第一章 メシヤ様の御神格 

 

10、主神様とメシヤ様

 

この項では、「主神様」と「メシヤ様」のことについて、御教えを通して、確認していきたいと思います。


「本教の主宰神は主神様」

「抑々、世界の創造主たる主の大御神(ヱホバ)は、此地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行はせ給いつつある事を吾等は信ずるのである、之に対して人間を神の代行者とされ給うと共に、一切万有は人間の為に造られたものである、故に今日迄の人類史は其為の準備工作に外ならない事を信ずるのである、従而、神は其時代々々に必要なる人間と、必要なる宗教を顕はし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである。
  今や、世界の状勢は混沌として帰趨を知らず、此時に際し、主神は吾等の岡田茂吉教祖に救世主(メシヤ)の大任を下し給い、人類救済の聖業を達成せしめ給うを信ずると共に、人類の三大災厄たる病貧争を根絶し、真善美の完き恒久平和の理想世界実現を目標として精進邁進せん  事を期するものである。」 

                                  

(「世界救世教教義」救53号  昭和25年3月11日)

 

「(前略)今迄の宗教にしろ何にしろ、主神の教えでなかつた。つまり善の側の神様が出て説いたのですから、悪というものを一概に全然いけないと排撃したのです。之は善悪両方の神様が拵えたのです。善の方の神様はキリストとか釈迦を使つて説かせたのです。処が私は善悪両方の主神――その神様の計画を説くのです。(後略)」 

                    

(御教え集13号  昭和27年8月17日)

 

「(前略)「主(ス)の文化」と言うのを書いているんですが、今迄は丸ですね。ポチ――之が元なんです。と言うのは、今迄の世界は主(ス)の力が出なかつた。つまり主神は――人間で言えば親父が出なかつた。番頭なんです。だから今迄の神様は、神様の番頭なんです。キリストだつて釈迦だつて、番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父と言うのは主神ですからね。だから肝腎の中心は、みんな隠されている。丸丈しか見えないし、それ丈しか解らなかつた。で、メシヤ教と言うのは、主神の力と言う事があるんです。ポチですね。(後略)」    

 

(御教え集8号  昭和27年3月5日)
 

「(前略)今日まで信仰的病気治しの行り方は色々あるにはあるが、それは神仏の間接的御利益と自力との二つであるばかりか、神仏といえども二流以下の資格であるから、ある程度以上の力は発揮出来なかったのである。ところが本教の主宰神は主神である以上、揮われる力は絶対力である。何よりもすべての宗教が病院を作っているに拘らず、本教のみは作っていないにみてわかるであろう。(後略)」

 

       (「一人が百人」栄192号  昭和28年1月21日)

 

「明主は光明如来の働き」

「(前略)私は現在は光明如来の働きを主にしておるので、釈迦如来、阿彌陀如来と同等の地位として、釈迦如来がよく曰われた十大弟子の意味と思えばいいのである、又浄霊を専門にしてる人と、普通信者と紛れ易いので、そう言った方が判り易いからでもある。
  氏のいう如く、以前私は大先生と呼ばれた事があったが、其時は観世音菩薩という菩薩行であったからそれでよかったが、如来となってから明主の名にしたのである、又自観とは自分は観音の働きをしてるという意味であり、その他和歌の名の明麿も斯ういう訳で付けたのである(後略)」

 

(「私の名称に就て」栄121号  昭和26年9月12日)

 

「(前略)二月四日を契期として非常に変る。観音教とか五六七教とかいい、観音教は仏界を表はし、観音は化仏といって化身である。光明如来も化仏である。化身では絶対力が出ない。
  世の変り目に絶対力を揮はなくてはならぬ。二月四日からそういふ事になる。そして、観音様はメシヤのお働きになる。(後略)」                  

 

 (年代不詳)

 

「日月の  精を身に受け  栄光の 雲より降る  大救世主(ダイメシヤ)はも」                                   

 

(昭和25年 未発表)

「(前略)屁のやうにブツブツ吐かす 欲一点張りの コエビシャク同然 手の付けられないクセに  此三千世界の大救世主大彌勒様に向つて ゴテゴテと善だとか悪だとか 姑婆のように小ウルさくホザキやがるに至つては 最早勘忍袋の緒が切れ 金の棒どころか鉄の棒でドヤしつけるかもしれねえから 今のうちに覚悟してをけ 今に俺様がチョイと掌を返すと 急転直下 奈落の底へ落ツコチル奴が ウンと出来るかもしれねえから、一時も早く眼を醒し 耳の穴をカッポジッて来やがれ 庭の草ムシリか 塵溜め蛆虫とり位に使ってやろうから」     

 (笑冠沓句集 昭和26年)

 

 

「メシヤ様の御働き」

「問:今度世界救世教御開教を戴きまして、信仰対象の神様の御称名は神、救世神、大光明如来、観世音の何れを御称へ申し上ぐるべきで御座いますか。右御垂示を御願い申し上げます。
答:今は大光明如来、観音何れのお働きもある。メシヤの御働きはホンの始まりで、極く霊でだけに出ている。
  何れも同一神ではあるが、まだ神様からお知らせはない。或る時期へ行くとハッキリする。も少し今迄のままでよい。段々移ってゆく。」 

                             (昭和25・2・8)

 

「(前略)私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり、各聖者の予言の裏附者でもある。というと、その言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、いかに確信に満ちているかが窺われるであろう。それというのも、主神は私に対して目的達成に必要な凡ゆる智慧と能力を附与せられ、然も超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未だ嘗てなかったものである(後略)」          

 

(「序文  救世教とはなにぞや」  天福  昭和29年8月25日)

 

「(前略)私に与えられている神力は、最高級の神霊であるから、絶対力といってもいい位のもので、此力は本当に揮われた者は、昔から一人もなかったのである。(後略)」
                          

 (「力」栄151号  昭和27年4月9日)

 

「(前略)此力こそ神霊から発揮される絶対力である。処が此力は何によって発現されるかというと、之こそ私の身体を通じて発揮される神力である。(後略)」  

 (「原爆恐るるに足らず」栄153号  昭和27年4月23日)

「(前略)金剛力は国常立尊の神の力。(強い力)
絶対力は主神の力、至聖先天。大自然力は自然界全部へ遍満された力である。」                       

(S24・5・23)

 

「(前略)メシヤといふ神は国常立尊といふ審判の神様で、之は永久的のものでない。或時を限られたお働きで、長い。(後略)」     

                                           

(「御講話(速記)」昭和25年8月1日)

 

「(前略)私は神様を拝まないのですが、こんな宗教はないのです。古い信者の人は知ってますが、新しい信者や、これから信者になる様な人に対して、一応知っておかなければならないので書いたのです。(後略)」

         

 (御教え集17号  昭和27年12月5日)


「(前略)私は神様を拝まないという事はそういうわけです。拝むのでなくて拝ませるわけです。今までこういう事を言わなかったのは誤解するからです。(後略)」       

 (御教え集24号  昭和28年7月17日)

 

「(前略)私の腹に居られる神様は――私が言つたりしたりする事は、神様が直接するんですから私が拝む事はない。それから、拝むと言う必要はないんです。私のお腹の中に居られる神様は最高の神様ですから、拝まれるのは当り前ですが、こつちで拝む神様はないんです。みんな下の神様ですから、私の思う儘にやつて居れば、それが最高の神様がやられているんですから、そこで私は、神憑り的な――私が御神体に向つて礼拝しないと言うのは、そう言う意味なんです。之は今迄の宗教には一つもないんです。(後略)」               

 (御教え集9号  昭和27年4月5日)

 

「私は、神格上の最高地位にある」

「私は神様を拝んだ事がないのは、信者はよく知っているが、恐らく昔からあるどんな宗教の教祖でも、そういう例は絶対ないであろう。という訳で信者の中でも疑問に思う人もあるであろうから、茲にかいてみるが、元来私という者は、神格上からいって最高地位にあるので、私より上位の神様はこの世の中にないから、拝む訳にはゆかないのである。
従って本当をいうと八百万の神悉くは、私の部下と見ていいのであるから、私は凡ゆる神仏を救う力を有っている以上、近来霊界に於ては私に縋って罪を赦さるべく謝罪すると共に、今後メシヤ教の仕事を手伝わして貰いたいと願望する神仏は、数知れずという位出て来るので私も出来るだけ救ってやりたいと思っている次第である。斯んな事をいうと神仏ともあらうものが、御詫びをする程の罪を犯すなど、到底信じられないという人もあろうが、それは斯ういう訳である。即ち夜の世界の間は本当の事が隠されている為、可いと思ってした事が、実は邪神のお手伝いをしていた事に気がついたので、それを知って慌て出した訳である。それは愈々審判の時が迫って来た事で、愚図々々してはおれないから、何とかして救って貰いたいと急にそうなったのである。そこへゆくと人間の方は現界だけしか見えないからウカウカしているが、仮にも神仏である以上、霊界の事は何でも見えるし、凡ての事は霊界が先になるからよく分るので、何等執着なく、右のような態度に出たのである。(後略)」
               

 (「私が神様を拝まぬ理由」 昭和27年12月25日)

 

 

「メシヤ様=主神様」

「(前略)メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。(後略)」 

                     (「明主様御言葉」昭和29年6月5日)

 

「(前略)天照大御神は日本では最高の神様としてますが、主神ではないのです。つまり太陽神です。宇宙というものは太陽ばかりではない。月もあるし星もあるし地球もありますから、その全体を握つているのが主神なのです。それで、私は主神の仕事をさせられているわけですから、そこでそういつた今迄の偉い神様も、之からこのメシヤ教の為に大いに働くわけです。 (後略)」                        

                                              

  (御教え集14号  昭和27年9月27日)

 

「(前略)此間多賀さんの奥さんに天照大御神様が憑って、私の事を“主神様”と言ってます。良い事があって御祝に来たのです。「主神様に御祝い願いたい」と言って来たのです。最後に「主神様に御守護を御願したい」と言うのです。之は本当に憑ったのです。そうすると、天照大御神と言うと世の中では大変な最高の神様の様に思ってますが、併し天照大御神は伊邪諾、伊邪冊尊の子供になるのです。 (後略)」 

 (御教え集16号  昭和27年11月15日)

 

「(前略)世の中では天照大御神が一番尊い神様としてありますが、天照大御神が此間出られて私の事を“主神様”と言ってましたが、「主神様が愈々お出になって御慶び申し上げたい」と言って「これから精々御守護を御願いしたい」という事を言われてましたが、之は本当の事です。 (後略)」

    

(御教え集16号  昭和27年11月17日)

 

「(前略)私の腹の中には光の玉がある。この玉こそ到底説明は出来ない幽玄微妙なるもので謂わば主神が自由自在に行使する神器であって、昔から曰われている如意宝珠、麻邇(マニ)の玉がこれである。勿論この玉の威力こそ人類肇って以来初めて私という人間に与えその使用を許されたもの (後略)」    

                                    

(「私という者(一)」地47号  昭和28年4月25日)

 

「(前略)この玉ってのは如意の玉で、つまり之は神様の方から霊線によって或る光を送られるんで、之はその神様の御神体とも何とも一寸言へない――光そのものなんですよ。然し、之は本当は人間が使ふ可きもので、これによって神力が出るんです。」
                          

(御光話録12号  昭和24年6月3日)

 

「(前略)一厘の種はメシヤとは違ふ。神様のやられる事、計画は非常に深く絶対判らぬ。経綸は最高の神たる国常立尊様でも判らぬと仰せられる。経綸の主体は大彌勒の神で、此神が経綸の中心である。 (後略)」 

          

  (「御講話(速記)」昭和25年8月1日)

 

「(前略)此一厘の御魂こそポチであり、麻邇の玉であり、如意宝珠であり、之によって五六七の御代が生れるのである。(後略)」         

                                        (「彌勒三会」文創  昭和27年)

 

「(前略)今迄は六六六の世界であったが、今度は天の一が地に降って、天が五に、地が七になると言ってある。その一が如意の珠で、如意宝珠、麻邇の玉―即ち主の身魂にもなる。九分九厘と一厘といふのもそれで、地へ降りると五六七の順序が正しくなる。(後略)」                           

 

(S23/11/21)

 

「神道では麻邇の玉、仏教では如意の宝珠と云ふので、玉とは魂の事で絶対力の意味です。今まで世に出た事がなかった。で、本当の事を云ふとおかしいが、之は私の腹の中に在るのです。だからいろんな事が出来るのです」(後略)」                     

                                     (御光話録2号  昭和23年12月8日)

 

「(前略)金剛力ってのは国常立尊といふ神様の力です。絶対力はつまり主神の力、至高絶対なものですね。それから大自然力ってのは絶対力が自然界全体に遍満した有様ですよ。」
                    

 (御光話録10号昭和24年5月23日)

 

 

「(前略)メシヤというのは人間の名前です。神様は、主の神――エホバですね。(後略)」           

 (御垂示録9号  昭和27年5月1日)

 

「抑々、世界の創造主たる主の大神(ヱホバ)は、此地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行はせ給いつつある事を吾等は信ずるのである(後略)」          

(「世界救世教教義」 昭和25年3月11日)

 

「メシヤ様と主神様の違い」

「(前略)大国常立尊は造物主の仕事をされた。造物主といえる。主神の命により造物主の仕事をした。」         

 (昭和23年8月24日)

 

「(前略)国常立尊と言う神様は造物主なんだからね。その時は大国常立尊と言い、森羅万象を造られた。(後略)」             

                                   

 (御垂示録6号  昭和26年5月1日)

 

「造物主とは主の神様、最高の神、日本でいふ天之御中主大御神をいふ。
  然し主神は造物主自身ではなく、実際は国常立尊、豊雲野尊御二柱で造られ、形を豊雲野尊が造られ、それに霊を入れて生きるようにしたのが、国常立尊である。
  神典では、最初天之御中主、高御産霊、神御産霊の神様が霊と体を造られた。
  高御産霊はタタ、神御産霊はカカ、即ち父と母と転化した。
  その霊と体によって生れたのが大国常立尊、次に豊雲野尊、次に人体が出来て伊邪諾、伊邪冊尊となられた。その次に、天照大神外三柱の神がお産まれになった――とある。
  月読尊、素盞嗚尊、両方出来た。照った時が月読、曇った時が素盞嗚尊。之も神典にあるが、どこまで確実か判らぬが、全然出鱈目でもない。
  ミロク神は、霊体両方を司る――といふので、天之御中主大神の直系である
  国常立尊、豊雲野尊は傍系になる。
  故に、天の直系とは主神の表現神で、絶対力をもつ神といふ事になる。それが仏界へ表はれたのが観世音菩薩である。それで光明如来と現じ、応身弥勒と化し――とあるが、応身弥勒は未だ仏で、本当の意味ではない。それから、日月地大御神様となる。そして火水土三位一体の力を発揮せらるるのが、ミロクのお働きである。
  阿弥陀が水、釈迦が土の働きで、観音は日であるが、次に一層進んで、三位一体の五六七(ミロク)の御働きとなる。故に、観音は阿弥陀や釈迦の働きを備えられる。もっと悉しく話せるが、時期が来ない。」

                          (年代不詳)

 

「(前略)創造主たる主神の御意図即ち、宇宙意識の帰趨が洞察され得るのである。何故なれば此の大文化を造らんが為、神は数千年の時と無数の人間の力を費して発達せしめたのであるからである。(後略)」

                 (東光3号  昭和10年2月23日)

 

「(前略)天地創造の神が表現神としてその神の経綸を行なわれる。天地創造のみでは未だいけないからもう一層完全にするために形を代えて表はれられる。それが日本でいふ天之御中主大御神、又支那の天帝、無極といふ。西洋ではエホバ、ユダヤではゴッド、ヂュウス、メシヤ、印度で大自在天などといふ。これが創造神の表現神である。
  そして表現神のお働きの半面が観音様となるから、関係はあるが創造主そのものではない。」

                             (S24・1・27)

 

 

「(前略)国常立尊はメシヤであられ、閻魔大王であられる。「神は此世の閻魔と現はれるぞよ」ともある。教祖は稚姫君尊である。(中略)メシヤといふ神は国常立尊といふ審判の神様で、之は永久的のものでない。或時を限られたお働きで、長い。
  一厘の種はメシヤとは違ふ。神様のやられる事、計画は非常に深く絶対判らぬ。経綸は最高の神たる国常立尊様でも判らぬと仰せられる。経綸の主体は大彌勒の神で、此神が経綸の中心である。(中略)キリストは救主で、罪の赦し主がメシヤで、日本でいふ国常立尊である。(後略)」

 

        (御講話(速記)昭和25年8月1日)

 

こでは、「主神様」と「メシヤ様」の御関係について、深く認識していただきたいのと、「メシヤ様」を「明主様」とお呼びする時代は既に終わっている、という事を理解していただければありがたいと思います。