第三章 信仰の向上を図るために
6、智慧正覚について
③ 御神意を求めて
「救う方法は浄霊、しかし智識も必要」
「それから浄化作用ですが、これはみんなよく知っているでしょうが、だんだん強くなって来てます。来月立春祭を過ぎると又かなり強くなるわけなので、信者の人は余程ボヤボヤして居られない事になるのです。というのは、つまり片付くと言いますか、良くなる人と悪くなる人がはっきりすると共に、肉体ではもういけないというように、つまり決められるわけです。これもあんまり良い気持はしないのです。やっぱり肉体で働いた方がよいです。霊界で働くのはずっと後の遅い方がよいわけです。これは信者未信者にかかわらず、最近随分死ぬ人があるのです。私などもハッと思うような事があるのです。しかしまだまだ序の口です。今年の節分過ぎあたりから序の口に入るというような時期になるわけです。それで最初は信者の人が多いですが、それからだんだん一般の人に及ぼすようになって来ます。霊眼で見る人がよく言いますが、今霊界は死人の山なのです。そうなって初めて私の唱える医学の根本が分るわけです。そうなると病気は救世教の浄霊より他に駄目だという事が分って、一ぺんに信者が増えるわけです。天手古舞(テンテコマイ)をする時期が来るわけです。それは一度に来るわけではないので、だんだんにそうなって来ます。丁度今年の農村の凶作みたいなもので、なにしろ神様は自由自在ですからして、それには助ける方の準備が必要ですから、今まで救世教がだんだん発展し、それから信者さん達ができつつあるという事は、つまり準備時代というわけです。ですから準備時代があらかたになると、今度は全般的浄化作用が起こるという事になります。こうなると実に悲喜交々(ヒキコモゴモ)来たると言いますか、それに苦しみ倒れる人は実に気の毒な悲しむべき人です。観音様の御名前の中に大悲菩薩というのがありますが、その時の御働きは大悲菩薩です。けれども神様は悲しむだけではないので、それを救わなければならない。その救うその時が大慈菩薩です。ですから大慈大悲という事は反対の言葉が並んでいますが、そういう意味なのです。そういう時期が大分近寄って来たのです。ですからそれには、大いに救う……方法は浄霊に決まってますが、智識というものを大いに深めなければならないのです。(後略)」
(御教え集30号 昭和29年1月25日)
「私が思う通り言った通りにする人は英雄」
「処で、私の話を間違える人が非常にある。私は随分はっきり言うのですが、昨日も一週間に一回と言つたら、今日は二回という人がある。一週間に一回と二回では倍違います。頭に就いて、信者さんの頭が――信者さんの頭許りでなく、世間の人は信者さん以下ですが、信者さんでも非常に頭が悪いのです。というのは私の言う通りに考えないのです。明主様は斯う仰つたが、あれは斯ういう意味なんだ。斯ういう意味というのを自分で作って了うのです。それで間違う事がよくある。
それで又私の言った通りをやるという事は自分が値打がなかつたり頭が悪かつたりする様に思うのです。ですから私の言った通りにやる人が少いのです。私は何時も言うのですが、私が思う通り言った通りにする人は英雄と言うのです。偉いです。
処が一般は必ず違います。之は信仰ばかりでなく、庭の方でもそうです。私の言う通りにやる職人というのは一人も無いです。之を此処にやれと言うと、必ず此処にやる人はないです。こっちにやるとか、あつちにやる。私がこっちにやれと言うとあつちにやる。だから職人には手を焼いているのです。処が私の言う通りやるのが一番易しいのです。その易しい事を嫌うのですから不思議です。植木屋で一人斯ういうのがあつたのです。
此の石を一尺こっちにやれと言うと、一尺やれない。二、三寸しかいかない。それで私が、何うして一尺やらない。こっちにやれと言うと、今度は五、六寸やつた。それから、駄目だもう一度やれと言った。すると今度は斜(ナゝメ)にやつた。斜にしては駄目なのです。之で三度駄目なのだから、四度目に違つたらその職人は断るからと言った。言う通りにやれそうだが、その通りにやらない。何故かと言うと、自分は手を引いて親方に頼むと言うのです。親方に斯うやって呉れと言つてやつたら二、三時間で出来ました。処が先にやつた人は三、四日かかりました。そういう事があるのです。
特に日本人はどうも言う通りにやらない、言う通りに考えない、という一種のくせみたいな、病気みたいなものだと思う。だから私が何時も話する事がよく違つて了うのです。だから明主様が斯う仰つたので斯うやつたがどうも旨くいかない。そういう筈はないと、良く聞いてみると違う。今の病気の事もその通りです。私は決して駈引や嘘はないのです。それは、よく昔からの偉い人でも、いろいろ――何と言いますか、有の儘でなく幾らか形容したり色々そういうきらいがありますが、私はそれが嫌いで、何んでも有の儘卒直に言いますから、その通りにやれば必ずうまくいきます。(後略)」
(御教え集13号 昭和27年8月6日)
「人を救う時期と機会を見極める為、智慧を磨く」
「(或人、或家のため一心に奉仕した事が結局、結果に於て悪い事になる場合がよくありますが――)
やる人に智慧がないんですよ。一人の人を救ふ場合にもね、救ふ時期と機会があるんですよ。幾ら救はうと思って一生懸命になってもね、時期と機会と先の気持ちがぴったりと合はなければいけないんです。或る人が間違ってゐる場合、之を諌めて止めさせればいゝんですよ、理窟ではね。所が人間てものは執着があるんで、口で言ったり注意したりしてもなかなかやめるもんぢゃないんですよ。
だから私は、放っといてその人が失敗するのを待つんですよ。この人はこゝが間違ってゝ惜しいなあ、と思ってもそれを止めないで放っとくんですよ。随分薄情の様ですがね。然しその人を本当に救ふにはそれでなくちゃいけないんです。で、にっちもさっちも行かなくなり困り切ってくれば救ひを求めて来るでせう。
そこでね、あんたはこゝとこゝが間違ってるんだと言ってやれば、その人はもう懲りてますからね、腹の底から判って本当に改めるんです。中途半端で意見なんかするとね、却って結果が逆になる事が多いもんです。執着が強いですからね。特に男女関係に於て之がひどいんです。とめると却ってのぼせちまってね。(笑声)だから男女関係の相談を持ちかけられるとね、私は「神様に御任せしときなさい」って言ふんですよ。まあ、神様に責任を転嫁してしまふんですね。(笑声)実際又その方が成績がいゝですよ。
丁度ね、坂から石が転り落ちる時にね、中途で止めようとしてもなかなか止りませんしね、自分が怪我をする位のものですよ。さっきの「一生懸命やって結果が悪い」ってのは之ですね。だから、石が下まで落ちてしまふのを待つんですよ。そうしたら放っといたって止っちまいますよ。それでね、どの辺が坂の中途か下かを見抜くのが智慧正覚ですね。智慧を磨けってのはそれですよ。」
(御光話録7号 昭和24年4月13日)
「何事も急所を掴まなくちゃ駄目」
「(前略)それから、御浄霊で病気が治るから、御利益があるから人が来るんです。そして病気の治るってのは急所にふれるから治るんです。だから教導師は急所を掴まなくちゃ駄目ですよ。話でもさうで、急所を外れて唯ベラベラ喋ったって駄目ですよ。一言でも二言でも先方の魂に触れる事をポンといふと、それで相手は感じるんですよ。――そんな風に、話でも浄霊でも急所ですよ。その急所を衝くのは智慧、叡智ですね。こっちがボンクラだと判らないんですよ。終ひには、全体をやればどこか当るだらうって訳でね。(笑声)まるで機関銃式ですよ。(笑声)百発百中ぢゃなくて、百発一中ですね。(笑声)さうかと言って、最初からさういふ訳にはゆきませんからね。一生懸命やって、しかも広くやってれば、だんだん急所が判って来る様になりますよ。(後略)」
(御光話録8号 昭和24年3月)
「信仰が徹底して来ると、無駄がなくなる」
「(前略)それで、神様は――本当の神様は実に簡単なものです。無駄がないんですね。ですから、人間も本当に信仰が徹底して来ると、そう言う風になるべきものですね。それは、他愛ない――普通は幾ら喋つても、面白くても、唸つても良いですが、肝腎な事は、急所々々に触れる。それが神様のやり方です。よく――女に多いですが、のべつまくなくベラベラ喋るのがありますが、之は狐が喋るんです。何を喋つたか解らない様な――それがよくありますがね。まくし立てゝ、人に喋らせないですね。話でも、人に話させない様にするのは狐霊と思つて良い。話は聞かなければならないですね。だから昔から「話上手に聞き上手」と言うのがありますからね。然し、聞く丈けで――感心したり、解つたなと思うと、案外解らない。そこで、一番良いのは、人の話を良く聞いて、隙が出来たら、こつちの話をする。(後略)」
(御教え集4号 昭和26年11月15日)
「嫌々やったり、苦しんでした時にはロクな事はない」
「(前略)それでいろいろ苦しんだり、気がいかない事をやっているとうまくゆかないのです。この点が今までの世の中の人と反対です。これは信者の人でも同じわけです。だから嫌々(イヤイヤ)やったり、苦しんでやったりした時にはロクな事はないです。
病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行く時はきっと治りが良いし、治るから行くわけで、又そうだから良いわけです。だから楽に行けばゆくほど発展するのです。ここが今までの世の中と違うわけです。ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それを当り前のように思っているのです。
私も始終そういう事がありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないという時には、“オレは苦しんでやっていた”という事に気がつくのです。それでそれを放り出して、他の事をやるという事があります。(後略)」
(御教え集29号 昭和28年12月5日)
「信仰とは行い---言ったこと一つでも実行して欲しい」
「明主様は、『拝むとか、一生懸命祈るとか、そんなことよりも、私の言ったことを、一つでも半分でも実行してくれる方がうれしい』とおっしゃったことがありましたが、『身についた信仰──信仰を身につけて、それが自然に出てくるものでなければほんものでない』と、私は、よく御教えいただきました。」
(「景仰」502頁)
『信仰というものは、行いなんだから、行いが出来なければ、なんにもならない。そんなのは信仰の幼稚園だ』
(「景仰」516頁)
「熱心になればなる程一層苦しむのは入れ物の掃除」
「(前略)斯ういう事もある。それは信仰へ入ってからの苦しみである。しかも熱心になればなる程一層苦しむものである。
そこで信仰の浅い人はつい迷いが起るが、この時が肝腎である。この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して、早く御利益を下されようとするが、まだ汚れがあるから浄めねばならないので、入れ物の掃除としての浄化である。その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、それが済むや思いもかけない程の結構な御蔭を頂けるものである。(後略)」
(「御神意を覚れ」昭和28年12月2日)
「浄霊の効果を、多くの人に知らせる」
「浄霊によって、奇蹟的に助かった場合、それを見た医師は驚いて首を傾げ、溜息を吐くと共に、どうして治ったかを訊く事がよくあるが、それに対しありの儘正直に言わない信者もあるようだが、之は大変な誤りで神様を冒涜するものである。信者としては力の限り多数の病人を救うのが目的である以上、本教浄霊の素晴しい治病効果を、出来るだけ多くの人に知らせるのが御神意に叶うのである。それには何よりも医師に分らせる事程効果の大きいものはあるまい。処が其事が徹底的に分っていない為、秘密にしたがるのであろうが、之は以ての外の間違いである。折角神様が大きな御蔭を下さる以上、それをお医者さんに分らせる事が一等である。お医者さんの大部分が判れば、之だけで病気の問題は解決するのであるから、此点よくよく心に停めて今後は精精其方針で進まれん事である。」
(「注意」昭和27年11月12日)
「執拗に繰返すことは避ける」
「(前略)本教浄霊の原理、病理臨床上のことについて人に伝える場合、聊かも先方の意志を無視して強要する必要はないのである。否執拗に繰返すことは、熱心のようであって実は御神意に対する冒涜であると御垂教賜わっている。(後略)」
(「信徒諸士に告ぐ!」昭和29年10月20日)
「どこまでも神の道具で、神様がやらして下さる気持で」
「分らせるといふ事が間違っている。分らせるといふのは人間の力を過信する事になる。神様が分らして下さるのである。此人の信仰が狂ふのは小乗的であるからで、(熱心の為に非常識といふのは嘘である)飽く迄、常識的でなくてはいけない。
人間は何の力もない。人間の心で決めてはいけない。どこまでも神の道具で、神様がやらして下さる気持にならなくてはいけない。(浄霊でも心静かにしてやらないと神様の霊気が通らない。力を入れ一生懸命にどうかして救はうとすると人間的だからいけない)
大乗的になるべきである。
(無理に分らすのはいけない。神様にお任せし、自分はやらしてもらってるといふ気持である)
発展するか否かは神様の思召しである。人間の力が強くなると反って成績が挙がらぬ。(浄霊も静かな気持でやらなくてはいけない。一生懸命やると治らぬ。力を入れずにした方がよい)宣伝も一生懸命扱ふといふ気持はいけない。(時期が来ぬうちはいくらやってもいけない)といって、お任せしっきりでもいけない。その区別を調子よくやる。
神様は霊、人間は体であるから、霊と体と調和すべきである。小乗的信仰は最もいけない。咎めや憎しみは極くいけない。」
(昭和24年8月27日)
「焦ったり苦しむのは御神意に反する」
「焦ったり精神的に苦しむのは御神意に反する。
力が出来れば神様が使ふ。それには向上しなくてはならぬ。それには一人でも多く浄霊して、 霊力をつけ御著書を読む。又、質疑する。誠で、智慧を磨く。向上心は尊いものである。」
(昭和24年7月15日)