第三章 信仰の向上を図るために

 

 3、信仰の向上を目指して

 

① 救世(メシヤ)教の信仰とは

 

「救世(メシヤ)教の生れた理由」

「(前略)我メシヤ教の生れた理由をお話しなければなりませんが、前述の如く全人類待望の幸福な世界をお造りになる為に、主の神即ち別の御名エホバ、ゴット、ジュース、天帝、仏陀、天御中主神等で、大経綸をなされるので、其担当者として私という人間が選ばれたのであります。そうして先づメシヤ教という機関を造り、最後の救いを実行されるのであります。(中略)
 本教は幸福世界を造る大事業であるとしたら、世界は個人の集合体である以上、先づ個人々々を幸福にする事が先でありますから、其通り本教信者になれば一日々々幸福となり、天国的家庭が作られるのであります。之こそ真の安心立命であります。そうして本教程奇蹟の多い宗教は、昔から類例がないとされております。奇蹟の多い宗教程価値も大きいので此点からみても分るでありましょう。(後略)」           

   (「舌に代えて」 昭和27年3月19日)

 

 

「(前略)宗教の真の目的は、不幸を救い幸福を与える事であって、それ以外の何物でもない。それには何といっても精神ばかりでは駄目で、肉体も共に救い、霊肉共に健全になってこそ真の救いである。(後略)」           

 

(「病気が治ればいい」 昭和28年3月18日)



「本教団の使命とは」

「(前略)先づ知っておかなければならない事がある。それは本教団の使命である。此使命たるやキリストの曰った世の終り、又は最後の審判、釈迦の言はれた仏滅の世といふ時節が愈々迫り来った事である。之に対し神様や仏様は大慈悲心を発露させ給ひ、此世の大峠を一人でも多く無事に乗越させようとなさる事で、其方法として神様はどういふ方法をお採りになるかというと、勿論人間を通して行はせられるのであって、その重大な任務の担当者として選ばれたのが私であると思ってゐる。
  何しろ未だ聞いた事も、見た事もないようなドエライ使命であるから、一介の凡人たる私として、些か荷が重過ぎるように思はざるを得ないのであるが、ただ委任の当事者が大変な御方で、世にも素晴しい神様と来てゐるのでどうしようもない。まさか断はる訳にもゆかないといふ訳で、最初は随分疑っても見、反抗してもみたがテンデ歯が立たない。神様は私を自由自在に操り、踊らせるのである。或時は有頂天に喜ばされ、或時は奈落の底へ落されるような目に遭はされた事は一度や二度ではない。然しながら其度毎に神様のなされ方が実に幽玄微妙にして、何ともいえない妙味があり、嬉しいような有難いような全く人生の醍醐味とでもいふのであらう。言葉では一寸言表はせない。恐らく此感じは世界中私一人だらうと思はずには居られない。(後略)」                  

                        (「神に愛される」 昭和24年5月25日)

  

「間違いを教えるのが救世(メシヤ)教」

「(前略)間違つた事を人類に教えると言うのがメシヤ教の、世を救うと言う事なんです。(後略)」               

  (御教え集2号  昭和26年9月25日)

  

「救世(メシヤ)教は魂を治す」

「(前略) やはり人間個人々々の魂です。戦争ばかりではない。何でもそうです。最近犯罪が増えると言う事は、犯罪を起そうと言う魂なんです。それを忘れて、犯罪が現われた結果を防ごうとして、法律を以つて防ぐんですね。警察官を増やしたり、裁判所や、そう言つた――(中略)外劃だけを一生懸命やつている。処が、今言つた様に原因は中にある。中心にあると言うのは魂です。魂を良くするのは、宗教よりないんですからね。処がそれだけの力のある宗教は今迄出なかつた。そこで、宗教は信用がなくなつたので、宗教は駄目だと言うので――そう言つた形あるもので防ぐよりしようがないと言うので進んだのが、今の文化です。だから、魂を治すんです。メシヤ教でやると治るんです。(後略)」     

                         (御教え集2号  昭和26年9月27日)

   

「魂を浄化する方法は、正しい信仰以外にない」

「(前略)今人々は口を開けば政治の腐敗、選挙の不正、役人の涜職、人民の脱税、教育家の堕落等を挙げるが全くその通りで、此泥沼同様の社会を浄化せんとして、為政者を始めそれぞれの当事者人民大衆が苦慮してをり、その防犯手段として法の力のみを頼りにしてゐるが、之は全然根本を逸してゐる。何となれば犯罪の根拠は人間の内面にある魂そのものであるからである。此魂を浄化する事こそ真に効果ある方法で、それは正しい信仰以外他にない事を私は信ずるのである。」              

            (「宗教と政治」昭和24年1月25日)

  

「救世(メシヤ)教の浄化の方法」

「(前略)芸能人社会にはメシヤ教は中々認められて来て、ボツボツ信者になる人もあるのです。未だ未だ信者になる人も増えるでしようが、然しあゝいう人達が信者になるという事は大変な力なのです。というのは、話なり歌なりの言霊を発するのに、其人達はそれ丈身魂が浄つてますから、それから発する言葉によつて大衆の魂を浄めるという働きになります。それで、之は耳から浄めるのです。耳から浄化するのです。それから美術館とか斯ういつた地上天国――之は段々箱根から熱海になつて京都にも出来るのですが、之は目から浄化するのです。それから色んな文章――新聞、雑誌というのは、文字から浄化する。斯ういうのは一つの浄化の方法になるわけです。処で、病貧争絶無の世界というのは、凡てそういつた苦しみ悩みというのは浄化されるのです。そうすると人間が浄化されるべき汚い物を持つているから、そこで人間がその汚い物を除るに従つて、浄化の必要がないから、そこで苦しみが無くなつて来るというわけです。だから病貧争絶無の世界というのは、浄化の必要のない世界、浄化が無くなる世界です。それがミロクの世です。で、世の中のあらゆる苦しみは浄化して――茲で知つて置かなければならない事は、今迄は苦しみによつて浄化されたのです。で、中には求めて苦しみをして、そうして浄化される方法もあるのですが、宗教的の難行苦行はそれなのです。つまり浄化――魂を磨く、其為に色んな難行苦行――山に籠(コモ)るとか断食するとか水を浴びるとか、色んな苦しみをして、その苦しみで穢を減らそうというのです。ですからバラモンなんかは、羅漢みたいに難行苦行して悟を開くというのです。悟を開くというと魂が磨けるから、穢が除れる、色んな物が見える、というのでそういう方法をとつたのですが、之は夜の世界だとしたら仕方がないのです。処がメシヤ教はそういつた難行苦行でなく、楽しみながら浄化されていくという方法をとつているのです。それで今言つた様な芸能とか美術とか、そういつた、みんな楽しみつゝ浄化されるというのとは大変な異いです。之はつまり夜の世界のやり方と昼の世界のやり方との異いさです。だからメシヤ教には難行苦行はないのです。だから何時も言うのは、苦心惨憺なんて言葉はないのです。だから斯ういつたお庭だとか美術館を造るのは随分御苦労なさつたでしようと言うから、私は返事に困るのです。御苦労なんて殆どしないのです。楽しみ楽しみやつたのです。処が今迄の事は、何かやるのに苦心惨憺し苦労をうんとしなければならなかつたのです。だからそこの異いさがある。浄霊するにも、今迄の様に力を入れてうんとやらなければいけないというのは、いけないのです。力を入れないで、気楽にすればその方が効くというのだからあべこべです。だから苦労したり色々する事だと旨くいかないのです。(中略)」                  

 (御教え集14号  昭和27年9月27日  秋季大祭)

 

 

「はねのけられない人を作るのが救世(メシヤ)教の信仰」

「(前略)これは何時かも話した事がありますが、「ゴーラ」という言霊は、「ゴ」は、「火」で、「火」は「霊」です。それで「ゴー」と続けるのは、火が続く事です。「ラ」は「渦巻く事」「螺旋」です。霊界ではいよいよ左進右退的活動が始まるのです。そうするとそれはどういう結果になるかというと、火の霊気はつまり火素ですから、浄化作用が強くなるわけです。
そうするとこの左進右退の渦巻が一切のものに行って、或る程度浄化されたきれいなものは中にはいれますが、汚ないものは外にはねられてしまうのです。大浄化作用です。ですから残ったものは善で、はねのけられたものは悪ですから、自然に善悪の立別けがついてしまうわけです。それでこの渦巻を自然に通って、はねのけられない人を作るのが救世教(メシヤ)の信仰です。
あなた方ははねのけられないでしょうが、しかしあんまり慢心したり取違いをしたりすると危ぶないですから、そこをうまくやってもらえばよいのです。それで中にはスーッと通る人もあるし、通っても閊(ツカ)えたりして、かなり苦しむ人もあります。それでそれが一番現われるのは病気です。
これはあなた方が始終浄霊していて、だんだん浄化が強くなって、強くなるとどっちかに片付くのが早くなるのです。助かる死ぬという事がはっきりするのです。これは日のたつに従ってそういうようになって来たという事で充分わかるわけです。ですからこれからは非常に面白くもなるし、恐ろしくもなるし、間違っている間違ってないの結果が早く分るわけです。
けれども、私の話をよく聞いて御神書を読んで居れば、そう難かしい事はありません。それで今までの小乗宗教と違って窮屈なやかましい事はないのですから、本当の意味さえ分れば楽々と峠は越せるわけです。(中略)」       

 

 (御教え集23号  昭和28年6月16日)

  

「我救世(メシヤ)教は、天国的宗教」

「(前略)遠慮なくいえば、今日迄の宗教は悉くといいたい程地獄的宗教であって、真に天国的宗教はなかったといってもいいのである。としたら我メシヤ教こそ、初めて生れた処の天国的宗教である事は、言う迄もなく、従って今日迄の宗教とは、何から何迄格段の異いさである。
  信者は充分知っている事だが、本教が之程進んだ医学でも治らない病気を、訳なく治して了う事実は、毎号本紙に満載している通りであるが、それはどんな人でも、数日間教修を受けただけで、驚くべき治病能力を発揮出来るのである。博士から見離された病人でも治せるし、自分で自分の病気も治せるので、殆んど信じられない位である。併し事実は厳然たる事実であるから、疑う人は先ず実地に触れてみられたいのである。其ような訳で本教へ入信するや、月日が経つにつれて、自分も家族の者も日を逐うて健康になってゆき、遂には病なき家庭となり、元気溌剌たる者のみになるので、一家は明るく、凡てが順調に運び、真に歓喜の生活者となるのである。勿論何年も何十年も、医者や薬の御厄介になっていたのが、全然縁切りとなって了うから、経済上からも、精神上からいっても、其利益の莫大なる想像も出来ない程である。之こそ全くの天国の救いであって、今日の如き地獄の世の中に喘いでいる人は、到底信じ得られない程で、之こそ人間理想の夢の実現でなくて何であろう。(後略)」
                     

 (「天国的宗教と地獄的宗教」 昭和26年10月24日)

 

  

「救世(メシヤ)教はいよいよ経緯結びの型をやる」

「(前略)世界と言うものは、最初経の東洋文化で失敗し、それから今度は緯の西洋文化で失敗した。私が現代の文明と言うのは、そう言う訳ですね。それで、経と緯の両方を結んだものが伊都能売です。経にあらず、緯にあらず、之は始終言つている事です。
そうすると教団もそうなつている。最初天国会が経でいつた。それで、天国会の中島さんがあゝなつた訳で、結局失敗に終つた。その次の五六七会が緯の働きですから非常に発展した。殆んど教団を背負つて立つ位に発展したが。之も結局渋井さんが病気になり、色んな事件が起つたりして、失敗に終つた。
そうすると今度は伊都能売にならなければならない。丁度、その時期が来た。渋井さんの病気も殆んど治つて、試験的に、今度京都の方に行つてやつてみると、立派に働ける事が出来る迄に、立派になつた。そうすると、随分一頃信者をつくつた。十何万かつくつたですが、それが渋井さんの病気の為や、色んな為に堅(カタ)まらないで、要するに未だ「なまこ」みたいな――堅い様な軟い様な――ふはふはですね。そう言う信者が可成り居る。
それで、渋井さんとしては、そう言う信者をちやんと生かしてやる事が一番手取り早くて良いと言う様な訳で、そう言う方針で、之から大いにやる事になつた。と言うのは、去年の事件以来、この教団の組織を改めて、今日迄やつたと言う事は、こんなに緯になると言うか、唯広がりつぱなしになつていたのをキユツと縮めて、一旦経で締めたんですね。
今度は、経と緯を結ばなければならない。それが今度渋井さんが、そうやろうと言う状態になつたのがそれなんです。経と緯を結ぼうと言うんです。今度は緯が活動されると、はじめて経、緯になる。
  以前は天国会と五六七会が対立していた。両方が一致しないで、一種の競争的であつた。之も神様の御経綸なんです。競争させると言うのは、大いに発展させる刺戟になりますからね。あの当時急激に発展させる為に旨いやり方をされた。それだけでは本当のものではないから、結ばなければならないと言う事は、之からなんです。
そこで、今の経の堅実なやり方ですね。今度は緯の軟らかい水の当りで広がるのと両方になる。その結果としては、天国会の系統の人のやり方は、つまり緯が足りなかつた。それから五六七会のやり方は経が足りなかつた。今度は両方が、そこで結合密着して伊都能売の働きになる。それが之からです。やはり、神様の大きな経綸なんです。
だから、人によつては、天国会のあゝ言つた堅苦しいやり方ではいけない。と言う人もあり、五六七会は唯拡げる一方で、だらしがないと言う事を、暗に私に注意めいた事を言つた事がありましたが、それはそれで良いと言う事はないが、それをやらなければ、何うしても経綸がいかない。世界が、東洋文明が一時発展して、次に西洋文明が発展している。西洋文明の爛熟期になつている。それで、両方相一致した結びの文明――伊都能売の文明が出来るんです。つまり、メシヤ教はその型をやるんですね。(後略)」

 

        (御教え集3号  昭和26年10月21日)

  

「一人の確かりした信者を作る」

「本教信者が、一生懸命浄霊や言霊によって一人の信者を作り、ヤレヤレと思うその時は、只手を引いて門内へ入れただけのことで、中々安心は出来ない。どうしても御座敷へ案内して、家の内部の肝腎なところを見せなければ、本当の信者になったとは言えないのである。これは経験者にはよくわかっているが、これについて言いたいことは、その人が一人の確かりした信者を作るだけの力があるとすれば、百人を作ることは敢て難事ではない。その又百人が百人の信者を作るとしたら、鼠算的に増え、遂には驚くべき数字に上るのは勿論である。(後略)」
                         

 (「一人が百人」 昭和28年1月21日)

 

 

「救世(メシヤ)教以上のものがあれば、転向したらいい」

「(前略)処で一番困るのは、自分の信じている宗教が最高のものと思い込んで、熱烈な信仰を捧げている人の多い事である。併し之は本当にそう思っているのだから、精神では救われているから御本人だけは満足しているが、それは本当ではない。何故なれば物質面も救われ、霊体揃えて天国的生活者にならなければ、真の幸福ではないからである。処が其事を知らない盲信者が多いとみえて、一生懸命信仰をしながら、不幸から解放されない人も随分多いようである。右に就て今一つ注意したい事がある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、其宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念の為であろう。というのは其宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである。
  そうして自画自讃で言い辛いが、我メシヤ教に限って其点実に自由である。之は信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしと云っている。勿論研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである。其結果もしメシヤ教以上のものがあったとしたら、いつ転向しても差支えない。決して罪とはならないからで、本当の神様なら其人が救われ、幸福になりさへすればそれでいゝのである。」

 

(「自由なる信仰」 昭和27年10月8日)

        

「(前略)今までの小乗信仰では、他の宗教にちょっとでも触れてはいけないと言います。これはキリスト教、真宗などは特にそういう事が非常に喧ましいのですが、それは弱いからなのです。自分の方が力が薄くて危ないからして、触れるなと言うのです。
ところが救世教はそういう事は全然言いません。むしろ他の宗教に触れてみた方がよいです。救世教より以上のものがあれば、その宗教に行けばよいし、全然無ければ救世教一点張りにやればよいので、それが本当なのです。ですから既成宗教とはまるっきり違う点を心得えておかなければなりません。(後略)」  

                                (御垂示録23号  昭和28年8月1日)

 

「救世(メシヤ)教は、主神の力」

「(前略)だから根本の、因(モト)を解決するんです。然し今は、根本と言うのは解決出来ないんです。根本をはつきり解つても、どうする事も出来ないですね。今も言つた通り、結核菌――それを殺すと言う事のみ医学は研究しているんです。そこで今、私は書いている様に――「主(ス)の文化」と言うのを書いているんですが、今迄は丸ですね。ポチ――之が元なんです。と言うのは、今迄の世界は主(ス)の力が出なかつた。つまり主神は――人間で言えば親父が出なかつた。番頭なんです。だから今迄の神様は、神様の番頭なんです。キリストだつて釈迦だつて、番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父と言うのは主神ですからね。だから肝腎の中心は、みんな隠されている。
  丸丈しか見えないし、それ丈しか解らなかつた。で、メシヤ教と言うのは、主神の力と言う事があるんです。ポチですね。だから、凡ゆる人間の災わい――その根本を解決していく力――その点がはつきり解れば大体解るんです。(後略)」  

         (御教え集8号  昭和27年3月5日)

 

 

「世界救世(メシヤ)教の意義」

答「信仰によって世界全人類を幸福にみちびくのがその最大の目標です、しかし西洋にはキリスト教があります、そのキリストの曰く『天国近づけり……』はわが教理と最も近きにあり、わが教理は『現世の天国』を一日も早くつくることにある、キリストの遺訓まことに立派で、やはり世界人類救済の神力や偉大です、私はわが新教はこのキリスト教と呼応し、東洋において、わけてもまづ日本で、人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたい、従ってこのことが今後の世界平和に必ず大きな寄与をなすものと堅く信じています、まことに本教こそ日本で生れた最初にして最大の世界平和推進に役立つ宗教であらう、宗教に国境なしという言葉がある通り、本教の真面目と現実の霊験が納得できれば必ず日本人は勿論東洋人全たいが真に平和に徹した高邁、清純な精神を保持することが可能である、世界平和のために、人類世界の争闘をなくするためにも本教将来の活動が活溌にならなくてはならない、この真理を了解できざる人々こそ平和を希求しない不幸な人々だといえよう。」
問「いまの御説は前からの大先生の持論だったと思いますが--」
答「その通り、神の御力が増したからこの理想はさらに現実的に大きくなるわけである」    

 

 (「世界救世教誕生の意義と使命」 昭和25年2月4日)

 

 

「浄霊を中心にして進めなければ、浄霊の力が弱くなる」

「キリスト教が開教した頃は、キリストが奇蹟を現わした。次いでその弟子たちも聖書にあるような奇蹟を現わした。ところが、その次の世代になると、信仰を理論化し、教義を中心にした伝導が行われるようになった。そのため今日のように説教が中心になり、宗教としての活力がなくなってしまった。メシヤ教に於ても、浄霊による人類の救済活動を中心にして進めなければ、浄霊の力が弱くなり、いつしかキリスト教と同じ轍を踏むことになる」
                           

 (お言葉 昭和29年11月16日)

 

  

「大きい神程大きい御利益」

「(前略)御利益のない内から信じろというのは、己れの心を偽れというのと同じで、如何に間違っているかが分るであろう。之は自力本意であって、本当の神様の力というのは他力本意であるから、楽々と御利益を頂けるのである。尚注意すべきは仮令御利益があっても、大きい小さいがあるから其見分けが肝腎である。然し世間小さな御利益でも、直に有頂天になる人があるが、之は大いに注意すべきである。というのは医師に見離された大病が治って、神様から生命を頂いた事がハッキリ分ってこそ、全身全霊を打込んでも間違いない信仰である。又神にも上中下の階級があって、小さい神だと小さい御利益で、大きい神程大きい御利益を頂けるので、之が相応の理であるから、此点も充分心得ておくべきである。
  以上によって、神を見せる宗教としての我メシヤ教は分ったであろう。」                   

(「神を見せる宗教」昭和27年10月1日)

 

  

「本教は幸福世界を造る大事業」

「(前略)抑々我メシヤ教は、名は宗教でありますが、単なる宗教ではなく、宗教はメシヤ教の一部なのであります。というと大言壮語のようでありますが、決してそうではなく厳たる事実であって、之を具体的に言えば病貧争絶無の世界、即ち此世に天国を造るという一大事業であります。そうして読んで字の如く、病を無くし、貧乏を無くし、争いを無くすというのであるから、丸で夢のような話でどんな人でも其儘信ずる事は出来ないでありましょう。
  茲で先づ人間誰もが共通している欲望でありますが、言う迄もなく幸福の二字でありましょう。恐らく精神病者でない限りどんなに欲のない人間でも、幸福は要らないという人は一人もありますまい、昔から宗教も、学問も、政治も、教育も、芸術も何も彼も其目的とする処は、人類の幸福にあるのは余りに分り切った話でありましょう。処がです、之程進歩した文化時代になったにも拘わらず、果して予期した通りに幸福を得られたでありましょうか、仮に今人間の一人々々に訊いてみても分る通り、俺は幸福だという人が、唯の一人でもあるでしょうか、実に危いものであります。
  皆さん、此事実に直面して考えてみて貰いたい事は、之程幸福追求の為、永い間一生懸命苦労して来た甲斐もなく、幸福処ではなく反対に不幸に取巻かれているのが今の人間の姿ではないでしょうか。事実一般は何時大戦争が始まるか分らないという不安、月給取りは斯う物価が高くてはやり切れない、商人は金詰りの苦しみ、農民は肥料代、虫害、風水害に悩み、(中略)搗(カテ)て加えて一番厄介なのは病気の心配でありましょう。恐らく病気程恐ろしいものはありますまい。何しろ一つよりない大事な命取りになるからであります。右の如くザット記いただけでも此位で、何処を見ても不幸は山のようであって、幸福などは影も形も見えない有様ではありますまいか。
  以上によって先づ考えなくてはならない事は、一体全体人間には幸福というものは、未来永劫得られないものでありましょうか。実に之程痛切な問題はないでありましょう。処が神様の御目的はチャンと決っているのであります。驚いてはいけません。愈々幸福に満ちた世界を御造りになる時期が来たのであります。そうして其構想たるや今迄の物質文化の面だけであった世界を、今度は精神文化の面をも急速に向上させ、両々相俟って愈々地上天国が出来るのであります。
之に就て今一つの知らねばならない事は、今迄無神思想が蔓延(ハビコ)っていたので、之は物質文化を発達させんが為の或期間であったのが、之が打ち切りになって有神思想になるのであります。つまり無神有神の入れ換えになるのであります。そこで神様は先ず幸福世界にするには不幸を無くす事が第一で、不幸の最大原因は病気でありますから、人類から病気を絶滅し病なき世界にするのであって、之だけで目的は達せられるのであります。(後略) 」

 

               (「舌に代えて」栄148号  昭和27年3月19日)

 

        

「浄化の必要のない迄に、立派な人間に」

「(前略)病気と健康に就ての事をかいてみるが、いつもいう通り、病気とは人間の霊に曇りが溜り、其排除作用が肉体に映って生ずる苦痛であるから、人間の如何なる苦痛と雖も、原因は悉く霊の曇り、即ち肉体的に言えば汚濁の排除作用であるから、其苦痛を免れたいとしたら、汚濁を溜めないようにすると共に、既に溜っているそれを排除する以外、解決する事の出来ないのは当然である。
  此理によって、集団的苦痛、即ち風水害、火災、地震、社会的暴動等も、悉く病気以外の浄化作用である、としたら之の大きくなったものが勿論戦争である。従って、戦争を起らないようにするには、人間個人々々の霊の曇りを無くす以外方法のない事は余りにも明かである。
 (中略) そうして茲で知らねばならない事は、万有の法則は汚濁の溜る処、必ず自然浄化作用が発生する。例えば伝染病が流行するという事は、病菌発生が直接原因であるとしたら、其原因は何かというと、それは浄化の必要ある人間が出来たからで、相応の理による自然発生である。処が此理は何物にも共通する。即ち地上にある凡ゆる物質、例えば如何なる大都市でも、建造物でも、凡そ物質と名のつくものは、悉くといいたい程、現在のそれは悪によって作られたるものである以上、言わば罪の塊りであるから、いつかは清算されなければならない運命におかれているのである。
  としたら人間も物質も、地上にありとあらゆる汚濁分子が一挙に浄化される。それが大戦争であって、之が宇宙の鉄則であるから、どうしようもないのである。此意味に於て第三次戦争を免れんとするには、此大浄化作用発生の必要のない迄に、人間はじめ地上一切のものが、清浄化されなければならないのは分りきった話である。では其様に一切を清浄化すべき方法はありや、というに、私はありと答える。それが我メシヤ教の使命であって、此事の為に我メシヤ教は生れたのである。
  茲で別の説き方ではあるが、世界とは個人の集団であるから、個人々々が浄化の必要のない迄に、立派な人間になりさえすればいいのである。立派な人間とは、勿論霊肉共に汚濁のない人間であって、そういう人間を造り得る力こそ、我メシヤ教をおいて世界広しと雖も、決して存在しない事を私は知らせたいのである。之は理屈ではない。本教が現在行っている浄霊法を見ても分る。此方法が如何に絶大な効果があるかは、唯物医学で治らない重難病がドシドシ全治し、死を宣告された者が甦生する等、無数に上る事実である。之だけでも多くを言う必要はあるまい。従って此空前の事実こそ、世界人類が救われ、地上天国出現の時期となった事の示唆でなくて何であろう。我メシヤ教が全世界に拡がるとしたら、最早戦争による浄化の必要がなくなるから、戦争は起らないに決っている以上、茲に人類待望の平和時代が実現するのである。(後略)」

         

      (「第三次戦争は免れる事が出来る」栄126号  昭和26年10月17日)

  

「本教の特異性」

「(前略)では現代の要望にピッタリ合う宗教としたら、独りよがりかも知れないが、我メシヤ教以外にないであろう。
  茲で本教の特異性をかいてみるが、本教に於ては宗教理論としての前人未発の哲学、科学、神学等の新解釈は固より現代文化の欠陥を指摘し、新しい文化のあり方を教え新文明世界創造の指針を示しているので、寧ろ宗教以上の宗教といってもよかろう。何よりも一度本教に入って具さに検討してみる時、其言の偽りない事に驚嘆するであろう。
  而も本教の一大特色としての奇蹟の多い事で、之も信者になれば分るが恐らく本教位奇蹟の多い宗教は、史上嘗て類例がないであろう。勿論奇蹟とは現当利益であるから本教のモットーである病貧争絶無の世界を造り得るのも何等疑いないのである。以上随分思い切ってかいたが先づ接して見る事である。」  

                       (「奇蹟と宗教」栄146号  昭和27年3月5日)

   

「宗教は救世(メシヤ)教の一部」

「(前略)メシヤ教と言うのは、単に宗教とは言えないんですね。宗教よりも、ずつと大きなものです。つまり、宗教はメシヤ教の一部にある訳ですね。だから、今迄の宗教でも、こう言う風に、病気を良く治すとか、病理を説くと言う事はなかつたですね。それは、仏教でもキリスト教でも、何う言う訳で病気が起るとか、或いは何うすれば治るとか言う説明は、バイブルにもお経にもないですよ。
それから農作物も、無肥料にする方が良く出来る、つまり自然栽培ですね――ああ言う事を説いた宗教家もなかつたですね。それから美術館を造るなどと言うのは、全然之もなかつたですね。そう言う様な具合に、宗教と言うものは、先ず心を治すんですね。心の教えですね。
そこで、結局お説教が主でそれによつて精神的に救つて、良い世の中を作ると言うのが根本だつたんです。ですから病気でも、病気を治す事は出来ないが、病気は治らないでも苦しみ乍ら心で諦めろと説いたんですね。キリスト教でも、御自分の方で病院を作り乍らやつているんですから、甚だ不徹底極まるものです。
私の方では、そんな諦めろと言う様な事は言わないで、反つて諦めるなと言うんですね。その為に、他の宗教では、疑ぐつてはいけない、信じろ。と言うんですが、私の方では、大いに疑がえ、信づるな。と言うんですから大変な違いです。その違い差ですね。それを先ず、一番認識しなければいけないです。そうして、キリスト教でも仏教でも、今に天国の世の中が来る。極楽浄土が来ると言つているんですが、私の方では、もう来た。来るんでなく、来た。俺の方で造るんだと言うんですから、その違い差も又大変なものです。
  ですから、色々な事を喋る許りでないですね。実行するんです。どんな病気でも治し、米の増産もするし、凡ゆる文化の間違いを指摘して、本当の文化と言うものは、こう言うものだという事を教えるという――一口に言えば、本当の救いですね――宗教じやない。宗教は救いの一部ですね。そこで、その力強さ――力の大きさですね。その違い差と言うのは大変なものです。処が、それを――成る程それに違いないと信じさせるのが、中々大変なんです。
信仰に入つた人は、迷わずにずつとやつていれば、段々解つて来ますから良いんですけれども偶には迷う人もない事はないんですね。やはり、色んな世間の噂とか、インテリ的の偉い人が、迷信だとかインチキ宗教だとか迷わせる様な事を言いますからね。と言うのは、今迄こう言う様な宗教と言うのは、出た事がないんですからね。だから、之を本当に解る迄には相当時間もかゝるし、努力も要るんですね。で、或る程度迄解つて了えば、もう盤石の様に固くなりますが、それ迄ですね。それ迄は知る方も必要だし――然し、こつちの方は理窟許りでない。事実に現わすんですからその力と言うのは大変なものです。(後略)」
                          

 (御教え集6号  昭和27年1月5日)

 

  

「宗教という手段でやるというのが一番良い」

「(前略)救世教と言うと宗教ですが、引き上げるための宗教的の一種の手段です。宗教という手段でやるというのが一番良い事と、又今までにない革命ですから、それより外に方法がないわけです。だから宗教的にやるより外にやりようがないのです。ですから救世教としては、宗教というものを利用し、一つの手段としているのです。従ってミロクの世になれば宗教というものは無くなるのです。というのは宗教の必要がないからです。つまり医学が無くなるのと同じ事です。だからそれまでの救世教です。悪い世の中だから救うというので“救世”ですが、良い世の中ならば救う必要はないのです。それは又形が違うわけです。良い世の中を一層良い世の中にするというわけです。今の世の中は、実は良いと思ってやっている事が逆になっているわけです。薬をのんで病気を良くしようという事が、反対に薬で病気を悪くするという事になるので、どんな事にもそういう事があります。この間違えているというその根本は何かと言うと、霊を認めなかった事です。(後略)」

         

 (「御教集20号」 昭和28年3月23日)

   

本教の意義」

「(前略)私が作った善言讃詞は観音経の深意をエキスとし、日本的に祝詞の形式を採って数分間で読了なし得るやうにしたのである。そうして霊界の実相や、事物と霊との関係等を徹底的に解明し、神仏や祖霊に対する信仰の意義、想念の持方等を充分認識すべく教ゆるのであるから、神仏諸霊の満足と歓びを以て迎へらるる事は必定である。従而、観音会こそ今後の時代をリードすべき新宗教といっても過言ではないと思ふのである。」 

                                                 (「時代と宗教」昭和23年4月)

   

「真の救いとは、永遠に、魂を救う事」

「真の救ひとは、永遠に、魂を救ふ事である。又、一生を通じての抜苦与楽(バックヨラク)である。それが出来なければ、宗教としての価値はないのである。病気を治さないで、慰安をして与る事よりも、病気を治して、健康体にしてやるのが、真の救ひである。貧乏を我慢しつつ、安心立命せよと言ふよりも、金に困らないやうにしてやるのが、真の救ひである。此世は厭離穢土(オンリエド) であり、火宅(カタク) であり苦の娑婆であるから諦めよ、我慢せよ、悟れよ、と言ふよりも、斯ふいふ苦悩の娑婆をして、天国楽土たらしむべく、積極的に活動するのが、真の救である。其の救ひの効果的現はれに由って其宗教の価値が定まるのである。

(後略)」              

(「大光明世界の建設  真の救ひ」昭和10年9月15日)
  

          

「霊界が救われるのが、救世(メシヤ)教の救い」

「(前略)救世教の救いというものは人間ばかりでなく、霊界が救われるのです。やっぱり霊界が根本だからして、どうしても霊界が救われなければ人間界は救われる事はないのです。しかし今までのいろんな宗教はそういう事が出来なかったのです。人間を救う事さえなかなか出来なかったのです。というのは、霊主体従ですから、霊が救われなければ体は救われないのです。体だけ救われて大いに苦しんでいて、表面だけの救いで、根本ではないから駄目だというわけです。(後略)」  

 (御教集33号 昭和29年4月16日)

  

「根本を分らせるのが救世(メシヤ)教の使命」

「(前略)只「悪」はいけないとか「医学」がいけないとか言う丈では人は納得しないのです。やつぱり今迄は必要であつて、今迄は人間を弱らせなければいけなかつた。何しろ百歳以上迄作つてある人命を段々弱らせて、到頭今は大体平均六十歳位でしようから、約半分に寿命を縮めたのです。それでみんな病気で苦しんでアツプアツプやつているわけです。ですから之丈文化を進歩発展させる為に何千年もかゝつて人間を弱らせたのです。丁度寿命半分迄弱らせたのです。もう之以上はいけないのです。いけないのではない。必要がないのです。
そこで神様はこの位弱らせて置いて、今度は元作つた様に百二十歳迄生きるという人間に立直すわけです。その根本を分らせるのがメシヤ教の使命なのです。(後略)」

 

  (御教集14号 昭和27年9月5日)

 

 

「一人でも余計助けるというのが救世(メシヤ)教の仕事」

「(前略)一番困るのは人間です。然し汚い者は取片附けられなければならないのですが、人間が一番肝腎ですから、一人でも余計助けなければならないというのがメシヤ教の仕事なのです。そればかりではありませんが、それが一番肝腎な事です。それが救いです。メシヤ教――救世(キユウセイ)教――世を救う教え――という、ですからメシヤ教は宗教ではない、救いの業(ワザ)だという事は、そういう事です。そんなわけで、之からドンドン時の進むに従つて色んな面に現われて来ます。(後略)」

                             (御教え集14号  昭和27年9月26日)