第一章 メシヤ様の御神格

 

 3、腹中に「光の玉が鎮まる」ことを自覚

 

「玉のようなものが腹の真中へ鎮座して了った」

「(前略)一体私という人間は、何の理由によって此世の中に生れたかであるが、私の前半生は平凡なものであった。然し一度宗教人となるや、凡てが一変して了ったのである。というのは何物か分らないが、私を狙って何だか目には見えないが、玉のようなものを投げかけた、と思うや、其玉が私の腹の真中へ鎮座して了ったのである。
それが今から約三十年位前であった。処が不思議なる哉、其玉に紐が付いているらしく、それを誰かが自由自在に引張ったり、緩めたりしているのだ、と同時に私の自由は取上げられて了ったのである。自分が思うように何かをしようとすると、紐の奴引張っていてそうはさせない。そうかと思うと思いもよらない方へ紐が引張ると見えて、其方向へ運ばせられる。実に不思議だ、恰度傀儡(カイライ)師に操られている私は人形でしかない。(後略)」 
                    

(「宗教文明時代(上)」栄116号  昭和26年8月8日)
 

 

「何者かが私を操り、神の世界の実在を、奇蹟を以て会得させた」

「(前略)それというのは何しろ驚くべき奇蹟が次から次へと出て来るので、茲に心機一転百八十度の転換となったのは勿論、日の経つに従ひ益々奇蹟続出、遂には私の過去、現在、未来に亘る運命に就いての霊的啓示をも受けると共に、自分は超人的力を与へられ、人類救済の大使命を荷う事が判然としたのである。そうしてその頃洵に不思議な現象と思ったのは、偉大なる何者かが私を自由自在に操り、一歩々々神の世界の実在を、奇蹟を以て会得させた事で、其際込上げて来る歓喜をどうする事も出来なかった程である。此気持たるや幽幻至妙言葉では現はせない心境であった。而も相変らず奇蹟続出で、興味津々たるものがあった。一日の内に何度心が躍ったかは分らない。その中での最も大きな奇蹟は、大正天皇崩御の年、即ち大正十五年十二月の事であった。(後略)」   

 

(「私は神か人か」未定稿  私物語  昭和27年)

 

 

「私の腹中に光の玉がある」

「(前略)それは私の腹中に平常は直径二寸位の光の玉がある、之は見た人もある、此玉の光の塊から光波は無限に放射されるのである、然らば此光の玉の其本源はどこにあるかといふと、之が霊界に於ける観世音菩薩の如意の玉から、私に向って無限光を供給されるのである、之が即ち観音力であり、不可思議力妙智力とも言はれるものである、如意輪観音が持し給ふ玉も之である」         

 

(「神示の医学  浄霊の原理  -第三-」光号外  昭和24年5月30日)



「(前略)私の腹の中には光の玉がある。この玉こそ到底説明は出来ない幽玄微妙なるもので謂わば主神が自由自在に行使する神器であって、昔から曰われている如意宝珠、麻邇(マニ)の玉がこれである。勿論この玉の威力こそ人類肇って以来初めて私という人間に与えその使用を許されたもので、この玉の光が霊線を通じて御守に伝達し、無限に光を供給するのであるから、御守の数がどれ程増えても何等変りはないのである。(後略)」
                 

 (「私という者(一)」地47号  昭和28年4月25日)



光の玉」については、「人類肇って以来、初めて私という人間に与えその使用を許されたもの」とおっしゃられています。また、何故、このようなことが起こったのか?という疑問もあるかと思いますが、それは「時期」だからです・・・霊界の転換期だからです。
時期については、次のようにお話になっています。

「(前略)この玉ってのは如意の玉で、つまり之は神様の方から霊線によって或る光を送られるんで、之はその神様の御神体とも何とも一寸言へない――光そのものなんですよ。然し、之は本当は人間が使ふ可きもので、これによって神力が出るんです。観音力って言ふのはそういふものなんですよ。所がこの玉を今迄は使ふ人がなかったんですよ。時期が来てなかったから使へなかったんです。夜の世界の間は水素が多かったので、その玉が水素に包まれてゐたんです。」           

(御光話録12号  昭和24年6月3日)

 

今までは夜の時代だったので誰も使えなかったと述べられています。夜の時代から昼の時代へと霊界が転換する時期であるために、使用を許されたと・・・。ですから夜昼転換ということが如何に大なき意味合いを持っているかということがここでも分かるわけです。
た「夜昼転換」ついて述べられた御教えを下記に掲載しますが、詳しい説明等は、簡単講座 第一講の「夜昼転換」を読んでください。

 

 

「三千年の転換期が現在で、今はその黎明期」

「(前略)ここで私は霊界なるものを徹底的に掘下げてみよう。抑々霊界の本質は日、月、土の三精から成立っており、科学でいう酸素、水素、窒素であり、吾々の方でいう火素、水素、土素の結合体である。そうしてこの三原素中の土が物質の本体で、日が霊の本質、月が空気の本質となっており、この日月二者がコントロールしたのが大気であって、これが地上の空間を充填しているのである。
併し火素が最も強力だが、稀薄なる為物の科学では把握出来なかったので、今日までは熱と光は分るが、精としての本質が不明であったのである。その為科学は水素と土素のみを研究の対象としていたので、現在は水と土の文化であり、これが文明の一大欠陥であったのである。
処でここに驚くべき世界の一大異変をかかねばならないが、それは前記の如く日、月、土の三原素から成立っており、日と月の交替によって昼夜の別があるが、これは物の面から見た現象であって、これとは別に霊の面にも昼夜のあることである。勿論物の科学では分りようがないが、霊の科学ならよく分る。
では右の異変とは何かというと、これこそ未だ嘗て人類の夢想だもしなかった処の驚くべき世界の大転換であって、それが今や開始されんとしているのである。それは昼夜を押拡げた歴史的異変であって、これを分るには時間的考察より外はない。即ち霊界に於ては十年、百年、千年、万年にも昼夜の交替があることである。
即ち地球の実体は火水土の三原素から成立っている如く、宇宙間一切は三の数字が基本となっており、これが宇宙の鉄則であって、昼夜と雖も三年、三十年、三百年、三千年というようになっている。勿論その物の性質と大中小によって、霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。
その三千年の転換期が驚くべし現在であって、今はその黎明期に当るのである。このことは以前もかいたことがあるが、その日時までハッキリしている。
それは一九三一年六月十五日であって、この時を期として世界は昼になったのである。といっても或時期までは霊界の変化であるが、漸次現界に移写し、何れは現実的に分るのである。併し私はこれ以上深く解説したいが、それでは宗教的になるからここでは省くが、兎に角右は絶対であることを信ずればいいのである。
  そうして霊界が昼になるということは、火素が増量することであって、徐々ではあるが物の世界にも移写しつつある。それは水主火従であったこれまでの世界が、逆に火主水従となることである。併し物の科学で分らないが、霊覚者なら充分分るのである。これによって今まで未解決であった凡ゆる問題も、明確に解決されるのである。(後略)」   

 

(「私は宗教科学者だ 」栄255号  昭和29年4月7日)



 その「夜昼転換」という「時期」の他に、この「光の玉」を使うことが許されたのは「私という人間に」なんだとおっしゃっています。ここがポイントだと思います。
では何故、岡田茂吉師に許されたのかという疑問も起こると思います。
それについては、関連する他の御論文をよく読むと分かると思いますが、戦争を嫌う平和愛好民族であり、天照皇大神の系統、本当の神様の直系である大和民族の中心であり頭領であり宗家になるのが伊都能売神皇(イヅノメシンノウ)様であり、それが岡田茂吉師であるからこそ、「光の玉」が宿ったわけです。だから今後においてこの「光の玉」の宿った人間が出ることは、何千年というスパンでなら考えられるかもしれませんが、少なくとも数十年単位、数百年単位ではまず考えられないことと思います。
それは為郷氏との対談内容にある次のようなお言葉からも理解できると思います。


「為郷氏  その玉と言ふのは明主様丈がお持ちになって居られるのですか。

 

  明主様  そうです。

 

  為郷氏  そう致しますと仮に明主様が百年の後に霊界にお這入りになりますとない事になりますが……

 

  明主様  併し霊界から出しますから同じ事です。却ってよく出ます。体があると邪魔になりますから。

               

(「為郷恒淳氏との御対談  無病息災の世は来る?」栄179号  昭和27年10月22日)



 の夜昼転換期という時期に自ら生まれて、基礎的御経綸を進められ型を完成して霊界に帰られ、神界の建設と共に現界に対しては「光の玉」の力を霊界から存分に発揮されるということをおっしゃっておられます。家族や親族、又は教団幹部に「光の玉」を授けるとはおっしゃっておられません。ここもポイントだと思います。
ですから、我々はその力を発揮されるメシヤ様にピントを合わすということが大変重要になってきます。それが現在です。そこに、組織や専従者が入る余地はありません。霊線で直接にメシヤ様と太く繋がるということが一番大切なことになってきます。
そしてメシヤ様のお言葉通りの心言行を通してメシヤ様にお認めいただく、そうすると浄霊力も変ってきます。ですから、メシヤ様の御言葉通り、御教え通りに進めていくということが大切であります。
 それでは、その後のメシヤ様のご様子を御教えで見てみましょう。