第二章 メシヤ様の御経綸
1、夜昼転換
この章では、メシヤ様の進められる御経綸について学んでいきたいと思います。
その為には、メシヤ様が、今という時期にお生まれになられ、御神業を始められた時代背景と言いますか、その時期が密接に係わっているので、その時期、つまり霊界が夜から昼へと転換し始めたことや、それに伴い、霊主体従の法則により、当然現界にも移写されるということ、その結果、近い将来、夜の時代の文化の崩壊と共に昼の文化の建設が行われるというような、そうしたことへの理解が出来なければ、今までの夜の時代に、生き変り死に変わりしながら身に付いた、唯物的な物事の考え方や価値観、処世術等を転換できず、メシヤ様が真理としてお説き下さっている、21世紀以降の思想性をはじめとして、大切なことが理解出来ないですから、その辺りの学びとして下記の「夜昼転換」ということから学びを進めていきたいと思います。
⌈十年、百年、千年、万年にも昼夜の別がある⌋
「(前略)抑々、此大宇宙を観る時、それは実に際涯(サイガイ)なき天空の無限大より顕微鏡によっても視る事を得ない無限微に至るまで、実に凡ゆる物質は大中小それぞれ相応の理によって生成を化育し、離合し、集散し、破壊し、建設しつゝ、無窮の進展を挙げつゝあるのである。そうしてすべてに陰陽ある如く一年にも寒暑の別あり、一日の中にも昼夜の別あり、十年にも昼夜の別あり、百年に千年に万年にもそれがあるのである。
以上の如き理によって、数千年か或は数万年目に当然来るべき夜と昼との転換期があり今やその時が来つゝあるのであって、今日はその黎明期に相当するのである。(中略)」
(「世界の大転換」明医三 昭和18年10月23日)
「昭和6年6月15日を期として世界は昼になった」
「(前略)抑々霊界の本質は日、月、土の三精から成立っており、科学でいう酸素、水素、窒素であり、吾々の方でいう火素、水素、土素の結合体である。そうしてこの三原素中の土が物質の本体で、日が霊の本質、月が空気の本質となっており、この日月二者がコントロールしたのが大気であって、これが地上の空間を充填しているのである。併し火素が最も強力だが、稀薄なる為物の科学では把握出来なかったので、今日までは熱と光は分るが、精としての本質が不明であったのである。その為科学は水素と土素のみを研究の対象としていたので、現在は水と土の文化であり、これが文明の一大欠陥であったのである。
処でここに驚くべき世界の一大異変をかかねばならないが、それは前記の如く日、月、土の三原素から成立っており、日と月の交替によって昼夜の別があるが、これは物の面から見た現象であって、これとは別に霊の面にも昼夜のあることである。勿論物の科学では分りようがないが、霊の科学ならよく分る。
では右の異変とは何かというと、これこそ未だ嘗て人類の夢想だもしなかった処の驚くべき世界の大転換であって、それが今や開始されんとしているのである。それは昼夜を押拡げた歴史的異変であって、これを分るには時間的考察より外はない。
即ち霊界に於ては十年、百年、千年、万年にも昼夜の交替があることである。即ち地球の実体は火水土の三原素から成立っている如く、宇宙間一切は三の数字が基本となっており、これが宇宙の鉄則であって、昼夜と雖も三年、三十年、三百年、三千年というようになっている。勿論その物の性質と大中小によって、霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。
その三千年の転換期が驚くべし現在であって、今はその黎明期に当るのである。
このことは以前もかいたことがあるが、その日時までハッキリしている。それは一九三一年六月十五日であって、この時を期として世界は昼になったのである。といっても或時期までは霊界の変化であるが、漸次現界に移写し、何れは現実的に分るのである。併し私はこれ以上深く解説したいが、それでは宗教的になるからここでは省くが、兎に角右は絶対であることを信ずればいいのである。(中略)」
(「私は宗教科学者だ」栄255号 昭和29年4月7日)
「霊界に於ける昼夜の大転換」
「(前略)重大事といふのは、霊界に於ける昼夜の大転換である。即ち夜と昼との交替であるといふと可笑しな話で、誰しも夜と昼は一日の中にあるではないかといふであらう。成程それには違ひないが、私のいふのは大宇宙のそれであって、此事を知るとしたら、人智では到底想像もつかない程の大神秘を会得する事が出来、それによって今後の世界の動向も分り、未来の見当も略ぼつくのである。
(中略)
それによると、霊界に於ても現界に一日の中に昼夜がある如く、十年にも、百年にも、千年、万年にもあるのである。従って其転換毎に、人類世界にも反映するので、それが霊界の方では絶対正確にも拘はらず、現界へ移写される場合、幾分の遅差は免れないのである。其事を頭に置いて、長い歴史をみる時、大、中、小種々の歴史的変化をみるのは、其表はれである。そこで今私が言はんとする処は、世界の大転換に関する主なる点であって何よりも先づ大転換の時期であるが、それは一九三一年六月十五日から始まってをり、一九六一年六月十五日迄の、三十年間で一段落がつく事になってゐる。然し人間の頭脳で考へる時、三十年と言えば相当長期間であるが、大宇宙に於ける神の経綸としたら、一瞬の出来事でしかないのである。そうして右の三十年といっても、現界に於ては急激な変化はなく、徐々として進みつつあると共に、右の三十年を挾んで其前後の時を合せると、六十余年の歳月を費す事となる。それは準備期と転換後の整理とに時を要するからである。
右の如き其転換の意味は今日迄は夜の世界であったから、謂はば月の支配であったのである。処が愈々昼の世界となるに就て、予て世界の二大聖者として仰がれてゐる釈迦、基督の予言された通りの事態となったのである。(中略)」
(「宗教篇 霊界に於ける昼夜の転換」文創 昭和27年)
「審判とは夜昼を分けること」
「(前略)処でもう一つ私が言いたい事は、キリスト教にある最後の審判ですね。御釈迦様の言う仏滅の世と、……これは色々な教祖、開祖が言われてますけれど、この二大聖者の事だけに留めておきますけれども、これは最後の審判と言うのはどういうことかと言うと、ただ最後の審判だけでは何か神様がこう思う。地獄でなくこの現世に閻魔様が出て来て裁くんじゃないかというように思うのですが、そうじゃない。
これはちょっと、未信者の人には、分りにくいのですけど、霊界と言うものがあるのですね、霊界……。この我々が物質をさわったり、見えたりするのはこれは物質界、現界……それからその奥に霊界がある。その中間に空気界がある。空気界までは分っているけれど、霊界は分らない。丁度さっきの野蛮時代から文化時代、文明時代とこういうような順序です。この三段階のうちのその物質界、空気界、霊界……、この三段階なんです。
処が世界の循環率……、循環率によって明暗ですね、暗くなったり明るくなったり。これが一昼夜の二十四時間にこれがあるのではなくて一年にも明暗がある。一年の明暗と言うものは、仮に冬は暗いと言う事になると夏は明るい。こうなるですね。太陽の光線から言っても夏が一番強烈なのです。冬は一番薄いのだからして、これも明暗になっている。
これが又、十年にも明暗があり、百年にもある。歴史上平和時代もあるし、又暗黒時代もあるのは、やはりそう言った一つのリズムなのです。
それから今度は千年にも万年にもある。それで今迄はこの暗の時代であった。暗い時代だった。今度明るい時代になるのです。明の時代。そこでこのさっき文明時代、文明の明の字を書く、明るいと言う字、化ではバケですから駄目、そうすると明るい時代になると、そうすると今までの暗い時代のものが整理される。そして私の方で言うと夜の世界と昼の世界、夜の文化と昼の文化--こう言って居ります--そうすると夜の文化でいらないものが沢山出来て来ます。昼間になると電灯やいろんなそう言うものがいらなくなる、と言うように、夜の時代の此処でいらなくなることは滅びると言う事です。
審判は夜昼を分けるのです。いらないものは先ずしまうか、或いは毀す、これから明るいものを段々造って行くと、こう言う事です。そうすると、今の霊界が明るくなると、どういう事になるかと言うと、人間にですね、人間と言うものはやはり体と霊とその間に空気に相応すべき水分というものがある、これが人間の体に必要である。そういう三段階になっている内の人間の霊ですね。魂と言っている。それが霊界に属している。霊界が明るくなると、それの明るさに相応しない魂の人は、どうしてもその相応するようにその曇りを取られるのです。取られると言って何か故意にとる訳じゃなしに自然に浄化すべき、汚ないものが、綺麗に替えなければならない。そうすると魂の汚ない人は、霊界が明るくなるにつれて掃除をされる、それが苦しみです。で、病気の原理もそういう事に説いてあります。それによると病気と言う事がよく分のです。(中略)」
(教祖御講話 日公 昭和26年5月22日)
「昼の世界に転換する時になった」
「最後の審判とは、(中略)一言にしていえば、世界的大浄化作用の事である。
私は以前から霊界に於ては、今迄夜の世界であったのが、愈々昼の世界に転換する時になったという事を説いて来たが、それが如実に現れるのが最後の審判であって、而も目捷の間に迫って来ているのである。之も予て知らしてある通り、霊界に於ては一九三一年六月十五日を境に、徐々として昼に転換しつつあり、最後に到って、決定的大浄化作用が行われるのである。勿論其順序としては神界、幽界、現界というように、三段階になって進みつつあるが、本当の昼間になった時こそ、即ち光明世界である。之に就てつい先頃、私は今年の六月十五日から、右の最後の段階である現界が、昼間になる最後の時に愈々一歩入るのである。そうして今年から十年間に、光明世界即ち地上天国の基礎が成立つ仕組になっている事を知るべきである。」
(「最後の審判とは」昭和26年6月27日)
「夜昼転換により一大恐怖時代が出現する」
「(前略)抑々夜昼転換の順序であるが、之は私の常にいう如く眼に見えぬ幽幻界から始まってそれが霊界に移写し、それが又現界に移写するのである、茲で最初の転換である幽幻界とは三次元の世界で此時が西暦一八八一年で次の霊界即ち二次元の転換が一九三○年であり次の現界の転換こそ今や目捷に迫りつつある一大危機の開始である、一言にして言えば、世界は今や黎明の寸前にあり正に東天に太陽が上らんとしている時である、とすれば現在の霊界は科学的にみて如何なる状態にあるかを説明してみよう。
いうまでもなく霊界に於ては夜の期間中は水素が主で火素が従であったものが昼の世界に入るや其反対に火素が主で水素が従となるのである、即ち暗が明に変るのである、それだけなら別段心配する事はないが、実は之によって空前の大変化が起るのである、といふのは未だ嘗て経験にない程の破壊と創造が行はれる、即ち霊界に於ては濁が清となり、そのまゝ現界に移写されるから現界は如何に大いなる変異を起すか想像にあまりある、勿論霊界に火素が殖える結果として浄化力発生と共に時の経過に正比例して漸次強化されるのである、其の表れとして善悪正邪は明かとなり全人類に浄化が行はれる、元々人間の病気とは火素による浄化作用であるから体内に汚濁を多量に保有してゐる者ほど強烈なる浄化が行はれるのは当然である、然し今日迄の病気なるものは浄化が至極緩慢に来たので生命の危険に迄は及ぼさなかったが、最後の世の病気は頗る急激なる大浄化であるから極めて迅速な経過をとる、例えば頭痛咳嗽下痢等二つか三つ位の症状なれば生命が脅やかされる迄には至らないが、之が七つも八つも一度に発生するとすれば到底堪えられるものではない、此場合医師に診せるも全然病原が分らないから急速の死は免れないのである。
何と恐るべきではないか、斯様な大浄化が人類を襲う結果一大恐怖時代が出現し滅ぶ者数知れずという事も想像され得るのである、此事に対してもキリストは最後の審判の言葉を以て一大警告を発せられてゐる、ただ今日迄此審判の真相と時期が判然と分らなかったので人類は真の自覚を得られなかったのである、然るにいよいよ時の迫った今、神は私をして茲に一大警告を与えるべく、具体的に書かしめ給うたのである。
以上の意味に於て、大審判が今や全人類の頭上に蔽ひ被らんとする此秋(トキ)一人でも多くの人間を救ひ給ふのが神の大愛である以上大審判の執行者であり人間の生命を握られ給うのであるから神の御手に縋って罪を許されるより外に此難関を切り抜ける方法は絶対ないのである、即ち人類が負へる罪の重荷を神の御手によって取除かれ清められる以外救はれる道はないからである。
私は此最後の救の執行者として、神の委任のままに責任を遂行すべく茲に一大警鐘を鳴らすのである以上、耳を塞ぎ聞くを欲せざる人は自から滅びの運命を選ぶ人と言ふより外に言葉はない、愈々の時になって悔改むるも最早取返しのつかない事を警告して筆ををくのである。」
(「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」光42号 昭和24年12月31日)
「夜昼転換期に一大変異が起る」
「(前略)夜と昼との転換期に際しては当然未だ曽て人類の経験にない破局的な一大変異が起る事も予想に難からないのである。私は其時の状態及びその前後の状態を予想してみるのである。そうしてもし此時の状態が、私の想像通りであるとすれば、人々は第二のノアの洪水として驚倒するであらう。然し乍ら以上の如き想像を絶する一大変異は果して来るであらうかといふ事であるが、読者よ驚く勿れ、その崩芽は已に表はれ始めてゐる。而も急テンポを以て、最後の日に向って進みつつあるといふ事である。
又、一面昼の世界が接近しつゝあるといふ事は、勿論火素が増量する事であり、火素が増量するといふ事は、浄化力が旺盛になるといふ事であり、浄化力が旺盛になるといふ事は人間霊体に於ける曇の溶解作用が強烈になる事であり、それは勿論肉体に反映し、病気発生の因となる事である。近来、日本に於て病気の激増せる事実は驚くべき程で、何人も見聞する処であらう。(中略)
そうして前述の如き恐怖時代に際して、本医術が如何に偉大なる光輝を発するであらうかといふ事である。何となれば、其時如何なる病者と雖も、本医術によらなければ、生命を完うし得られないからである。(中略)」それは霊界転換に順応する方法であるからである。然るに、医学等は逆である以上、右と正比例的に益々治癒困難となる事で、之は医療の専門家は、日々の実験によって肯れる筈である。
非常な時代には、非常な対策的方法が表はれる事は、人類史が明白に物語ってゐる。然し乍ら、今日迄の非常時代と雖も、来るべきそれに比ぶべくもない事は勿論であり、実に空前の大非常時代といふべきであらう。此意味に於て、右の大非常時時代を乗り越すべき準備を一日も早く為しおくべきであって、自己自身のみではない、その時及びその時までに一人でも多く、わが同胞をして乗越させるべく指示を与へなければならないのである。それは勿論、本医術を修得なしおく事であると、思ふのである。」
(「恐怖時代」明医三 昭和18年10月23日)
「夜昼転換とは最後の審判?」
「キリストの曰った最後の審判とは、何時如何なる形によって現はれるものであらうかは之は基督者は固より一般人も知らんとする処であらう。愈よ時期切迫の折柄、その片鱗を茲に発表するのである。然し之は私個人の見解ではない。全く霊感によるのであるから、一の参考とし学説として読まれん事である。
一体、最後の審判なるものは事実あるであらうかを、先づ決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしてゐる文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依してゐる、キリストともいはるる大聖者があり得ざる事をあるといって予言する筈はない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきといふ事になる。随而、基督者ならぬ吾等と雖も一点の疑なく確信してゐるのである。
又私が之だけは信じてゐる。彼の大本教祖のお筆先に曰く「神の申した事は、毛筋の横幅も違はんぞよ。」といふ言葉はそのまゝ審判の予言に当嵌めても間違いないと思ふのである。又善悪に就て斯ういふお筆先がある。「悪は根絶やしに致して善の世に致すぞよ。」「悪の世は済みたぞよ。」「悪の世は九分九厘で厘止りに致し、一厘の仕組で善の世に振替えるぞよ。」「いよいよ世の切替時が来るぞよ。」とあるのは何れも最後の審判の意味でなくて何であらう。吾等が常にいふ之が所謂夜昼転換の事である。
又お筆先に、「此世の大峠が来るから身魂を磨いておいて下されよ。」といふ処もある。之は夜昼の転換期を言ったもので、それを越す為には濁った身魂では駄目だといふ意味である。
以上によって聖書の審判を基礎としお筆先の意味を検討する時、斯ういふ結論にならう。即ち大危機が迫ってをり、それを乗越すには心が浄くなければならない。悪人は転落して、永遠に滅びるといふ意味である。とすれば、どうしても正しい信仰によって魂を浄め無事に乗越さなければならないのである。
然し乍ら、世の中にはそんな馬鹿な事があって堪るものか。神も仏も人間が造ったもので、現実にそんなものはある筈がないといふ。唯物主義者は仲々信じられまいが、其時になって如何に周章てふためき神に縋ると雖も最早手遅れで、どうにもならない事になるのは、火を睹るよりも明かである。勿論神の大愛は一人でも多くを救はせ給ふのであるから、神意を体する吾等としては、繰返し繰返し筆に口に警告を与えてゐるのである。
此事をお筆先には、「神は助けようと思って、筆先でなんぼ知らしてやれども、いつも鳴く烏の声と油断を致してゐると、今に栃麺棒をふるって、逆さになってお詫びをせんならん時が来るが、その時になっては、神はそんな者にかまうてはおれんから、身から出た錆とあきらめて往生致そうより仕様がないぞよ。」とあるのは、それをよく言ひ表はしてゐると思うのである。(中略)」
(「最後の審判」地12号 昭和25年1月20日)
「転換期に救世(メシヤ)教が出る」
「(前略)ですから、今は世界の転換期であつて、その転換期にメシヤ教が出て大きな審判と、審判後の出発ですね――建替え、建直し――破壊と創造ですね。「文明の創造」と言うのは、破壊後の建設のプログラムなんです。建設の日の設計書なんですから、どうしても必要なんです。ですから、既成宗教の様に、唯御利益や――そう言うもので、個人々々を救うと言う事も結構ですが、それ以外に、そう言う大きな経綸もある。それを知らなければいけない。」
(御教え集3号 昭和26年10月1日)
「大転換期を乗越す資格」
「本教団は地上天国出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創成普及せんとするものである。
地上天国とは病貧争絶無の世界、全く人類理想の世界を言うにある事は、前項に詳説した通りである。彼の釈尊が唱えた五六七の世も、キリストが予言せし「天国は近づけり」という事も、日蓮の叫ばれた義農の世も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も、吾等の曰ふ「地上天国」と同様の意味である。但だ異る処は『時』の問題であるが、右の諸宗祖は『時』を知らせなかった。然るに其時期が非常に近づきつつある事を、私は覚り得たのである。時が近づきつつあるという事は何を意味するか、それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終り、又は最後の審判の時が切迫した事を想わせるのである。此儘にして地上天国が来るとすれば、人類は洵に幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというに就ては、其前に旧世界の清算がなくてはならない訳である。恰度新しき家を建てんとするには旧き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。勿論旧き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。その取捨選択は神がなし給う事は勿論である。故に人間は残されるもの、即ち新世界に役立つ者とならなければならない。それによって大いなる切替時を易く越えらるる事で所謂神の試験にパスするのである。その唯一の方法としての信仰である事を次に説明してみよう。
以上説く如く世界の大転換期を乗越す資格とは、病貧争絶無の世界に生存なし得る人間であって文字通り病気のない健康人、貧苦から脱出した人間、和を好み争を嫌う人間である。此三大資格を有する人間であれば神は滅し給う必要がないばかりか、来るべき新世界の有能人として遇される訳で、神の意図と人間の理想との食違いはない事を私は信ずるのである。然らば右の三大資格を得んとする方法ありや、本教団は右の資格者たらしむべく教導し、神の恩恵を取次がんとするものである。」
(「観音教団とは何乎」信 昭和24年1月25日)
この夜昼転換の時期を乗り越す資格として、3つの資格を挙げておられます。その資格とは、
1、病気のない健康人
2、貧苦から脱出した人間
3、和を好み争を嫌う人間
ということのようでありますので、この意味は当然病貧争のない人間ということで、霊主体従でありますから、霊体に曇りの無い又は曇りの少ない人間ということになります。言葉を変えて言えば、霊層界にある幽魂の高い人間ということであります。
霊体の曇りを無くすため、御浄霊を沢山いただいたとしても、食生活が悪ければ何にもなりません。食品添加物の多く含まれる食品や残留農薬の含まれる食物などは、霊体に曇りを生じさせますので、食生活の改善と共に御浄霊もいただきつつ、利他行に撤して多くの人を救い、徳積みを通してきれいな魂の持ち主になりたいものです。
次に、次の項では、神様の御神業の進め方について学びたいと思います。この進め方を理解しておかないと、自力になり御神業は進みません。御神業はどこまでも、メシヤ様との共同作業です。ですから、メシヤ様の御神意を求めながら進めるためにも、神様の御神業の進め方を理解しないことには、御神業を進めることは出来ないので、その辺りの事を学んでいきたいと思います。