〔参考文献 1(御教え)〕

 

「大光明世界の建設(四)本地垂迹説」
                        

(光世4号  昭和10年1月11日)
                     (昭和10年1月11日仮本部に於て御講話)

 

観音様は、日本の仏様と言ふ事は、日本より出でました神様の化身であらせられ、祝詞にもあります伊都能売之大神様であります
 釈迦時代、印度へお渡りになって、補陀落山(ホダラカザン)といふ山へ、御宮を建てて、種々(イロイロ)と経綸をされたのであります。そして約三千年後に日本へ御出現になるといふ予言の下に、種々(イロイロ)な事をお釈迦様に伝えられた。そして御自分は、一旦御昇天になられ、霊体に依って、今迄、観音として御活動をなされたのでありまして、お釈迦様の仏教に依って支那を経、朝鮮を経て、日本へ入られたのであります。

 つまり御自分が御留守中の日本が心配になるんで観音様に化現され霊身を以て、日本に間違ひのないやう、又現身(ウツソミ)に依る御出現の準備工作も共になされたんであります。
 本地とは、本の土地といふ事で、本の土地といふ事は、即ち日本といふ事であります。

 仏教の真髄といふものは、伊都能売之大御神様が、御釈迦様に教へられたのが根本で、お釈迦様は檀特山(ダントクザン)で修行して或程度迄悟ったがそれから先が、どうしても分らなかった処恰(アタカ) もよし、此時印度の南方補陀落山に坐(マ) す、南海大士(別名、観自在菩薩)を知ったのである。そこで早速、補陀落山へ登って、南海大士即ち後の観世音菩薩から、深奥なる天地の経綸を聞かされたのであります。

 此事を華厳経に斯う出てをります。南方に、ホダラカと呼ぶ山あり。観自在菩薩在り。時を得て、善財童子(釈迦如来)が遊行して其山の頂に上り、菩薩を尋ねて会ふ事が出来た。其地は樹木生ひ茂り。処々に流泉と湿地があり、其中心のいとも軟かき草地の上の金剛宝座に観自在菩薩は結跏趺座なされ、多くの聖者達に恭敬されながら、大慈悲経を説諭されて居たとあり、其時の侍者として、二十八部衆居り。大弁財天、大梵天王、帝釈天王、金色孔雀王、毘舎門天、阿修羅王等の外、ナーラーヤナ金剛、ワヂラバーニ金剛の兄弟二人(仁王尊)等の諸天である。

 又支那天台の始祖、南岳大師の記に(昔は霊山会場にあって、妙法蓮華経を説き給ひ、今は西法浄土に在(マ) して阿弥陀仏と名付け奉る。而も人界普門に示顕しては救世観世音菩薩となり給ふ。故に過現未にわたる三世の利益は、之観音一体に帰す。)

 斯ういふ訳で、南岳大師の言ふ如く、法華経も、実は、観音が最初骨子を説かれたのであって、未来に渉る世界経綸の鍵は、釈尊で七十三歳の時に観音様から秘かに開示せられたのであります。故に、吾七十三歳にして見真実を得たりとの釈尊の言葉は、此事を指したのであります。それが判ったから、正像末、即ち、末法の後が仏滅といふ事を言はれたんで、仏が滅するといふ事は、観音様から知らされたんであります。

 それで、本地垂迹(ホンジスイジャク)といふ事は、本の国へ救を垂れるといふ事で、それは日本から出た神様でありますから、故郷の日本を救はんとされたのであります。然し、霊であられるから、止むを得ず、仏師が拵えた像とか、坊さんの書いた画(エ)とか書とかを拝まして救ひを垂れ給ふたのであります。

 それで、本当の御姿といふと一寸八分の金無垢の御像になってをります。黄金は、観音様の御本体であり、又清浄無垢なものであります。又、金は高価なもので、大きな物が出来ませんから一寸八分にしたもので、一寸八分といふ事に就ては光明世界の第二号に詳しく出てをりますから御覧になれば判ると思ひます。

 今迄は、木仏とか金仏、或は画など、そういふものを通して救ひを垂れたんであります。それを基督教等では、偶像崇拝などと言ってをりますけれど、信仰は矢張り的(マト)がなければならぬもので、基督教では、霊体の関係が解らないからそう言ふのであります。

 神様仏様の方でも、人間を救はれる場合、何物かを通じれば、非常に具合がいいんであります。丁度、ラジオの中継放送のやうな理屈であります。又、祈る時に、或物体に向へば、人間の方でもそれに精神が篭りますから、神仏へ通じ易いのであります。所が、段々と世の中が行詰って参りますと、今迄の如(ヨ)うな、物体を通しては、救の御力が弱いのであります。

 それでは何時迄経っても、真の地上天国を造る事が出来ないのみならず、人類の悩みが益々激しくなる、それが約束の時期が来た事なのです。生きた人間を通して、直接お救ひにならなければならなくなったのであります。生きた人間なれば、木仏金仏とはマルデ違ふ。木仏金仏に、いくら物を訊いても、応(コタ)へては呉れません。病気だからと言ふて御願ひしても、直接、手を出して治しては呉れません。

 観音様が、御神体を御書きになりたいとすると、之も人間の体を通せば、思ふ様に書ける。光も入られるんであります。そういふ風に、木仏金仏と生きた人間とは天地の相違であります。処が人間は、今迄木仏金仏を拝んでゐた癖があります。其為に、生きた人間、糞を垂れ、物を食ふ人間を、却て信じ難いのであります。併し、私に或期間接近された方は、それらの真諦(シンタイ)を能く悟り得られて、絶対の信仰に入られるのであります。

 併し何れは、人類の夢にも想はぬ、驚くべき、観音力をお出しになるんだそうですが、今は必要だけの力を出されるのだそうです。霊写真なども、一つの例で、観音力のほんの片鱗を見せて下すったのであります、観音様は力の主でありますから、今迄の外の神様や仏様を拝む様なつもりでゐると、一寸勝手が違ふ訳であります。

 要するに、不可思議力を揮はれるのであります。今日も或人が、それは五六日前に、観音様をお祭したのでありますが、或役所の課長級の方であります。前から奨めてもなかなかお祭りしなかったんですが、最近やっと祭られた方であります。今日会ひましたから観音様をお祭りなすってからどうですかと訊きますと、其人曰く、実に不思議な事には、役所へ行くと部下の者が、今迄より余計に頭を下げる。併も、今迄は部下に命令すると、いつも不承不承に仕事したのが、あれからは非常によく言ふ事を肯(キ)く。従而(シタガッテ) 仕事は捗がゆく、どうしても之は観音様がなされてゐるのに違ひないと思ふとの事で、私は、それは当然の事で、観音力を戴けば其人に自然と、権威が着くからだと説明してやりました。

 即ち、霊的向上する為に、何となく崇められる様になるんで、自然に頭を下げられる様になるんです。病気の治るなどの外に、斯ういふ御利益もあるのです。先刻、或婦人に、斯ういふ事を話しますと、実は、自分もそういふ事があるんで、最近、子供の附添に学校へ行くと、小使等が、今迄と異って、迚も親切に、丁寧にして呉れるんで、小使に何か与ってゐるんではないかといふ評判が立ってる位だと云ふ話であります。
 
 話が、横へ外(ソ) れましたが、又本論へ戻りませう。本地垂迹に就て、大変な間違った解釈を今迄してゐたといふ事が判ります。それは、今日迄仏者は、本地とは仏の祖国印度であると思ってゐた事であります。成程仏法は確に印度が本であるが、其仏の本が日本であるといふ事が不明であった為に、間違ひのまま、今日に到ったのであります。甚だしきは、仏が本体であって、神は仏の化身であると言ふ事で実に怪しからんのであります。(後略)」