〔参考文献 1(御教え)〕

 

「大光明世界の建設  真のミロク」
                 

(光世2号  昭和10年1月11日)

「今日の如き澆季末法(ギョウキマッポウ)の世が来る事は、お釈迦様は能く御存知であった。
 何故なれば、此の世は火宅(カタク) だとか厭離穢土だとか仰有ったのであります。此の世では幸福といふものは得られない。何処迄も苦しまなければならない。苦の娑婆であるとお説きになったんであります。だが然し、仏の世は必ず滅する。そして仏滅後に弥勒が現はれる
 それからが初めて五風十雨の正しい世、苦悩のない五六七の世が出現すると予言されて居るんであります。であるからお釈迦様も、ミロク出現迄は苦の娑婆であるから夫迄は多くを望むな、諦めてをれとお説きになられたのが仏法の根本であります。

 故に仏教は徹頭徹尾諦めの教でありまして、此の諦めを悟りと謂はれたのであります。此の点は他の既成宗教にも往々有るんであります。然らば五六七の世、又はミロクとは何かと申しますと、ミロク様は三人あるのであります。即ち阿弥陀に釈迦に観音であります。それで三人の弥勒は種々(シュジュ)に分けられてありま
す。地理的に分けますと、
釈迦は東洋の弥勒であり、阿弥陀は西洋の弥勒であり、観音は日本の弥勒になるのであります。

 それから之を天、地、人、に分けますと、阿弥陀が天の弥勒、釈迦が地の弥勒、観音が人の弥勒で又法身、報身、応身に分けますと、法身弥勒が阿弥陀、報身弥勒が釈迦、応身弥勒が観音様になるんであります。

 ミロクとは五六七と書きますが、五が観音、六が阿弥陀、七が釈迦になるんであります。それで七の弥勒六の弥勒は今迄に一度肉体を以て出た。御承知の通り、七は釈迦でありますし、阿弥陀は釈迦の時代に法蔵菩薩となって現はれたのであります。観音は観音として未(イマ)だ曽(カ) つて肉体を以て現はれた事は無かったのであります。それで五の弥勒即ち観音様はお一人で六と七とのお働きをされるでありまして、六の弥勒七の弥勒は、それ丈の限られた働きでありますが、観音即ち五の弥勒は六七共兼ねられてのお働きでありますから自由無碍如何なる活動力をも発揮されるんであります。
 
 基督教の三位一体といふ事は三人の働きを一人でなさる即ち観音様のお働きの事を言ふたんであります。ですから本当の意味での弥勒といふのは観音様の事なんであります。弥勒出現して五六七の世が成就するといふ事は観音様が現はれて、観音力を以て世を救ふ事
のであります。観音会の働きといふのは弥勒完成の運動をする機関なんであります。」



大光明世界の建設  光明如来」                   

                          (光世2号  昭和10年1月11日)

 

観音様は別名光明如来と申され、光に依って一切を救はれるのであります。
 今日迄の宗教は罪障消滅するには非常な努力をしなければならないのでありまして、それでもなかなか一生懸っても消滅は六ケ敷かったんでありますが、それが今度は観音様に依って至極簡単に罪障消滅が出来るんであります。何故かと言へばそれは大きな光であって、光で出来るんであります。罪障なるものは大きな光に遇へば速かに消えてゆくであります。

 ところが、今日迄のあらゆる宗教の光は、小さいのであって、ちゃうど電燈の如(ヤ)うなもので各宗の御本尊は電燈会社の如うなもので各信者へ電気の光を供給してゐたのであります。処がその電気の光を戴くには種々な努力と費用が要ります。

 先づ大仕掛な水力又は火力工事を起して動力を造り、それから種々の機械や人力に依って電気を起し、蜘蛛の巣の如うに電線を引っ張り、種々な工夫(クフウ) をして光を諸所方々へ間配るのであります。恰度今迄の信仰に依って神仏の御利益(ゴリヤク)を戴くのは斯んな具合なのであります。それでも人間は之位結構なものは無いと信じ切ってをったんであります。

 一軒の家の中では迚(トテ)も明るい大した光の様に思ってゐても、一歩外へ出れば真暗闇であります。それで球が壊れれば付け替えねばならず、時々故障が出来たり、停電があったり、大地震でも出来(ア) れば何時真暗(マックラ)になるか判らない。真に安心は出来ないのでありました。

 然し今迄は夫れ以上の光が無いから人間はそれを唯一の頼りとし有難く思って来たんであります。処が今度は太陽の光が出るんであります。太陽が出れば如何なる光も消されて、世界中が一度に明るくなるんであります。太陽の光は月光の六十倍もあって別段何等の手数を要しないで光に浴する事が出来る、之は誰でも知って居(イ)るので有ります。

 唯然し此太陽が出たのを知った時、素直に戸を開け放てば此大きな光を無雑作に受け入れらるるのであります。然し人類は今迄何千年来、眼に見える太陽の光には毎日浴してをりますが霊界の太陽の光に遇った事が無い。乃(ソコ)で是から、戸を閉め切って電気の光以外に光といふものはないと諦めてゐた人々に、さあ愈々黎明が来たぞ、みんな速く戸を開けろと言ふて世界中へ呶鳴って知らせる

 それが観音会の運動になるんであります。

 でありますから、此の声を聞いて素直に、戸を開けた人が一番早く光に浴して救はれるので、躊躇してゐる人は後廻しになるから詰らないのであります。手数や費用も要らなくて斯んな大きな光に遇えるといふ事を識って人々は非常に驚くのであります。
 それで申し辛(ニク)い事でありますが、今迄の宗教の信者が種々苦心惨憺して罪障を除らふとしたが中々除れなかった。其の為宗教家の方では種々(シュジュ)巧い事を拵えて逃口上にしたんで有ります。

 例えば病気や災難が有ると其れは信仰が間違ってゐるとか、信仰が足らないからだ等と言ひ、或はそういふ事が起って来るのは祖先以来溜ってゐた罪障が出て来たんだと言ひ、又病気で死ぬ人があるとか又非常な打撃を与へられる様な事があれば、死んだ人が罪を持って行って呉れたんで大変結構な事だと言ひ、大難を小難に祭り替えて貰ったんだ等と言ふのであります。

 そういふ様に病気災難に対し信仰が間違ってるとか、足りないとか言ふ此の言葉は事実そういふ事も無いと言へませんが、巧妙な抜道に使ふ場合も随分有るのであります。信仰が足りないと言ふならば一体何所迄やったら足りるか標準が判らない。金銭の御用もどの位しなければならないのか、その見当(ケントウ)も皆無判らない
 それが為始終戦々兢々として一種の不安があり、信者は喜びと不安と相半するといふ様な状態であって、見方に依っては気の毒とも言へるのであります。

 之に就いて斯ういふ実例があります。
 私の知人で××教の布教師をしてゐて病気になりました。その布教師の上の先生と云ふ人が、毎日やって来て、貴方(アナタ) には非常な罪があるから懺悔をしなければいけない。懺悔をすれば必ず治るといふのであります。それで御本人は自分の悪い事を考えだしては懺悔をしたが中々良くならぬ。すると先生は、未(マ) だ罪障が有るに違ひない。悪い事が残ってゐるに違ひないからよく思ひ出して懺悔をしなさいと言ふ。

 然しその人は最(モ) う有丈(アルダケ)の懺悔をしたんで無いと思ふが、それでも五十年も生きてゐたんだから、長い間の事故未だ忘れてゐる事もあらふと細い事まで考えてみたがもういくら考えても無い。それでも病気は治らぬ。すると先生は、今度は奥さんの方にあるに違ひないからと奥さんに向って、すっかり懺悔をする様に言ったのであります。乃(ソコ)で奥さんも種々悪いと思ふ事をすっかり懺悔をしたが病気は治らず、未だある未だあるの一点張りで、そうしてゐる裡(ウチ)に到々亡くなって了ったんであります。

 私は此の実例をみた時、実に馬鹿々々しいと思ふより恐ろしいとさへ思ったんであります。人類は斯ういふ様な信仰で何時迄も苦しまねばならぬと言ふ事は実に悲惨なものだ。黙ってみてはをれぬと思ったのであります。

 こんな訳ですから、少し学問のある人や知識階級の側では、信仰を馬鹿にし神仏なんて有るものか、そんなものは一切迷信だと片付けて振り向かないのは一面無理のない事であると思ひます。又信仰者の方ではそれを観て、少し学問があったり知識があると神仏の事は判らないと憤慨する、是等を大きな眼を以て観ると、一方には迷信の集団があって多数の人が苦しんでゐるし、一方には神仏に無関心な唯物主義の集団があって、心中不安を感じ乍ら兎も角も満足らしく生きてゐるんであります。
 
 斯ういふ様な現在の状態、之を称して暗黒無明の世と謂ふのでありますが、全く夫に違ひないと思ふのであります。然るにどちらも実に気の毒な人達で此の気の毒な二種の人達に属しないで、別に只空々寂々で生きてゐる人達もあります。処が今度は斯ういふ人達残らずを、一様に大きな救ひの力に救はれると云ふ時機が来たのであります。」