくする必要がないからですよ。ですから、反つてその点を逆に考えられるんですね。逆に思われるんですね。誤解されるんですね。

然しそれは、段々分つて来れば良いと思つている。だから一時的誤解は私は何とも思わないですがね。こう言う事も余り生神様らしく思わせることになるので、私は好かないので余り言わなかつたんですが、その為に私の言う事を軽く見る場合がよくあつて、その為に間違がよくありますから、その為に言つておいた方が良いと思つてお話するんです。

だから、その点を良く心得て居て、他の宗教や、教祖と較べればはつきり分るんですよ。一番分るのは、キリストの奇蹟なんかは、非常に有名になつてますが、私の弟子で、キリストと同じ様な奇蹟は盛んにやつているんですからね。それ以上の奇蹟さえあるんです。時間があつたら読もうと思つたんですがね。奇蹟以上の奇蹟と言うんですがね。(後略)」             

(御教え集9号 昭和27年4月7日)

 

 

「最高神の御経綸の下に、主脳者として大任を負わされた」

 

「 (前略)それに就て私の事を書かねばならないが、抑々私という者は、世界の終末に際し、全人類を救い、病貧争絶無の地上天国を造るべく最高神の御経綸の下に、主脳者としての大任を負わされたのであるから、神は私に対して絶大な救いの力を与え給うたのである。其力というのは病貧争絶無の中心である処の病の解決であって、それに対する智識と力である。前者は私が今日迄解説して来た医学の誤謬や病理其他であり、後者は浄霊による治病の力である。(中略)

然らば其力の本源は一体何処にあるかというと、私の腹の中には、以前から知らしてある通り光の玉がある。此玉はそれまでは玉だけの力であったものが、昨年六月十五日、日本で昔から云われている処の麻邇(マニ)の玉、又は五百津美須麻留(イオツミスマル)の玉、又は如意宝珠の玉である。玉とは魂であるから、其魂が右の日時に、静岡県清水庵原署の留置所内で、天から降下され、宿られ給うたのである。此事は其当時簡単に発表しておいたが、之を私は結実と曰ったのである。それが段々育つに従って、玉の力も日に月に強力となりつつあるのである。之は其頃から浄霊の力が特に強化された事にみても、信者はよく分るであろう。

只現在其神様の御名前を詳しく曰う訳にはゆかないが、何れ時期が来たら発表するつもりである。然し釈尊、キリストをはじめ幾多の聖者の予言を、よく考えてみれば凡その見当がつく訳である。」                      

(「病原と浄霊の原理」地27号 昭和26年8月25日)

 

「(前略)二十五年から先になると、日月地(ミロク)のお働きになり、如意宝珠の働きになり、絶対力を発揮出来る。

(後略)」                               

(年代不詳)

 

 このように「神人合一」になられた経緯を述べておられます。岡田茂吉師、メシヤ様の腹中にあった「光の玉」に最尊最貴の最高の神魂が宿ったということは、魂(〇)にチョンが入ったわけで、人間として誰も到達したことのない「神人合一」という最高の境地に到達されたことを意味すると共に、それが時と共に成長拡大し、世界大に段々と御光が大きくなるに従い強くなって、御救いがf拡大され展開されていくことを意味していると思います。