〔参考文献2〕 

 

「天のみろくは水晶の館に一夜を宿し、         
  天に帰りて再び地上に降りて火の守護をいたすぞよ」

 

勝○政○「真新しいご経綸に際し〔上〕」より抜粋

 

 「大弥勒御尊像」を明主様は昭和七年春にご揮毫されました。そして、昭和二十五年三月、当時の小田原別院の五六七大教会における春季大祭に初めて「大弥勒御尊像」が御神体としてご奉斎されたのです。当時、大教会は三つありましたが、その一つの渋井総斎先生の教会だけに明主様がご奉斎をお許しになられたものです。約三カ月間ご奉斎されたと聞いております。
 同じ年の四月に熱海大火がありました。全焼を免れた仮本部の焼けあとに、積まれてあった『光』新聞創刊号(一面)に掲載された明主様の御尊影だけが焼け残っていたのです。さらに『救世』新聞五十三号の「大弥勒御尊像」の写真も焼けずに不思議に残っていたのです。それを聞き知った私は〝なぜそんなことが起きるのか″という深い想いも及ばず過ごしてしまった未熟な信仰者であったのです。明主様のお写真と「大弥勒御尊像」だけ焼け残るということは、一般常識では考えられません。
 私の青春時代は、何もかも俗的な欲望を捨て、ひたすら明主様を求めてきました。が、明主様が七十二歳でご昇天になられた時、驚きとともに支柱を失った感がありました。明主様は百二十歳まで生きるとおっしゃっただけに信じられぬ気持ちでした。〝明主様、いまお亡くなりになっては困るではないですか、なぜ死なれたのですか〟と思う一方〝明主様は嘘をつかれたのか〟との考えも意識の奥底をよぎりました。
 それ以後、人救いに燃えた情熱はだんだん冷め、専従をやめたい気持ちが強まれば強まる程「先生、ご浄霊をしてください」と誰かが訪ねて来るのです。私は仕方なく浄霊を取り次ぐと「おかげで助かりました」と喜ばれるのです。皮肉なものでした。そんなことが続いたのです。浄霊で奇蹟を見せられた私は、ふと「明主様は亡くなられてもご浄霊の力は変わらない」「おひかりの力を私たちから取り上げて霊界まで持って帰られなかった」と思えたのです。それは私にとっては大きな救いでした。
 それから十余年経った正月元旦、聖地新年祭の参拝の帰り、新幹線に乗ると岩松栄先生(元教団相談役)とバッタリ出会い、先生の隣に座りました。岩松先生はいきなり「勝野君、君は水晶殿で光の柱を見たというが、それをどのように思っているか」と聞かれたのです。私は率直に心情を吐露しました。「明主様が百二十歳まで生きるとおっしゃったのに嘘をつかれたという思いが、どうしても抜けません。しかし、浄霊をしますと奇蹟が起きるので不思議でした」と申し上げたのです。すると、あの温和な先生が険しい表情でお話くださったのです。
「大本のお筆先に〝天のみろくは水晶の館に一夜を宿し、天に帰りて再び地上に降りて火の守護をいたすぞよ〟とある。明主様は必ず地にお下りになられる。生存中よりもっと大きな霊的なお働きをされる」と懇切丁寧に説明してくださいました。つまり、天から光の一点が地上に下り、地上経綸を行われた後、水晶の館に一夜を宿し、天上に昇り、再び地に降りて地上に火の神の御守護をされるということです。私には、その時の神の仕組みが、明主様のお働きが十分な理解に至らなかったのです。さっそく大本のお筆先も読みました。「水晶の館……」とは水晶殿であったことも分かったのです。それからというもの、明主様が再び地上にお降りになる時は、いつのことだろうとそのことが脳裏から触れませんでした。
 水晶殿が完成したのが昭和二十九年十二月十一日、明主様は碧雲荘から水晶殿に移られ一夜を過ごされました。その時、幹部を前に「ただ一言だけいいますが、いよいよご神業の本筋に入って来たわけです。ですから、これから色んな変わったことが出てきますからまごつかないように」とのお言葉があったのです。
 この日、私は遠くからでも明主様にぜひお目にかかりたいとしきりに心が躍動するのです。しかし、無一文でした。困っていた時、不思議に信者さんが「金を出してあげるから」と熱海までの切符をくれたのです。水晶殿に到着した私を含め信徒二十数名は外で立っておりました。明主様が水晶殿に入られた午後一時過ぎ「光だ、光だ」と数人が叫ぶのです。みると水晶殿の屋根の中央から救世会館あたりに大きな光が柱のようになって白く輝きながら、天にも届くばかりに立ち昇っているのです。その光景は筆舌に現し難く、語り尽くせぬものでした。私はその凄まじさに怖れおののき、その場に土下座してしまったほどです。
 大本神諭に「この事判ける御魂は東から出てくるぞよ。このお方がおいでになったら、さっぱり日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光輝く神世になるぞよ。みろくさまが、天のはじまりのご先祖さまであるぞよ」「今度の二度目の世の立替え、大事業と申すは天の岩戸を閉める役と、天の岩戸を開く役があるのじゃ」「今度の二度日の世の立て替えは末代に一度の天の岩戸を開くのであるから日本の国で分からしてもらう御魂は……」とあります。
 「二度目の世の立て替え……」とありますのが、今回の「大弥勒御尊像」のご奉斎で始まる大神業なのです。二度日の天の岩戸開きが始まるのです。第一回目が昭和二十五年三月、五六七大教会での「大弥勒御尊像」のご奉斎、そして平安郷におけるご奉斎の神事が二度目になります。いよいよ大弥勒様として明主様が再び地上に降りられ現界のご経綸を開始されるのです。現界経綸の主体は大弥勒の神であります。一度ご昇天された明主様が地上に降りられるということは極めて神秘なことで信じられないと誰もが思うでしょう。しかし、それを信ずる人には大きな力がいただけるのです。過去にあり得ないことも、明主様が進められるご神業においては、あり得ると私は確信できるのです。

勝○政○「真新しいご経綸に際し〔下〕」より抜粋

 

 救い主・明主様を絶対と信じ、そのご神格、人格に近づく努力をすることが、信徒としての信仰の目標であります。ただこの一点に心を集中し向上を計り、私心を捨て人救いに励むことであります。救世信仰の根本はここにあります。現身の明主様に接するがごとき、いつも自分の身近かに感じられる存在になることです。明主様は絶対的な存在として、私たちの生命と直接繋がっており、み力と智恵をくださる光の根源であります。明主様との距離が信仰を重ねるにつれ近くなり、ひたすら信仰深化の道を辿らねばなりません。
 危急の時だけ明主様と繋がるというのでは、おかげ信仰だと思います。自己の向上をめざす鑑として、み心を尋ね求道の対象としての明主様でなければお力はいただけません。人間はともすると目に見える自分を評価してくれる人、そして物に頼るという習性をもっています。そのことが、神様、明主様を軽視する方向へとおのずと導いていくのです。信仰は目に見えない無形のものこそが価値をもつのです。それが霊主体従であり根本なのです。
 根本を間違うと時がたてば信仰姿勢に歪みを生じます。わずかな油断と慢心が、ちょっとした気の緩みが信仰を大きく左右します。心の在り方によって御用を一生懸命果たしてはいても、明主様と遠く離れてしまう結果を招くことにもなりかねません。それは自己の信仰生命に影響を与えるだけでなく、他人を不幸に導くことにもなります。例えばリーダーが威張り、慢心すればそれに続く信徒がそのようになってしまうのです。明主様が「いばるな、怒るな、早まるな」となぜ教えられているかをしっかり心に刻みこまねばなりません。
 明主様ご在世当時は熱烈な信仰を捧げました。明主様のおっしゃる一言一言に耳をそばだてて聞き、素直に従って命がけで実行していました。それでお力をいただき、信仰を強くし人数いに励んだものです。しかし、明主様がこの地上からいったん姿を消すと、その信仰を求める在り方が一変します。明主様を絶対とした信仰が、明主様を伝える教会長、布教所長に従う姿勢に変わっていき、やがて人間信仰になり体的な面が強くなってくるのです。それは天界の明主様に届くほどの深い祈りが忘れられていく結果となっております。そして、御用をどのようにすればよいのか、入信者がどうすればできるのか、献金は、参拝者は、といったことに重心が置かれるようになってきました。だんだん数を追い形を整える方向に走り、明主様に対する関心が薄くなってきたのではないでしょうか。だからこそ、再びこの地上にお降りになられる明主様をさらに強く求めることが望まれるのです。
 明主様がお働きにならない信仰は、形ができてもそれは、救世信仰ではないはずです。本数は誰もがいまだ体験したことのない天国を建設する集団であります。人間の今までの経験、体験では計ることができない世界を作るのですから、それには明主様の力と智恵などをいただかなければ、天国化はできないことは当然といえるのです。さらに、自己の向上だけを喜びとするのではなく、その向上は神様のお役に立てる、世の中を天国化する実践に結びつけてこそ明主様がお喜びになられるものと信じるのです。お力をいただくのは、明主様の願いを実現するためなのです。そのためにこそ明主様と深く太く繋がるのです。自分を忘れ明主様の願いに適わんとする人にこそ、お力をお与えくださるものと信じるのです。
 信仰生命は明主様との繋がりが切れては萎えてしまいます。信仰姿勢の歪みは、明主様を忘れるという根本から外れることから生じてくるのです。明主様に愛される、明主様にお気に入られる、明主様と太く強く繋がる等の言葉の根本は、すべて明主様と一体になることを表現したものです。特に信仰では根本が大切であることをいったものです。
 明主様はすでに人類救済の活動として浄霊、救世自然農法、自然食品、華道などの芸術活動を準備されているのです。これらの一つひとつに明主様のみ心がこめられているのです。救済活動は実践であり明主様のみ心、思想を具体化し現実化していく道です。実践者が明主様の力、即ち霊的エネルギーを自分にいただかなくては力は発揮されません。方法、技術を会得し、自分の考えだけで行ったとしても明主様のみ心とは違ったものができあがります。
 明主様は「これだというところまでいけば、魂がすっかり固まったのですから、そうするとそれによってその人の力が強くなるのです。それこそ私の代理として立派に力をふるい仕事ができるのです」とおっしゃっています。そこに至るには、常に明主様を想い基本となる浄霊、参拝、奉仕、御教えの拝読、身魂磨きなどを日々怠らず実践することです。と申しましても信仰は、一朝一夕で体得できるわけではありません。肝腎なことは、明主様への信仰をやろうという心を起こすことです。発心するのです。やり始めて途中で忘れてはまた発心するのです。その繰り返しを続けるうちに「これも明主様、あれも明主様」と想えてくるものです。一つ体験しては一つ明主様が分かり、だんだん信仰に根が張り深まっていきます。明主様の簡単におっしゃっていることの深い意味も分かってくるものです。深まり高まっただけ明主様との溝が埋まり、より大きな御用にお使いくださるのです。
 人間は誰しも必死にお願いする時に出会います。自分、家族の生命に関わる問題になると何もかも忘れ明主様に縋ります。誰もが「発展したい」「信徒の悩みを解決したい」「健康でありたい」「天国家庭を作りたい」といいます。しかし、明主様に頼みこむ力が弱いのです。想いがあっても明主様に頼むことを知らないのです。そのことを教える人も少なくなっています。頼めないのは心底からそのことを強く想っていないからなのです。十の願いがあればそれを上回る強い頼み方をしなければ、明主様に感応しません。明主様から見れば〝本当に発展したいと思っていないだろう。なぜなら私に頼まないではないか″ときっとおっしゃるかも知れません。
 新しいご経綸が始まるにつれ浄霊の力が一層強くなります。明主様の真の願いは、病気も治したいが、天国を造り全人類を救うのが根本義です。浄霊で病気を治そうとするのは間違いとはいえませんが、小乗的で明主様の願い、ご経綸に合っていかないのです。病気だけを治したいという心からお役に立つ人を造りたいとの心に切り換えるならば、どれほど明主様がお喜びになられるか知れません。
 明主様は「ああ私のその驚きと喜びは何人も想像をなし得ないであろう。何となれば今日までの世界の人間のうち、これまで大きな発見をした者は絶無であろうからである」と浄霊の発見に自ら喜びと驚きを表されております。また「浄霊が優れた人」「多くの人を導いた人」「奉仕の強い人」が信仰者として尊いことであるとのお言葉を遺されています。この三つのお言葉は変わったものでもなく、なくなったのでもありません。より徹底せよというのが明主様のみ心なのです。大弥勒様は人のためになる人がお好きだといえます。明主様に仕え人のお世話に心を砕く、その徳は霊界に寸分の違いもなく積まれていくのです。銀行の預金に利子がつく以上の確かさであり、やがてご守護となって現れ、自分の通が拓けていくのです。しかし、一方では御用をしながら喜びのない、感謝が湧かない信仰的には地獄のような人もあるのです。それはなぜ、そのようになるかを反省しなくてはならない時だと思うのです。
 加えて御教えの拝読を欠かさず継続をしてほしいのです。明主様は「御教えは肚でむさぼるように読め」「一日に三十分は読め」「教えを通して思想性を身につけておかないと、いい仕事はできない」とおっしゃっています。知恵証覚を得、実践への力としてほしいのです。
 大弥勒様がお働きになるにつれ、明主様のお役に立つ人がどんどん訪れます。従ってすべての人を生かすことが必要です。それには人の長所を発見する人間になることです。あの人もこの人もきっと明主様のお役に立てる人だという目で見てほしいのです。お世話のしにくい人は、必ず上に繋ぎその人を生かしていくことです。明主様が「若い人がいるようだが、どうして私に会わせないのか。自分だけで育てるのか」と言われたことがあります。自分だけで育てることは確かなようで、これほど不確かなことはありません。また、人の手柄を横取りせず、手柄はすべての人に譲る謙虚な人になることです。明主様はそのような心をもたれた方ですから、明主様に近づけば必ずできるのです。また人を咎めないことです。言葉では勿論、想念で傷つけないことです。人の怒りは邪神の狙うスキになり、ご神業にも大きな支障をきたすもとになります。お世話をする人は我慢をし、陰でも悪口をいわぬ天国人になればそれだけ人も多く集まってくるものです。
 花は一人で咲くに非ずです。人間は神の恩恵、自然の恵みによって生かされているのです。水不足、日照りがなく困ってその恩恵に気づくのが人間なのです。この恩恵に対し神は人間に請求もされず、けっして止めることもされません。いかほど感謝しても過ぎることはないのです。この大愛に感謝し神への畏敬の念をもって、明主様に繋がる生き方もあります。
 信仰の世界では神様、明主様の深い愛を体験することがあります。信仰が進めば進むほどその愛は強くなります。本当にこの人を救わなければならないという神の愛が発露されると、その人に浄化が起きてきます。それは、本当にあなたが可愛いのだ、だから救わねばならないから、それだけの罪を払いなさいということなのです。神から贖罪を迫られるのです。これを心得ておかなければ信仰が退歩します。
 取り違えて信仰しても少しもいいことはないという心が芽生え、いつしか明主様との距離がはなれ、信仰を落とすとも限らないのです。信仰をすると自分の思い通りになり調子のよいことが続くと考えがちです。自分の欲求を満たし、恵みを与えてくれるのが神の愛と思ってしまうのです。これが信仰なら誰でも入信し、脱落する人はいないはずです。それは、おおよそ神の愛とはほど遠いものなのです。人間の目には悲しく、辛く、苦しいこととして表面に出てくるのです。人間では払い切れぬ自分のもつ罪穢れを浄めてくれるのは、神に力があるからです。この深い愛を感謝できる人こそ明主様が分かった人ではないでしょうか。
 人生に絶望を感じ、どう生きてよいか迷いつつ暗闇をさまよっている人もあります。医者に見放された人、家庭不和に悩む人など、道しるべがなく生きている人が大勢います。幸せそうに見える中に不幸がいっぱいあります。そのような人に浄霊を取り次ぎ愛を投げかけ一層私どもの使命を果たさねばならぬ天の機を迎えたのです。
 明主様への絶対信仰を縦とするならば、ご経綸は横の仕組みであり時代性です。縦と横が曲がらず直角になる、これが救世信仰の基本です。神様のお仕組みには素直になり時代の動きに即応した救済活動が大切です。絶えず明主様は、どのようなご計画で何を進めようとされるのか、目を皿のようにして動きを敏感にとらえられる信仰を培ってほしいのです。
 これからは縦と横が結ばれた力がますます強くなり、スピードを増して回転していきます。「私との共同作業と思いなさい」「寝食を忘れて御用しなさい」「恩は着るべし着せるべからず」の教えが今必要ではないでしょうか。分かっているつもりであっても、本当に分かってはいなかったと反省し謙虚に歩むことが大切です。明主様にひたむきな信仰を捧げ、絶対信仰を築くということは、つまり自己の魂を明主様の色に染めるということです。〝人類救済〟という明主様の願いをいかなる困難があろうとも諦めるわけにはいかないのです。時は待ってはくれません。

『水晶世界の型である』

 

十二月十一日、水晶殿に御遷座になられて「これは水晶世界の型である」と漏らされ、「これから御神業の本筋に入る」「いろんな変わったことが沢山出てきますから、まごつかないように」とお明かしになられ、 ―― そして約二ヶ月後に御昇天になられた ―― 。                        中○市○編「新・伝道の手引」より

 

「聖地建没に向けてⅧ  天与の景勝地 ―― 水晶殿」 安食卓郎


 昭和二十六年八月二十八日、箱根神仙郷日光殿でのご面会の折、明主様は着工した箱根美術館の建設にふれて「おそらく美術館としては日本一になるだろうと思う」と述べられました。
 さらに続けて「信仰に限らず、あらゆるものがそうですが、ここが完成しなければ本当の発展がないんです。ちょうど人間で言えば、立派な洋服を着たんだが、まだ靴下をはいていない。はだしでは歩けないから靴をはかなければならない。ネクタイもしなければならない。揃ってはじめて人の前にいばって出られるというわけで、完成しなければ、そこに欠点がありますから発展しない。ですからこのくらいの本山がこれだけ拡がれば、それだけ教線も拡がるものです。 ―― 相応の理といって神様のほうは特にそういうことはやかましい。熱海は緯(よこ)、箱根は経(たて)になる。ですからここがすまないと熱海はできない」「神は順序なり」と順序を強調されました。
 私共信者は〝真の発展を遂げるにはまず聖地の「天国のひな型」を完成させることだ〟と献金に奉仕に一生懸命に励みました。
 ちょうどその頃、アメリカ、ハワイに在住していた面本敏江さんから一通の手紙が教会長を経て、総本部に届けられました。
 それは面本さんが来日した折に「おひかり」を拝受し、帰畦後、浄霊によって次々とご守護をいただく人が増え、今後の指導をいただきたい。という内容のものでした。
 明主様は、折から米国に留学していたフルブライト留学生である立松文二氏からの米国の医学事情に関するレポートを見ておられ、まず米国を救うことが世界布教のきっかけとなる第一着手ポイントだと考えておられました。
 そして天国大教会日光分会長の樋口喜代子氏に着目しておられました。樋口先生は東京女子大卒業後、英語教育の第一人者として文部省からも注目されていたエリート教師でしたが、入信後、一専従者として奉仕に入り、静岡県藤枝市を中心に布教していた教師でした。
 明主様はその英語に堪能な樋口先生を指名されたのでした。樋口先生は面本さんと文通を重ね、やがてお許しを得て、「おひかり」を空輸して、面本さんを通じて入信者に下付するという布教手段をとりました。
 信者が約三十名程になったとき、現地からの招請を受けて、当時大変困難な渡航手続きを経て、それこそ帰りのない片道航空券を持って昭和二十八年二月十一日、多数の見送りのなか、羽田空港から渡米しました。
 そしてわずか一年で約一千名の信者が生まれ、教会施設を人手するに至りました。さらにハワイのみならず、米国本土ロスアンゼルスまで教線が延びたのであります。この事は、昭和二十五年五月から六月までの、明主様まで警察に留置されるという当局の手入れを受けた、いわゆる法難事件により、大打撃を受けていた信者にとっては大変な希望と励ましになりました。

建設と世界布教

 このような米国布教が着々と進んでいた昭和二十七年から二十八年にかけて、箱根神仙郷ではまず箱根美術館が落成披露され (昭和二十七年六月十五日)、熱海瑞雲郷では明主様設計によるメシヤ会館(救世会館)の鉄筋組み立てがはじまりその偉容が姿を現しはじめていました。
 昭和二十八年十月十五日、咲見町道場でのご面会の席で明主様は、「メシヤ会館がだんだんできるに従って、その影響が世界的に現れるわけです。一番著しいのは、救世教の発展ですが、これが体的ですから目についてくるわけです。そうして神様のことはすべて型でゆくのです。例えて見れば聖地のどこか拡がるとかできるというと、やはり御神業の方もそれだけ増え、拡がってゆくわけです。つまり小さい型を拡げれば、大きいものも拡がるということになるわけです」と言われ、さらに同年十二月二十七日のご面会の折に、「ちょうど去年(昭和二十七年)暮の二十四日に裁判が片付いて、それから明るくなるわけで、今年(昭和二十八年)に入ってからハワイ、アメリカにクワを入れたわけです。それに箱根の地上天国も完成したし、熱海のメシヤ会館も、とにかく、形だけはできましたし、今年は発展の基が大分できたような形になってきます。割合収穫のあった年とでも言えるわけです」と強調されました。私共は、「聖地ひな型(中心)の完成はそのまま光の拡大となって浄霊を中心とする布教に力が拡大され発展していく」。これが明主様が進められるご神業なのだという信念を確立し、ご神業奉仕の情熱を高めていったのでした。

工事を急がれた明主様

 メシヤ会館の建設に並行して、瑞雲郷の中心となる景観台に計画された水晶殿の造営について、そしてその型体や名称を決められた由来を、明主様は、昭和二十八年の十二月のご面会日に次々と発表してゆかれました。
「水晶殿も下からの高さから、屋根の具合も、全部私が設計しました。これはなかなか難しいのです」「会館と展望台が出来ただけでも世の中が随分喫驚するだろうと思います」と述べられたのです。
 そして、景観台の建設予定地に木型を作り、明主様自ら床や窓の高さ、建物の向きなどを現場に立ち決定されるなどして設計を進められました。半円形のホールに屋根を支える柱が一本もないという独自の構想は前例のないユニークな構造で、これを建設省の技術課長が実施設計を担当し、建築確認申請がなされました。しかし、その工事の着工は昭和二十九年九月十七日となりました。
 工事を急がれた明主様は三ヵ月で完成するよう命じられ、そこから奉仕隊員の献身的な奉仕が始まり、昼夜三交代の徹夜の工事が進められました。当時の奉仕隊参加者によりますと「これ程キツイ奉仕作業はなかった」という感想を述べております。
 作業は順調に進み、無事完成。そして明主様を水晶殿にお迎えしたのが昭和二十九年十二月十一日でした。この日、明主様は瑞雲郷内の明主様の「座」を水晶殿に定められ、当日は「ご遷座」の行事として行われたのであります。多数の信者が水晶殿下の三叉路から並び、明主様を迎えました。到着された明主様は、やがてご浄化中の身を車イスにてホールにお出ましになり、居並ぶ教会長よりお祝いのご挨拶を受けられました。

光の柱が天空に向かって白光を吹き上げる

 ご面会が水晶殿内部で行われていた時、明主様をお迎えした多くの信者は帰路につき始めていましたが、そこに大変神秘な現象が起こったのです。
 それは明主様をお迎えした信者の中に、その場を去り難く水晶殿を見上げていた二十数人(とも言われている)の信者がおりました。その人達の目に映ったものは、えも言われない神秘な光景でした。水晶殿の半円型の窓の正面中央あたりから白い靄のようなものが盛り上がり、やがて黄金色に輝き始め、水晶殿全体が白色の輝きに被われた、すると中央からひときわ鮮やかに巨大な光の柱が、天空に向かって白光を吹き上げるという光景を一斉に目撃したのであります。皆はいちように「あっ、お光だ」と声をあげました。その荘厳雄大な光景は人々を圧倒しました。
 その中の一人は、光の柱の中に観音様が色々な姿をして昇ってゆかれる姿を見て、それを後に色紙に残されたそうです。このような霊現象を一人だけでなく同時に数多くの人が目撃したということは、前例のない全くの奇瑞といってよいと思います。立ち去りかけていた人達がその声を聞いて、集って来た時には、その奇瑞現象は終わっていたそうです。ほんの二、三分の出来事だったのです。