「私は種々の方面から「昼の世界とは霊主体従の世界である」といふ事を説いたのである。此意味を人体に当嵌める時、病気の根源である毒素とは、肉体に集溜してゐる物質を指すのであるが、此場合、霊体は如何なる状態であるかといふに、肉体の毒素のある部分は、霊体の方には其部に曇があるのである。
此意味に於て、肉体の毒素を解消せんとするには、肉体のみの毒素を排除すると雖も、それは一時的であって、時を経て再び毒素は発生するのである。何となれば、それは霊主体従の法則によるからである。故に、根本的毒素の排除方法はどうしても霊体の曇を解消しなければならないので、之が治病の目的を完全に達する正しい方法である。(中略)」
(「霊的医術」 S18.10.23)
「(中略)そもそも万有一切は、物質のみではなく、別に眼に見えない処の霊なるものがある、勿論、人間と雖も霊と体とから成立っており、之を概略分類すれば霊は太陽の精であり、体は月と土の精である、(中略)処が科学に於ては体のみを対象として、霊の存在を認めない、此点が根本的誤謬である、何となればもし人間が体のみで霊がないとしたら、それは単なる物質である、(中略)生命もなければ精神の活動もあり得ない、斯んな単純な理論が判らなかった事が、今日迄の科学の根本的誤因であった、故に彼等科学者の考え方は、此空間は空気のみの存在として他は無としてゐた、処が何ぞ知らん、空気以外の諸々の不可視原素がどの位あるか判らない事実で遺憾乍らその発見にまで科学は未だ進歩してゐないのである。
右の如き不可視原素の実態を幸ひにも私は発見し得たのである、之を私は霊科学と名付けた、此発見を契機として、人類の最大苦である病気が滅消される時代が開始されるに到った事は勿論である、今日迄全然不明とされてゐた病患に関するものは一切解明されたのである、随而今日の如き医学研究の必要は最早無いと言ってもいいのである。(中略)」
(「浄霊の原理 -第二-」神医 S24.5.30)
「(中略)無機質界と人間の病気との関係であるが、無機質界とは吾々の唱へる霊界であって、此霊界と人間との関係はどういふ事になってゐるかといふと、抑々人間とは体と霊との二原素の密接合致によって成立ってゐるものであって、勿論体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊とは眼に映らないものである以上、長い間分らなかったのである。
処が確実に存在してゐる一種のエーテルの如きものである。としたら方法によっては、把握出来ない筈はないのである。といふのは人間の肉体が空気中にあると同様の意味で、人間の霊と雖も霊界中にあるからである。霊界とは曩にもかいた如く、空気とは比較にならない程の稀薄な透明体であって、今日迄無とされてゐたのも無理はなかったのである。然し此世界こそ無処ではなく、寧ろ万有の本源であって、絶対無限の力を蔵してをるもので、一切は此力によって生成し化育されてゐるのである。
そうして霊界の本質は太陽の精と月の精と土の精との融合一致、想像を絶する程の、霊妙不可思議な世界である。処が茲で問題であるのは、人間が各々其役目を果す上には肉体に垢が溜る如く、霊には曇りが溜積するのである。従って之に対し自然浄化作用なるものが発生し浄められる。之も恰度人体に溜った垢が、入浴によって清められるやうなものである。(中略)
右の如く、人霊に溜った汚穢は一種の曇りであって、此曇とは本来透明体であるべき人霊に、不透明体の部分が出来るそれである。然し乍ら此曇りの原因には二種類ある。一は霊自体に発生するものと、二は逆に体から霊に移写されるものとである。先づ前者から説いてみるが、元来人霊の内容は経に言えば求心的三段階に、緯に言えば求心的三重層になってゐる。つまり(三重丸)の形と思えばいい。
勿論丸の中心が魂であって、(中略)其魂を擁護的に包んでゐるものが心であり、心を包んでゐるものが霊であって、霊は全身的に充実してゐるから、人体と同様の形である。此様に霊体は一致してゐる以上、魂の如何は其儘心を通じて霊に反映すると共に、霊のそれも心を通じて魂に反映するのである。斯くの如く魂と心と霊とは大中小、小中大の相互関係で、言はば三位一体である。
処が如何なる人間と雖も、生きてゐる間善も行へば悪も行ふので、その際善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢となって魂を曇らすので、其曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。そうして、其曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、曇りの溶解排除が行はれる。然しそうなる迄の過程として曇りは漸次一ケ所又は数ケ所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。面白い事には其罪によって固結場所が異ふ、例へば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にといふやうに相応するものである。
次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るのであるが、其場合最初血液の方に濁りが生ずる。即ち濁血である。すると霊にも其通りに映って曇りとなるが、之も前者と同様局所的に分散濃度化するのである。
元来人体なるものは霊の物質化したものが血液であり、反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊と体は同様といってもよいが、只霊体の法則上霊の方が主になってをり、体の方が従となってゐるのである。処が何れにせよ右の原因によって、毒素は絶へず人体に溜り固結となるので、其固結が浄化作用によって溶解され、液体となって身体各所から排除されやうとする。其為の苦痛が病気なのである。
右に述べた如く、体に発生する濁血とは何であるかといふに、之こそ実に意外千万にも医療の王座を占めてゐる処の彼の薬剤であるのである。といふのは本来薬といふものは此世の中には一つもない。現在薬とされてゐるものは悉く毒であって、其毒を体内に入れるとしたら、それによって濁血が作られるのは当然である。何よりも事実がよく証明してゐる。それは病気が医療を受け乍ら長引いたり悪化したり、余病が発るといふ事は、薬毒によって病気が作られるからである。
従って薬毒で出来た濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、現代医学の治病方法自体が病気を作る意味でしかない事にならう、右の如く万有の法則は霊が主で体が従である。としたら病気は霊の曇りさへ解消すれば濁血は浄血と化し、全治するのは言う迄もない。それで我治病法は此原理の応用であるから、浄霊と曰って霊を浄める事を目的とするものである以上、病気は根本的に治る訳である。
処が医学に於ては霊を無視し体のみを対象として進歩して来たのであるから、結局一時的治病法でしかない訳である。(中略)
そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって一層濃度化するや、血粒に変化が起り、漸次白色化する、之が膿である。よく血膿と言って膿と血液とが混合してゐるのは、之は変化の中途であって、尚進むと全部膿化する、よく結核患者の喀痰が血液の混ってゐるものと、そうでないものとがあるのは右によるのである。(中略)」
(「霊主体従」文創 S27)
「(中略)人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる、それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それが又体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯の作用であり、後者は霊主体従の経の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。
では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが真の病原であるから、これを払拭すれば病気は治るに決っている。この方法が浄霊であるから、浄霊とは読んで字の如く霊の曇りを浄める手段で、これが真の医術である。従ってこれ以外の療法は悉く非医術である事を知るべきである。
以上が病原と治療との根本原理であって、一言にしていえば病気とは外部に現われた症状であり、病原は内部にある曇りである以上、この解消こそ真の治病法である。(中略)」
(「浄霊は科学療法なり」 S29.1.13)