〔参考文献 1(御教え)〕
「大光明世界の建設--会主仁斎先生の御話--」
(光世1号 昭和10年1月1日)
「明けまして御芽出度う御座います。 お蔭を持ちまして大日本観音会も、発会の運びになりまして、非常にお芽出度い事と存じます。この発会は、もっと遅い積りで ありましたけれど、観音様の方で、非常お急ぎになられたので あります。廿三日に応神堂で、観音会の発会式を挙げましたが、 それは極く少数の幹部の方と、将来支部長になられる方々ばかり でありました。
それ迄は未(マ) だ本部の位置等は未定でありましたが、廿三日の 晩に観音様からお知らせがあって、元大本の分所たる、この家で 本部の発会式を挙げろといふのであります。全然、夢にも思はぬことで、喫驚したやうな訳であります。そうなってみると、此処 で、本部の発会式を挙げらるべき理由も、慥(タシ)かにあるんであ ります。それで早速、廿四日から準備にとりかかりまして、発会式を挙げる事を得たのは、結構と思ふのであります。それに就き ましては、今後の観音会の目的及び活動、そういふ予定等、豊富にあるものを茲(ココ)で大体を、お話し申上げ度いと思ふのであり ます。
その前に一寸申上げ度い事がありますが、観音会の会報とし て、「東方の光」といふ機関紙を発行致します。これは廿三日に、第一号が出る筈になってをります。出来ましたら皆様にお送 り致すことになってをります。も一つは、「光明世界」と云ふ月 刊雑誌で、これも第一号が二月の四日、節分の日に、発行する筈 になってをりますから両方共、宣伝用に大いに、御利用願ひたいと思ひます。「東方の光」はたゞで、差上げ度いと思ってをりま す。宣伝用に纒(マト)めて、何十部とか何百部とかになれば、一部 二銭位の代金を頂くやうになるかも知れません。「光明世界」の 方は今の所一部、二三十銭位でお頒(ワカ)ち出来る予定でありま す。最初は菊版で、五十頁位の予定でありますが、だんだん部数が増えるにつれて、百頁位にする心算(ツモリ) であります。
今晩は観音会の目的たる、大光明世界建設のことについて、お話したいと思います。 大光明世界というのは、読んで字のごとく『観音の光』によっ て、闇のない世界ができるのでありす。闇のない世界ということは、苦しみ悩みのない世界、罪悪のない世界であります。
こういう世の中が来ればいい、こういう世の中を造りたいということは、何千年前からもろもろの聖賢、あるいは大宗教家等が大いに教えを説き、骨を折ったんであります。
ところが、そういう世界は、今日までできなかった。それに似たような世界さえまだできません。それはただ、人類の理想だけにとどまるものとされて、そういう世界が果して、できるかどうか疑わしいというのが、今日までの状態でありました。 ところがそういう世界は、確かにできるんであります。
今や大急展開をもって、できんとしつつあるんであります。
それで、私はちょうど今から七年前に、観音、すなわち伊都能売之大神様から、知らされたんであります。その時にはまだ、本当にできるかどうか、正直を申しますと、多少は迷いがないでもなかったんであります。
ところが、その頃から今日まで数限りない奇蹟を見せられました。とうてい人智や経験では量れない、説明できない、驚くべきものなのであります。その奇蹟たるや、ことごとく、大光明世界 の出来るということを裏書きし『絶対に間違いない』ということを示されたので、ますます信念が強くなり、もう自分によって、そういう世界ができる、実は、観音様が私の体を機関として、そう言う世界を造られることが、一点の間違いないということが判 ってきたのであります。
私は、元来とても用心深い性(タチ)で、表面(ウワベ) は大まかのやうでありますが、とても綿密なんで、自分で余り用心深すぎて、 退嬰的に思はれる位であります。そういふ私が、斯ういふ大きな仕事を、自分がやらなければ仕様がない、此の世界人類に、真理を知らせ、救はなければならない、観音様の方でも、どうしても私にさせるべく、私に大きな力を貸されるのであります。それ で、私は先の先迄の種々(イロイロ)な事を、知らされたのですが一寸 も間違ひなく、実際に出て来つつあるんです。
昔から五六七(ミロク) の世とか、地上天国とか、甘露台の世とか、 義農の世とかが来ることを、予言されてゐますがそれは本当であるといふ事が解(ワカ)ったのであります。それで今度、私がやらされる事、創らされるそれが、それなんだといふ事がはっきり判 ったのであります。然らば、その根本は何であるかといふと、それは「観音の力」であります。
この力、観音力といふものは、今迄、本当に世の中に、現はれた事がなかったのです。 釈迦が慈悲を説き、基督が愛を説いたり、又種々(イロイロ)な聖者が人間に道を伝へ、よく説いたが、説いた事は説いたが、それを 行はせる力がなかった。相当に行はせたか知れないけれど、全部はとても、世界人類全体には行はせる事は出来なかった。その為 に、悉くが予言や、理想に止ってしまって、その目的の世は、今 日迄実現されなかったんであります。そうして今日迄に、人類世 界が甚しく、堕落し混乱したのは、つまり、その宗教や、道徳に 相当の力はあったが「絶対の力」がなかった。言はば、力が足ら なかった為めに、悪に負けたんであります。 いよいよ天の時が来て、絶対の力が、今度、之(コレ)から地上に現はれるのであります。何千年の間、人類が知らなかった、力が 出るのでありますから、種々と想像もつかない事が、今後は出て 来るでありませう。それで、今日迄の宗教を観察してみると、ど れも完全な教はなかった。例えてみますと、仏教で謂ふ大乗と小 乗であります。小乗とは利己的信仰で大乗は利他の信仰のやうに解釈してをりますけれど、此の解釈は未だ、本当ぢゃないのですが、仮りにそういふものと仮定しても、実は小乗も大乗も間違っ てゐるのであります。
今日の小乗的信仰とは個人の利益、つまり自分が安楽に暮せばいゝ、自分の家族一族が倖せに暮せればいゝ、社会とか、国家とか人類とか、そういふものには一切関心をもたぬ、世によくある家内安全、無病息災商売繁昌などと拝む有難信仰がありますが、
之が即ち個人本位の信仰であります。
次に大乗的信仰と称するのは、全然、之れと反対で、社会とか、国家とか、世界人類とか、そういふ大きい事を対象として、 自分の事を無視するのであります、兄弟親子と別れ、家庭を犠牲にしてでも、世の為に尽すといふのであります。
之は一応甚だ立派なやうに見えます。成程、大きい救ひの為 に、自己を犠牲にしてやるといふ事は、大変悲壮であって、立派 であるが、矢張り之も、真理から言って間違ってゐるのであります。ただ特殊の場合止むを得ぬ事情に際会(サイカイ)した時を除く外、平常滅多にあるものではないのです。それで小乗でも駄目、 大乗でも駄目だといふ事は明らかであります。
然らば、一体どうする事が本当なのかと言へば、それは小乗にもあらず大乗にも非ず、又小乗であって大乗であるといふ事であ ります。それは或る場合には小乗で行き、或る場合には大乗で行 く、その時と、場合、又人に依って、種々(イロイロ)に変化する事で あります。例へば暑い時は単衣物(ヒトエモノ) を着、少し涼しくなると セルを着、袷衣(アワセ) を着、寒くなれば綿入れを着ると言ふ如(ヨ)うなわけで、対象、環境に由って、即ち時所位に応じて変化する事、それが本当なのであります。
それですから、小乗的信仰、利己的信仰では、到底、人類は救はれない筈で、利己が衝突して争となりそれが大きくなれば、戦争となるのであります。と言って、大乗的信仰の一身を犠牲にしても、世界人類の為に尽すと言ふ事は一寸間違ってゐないやうに見えますが、斯ういふ信仰や、斯ういう行り方で、各時代に多勢 の人が、散々やって来たのでありますが、今日迄理想世界が実現しなかったといふ事は、駄目だという事を瞭(アキラ) かに證明してを ります。その理由を言ふよりは結果を見たら一番判る事と思ふの であります。 現在でも、そう言ふ型の宗教を見た時、実に悲しむべく、悲惨 な感じがします。世界人類の為め、総てを犠牲にするのは結構だが、自分自身が行詰って了(シマ)ふから、終には親子兄弟親戚にも 迷惑をかけ家庭は不和になり、周囲の人達からは、排斥されて、「孤独に陥りつつも」尚ほ之も神様の為だ皆神の試練だと言って、そうなればなる程、殆んど意地づくにさへなって来て、やっ て行く、そうすればする程、猶々(ナオナオ)周囲から誤解され排斥されて、二進(ニッチ) も三進(サッチ) も行かなくなり、此方(コチラ) が救ふ といふよりは、却って人から救はれなければ、食って行けないやうになって来る。斯ういふ型が所在(アラユル)宗教に見えるのであります。之では何で、天国が出来るものではありません。
世界が天国になる事は、先づ世界を構成してゐる、単位を考へ れば判るのであります。それは結局人間であります。世界は人間 の集合体で国が出来、国は市町村から成り、市町村は家から成 り、家は個人から成ってゐます、ですから単位たる個人が救はれ ねば、世界は救はれる筈はないのであります。
従って、個人の利益のみ主とする、小乗的信仰も間違ってをれ
ば、個人を犠牲にする大乗的信仰も、間違ってゐるんであります。ツマリ両方共良くなり、全体が救はれなければならないのであります。個人が救はれ完成し、それが拡って世界が救はれ、完成されるのでありますから、先づ個人が救はれ完成しなければな らないのであります。一軒の家が世界の型とすれば、一家が天国 になって、救はれて世界は救はれる訳であります。
今迄にそういふ説は、あるにはありましたが、到底、実現はせないものと、諦められてゐたのであります。それは其開祖なり、其宗教なりに、力が足りなかった為であります。
今後、いよいよ観音力に依って、それが必ず、完成する事になったのであります。それで之を、最も解り易くいへば、病と貧と争の無い世界、病貧争のない家庭が出来る事であります。
病貧争は、小三災たる飢病戦と、同(オナ)じ事でありますが、病貧争と言った方が、何だかピッタリすると思ひます。これが絶滅するんであります。果して、それが出来るか、必ず出来るんであります。観音様を信仰すれば、絶対に出来るんであります。今迄は、それが出来なかった。どんな立派な信仰をしても病貧争のない家庭は出来なかったが、夫(ソ)
れが、今度は出来るのであります。事実「観音会」に、今入(ハイ)ってる御方で、沢山そうなって居るんであります。なってる人と、ならんとしつつある人と、近
づきつつある人が沢山あります。
大光明世界の建設は、難しいやうに思ふが、そう難しくはないのであります。
つまり病貧争の無い家庭が世界中に満ちればよいのであります。それで、茲に世界は初めて、真の平和に浴する事が出来るのであります。観音力とは、昔から謂ふ「東方の光」であります。
何時、何処からともなく、斯ういふ言葉が、昔、出来たと言ふ事は、非常に不思議な事であります。
私も七年前、昭和三年の二月の節分の日から「東方の光」に就いて、種々(イロイロ)と観音様から知らされたのであります。じっとして、時の到るのを待ってゐました。否、準備をして居ました。それに就いて、「東光男」といふ方が、之は今日お見えになってゐますが、皆様もよく御存じの事と思ひますが、東の光る男と言ふ名刺を出して、面会したいと云ふので、一目見て驚いたのであります。全然知らない方でありますが、昨年の十月十一日に、突然お見えになりまして、二十年も前から観音力を持った人が、出現する事を神様から知らされ霊感に依って、今年は必ず見当るといふ事を知り、併(シカ)も御自分の宅(御住居は渋谷区)より東の方に、最早や現はれてゐるといふ事を知られ、麹町に見当をつけて、尋ねてをられましたが、フト或人に私の事を聞いて応神堂へ訪ねて来られたのであります。
それで私は、それは、私に違ひないと言ふ事を話したので、それでは、写真を撮らして呉れといふ事で、撮ったのが御存じの「千手観音」の霊写真であります、それが「東方の光」の現はれる「第一歩の経綸(シグミ) 」で此の東方の光の最初の仕事が、千手観音様の御出現と、御働きなのであります。
それは昨年の九月であります、腹の中で、観音様が、いよいよ千手観音の姿を描(カ) けとの事で、早速準備にかかりまして、漸(ヨウヤ)
く十月の五日から描き始めたのであります。そして描き始めてから三分の一位迄描けた時に、只今申したやうに、東氏が来られ写真を撮られたのでありますが、其の写真は「千手観音」は斯ういふ風に描かなければいけないといふ事を、御示しになったのであります。それで直ぐに、描き直したやうな訳であります。
それから何故今日、東方の光が出たかといふと、それは今日の文明、文化といふものは残らず西から入って来たものであります。支那文明も西の文明であります。之も先刻(サッキ)
詠みました讃歌に「西方の文明釐(タダ)し永遠(トコトワ)に栄ゆる東の道建つるなり」といふのでお判りの事と思ひます。
西洋文明の誤謬は、近頃大分判りかけて来たやうであります。又満洲事変以来、日本が躍進して来た結果西洋は、今迄のやうに尊敬が払へなくなって来た。之も時節であります。
西洋文明が広まった結果、世界はどうなったかといふと、成程科学的には非常な利便を享(ウ)
け、大きな恩恵を蒙ってゐる事は、感謝の至りに堪へない次第だが、一方精神的には個人主義、利己本位に堕落し到る処に、闘争が絶へないといふ、悲惨な状態になったのであります。(中略)
日本も最初は、東洋文明、即ち支那文明が、又印度の仏教が入り、充分吸収した頃に、西洋文明が入って来ました。之は実に意味のある事であります。茲で、ザット歴史をふりかへって見ませう。
最初、世界は支那、印度の東洋文明が興り、今日の欧羅巴文明の如く永い間、世界を風靡しそれが西漸して埃及(エジプト)、希臘(ギリシャ)、アッシリヤ等の文明へ移り、羅馬(ローマ)
文明を経て、今日の如き西洋文明が、発達したのでありますが、此の最初に、東洋文明が興り、次に西洋文明が興ったといふ事は、神が世界経綸の上に就て、実に深甚なる意味と用意があるのであります。
即ち東洋文明は、霊的経の文明であり、西洋文明は、体的緯の文明であります。ですから今日までに「経と緯」との二大文明の見本が、一通り出来たのであります。又大小から言ふと、東洋は小乗文明であり、西洋は大乗文明であります、東洋思想が独善的孤立的であり、西洋思想が横に拡がってゆく形を見ても判る事と思ひます。
処が、どちらの文明と雖も、充分発達し爛熟期に入れば、行詰ってどうにもならなくなる、丁度、今日の西洋文明の状態が、夫れなのであります。先程申しました小乗でも駄目、大乗でも駄目だといふ事は、茲の事なのであります。それで、此の二大文明は、何処へ行くといふ事です、之が、此の観音会の使命になるのであります。
此の二大文明は、最後に結ばれるのが、神定(シンテイ)の経綸であります。結ばれる地点は、我が日本であり、結ぶ時が之れからなのであります、恰度、夫婦が出来るのであります、東洋といふお婿さんと、西洋といふお嫁さんと結婚するのであります、其の媒酌人が、観音様であります。そうして生れた児供、其の児供が、「真文明」人類待望の「理想世界」であり、地上天国、ミロクの世なのであります、此の結婚をさして、玉の如(ヨウ)な児を生ませる、空前の大事業を、遂行する其の力が、即ち「観音力」なのであります。
今日の非常時とは、其の文明の生みの悩みであります。経緯(タテヨコ)を結ぶ、「十字の形(カタ)」が出来やうとする、最後の時であり、又、最初の時なのであります、観音会の紋。之は昔からあるのですが、卍(マンジ)(ギャクマンジ) 紋は、その意味の表徴(シルシ)
であります、十字に結んで、其の端が折れて居るのは、結んでから廻転を始める形であります。廻転とは経綸であります、左進右退に廻転する事であります。
そうして、此の経緯が結ばれ十字になったら大変なのであります。之が「霊体一致の力」と申しまして、絶大な力が生れるのであります。それを称して観音力といひ、東方の光といふのであります。
今日迄に、西方から来た文明、それが九分九厘の処で、極東日本、神国の中心地点に顕現された光明、それが東方の光であります。此の東方光に由って、今迄東漸しつつあった西方文明、破綻すべき運命にあった文明を、更生醇化し、経緯を渾然調和融合したる理想文明が生まれ、永遠に栄への光明の道となって、今後は、逆に西漸してゆくのであります。
その事を、何時の頃からか無論、千年も二千年も前からでせう、東方の光といふ言葉に由って、現はされてゐたのですが、実に不思議と申すより外はないのであります。で、此の東方の光の経綸の始りが、今日の発会式になるのでありますから、之から非常な勢を以て発展してゆく事と思ひます。
で、千手観音様は別名、千手千眼観世音と申しまして、千の手を以て、あらゆるものに生命を与へ甦らせ、千の御眼(ミメ)から放たれる御光(ミヒカリ)に浴さしめて救はれるのであります。西洋文明が九分九厘になって行詰った時、一厘の力が出て生かすといふ事は、丁度、螺旋に例へると能く判ります。今迄は、右巻きに西洋文明が進んで来たのでありますが、九分九厘の瀬戸際で、俄然、左巻きに変るのであります。
右進左退即ち右巻は、必ず破壊するもので、例へば,炭団(タドン) を練っても、団子を捏(コ) ねても、左進右退なれば纒って巧くゆくが、右進左退でやると崩れてしまひます。又、鍵も左様(ソウ)であって、閉める時は右進左退、開ける時は左進右退であって、 此理屈で当て嵌めれば能く判ると思ひます。ツマリ西洋文明は、右進左退の破壊文明であります。時計のゼンマイも同じであります。
之から日の本の中心、此の麹町から、観音会から左巻文明を始めるのであります。
そして完全無欠な文明世界、即ち吾等の目標たる、大光明世界を建設するのでありますから、大変な、開闢以来未だない、大き な運動であります。実に想像もつかぬ事なのであります。
神様の方では、何千年、何万年前から水も洩さぬ準備をなされて居ったのであって、愈々其の時期が来たのであります。それで今申したやうに、一厘の仕組が千手観音の御働きといふ事になるので、それに就て面白い事がありました。
それは此間、暮の二十三日に、応神堂へ千手観音様をお祭り致しました、其の二日目の事であります。全然知らない人が、偶然、一厘銭を持って来て呉れたんであります。其の一厘銭は、表に千手観音が浮き彫になってゐて、裏には千手観音と四文字出て居るのであります。三四十年、古銭などを扱って居ったといふ道具屋に見せた処、初めて見たといふて居りました。之でみても、余程珍らしいものだと思ひます、それは今申した様に、千手観音様は一厘の働きであるといふ事を、神様が小さな事に依って、知らされたのだと思ひます。
此の様な不思議は毎日あるのであります。元来、観音様は御身体(オカラダ)が小さくて、非常な力が有るのであります。彼の浅草観音様が僅か一寸八分でもって、十八間四面の御堂(ミドウ) に住はれ、日本で第一の参詣者がある事でも判ると思ひます。
茲で序(ツイデ) に申しますが、観音様は一寸八分とか、十八間四面とか、凡て一八の数でありますが、之は五六七(ミロク)
様の「御本体」が観音様でありますからです。ミロクとは五六七と書きます。五六七を合計すれば、十八の数になります。又三六(サブロク)、十八でもあります。又、十は神であり、八は寄せると、人と云ふ字になります、ですから十八は、神人といふ事にもなり、又、十八は十は結びの形、八は開く形ですから、経緯結んで開くといふ意味にもなります。
「一厘の力」は小さくても、非常な力であります。如何なる悪魔の力も敵はないので、此の力で初めて全世界の一切が救はれるのであります。今度は、此力を以って、あらゆるものを「日本文明」に依って、支配する事になるのであります。
今、世界を見ますと、英米仏等が各植民地を有し、沢山な国を支配して居ります。又種々(イロイロ)の方面や物を、征服してをります。霊的に見ますと、日本も遂此間までは、上下あらゆるものが、西洋に支配されてゐました。満洲事変以前迄は、実に甚だしかったのであります、国民の大部分が、英国や米国、露西亜等の文物を崇拝し、之を真似んとして、一生懸命でありました。
是等を見れば、形は日本人であっても、精神はスッカリ西洋に支配されて居ったのであります。殆んどあらゆるものが、西洋に掌握されてをったのであります。それを、是から日本が握りかへすのであります。千手観音様の御働きに由ってそうなるのであります。吾々は、其の機関に過ぎないのであります。然し之は「絶対の力」に由ってそうなるのであります。チャンと、そう太初(ハジメ) から神様が、御計画なされて決ってゐるのであります。
其の事を吾々は、全人類に向って知らせるのであり、世界全体をして東方に、眼を向けさせるのであります。之に由って、「滅ぶべき文明」危機に際する人類を、観音様に救って頂くのであります。そして風水火の大三災、飢病戦の小三災を絶無ならしむるのであります。病貧争のない「永遠の平和」と栄へ尽きざる「大光明世界」を建設するのであります。此の意味に於て、今日の発会式は、何千年来未だ無いところの「重大な意義」があるのであります。」
「大光明世界の建設 罪障消滅」
(光世2号 昭和10年1月11日)
「今晩は此処が観音会の仮本部になりましての第一回の講話会であります。
昨日は、大変雨が降りましたが、今日は大変に好いお天気で、恰度祝詞にもあります如く五六七の世、それは五風十雨であります。五風十雨とは五日目に風が吹き、十日目に雨が降ると言ふ事であり、天候が全く順調になるといふ事でありますが、丁度此処へ観音様をお鎮めしたのが、昨年の大晦日の晩でありましたが、大晦日は一日雨で正月はカラリと好晴で、それから後はお天気が続き、十日目の昨日(キノウ)
が雨で、五日の日に風が吹きました。
それで此十日間は、五風十雨、になったのは不思議であります。よほど「天候係り」の龍神様も(斯ういふ雨や風は龍神様がするんであります)気を利かしたものと見えます。之は何時迄も続くものではないが、兎も角此元旦から東方の光に依って五六七の世が実現すると言ふ型を十日間で、お示しになったものと思ふのであります。
此度皆さんが観音会へお入りになって、観音様を日々拝んで居(イ) られるし、観音様の方では会則にもある通り、大光明世界を出現せられる目的になってをります。それにはどうすればいいかと言ひますと、それはちっとも難しい事はないのであります。
神様の御経綸などと言へば甚だ矢釜しいやうでありますが決してそうではない。何故かと言ふと、それは小さくは一個人又は一軒の家庭、それが倖せになればいい。ただそれ丈の事なんであります。
今迄あらゆる宗教が出ましたが本当に倖せにして呉れるといふものは未だ一つも無かった。それは何割かは倖せにして呉れた事は慥かにありませう。まるっきり御利益が無くはなかったんでありますが、絶対に不倖せを無くして呉れ、皆が喜び勇んで暮せるといふ境遇には、して呉れなかった。でありますから何時迄経っても世の中は不倖せが絶えない。否不倖せが充満してゐるんであります。
個人的にも家庭的にも世界的にも不倖せ難渋が増えても減る事がないのであります。
詰り之は何処かに間違ってゐる点が有るに違ひないのであります。
ところが、今度「東方の光」即ち観音力に依って、そういふ一切の不倖せの原因が判り、随而不倖せのない世界が出来るのであります。病貧争のない世の中、病貧争、之が完全に無くなって了ふのである。之程偉大な力がありませうか。人類史上未(イマ)だ曽(カツ)て無いのであります。然し今迄は此不倖せを無くする為に非常な努力をして来たのであります。不倖せを無くする、その事の為に悩んで来たのであります。
例へば信仰に依って不倖せを無くする為には財産を上げたり、或は朝から晩迄拍子木を叩くとか、或は余計に称える程よいと言ふので沢山のお経を称える、そういふ事に一生涯掛ってゐたのであります。否其事自身が一つの悩みであり、不倖せであります。然し中には此の悩みを感謝し、反って幸福を感ずる様な人も有りますが、夫は一種の変態心理になって了ったんであります。斯ういふ人を第三者から見ますと、気違ひの様に観られるのであります。
勿論不倖せがあるといふ事は、罪障に因るには違ひありませんが、それを無くする為に非常な努力を払ふ、いくら努力をしてもなかなか罪障は減らないで、消滅実行中にバタバタ滅んで了ふやうな事がある。之は全く笑えない事実なんであります。世間をみればそういふ事は有過ぎる位沢山あります。そして夫を教へる宗教家や取次人が罪障消滅を非常に吹込むのであります。それも至極結構ではありますが、その罪障の消滅しない裡に種々(シュジュ)の不倖せが洶(ワ)
いて来る。非常に熱心に信仰をしてる家(ウチ)でも、罪障がすっかり無くなった家(ウチ)といふものは見た事がない。
何処の家(イエ)を見ても罪障消滅中なんで、反ってますます罪障が出て来て、いよいよ消滅しなければならないといふ、実に悲惨な状態であります。併も某宗等は管長なる人が親子争ひをしたり、莫大な借金で首が廻らなかったりして苦しんでゐるのは皆様も御存知でありませう。
併も此の宗なぞは七百年も前から法燈連綿と続いてゐるのでありますから、御本尊様が七百年掛っても未だ罪障が消滅しない位でありますから、況んや其在家信者さん達が此の先何百年経ったとて到底罪障消滅なんか出来る見込はないと言ふべきでありませう。
是等の現状を見ては此の儘済してはをれぬ。人類が斯ういふ事で満足してる様では如何にも可哀そうなものである。之をちゃんと解決しなければならない。処が愈々その解決の時期が来たのであります。」
「大光明世界の建設
真のミロク」
(光世2号
昭和10年1月11日)
「今日の如き澆季末法(ギョウキマッポウ)の世が来る事は、お釈迦様は能く御存知であった。
何故なれば、此の世は火宅(カタク)
だとか厭離穢土だとか仰有ったのであります。此の世では幸福といふものは得られない。何処迄も苦しまなければならない。苦の娑婆であるとお説きになったんであります。だが然し、仏の世は必ず滅する。そして仏滅後に弥勒が現はれる。
それからが初めて五風十雨の正しい世、苦悩のない五六七の世が出現すると予言されて居るんであります。であるからお釈迦様も、ミロク出現迄は苦の娑婆であるから夫迄は多くを望むな、諦めてをれとお説きになられたのが仏法の根本であります。
故に仏教は徹頭徹尾諦めの教でありまして、此の諦めを悟りと謂はれたのであります。此の点は他の既成宗教にも往々有るんであります。然らば五六七の世、又はミロクとは何かと申しますと、ミロク様は三人あるのであります。即ち阿弥陀に釈迦に観音であります。それで三人の弥勒は種々(シュジュ)に分けられてあります。地理的に分けますと、釈迦は東洋の弥勒であり、阿弥陀は西洋の弥勒であり、観音は日本の弥勒になるのであります。
それから之を、天、地、人、に分けますと、阿弥陀が天の弥勒、釈迦が地の弥勒、観音が人の弥勒で又法身、報身、応身に分けますと、法身弥勒が阿弥陀、報身弥勒が釈迦、応身弥勒が観音様になるんであります。
ミロクとは五六七と書きますが、五が観音、六が阿弥陀、七が釈迦になるんであります。それで七の弥勒六の弥勒は今迄に一度肉体を以て出た。御承知の通り、七は釈迦でありますし、阿弥陀は釈迦の時代に法蔵菩薩となって現はれたのであります。観音は観音として未(イマ)だ曽(カ) つて肉体を以て現はれた事は無かったのであります。それで五の弥勒即ち観音様はお一人で六と七とのお働きをされるのでありまして、六の弥勒七の弥勒は、それ丈の限られた働きでありますが、観音即ち五の弥勒は六七共兼ねられてのお働きでありますから自由無碍如何なる活動力をも発揮されるんであります。
基督教の三位一体といふ事は三人の働きを一人でなさる即ち観音様のお働きの事を言ふたんであります。ですから本当の意味での弥勒といふのは観音様の事なんであります。弥勒出現して五六七の世が成就するといふ事は観音様が現はれて、観音力を以て世を救ふ事なのであります。観音会の働きといふのは弥勒完成の運動をする機関なんであります。」
「大光明世界の建設 光明如来」
(光世2号 昭和10年1月11日)
「観音様は別名光明如来と申され、光に依って一切を救はれるのであります。
今日迄の宗教は罪障消滅するには非常な努力をしなければならないのでありまして、それでもなかなか一生懸っても消滅は六ケ敷かったんでありますが、それが今度は観音様に依って至極簡単に罪障消滅が出来るんであります。何故かと言へばそれは大きな光であって、光で出来るんであります。罪障なるものは大きな光に遇へば速かに消えてゆくんであります。
ところが、今日迄のあらゆる宗教の光は、小さいのであって、ちゃうど電燈の如(ヤ)うなもので各宗の御本尊は電燈会社の如うなもので各信者へ電気の光を供給してゐたのであります。処がその電気の光を戴くには種々な努力と費用が要ります。
先づ大仕掛な水力又は火力工事を起して動力を造り、それから種々の機械や人力に依って電気を起し、蜘蛛の巣の如うに電線を引っ張り、種々な工夫(クフウ)
をして光を諸所方々へ間配るのであります。恰度今迄の信仰に依って神仏の御利益(ゴリヤク)を戴くのは斯んな具合なのであります。それでも人間は之位結構なものは無いと信じ切ってをったんであります。
一軒の家の中では迚(トテ)も明るい大した光の様に思ってゐても、一歩外へ出れば真暗闇であります。それで球が壊れれば付け替えねばならず、時々故障が出来たり、停電があったり、大地震でも出来(ア)
れば何時真暗(マックラ)になるか判らない。真に安心は出来ないのでありました。
然し今迄は夫れ以上の光が無いから人間はそれを唯一の頼りとし有難く思って来たんであります。処が今度は太陽の光が出るんであります。太陽が出れば如何なる光も消されて、世界中が一度に明るくなるんであります。太陽の光は月光の六十倍もあって別段何等の手数を要しないで光に浴する事が出来る、之は誰でも知って居(イ)るので有ります。
唯然し此太陽が出たのを知った時、素直に戸を開け放てば此大きな光を無雑作に受け入れらるるのであります。然し人類は今迄何千年来、眼に見える太陽の光には毎日浴してをりますが霊界の太陽の光に遇った事が無い。乃(ソコ)で是から、戸を閉め切って電気の光以外に光といふものはないと諦めてゐた人々に、さあ愈々黎明が来たぞ、みんな速く戸を開けろと言ふて世界中へ呶鳴って知らせる。
それが観音会の運動になるんであります。
でありますから、此の声を聞いて素直に、戸を開けた人が一番早く光に浴して救はれるので、躊躇してゐる人は後廻しになるから詰らないのであります。手数や費用も要らなくて斯んな大きな光に遇えるといふ事を識って人々は非常に驚くのであります。
それで申し辛(ニク)い事でありますが、今迄の宗教の信者が種々苦心惨憺して罪障を除らふとしたが中々除れなかった。其の為宗教家の方では種々(シュジュ)巧い事を拵えて逃口上にしたんで有ります。
例えば病気や災難が有ると其れは信仰が間違ってゐるとか、信仰が足らないからだ等と言ひ、或はそういふ事が起って来るのは祖先以来溜ってゐた罪障が出て来たんだと言ひ、又病気で死ぬ人があるとか又非常な打撃を与へられる様な事があれば、死んだ人が罪を持って行って呉れたんで大変結構な事だと言ひ、大難を小難に祭り替えて貰ったんだ等と言ふのであります。
そういふ様に病気災難に対し信仰が間違ってるとか、足りないとか言ふ此の言葉は事実そういふ事も無いと言へませんが、巧妙な抜道に使ふ場合も随分有るのであります。信仰が足りないと言ふならば一体何所迄やったら足りるか標準が判らない。金銭の御用もどの位しなければならないのか、その見当(ケントウ)も皆無判らない。
それが為始終戦々兢々として一種の不安があり、信者は喜びと不安と相半するといふ様な状態であって、見方に依っては気の毒とも言へるのであります。
之に就いて斯ういふ実例があります。
私の知人で××教の布教師をしてゐて病気になりました。その布教師の上の先生と云ふ人が、毎日やって来て、貴方(アナタ)
には非常な罪があるから懺悔をしなければいけない。懺悔をすれば必ず治るといふのであります。それで御本人は自分の悪い事を考えだしては懺悔をしたが中々良くならぬ。すると先生は、未(マ) だ罪障が有るに違ひない。悪い事が残ってゐるに違ひないからよく思ひ出して懺悔をしなさいと言ふ。
然しその人は最(モ)
う有丈(アルダケ)の懺悔をしたんで無いと思ふが、それでも五十年も生きてゐたんだから、長い間の事故未だ忘れてゐる事もあらふと細い事まで考えてみたがもういくら考えても無い。それでも病気は治らぬ。すると先生は、今度は奥さんの方にあるに違ひないからと奥さんに向って、すっかり懺悔をする様に言ったのであります。乃(ソコ)で奥さんも種々悪いと思ふ事をすっかり懺悔をしたが病気は治らず、未だある未だあるの一点張りで、そうしてゐる裡(ウチ)に到々亡くなって了ったんであります。
私は此の実例をみた時、実に馬鹿々々しいと思ふより恐ろしいとさへ思ったんであります。人類は斯ういふ様な信仰で何時迄も苦しまねばならぬと言ふ事は実に悲惨なものだ。黙ってみてはをれぬと思ったのであります。
こんな訳ですから、少し学問のある人や知識階級の側では、信仰を馬鹿にし神仏なんて有るものか、そんなものは一切迷信だと片付けて振り向かないのは一面無理のない事であると思ひます。又信仰者の方ではそれを観て、少し学問があったり知識があると神仏の事は判らないと憤慨する、是等を大きな眼を以て観ると、一方には迷信の集団があって多数の人が苦しんでゐるし、一方には神仏に無関心な唯物主義の集団があって、心中不安を感じ乍ら兎も角も満足らしく生きてゐるんであります。
斯ういふ様な現在の状態、之を称して暗黒無明の世と謂ふのでありますが、全く夫に違ひないと思ふのであります。然るにどちらも実に気の毒な人達で此の気の毒な二種の人達に属しないで、別に只空々寂々で生きてゐる人達もあります。処が今度は斯ういふ人達残らずを、一様に大きな救ひの力に救はれると云ふ時機が来たのであります。」
「大光明世界の建設 御霊光」
(光世2号 昭和10年1月11日)
「之から愈々此の観音会を機関とされて、観音様が観音力を揮はれるといふ事は、実に開闢以来無い事であって、人間では想像もつかぬ事で、之を成程と思ふ所まで話すのは、実に難しい事なんで初めて聞く人は不思議過ぎて迚(トテ)も本当に出来ぬ事が多いのであります。
それ故私は加減して話してゐるんであって、実地有りのまんまを話すと、反って誇大妄想的に思はれやしないかと思ふんであります。ですから何よりも先づ一度御神体をお祭りして、拝んで下されば直ぐに判るのであります。必ず不思議な御霊徳を受けるのであって、お祭りをしてから時日が経つに随って一家にある事すべてが良い方へ善い方へと向って行くのは実に不思議なのであります。
詰り病気が無くなり、金銭に困らなくなり、心配する様な問題等、すらすらと片付いて行くのであります。之はどういふ訳かと申しますと、大きな光に照らされるからであります。それに就いて最近斯ういふ話があります。或方が文字の観音様の御神体をお祭りされたんでありますが-私の所へ来て、聞かれますには、先生のお書きになった「文字の墨」には何かお入れになるんですか、と云ふのです。
私は、イヤとんでもない墨丈で書くんです、と答えますとどうも奇体だ、お軸の大聖観世音と書いてある字が真白に光るんで、私は燐でもお入れになったのかと思ったんです。そしてジーッと拝んでをりますと、字が其儘白い光になって、その光った文字が脇の壁に有々映って、大聖観世音とその儘出るので之は暗い為であらうと、日の当る頃太陽の光を射す様にして見ても、矢張り同じやうに見える。すると此方(コチラ)の壁へ写ったかと思ふと又消えて、彼方(アチラ)
の壁へ写る。そして大きくなったり小さくなったりする。そうかと思ふとお掛軸の上の方から紫の如(ヨ)うな、雲の如うな、光が出て来て種々の変化をする。
詰りそれは瑞雲でありまして、その瑞雲が下の方からも湧き、彼方からも此方からも出て来るかと思ふと、彼方へ行ったり此方へ行ったりして、恰度ネオンサインの如うで、迚も綺麗で何時迄見てゐても飽きないと言ふのです。
其に就いて私も詳しく説明して上げたので、やっと判られた様な訳であります。其お宅に一寸面白い話がありますから、お話します。
その御婦人はどうして観音様をお祭りしたかと思ふと、その家に十位の男の子があるんであります。然し生れ付に言葉がはっきりしない。全然口が利けないのじゃなくて、ただはっきりしないのであります。アイウエオだけがハッキリ言へぬ丈で、後ははっきり言へるのであります。チョイチョイお出でになる裡に、恰度半分位良くなった時に、観音様をお祭りしたんであります。
その子供は、最初頭に瘤があるから、それを熔(トカ)しました。それが荒方解けると最初来られた時には、ボーッとしてゐたんでありますが、非常にはっきりして来て瘤が除れる頃は眼付も大変よくなり頭もとても良くなって従って、学校の成績も驚く程良くなって来たんであります。段々査べてみると犬の霊が祟ってゐる事が判ったんであります。
それは其の子のお父さんが犬を殺した事があるのです。アイウエオの音丈はっきり言へないと言ふ事は犬である事を証拠立ててゐるのであります。大抵の動物は七十五音の内どれか一種を発する事が出来るのです。
犬は、ワヰウヱヲの音で、ワンワンと鳴き、ウーウーと唸(ウナ)り、足等踏まれたり、轢かれたりした時はヰーヰーと呻(ウメ)き遠吠えする時は、オーオーと鳴くのは、皆さんも御存じの通りであります。その他猿はカキクケコ、鼠はタチツテト、牛はマミムメモ、馬はハヒフヘホと言ふ様に各動物は一種の音声を特徴として神から与へられてゐるのであります。
犬が祟って、憑ってゐる為に人間の舌や発声機関を使ふのは適しないから、その声丈がはっきりしないんで、又その頭の瘤は犬が殴られた所なのでそれが致命傷になったのであります。それが判ったから早速其の犬を私は祀ってやった所、病気もどんどん良くなって昨今は殆んど快くなったんであります。そのお母さんが光を拝まれたのであります。斯ういふお光は、大抵な方は拝まれます。その光が種々あって色は金色紫色紅色等が多く、その中でも白金色が一番多いのであります。
その訳は「神体」を書く場合、「観音光」が私の手と筆を通して文字の中へ入って行くんであります。それが為に文字やお像から絶えず光を放射するんであります。その光に依って一家の罪障が除れるんであります。
罪障とは、罪の障りと書くんで、此の障りが解消して行くんであります。一軒の家に不倖せがあるのは、罪が障ってゐるからなんで、罪障の多い家程、それが一つの層になってゐて何時もお話をする、霊界、その家の霊界を暗くしてゐるんで、罪の多い程、其家の霊界は暗いんであって、暗黒の濃い程悪魔が災害を与へやうとして、跳躍し易いのであります。
悪魔は人間に隙さへあれば、災害を与へ苦しませやうと、絶えず、狙ってゐるもので、人間に病貧争の悩み苦しみを与へるのは彼等の天賦的本能とも言ふべきなんであります。故に暗い家程悪魔の力が強いといふ事は当然な事であります。
暗黒の度の強い家と言ふ事は、一家に罪障が多いと言ふ事であって、罪障はすべて曇りになり、その曇りが暗黒を造るんでありますからそれと反対に正しい信仰をし、善を施し、徳を積めば、それが光となって曇りを減らして行くのであります。斯ういふ説明は信仰的でなく寧ろ科学的であると思ひます。
それで観音様のお光は何んであるかと言ふと、太陽と月の両方の光を一つにした光なのでありまして、強さは太陽の光と同一でありますが、太陽の如く、眩しくなくギラギラ光らないのであります。又観音様のお光は金色と紫の光をよく拝む事がありますが、金色は表の光で紫は裏の光であります。詰り金色は日の光で紫は月の光であります。
千手観音様の霊写真に私の腹の横から出てゐる光がその光であって、写真を御覧になった方は非常に強い光であるといふ事は想像が出来る事と思ひます。」
「大光明世界の建設 光の活動」
(光世3号
昭和10年1月11日)
(昭和10年1月11日本部に於て御講話)
「私が書いた、御神体は、観音様が直接に、お拵(コシラ)
えになられると、言ってもいいのでありますから、此の御神体の強い光に遇へば、一家の暗黒即ち曇は、どんどん解けて、明るくなるんで、実に簡単なんであります。
それで、一生懸命念じますと、其念願が、御神体を通して、観音様の処へ届くんであります。すると、観音様の家来は何億でもありますから、直ぐに家来に命じて、救はれるのでありますが、事柄に由っては、一瞬間に救はれるのであります。又、御神体の文字なり、お姿なりが、観音様の御意志の儘に、活動をするのであります。どういふ訳かといふ事は、とても幽玄微妙なんで、口では、説明し難いのであり、又、仮令説明をしても、人間は、今迄の学問や、唯物的知識で固ってゐる為に、非常に解り難いのであります。
恰度、アインスタヰンの相対性原理が、判る者は、日本に一人か二人位しか無い、と言はれるのと同じ様なもので、実に解り難いのであります。
霊界にも、縦横に、平面と立体が、層を成して、無限大から無限微に及んで「無限の速度」を以て「無限極」に活動をしてゐるのであって、一次元、二次元、三次元、四次元所ではないのであって、之を本当に、説明するには、相対性原理よりも難しいと思ふのであります。
之を識るには、観音の光に浴して、真に智慧證覚を磨き、不言不語の裡に覚る、詰り仏教で言ふ「大覚者」にならなければ、真相は判り難いのであります。何時か、金高さんのお宅に、掛ってをります「大経綸」といふ額の文字が、一つ一つ「大」の字から消えて、次が「経」の字、次が「綸」の字といふ風に、順々に消えては又、元へ戻り、何回も繰返すといふ話が、ありましたが之は、其文字が、活きて働くんであります。大なら大の字が、額から抜け出るが否や「無限の速度」と、「無限の拡がり」と、「無限の活動」を起すのであります。
そして「大経綸」といふ文字通りの「意味の働き」を、東京、日本、世界といふ風に拡がって、霊的活動をするんであります。ツマリ無機的な文字が、有機的に化し、文字の意味通りな活物的意志が発生する、否、活物其ものになるのであります。
又、画像の観音様を、先日、或婦人が礼拝してをりますと、眼搏(マバタ) きをされ、眉毛を動かされ、口を開かれて、お笑ひになり、歩行される所を、有々と拝まれ、大いに、驚かれたのであります。斯いふ事は、数限りなく日々に、あるのであります。
斯いふ話をすると、そんな馬鹿な事があって堪るもんかと言はれるに、決ってをりますから、実に話が第三者の方へは、仕難いのであります。だからして、真の観音力の発現は、到底現在の人間の頭脳や知力では、想像も出来ないので、昔から観音力の事を、妙智力と言ふてありますが、実際、妙と言ふより言葉が無く、全く玄妙不可思議力なのであります。
扨て、一軒の家に、先づ「光の活動」が起きるとすると、其家の暗黒が、解けて行きますから、悪魔の活動力が、弱って行きます。
悪魔の弱るのと正比例して、悪い事が、段々無くなって行き、善い事が、増えて行きますから、自然自然に、一家は栄へ、終には天国になるのであります。ですから悪魔は、光を恐れる事、実に甚だしく、先刻の松久氏のお話にも、観音様をお祭してから、借金取りが来なくなったと、言ふ事がありましたが、それは、金は貰ひ度いのでありませうが、其借金取に、善からぬ霊が憑いてゐるので、観音様の光が、恐しいので、来られなくなったんであります。ですから、観音様をお祭りすると、悪い人は段々来なくなり、反対に善い人が、段々来るといふ事になります。
斯ういふ実例は、沢山あるのであります。又、強い光に遇ふ時は、悪魔の霊は、溶ける性質がありますから、恐ろしくて側へは、寄れないんであります。弱い光だと畏縮するんであります。
そういふ訳でありますから、光明世界を作るには、理屈や議論は後からでいいんで、先づ第一に、御神体を、お祭りすれば、いいんであります。そうすれば、朝夕拝んでゐる裡に、魂(ミタマ) が、お光に照らされて、どんな悪人でも、不良でも、善道に立還り、どんどん救はれて行くんであります。
それから一軒の家へ、観音様を祭り、信仰を熱心にしてをれば、その家が救はれるばかりでなく、黙ってゐても近親が、段々救はれてゆくから面白いのであります。斯ういふ事を見た時、其御霊徳の洪大無辺なる事は、到底--言葉では現はせないのであります。
甚だ悪口を言ふ様で、申訳がありませんが、徹底させるには、致し方がないので、他の宗教の事を、少々お話するのであります。今迄の信仰は、一種の取引関係の様な事が、往々あると思ひます。信者の方では、之程信仰するのに、どうしてもっと、御利益を呉れないんだらうか、斯んなに長く信仰してゐても、斯んなに苦しみがあると言ふ様に、思ふ嫌ひがある様でありますが、之は実際、不純な信仰でありますが、又止むを得ない、同情すべき点もあると思ふのであります。
罪があるから病気が治らぬ、其罪を除るには、之々の事をしなければならない等と言はれる事が、能くありますが、是等も一種の脅喝的であり、交換条件的で、面白くないと思ふのであります。」
「大光明世界の建設 本然の道」
(光世3号
昭和10年1月11日)
「観音様を信仰すれば、病貧争が無くなる斗(バカリ) でなしに、未(マ)
だまだ重大な御蔭があるのであります。それは何かと云ふと人間としての「真の道」が判るのであります。
あらゆる階級--あらゆる職業、凡ての老若男女は、各々天から定められた「本然の道」があるのであります。例へば、民は君に対し、国家に対し、忠の道があり、子は親に対し孝の道があり、親は子に対する道があり、夫は妻に対し、妻は夫に対し、自(オノズカ)ら尽すべき事、行ふべき道が、ちゃんと定められてあるのであります。そんな判りきった事さへ、今日は判らなくなってゐる、それが、はっきりと判って来るんであります。判ると共に、強制されたり誨(オシ)えられないでも、自然に行ふ人になるんであります。それが、聊かも、克己的でなく、進んで快く、行ってゆけるのであります。
茲が実に、妙不可思議力であります。職業にしても、商人は商人としての、官吏は官吏、軍人は軍人、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家としての、夫々、天賦の道に適った行ひがある、それさへ行ってをれば、失敗もなく苦情もなく、必ず成功もし、栄えもするんであります。
裁判所や、警察の御厄介になる様な事が、全然起らないのであります。折角、大臣になっても、市ヶ谷の別荘へ送られるやうな事はないのであります。そういふ事は、大臣は大臣とし、政治家は政治家としての、正しい行り方が、ちゃんと規(キマ)ってゐるに関はらず。それを越えてしまうから、苦しむ事が出来るんであります。罪を造ったり、争ったり法律に触れたり、借金に苦しんだりするのであります。
天から与へられた道は、定められてある範囲から、何故人間は、脱線するのであるかと言ふ事を、お話し致しますと、本来人間には、神より与へられたる本霊--即ち善霊と、動物霊たる副霊即ち悪霊と、此両様の霊が、必ず内在してをって、此両者が、絶えず闘争しつつあるのであります。
随って副霊が勝った場合は、悪の行為として顕れ、本霊が勝った場合は、善の行為となるのであります。
斯様に、闘ひ争ってゐる為に、反ってよく調和がとれて、種々(イロイロ)な仕事が、出来て行(ユク)んであります。恰度、自動車の運転と同じ様なもので、自動車は、左へも右へも行く故に、如何なる道でも、自由に走れるんであります。
然し、如何なる場合でも、本霊が勝って行く事が、原則なんで、人間の本来の道なんであります。然し副霊が勝てば、それが脱線になって悪となり、範囲を越えるから失敗をし、苦しみをする事になるんであります。それですから副霊は、悪でありますから、どこ迄も人間を脱線させようと、絶えず骨を折ってゐるのであります。
処が、観音様の御光を与へられると、副霊は、弱って行く--副霊が弱くなった丈は、本霊が強くなって行きます。本霊の判断は、正しい判断でありますから、乃(ソコ)で、何事を行っても巧くゆく、間違ひがないのであります。一番面白いのは、お酒の好きな人が、私の処へ度々来られますと、嫌ひになるんであります。
それは何故かと言へば、酒を呑ませる先生は、副霊でありますから、此副霊が、私の身体から放射する「観音光」の為に力が弱り本霊が勝って来るからで、その本霊は酒が嫌ひだから、酒が不味(マズ)くなって了ふのであります。斯ふいふ様な訳でありますから、観音様を拝めばどうしても、いい方へ変って行くのであります。
今日迄の世の中は、人間の娯しみの大部分は、悪を娯しむ、--娯しみといふものは、どうも悪に属するものが、多かったのであります。それが詰り副霊が、勝って居るからであります。処が、本霊が勝って来ると、善を娯しむ、善い事をする事が、とても面白いのであります。
斯く善い事をする面白さを、本当に知った時は、彼んなに面白いと思った、悪の娯しみは何とつまらない事であったんだらうと、不思議に思はれて、来るのであります。
斯ういふ様に、悪の娯しみよりも、善の娯しみの方が、何層倍、上だといふ事が、判った人が、真に救はれた人なのであります。併も善の娯しみを、続ければ続ける程、其所に、健康と幸福が生れ発展があり、成功があるんであります。」
「大光明世界の建設
最後の審判」
(光世3号
昭和10年1月11日)
「観音力即ち「東方の光」は、今後、月日の経つに従って、之が段々、拡がって行くのであります。そうなりますと、人為的でなく、自然的に世の中が、変って行くのであります。それは、あらゆる方面に渉って、間違った事や、悪に属する事が、やれなくなって来るんであります。
総ての混乱は打断(ウチキ)
られ、あらゆる逆事が、是正され、人も物も本当の姿に、立直るのであります、例えば、政治にしても、若し政党が間違ってをって、有害無益の存在であれば、どうしても解消しますし、又、間違ってをる事に、気が付いて、本来の正しい使命に還へり、社会一般からみて、有益なる存在となれば、解消しなくとも済む事に、なるんであります。
茲で、一寸序ですからお話しますが、立憲政治にしても、政党政治にしても、其形体組織は、何しろ人類が、長年の間、研究をした結果、練りに練って出来たんでありますから、実に良く出来てゐるんであります。けれども、夫を運用する人間の心が、間違ってゐるので、折角の組織形体が、非常に不完全の様に見えるのである。であるから、私共は、形式は次にして、先づ人間の心の改造、それが先だと思ふのであって、此人間の心を改善するといふ事は、立法機関では駄目なんで、之こそ、宗教家の受持でなくては、ならないと思ひます。
然るに、今日の宗教家は、そういふ方面に薩張り無関心なのは、実に遺憾であると思ひます。それも是からは、観音光に依って、革(アラタ) められて行くのであります。
又今迄は、総てが乱れてをりましたから、その人、本来の資格が、地位と合ってゐない事が、沢山あるんであります。そういふ事も是正されるんで、例へば、局長位の資格の人が、正しくない手段で、大臣にでもなってをれば、夫は矢張り下へ降りて、本来の局長になり、又局長でも大臣になるべき資格があれば、蔭の運動等をやらなく共、大臣になるんであります。
又、宗教にしても、インチキや間違った事をしてをれば、どしどし滅んで行くし、夫を自覚して、悪を革め、善に立還れば、再び伸び栄えて行くんであります。
敢(アエ)て人間が傍から、之を審判(サバ)かふとしないでも、自ら審判かれて行くんであります。之が「観音力」の偉大なる「力の顕はれ」であります。ですから、観音様に、お任せして置けば、今言った様に、自然に悪いものは、解消して了ふのであります。
今日迄、何百年も何千年も、間違って来た事も、沢山ありませうが、今度は、赦されないのであります。善悪の解決が、付いて了ふんであります。(中略)
斯ういふ様に、一切の清算、世界的大清算が、行はる時が来るんであります。此、清算は、本当から言ひますと、九千年間に渉っての、あらゆる清算であります。此の九千年に就ては、いづれ別に、詳しくお話する考へであります。そして其結果、森羅万象一切が、時処位を得て、「本然」に立直った時が、五六七の世、大光明世界なのであります。
それからが、永遠の平和であり、万民和楽の地上天国に、成るのであります。
私は大胆に、未来の事をお話致しましたが、之は人間が考へたり、私の出来心等で、言ふのではないのであって、遠き神代の時代に、主神が既に定められてある事が、愈々出て来るのであって、どうする事も出来ない、時期になったのであります。ですから、一日も早く、悪を捨て、善に立還るより、仕様がないのであります。
観音力に就て、大きい方面の事は、別にお話を致しますが、小さい例へを一寸お話すれば、茲にある此大黒様でありますが、昨年の十二月卅一日に、此所へ来るといふ事は、定ってゐた事なんであるから、祀ってをった、山田さんが、いくら手離すまいとしても、仮令、大富豪が、何十万の金を出さうとも、どうする事も出来ないのであります。
そういふ絶対力で、行られるのでありますから、人間の力では、どうし様もないのであります。でありますから、一日も早く、光明世界の団体の一員となって、此、栄誉ある「大光明世界建設」の大事業に、加はる事程、生甲斐のある仕事は、何千年来ない事であります。でありますから、悪魔の方では、之は堪らないと、極力妨害しやうと、してゐるんであります。
マッソンの陰謀等も、ナカナカ油断が出来ないのでありますが、いづれ最後には、斯マッソンも改心して、此光明世界建設に力を協(アワ)す事になるといふ事を、私は知らされてをるのであります。斯うなるのを一日も早く望んでゐる次第であります。」
「大光明世界の建設(四)本地垂迹説」
(光世4号 昭和10年1月11日)
(昭和10年1月11日仮本部に於て御講話)
「観音様は、日本の仏様と言ふ事は、日本より出でました神様の化身であらせられ、祝詞にもあります伊都能売之大神様であります。
釈迦時代、印度へお渡りになって、補陀落山(ホダラカザン)といふ山へ、御宮を建てて、種々(イロイロ)と経綸をされたのであります。そして約三千年後に日本へ御出現になるといふ予言の下に、種々(イロイロ)な事をお釈迦様に伝えられた。そして御自分は、一旦御昇天になられ、霊体に依って、今迄、観音として御活動をなされた
のでありまして、お釈迦様の仏教に依って支那を経、朝鮮を経て、日本へ入られたのであります。
つまり御自分が御留守中の日本が心配になるんで観音様に化現され霊身を以て、日本に間違ひのないやう、又現身(ウツソミ)に依る御出現の準備工作も共になされたんであります。
本地とは、本の土地といふ事で、本の土地といふ事は、即ち日本といふ事であります。
仏教の真髄といふものは、伊都能売之大御神様が、御釈迦様に教へられたのが根本で、お釈迦様は檀特山(ダントクザン)で修行して或程度迄悟ったがそれから先が、どうしても分らなかった処恰(アタカ) もよし、此時印度の南方補陀落山に坐(マ)
す、南海大士(別名、観自在菩薩)を知ったのである。そこで早速、補陀落山へ登って、南海大士即ち後の観世音菩薩から、深奥なる天地の経綸を聞かされたのであります。
此事を華厳経に斯う出てをります。南方に、ホダラカと呼ぶ山あり。観自在菩薩在り。時を得て、善財童子(釈迦如来)が遊行して其山の頂に上り、菩薩を尋ねて会ふ事が出来た。其地は樹木生ひ茂り。処々に流泉と湿地があり、其中心のいとも軟かき草地の上の金剛宝座に観自在菩薩は結跏趺座なされ、多くの聖者達に恭敬されながら、大慈悲経を説諭されて居たとあり、其時の侍者として、二十八部衆居り。大弁財天、大梵天王、帝釈天王、金色孔雀王、毘舎門天、阿修羅王等の外、ナーラーヤナ金剛、ワヂラバーニ金剛の兄弟二人(仁王尊)等の諸天である。
又支那天台の始祖、南岳大師の記に(昔は霊山会場にあって、妙法蓮華経を説き給ひ、今は西法浄土に在(マ) して阿弥陀仏と名付け奉る。而も人界普門に示顕しては救世観世音菩薩となり給ふ。故に過現未にわたる三世の利益は、之観音一体に帰す。)
斯ういふ訳で、南岳大師の言ふ如く、法華経も、実は、観音が最初骨子を説かれたのであって、未来に渉る世界経綸の鍵は、釈尊で七十三歳の時に観音様から秘かに開示せられたのであります。故に、吾七十三歳にして見真実を得たりとの釈尊の言葉は、此事を指したのであります。それが判ったから、正像末、即ち、末法の後が仏滅といふ事を言はれたんで、仏が滅するといふ事は、観音様から知らされたんであります。
それで、本地垂迹(ホンジスイジャク)といふ事は、本の国へ救を垂れるといふ事で、それは日本から出た神様でありますから、故郷の日本を救はんとされたのであります。然し、霊であられるから、止むを得ず、仏師が拵えた像とか、坊さんの書いた画(エ)とか書とかを拝まして救ひを垂れ給ふたのであります。
それで、本当の御姿といふと一寸八分の金無垢の御像になってをります。黄金は、観音様の御本体であり、又清浄無垢なものであります。又、金は高価なもので、大きな物が出来ませんから一寸八分にしたもので、一寸八分といふ事に就ては光明世界の第二号に詳しく出てをりますから御覧になれば判ると思ひます。
今迄は、木仏とか金仏、或は画など、そういふものを通して救ひを垂れたんであります。それを基督教等では、偶像崇拝などと言ってをりますけれど、信仰は矢張り的(マト)がなければならぬもので、基督教では、霊体の関係が解らないからそう言ふのであります。
神様仏様の方でも、人間を救はれる場合、何物かを通じれば、非常に具合がいいんであります。丁度、ラジオの中継放送のやうな理屈であります。又、祈る時に、或物体に向へば、人間の方でもそれに精神が篭りますから、神仏へ通じ易いのであります。所が、段々と世の中が行詰って参りますと、今迄の如(ヨ)うな、物体を通しては、救の御力が弱いのであります。
それでは何時迄経っても、真の地上天国を造る事が出来ないのみならず、人類の悩みが益々激しくなる、それが約束の時期が来た事なのです。生きた人間を通して、直接お救ひにならなければならなくなったのであります。生きた人間なれば、木仏金仏とはマルデ違ふ。木仏金仏に、いくら物を訊いても、応(コタ)へては呉れません。病気だからと言ふて御願ひしても、直接、手を出して治しては呉れません。
観音様が、御神体を御書きになりたいとすると、之も人間の体を通せば、思ふ様に書ける。光も入られるんであります。そういふ風に、木仏金仏と生きた人間とは天地の相違であります。処が人間は、今迄木仏金仏を拝んでゐた癖があります。其為に、生きた人間、糞を垂れ、物を食ふ人間を、却て信じ難いのであります。併し、私に或期間接近された方は、それらの真諦(シンタイ)を能く悟り得られて、絶対の信仰に入られるのであります。
併し何れは、人類の夢にも想はぬ、驚くべき、観音力をお出しになるんだそうですが、今は必要だけの力を出されるのだそうです。霊写真なども、一つの例で、観音力のほんの片鱗を見せて下すったのであります、観音様は力の主でありますから、今迄の外の神様や仏様を拝む様なつもりでゐると、一寸勝手が違ふ訳であります。
要するに、不可思議力を揮はれるのであります。今日も或人が、それは五六日前に、観音様をお祭したのでありますが、或役所の課長級の方であります。前から奨めてもなかなかお祭りしなかったんですが、最近やっと祭られた方であります。今日会ひましたから観音様をお祭りなすってからどうですかと訊きますと、其人曰く、実に不思議な事には、役所へ行くと部下の者が、今迄より余計に頭を下げる。併も、今迄は部下に命令すると、いつも不承不承に仕事したのが、あれからは非常によく言ふ事を肯(キ)く。従而(シタガッテ)
仕事は捗がゆく、どうしても之は観音様がなされてゐるのに違ひないと思ふとの事で、私は、それは当然の事で、観音力を戴けば其人に自然と、権威が着くからだと説明してやりました。
即ち、霊的向上する為に、何となく崇められる様になるんで、自然に頭を下げられる様になるんです。病気の治るなどの外に、斯ういふ御利益もあるのです。先刻、或婦人に、斯ういふ事を話しますと、実は、自分もそういふ事があるんで、最近、子供の附添に学校へ行くと、小使等が、今迄と異って、迚も親切に、丁寧にして呉れるんで、小使に何か与ってゐるんではないかといふ評判が立ってる位だと云ふ話であります。
話が、横へ外(ソ) れましたが、又本論へ戻りませう。本地垂迹に就て、大変な間違った解釈を今迄してゐたといふ事が判ります。それは、今日迄仏者は、本地とは仏の祖国印度であると思ってゐた事であります。成程仏法は確に印度が本であるが、其仏の本が日本であるといふ事が不明であった為に、間違ひのまま、今日に到ったのであります。甚だしきは、仏が本体であって、神は仏の化身であると言ふ事で実に怪しからんのであります。(後略)」
「大光明世界の建設(四)観音様と阿弥陀様」
(光世4号 昭和10年1月11日)
「満洲に於ては紅卍(コウマンジ)
といふのがあります。紅卍とは紅い卍であります。又独逸のナチスは赤い旗に白く丸があり、其中へ黒卍(マンジ)(ギャクマンジ) になってをります。
観音会は金卍(マンジ)(ギャクマンジ)であります。観音様は、黄金仏であるからであります。観音様を守護されてゐる龍神様も亦金なんであります。何故にみんな金であるかと申しますと、つまり日本の仏様であるからであります。日本の仏様といふと仏様の本場は印度ではないかと誰方(ドナタ)
も思はれるでせう。成程、仏様の出たのは印度であります。然し、外の仏様は印度から出たんでありますが、観音様だけは日本から印度へ渡られたんであります。
阿弥陀様とお釈迦様とは日本の仏様じゃないのであります。それで頭の毛が縮れてゐるんであります。観音様はちぢれてをりません。よく仏像等で古いのになると一寸見るとお釈迦様か観音様か区別の分らないのがありますが、頭の毛を見れば判るんであります。
阿弥陀様は西方浄土と言ひまして、西の方へ浄土を造られたんでお釈迦様の時代には法蔵菩薩にお生れになって、お釈迦様に対し、「衆生が救はれ,そして仏になったら皆自分の方へよこす様、私はこれから西方へ浄土を造り、安住させる」といふ事を約束されたんであります。事実、お釈迦様の時代に、印度の西方にそういふ所を造り、法蔵菩薩昇天後は霊界に西方浄土が出来たんであります。
次に素盞嗚命(スサノオノミコト)といふ神様がありますが、此素盞嗚命と朝鮮の国と猶太(ユダヤ) と阿弥陀様といふ事も密接な関係があるのでありますが、之は先へ行って詳しくお話する積りであります。
日本で、観音様の祭ってある所には必ずその附近に大仏様があります。大仏さんは阿弥陀さんであります。之は日本と外国、夫と妻といふ事になります。京都の清水の観音様に対して、奈良の大仏様があり、阿弥陀様と観音様の場合は、阿弥陀様が霊は女で体が男になられ、観音様は霊が男で体が女になられるんであります。そしてそういふ場合には必ず、観音様は内へ祭ってありまして、阿弥陀様は外へ雨曝しに祭ってあるんであります。観音様が内にをられるといふ事は、内地とか内国といふ意味になるんで、位は観音様の方が上ですから、内にをられるのであります。阿弥陀様が外にをられるといふ事は、外地とか外国とか言ふ事で、詰り、日本以外に於てお働きになってゐられる仏様といふ意味になります。又西方阿弥陀如来、東方観世音菩薩とも言はれてをります。
上野にも清水観音様があって、傍(ソバ)にやはり大仏様があります。又浅草の観音様の傍にも大仏様があります。浅草は、特別の場所でありまして、観音堂はとても大きくて、大仏様は又、馬鹿に小さいんでありますが、之も大変な意味があるのであります。
浅草の観音様は、東京中を御守護されてゐるんでありまして、東京が今日の様に発達したのは無論陛下の大御稜威(オオミイヅ) に依る事でありますが、又浅草の観音様の霊的のお力にも依るので、昔は田舎から東京へ来る者は何より彼より先づ第一番に、此浅草の観音様へ詣ったものであります。
鎌倉にも、長谷の観音様があるのに対し、矢張り、あの大仏様があります。そして、観音様は、黄金で作られ、阿弥陀様は唐金(カラガネ)であります。之も面白いと思ふので黄金は日本の金で、唐金はカラ金即ち外国の金といふ事になります。
斯ういふ具合に、日本に於ては、何処にも御夫婦の型が出してあります。先刻の御讃歌にありました様に、本来言ふと観音様は太陽の光で、阿弥陀様は月の光になるんでありますから、阿弥陀さんが日本へ来、阿弥陀様の教が入ったといふ事はやはり、西方文明が、日本へ入った宗教的第一歩であったのであります。」
「大光明世界の建設(四)世界統一の中心」
(光世4号 昭和10年1月11日)
「今迄吾々は、日本が世界を統一すると言ひ、又、それを信じてきました。何故であるかと言ひますと、日本は世界の中心であるといふ事であります。所が、世界は日本を称して、極東の国と言ってをります。極東といふと端っこと言ふ意味になります。
その端っこが世界の中心であるとは一寸変にとれるのであります。それに就て、此間観音様から知らして戴きました。一寸した事ではありますが知ってゐていい事と思ふのであります。それは、天界の中心が日本の真上になってゐるのでありまして、東京の麹町宮城が、天の中心の中心になってゐるのであります。で、斯ういふ風に見、斯ういふ風に考へてみると判ってくる。例へば此(茶碗を取られて逆さになされ)此所(茶碗の尻の丸い所)が日本と致しますと此方(上から)から見ると中心でありますが、横からみると端になる、極東になるのであります。要するに、尖(トガ)りの真中とみれば、宜しいのであります、詰まり縦から見るのと、横から見るのと違ひであります。
又祭りの際の、五六七(ミロク) のお供餅でありますが、之を上からみると、一番上の赤が真中でありますが、之を横にみますと端っこになってゐます。此道理で判ると思ひます。今度の観音会の徽章も此五六七(ミロク)
のお供へを真上から見た図であります。所が、今迄の世界の中心は何処かと言ひますと、英吉利(イギリス)になってゐるんでありますが、之は天の中心と地の中心が外(ハズ)れてゐるんであります。それを捻(ネ)じ直すそれが今度の大経綸であります。今迄は宗教でも何でも、西の方が中心になってゐるんでありますが本当は、東の方が中心にならなければ天地の法則に叶はないのであります。或はアメリカに中心が移ったなどと言ってゐますが、東の方が、中心にならなければ、どうしても世界は平和にならないのであります。
要するに、横は合ってゐるが、縦は違ってゐるんでありますから大光明世界建設には此根本が直らなければならないのであります。」
「大光明世界の建設(四)浄財と不浄財」
(光世4号 昭和10年1月11日)
「それは、名前など一切言へませんけれども或宗教の非常な、熱心な信者がありました。
その信者が、神様の事に就て、結構な御用をしたんでありますが、その人は、家賃を何年も払はずにゐるんであります。ツマリ、払ふべきを払はないで御用をしたのであります。で、之は、どういふ風に解釈するかと言ひますと、払ふべき物を払はぬといふ事は、例へば、物を買って品物を持って来ても、金を払はぬといふのと違ひはありません。家を借りる際には、最初、家賃は払ふ、家を貸すといふので借りたんで、例へば品物にしても、之は一円だから一円払へば品物を上げるといふのと同じであります。
銭を払はないで品物を持ってくるとなると怪しからん事で犯罪になりますが、家を借りて家賃を払はないのも、結局同じ事であります。どうしても、之は盗みであります。本当から言へば、家賃なんかは一日も、遅らせるべきものではないのでありまして、一日遅れれば一日、それ丈の盗みの罪が構成される事になります。そんな金で、御用をしても真の神様なら、そんな不浄の金は御使ひになる筈がないのであります。
でありますから地代とか家賃とか約束した支払は、絶対に遅らせるべきものではないのであります。そういふ払ふべきものを払はねば、矢張り入るべき金も入るものではありません。
金は昔から、湯水のやうだとか、湧くとか言はれてゐますが、全く水のやうなもので、払ふべきものを払ふとどしどし流れて来るものであります。金を払はねば入るべき物も滞って了ふのであ ります。霊的に言ふと、そうであります。霊的が体的になるので ありますから、金に困る人とか、豊でない人はどこかにそういふ 間違いがあるんであります。そういふ間違った事がなければ、困 るべきものではないので、それが天地の原則であります。そういふ無理をし人に迷惑をかけて神様の御用をしたって、決して善い事をしたのではないのであります。よくお寺や、伽藍が焼けますが、永久に残る寺は滅多にありません。日本では、奈良の法隆寺 位なものでありませう。有名な堂宇はよく焼けます。それは、そういふ不浄な金が多いので、建てたが故であります。(中略)
間違った事をしながら、理屈を付けて誤魔化さうとするから苦情や争ひが起り裁判所の必要があります。世の中の人が皆、間違はないやうになった時が大光明世界であります。」