第六章 正神と邪神

 

6、信徒としての姿勢

 

 

① 邪神への対応

 

「邪神憑依者か否かのメンタルテストには之が一番」

「(前略)茲で、最も面白い事がある、それは本教刊行の印刷物である、何しろ全部善い記事ばかりで非難の点など些かもないから、もし読まれると邪神の計画は頓挫して了う以上極力見せないようにするばかりか、邪神は非常に之を恐れるのである、それは読むと苦しい為もある、之は邪神憑依者が改心してからよく自白する処である、故に邪神憑依者か否かのメンタルテストには之が一番可い、それは一家庭の眼に触れる所へ置いておくと、手にとって読む者は善い人間で、見ない者は邪神憑依者と断定して誤りはないのである。
  右の理によって、本教出版物をみる限り、邪霊は萎縮し、妨害心は消えるが、みる事が出来ない間は、相変らず悪魔の僕となって、神に反抗するのである、此事によってみても本教が如何に威力あるかが判るであろう。(後略)」      

 

(「善悪の戦ひ」昭和25年3月18日)

  

「邪神に勝つには立派な信仰に入らなければならない」

「(前略)正守護神は人間が危険に遭遇する場合、それが霊界に先に起るので、それを知って危難を免れしむるべく努力する。世間よく虫が知らせるとか、其時気が進まなかったなどといふのは、正守護神の注意である。又人間が罪を犯そうとするのを犯させまいとする事や、常に悪に引込まれないやう警戒し、正しい人間にさせやうとする。それには神仏を信仰させるのが最良の方法として導かうとする。処が正守護神がどんなに頑張っても、邪神の強いのに遭ふと負ける事があるので、其為不幸を招く結果となるから仲々大変である。そこで正守護神は常に邪神に勝つ力を求めてゐる。それには人間が立派な信仰に入らなければならないといふ訳で、本教へ導く事が日に月に増へつつあるのである。(中略)
  右の理によってどうしても人間本来のあり方は、悪を制御するだけの力を有たねば安心が出来ないのであるが、それには力が要る。其力こそ神から与へられるべきものであるから、信仰が必要となる。さすれば如何なる世にあっても、何等不安なく、永遠の幸福者となり得るのである。(後略)」      

 

(「精神病と癲癇」昭和27年)

 

「信仰にはいると、正守護神は、悪を止めさせる事ができる」

(それは悪をする者の祖霊にも止める事はできないものでございましょうか)


  それはできません。それは正守護神ですが、正守護神も骨が折れるのです。というのは悪をするのは、邪神の眷族が憑いてやるのですが、それを押さえる力がないのです。そこで信仰にはいると、正守護神に力が出るから、悪を止めさせる事ができるのです。ですから信仰にはいると悪い事をしたくなくなるというのは、悪霊が萎縮するからです。(後略)」   

 

(御垂示録23号  昭和28年8月1日)

    

「迷い心は邪神につけ入るスキを与えることになる」

「(前略)信仰は単純な人間の理屈で考えるのが一番危い。迷っているうちは苦しみが来る。迷いがなくなると苦しみは来ない。迷ふのは心にスキがあり、そこで邪神がゆさぶる。絶対動かなくなると苦しみはなくなる。(後略)」                 

 

(年代不詳)

    

「邪神か邪神でないかを見わける方法」

「(前略)それから、もう一つ注意する事があるんです。よく邪神が憑いてるか憑いてないか、或いは邪神か邪神でないかを見る、一つの方法があるんです。それは、一番分り易いのは、邪神と言うものはしつこいんです。で、神様程あっさりしているんです。ですからクドクドしく一つ事を言つたりするのは、之は邪神と見て良いですね。で、高級な神様程あつさりしている。ですから、あつさり言う人は身魂が高級と思つて良いですね。それからクドクドしく言うのは、邪神でなければ、神様では低い――低級とは言えないが、低いんですね。一番低いのは狐ですよ。まくし立てますが、あれは大抵狐です。そう言うのでなく、本当に身魂が良い人は穏かに――議論したりまくし立てたりする事はないですね。それから女でペラペラ喋るのは狐が多いです。男で、威張つたりするのは天狗ですよ。こう見て居れば間違ない。議会なんかで、色々議論したりしますが、あれは天狗ですからね。天狗と言うのは、負けるのが嫌ですからね。言い出したら通そうとする。議員だとか学者や弁護士だとか、ああ言うのは天狗が多いんです。横車を押したり、人に議論したりするのは、天狗に限るんです。何しろ天狗と言うのは問答が好きでして、天狗は問答して勝つたのが、位が上つていくんですから、議論して勝とうとしますね。みんな天狗ですよ。           

 

(後略)」 (「御教え集9号」  昭和27年4月6日)

                   

「邪神は汚い所を好む」

「宮の前は汚い商売はいけない。神様が出入するから、汚いと神様は嫌う。魚屋などそうである。邪神は汚い所を好む。神様は除けて通られる。それで災害が起り易い。宮の真前は最も悪い。(遮っているから人間はどちらでも出入するが、神様は几帳面で真直に出入される)」                                  

 

(講話集補  S24・1・18)

 

「霊の軽いのは天国へ上るし、重いのは低い所へ行く。低い所にいると、霊の抵抗力が弱いから、邪神にやられる。邪神は人を苦しめるのをとても喜ぶのである。」         

 

 (講話集補  年代不明)

     

「邪神は花を、美を嫌う」

「(前略)娯楽としては華道などは結構である。必ず人間の部屋には花を活けなくてはいけない。(部屋が天国になる。私はどんな部屋でも活ける)花は邪神が嫌ふ。邪神は美を嫌ふ。出来るだけどこでも綺麗にする必要がある。(後略)」      

 

(昭和24年7月25日)

 

「天国は真善美である。邪神は花を嫌ふ。邪神は花活けなどを妨害する。花だけは忘れず、必ず部屋へ花を飾るべきである。魔除けになる。霊界でよい影響をする。」      

 

(講話集補 年代不明)

              

「艮はきれいにすること」

「(前略)艮の方へは便所、湯殿等は作らぬ事である。邪神とか邪霊を働かさぬようにするのは艮を汚さぬ事である。成可清浄な霊気の来るようすべきである。(後略)」         

 

 (昭和24年5月28日)

                

「邪神の苦手は常識」

「(前略)茲に注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心している其油断である。此考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり畏しと憑依して了う。而も小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。何しろ邪神が憑るや小乗善に尤もらしい理屈をつけて押し拡げ、巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。そうなると人の忠告など耳へも入らず、倍々深味に嵌って了い、二進(ニッチ)も三進(サッチ)もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、斯ういう人も早い内目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなって了い、御蔭を落す事になるから小乗善の如何に恐ろしいかが分るであろう。小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのは茲の事である

又此点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、之が奴等の狙い処であるから、何事も常識眼に照して判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。此例は世間に有りすぎる程有る。よく奇矯な言動を可いとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教なども其類であって、何れも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞する処である。(後略)」    

 

(「霊憑りに就て」 昭和26年12月5日)

      

「根っからの邪神と、邪神に使はれているのとある」

「【問】入信しても多く邪神のとりこになっていきます。又、熱心な信者でも、絶えず邪神に引かれ負ける傾向があります。この様な処にあって、導いた者はどの様にして導きをしたらよいのでせうか。教導師の心得と言ふ様な事に就て御教示下さい。


【答】邪神に負ける――とか言ふこの人は、どっちかと言ふと間違っている。
  憑いてるのが邪神かそうでないか判らぬ。正邪を見別けるには、神でなくては判らぬ。既に裁いている。神の地位を犯している。之が大変な間違いである。判らぬのが本当で、自分自身神の位を侵しているから、その人が邪神かも知れない
  であるから、正邪は言えぬ。邪神と言はれる人で善い仕事をする人があり、立派な人に見えて仕事しない人もある。悪く見えて善い人もある。であるから、神様でなくては判らぬ。
  神様は種々の人を使ふ。善人ばかりでは芝居にならぬ。善悪が入り乱れて面白い。根っからの邪神と、邪神に使はれているのとある。今言えぬが邪神の眷族となって働くのも無数にある。
  主神の下に、陰陽の神があり、即ち善と悪である。善悪を造り、いろいろやらせ、地球の経綸が出来る。故に主神には善悪はない。正邪一如といふ。人間には、本当をいふと正邪は分らぬ。」                         

                                                   

(講話集補 年代不明)

                  

「反対者にも二種ある」

「【問】本教の御用を務めたいので御座ひますが、反対するものが多いので思ふ様に出来ませんが、どうしてで御座ひませうか。又、如何致しましたならよろしいでせうか。御教示願ひます。


【答】反対者はあるに決ったものである。之を知らずに反対する者と、邪神の家系で反対するのとある。邪神は決して悪くみせない。反対するのが良いよう、巧い理屈をつくる。
  放置して時期を待つ事である。先方と闘争せぬよう、避けるようにして、その程度で御用する。大先生とて今以て反対者はある。之は五六七の世まである。
  然し、本当のものは良くなる。それを妨害したものは必ず滅びる。であるから、ちっとも心を用ひなくてよい。ただ、時期の問題であるから、焦らず、気をもまず、気長に待っているのがよい。」                                                    

 

(講話集補 S24・5・26)

        

「本教は邪神にとっては一大脅威」

「(前略)単に邪神といっても個性的に悪い事をするのではない、其奥に邪神を操っている頭目があって、此奴こそ最も恐るべき存在である。此頭目の力には大抵な神も歯が立たない位である。処が此邪神の頭目は陰に陽に絶えず吾々の仕事を妨害している。特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼等の方でも頭目中の頭目が対抗しているので之こそ正邪の大戦いである。(後略)」               

 

(「霊憑りに就て」 昭和26年12月5日)

           

「邪神界にとっては、私程恐ろしい者はない」

「私が御神業開始以来、之迄数へ切れない程悪との闘争をして来た。といふのは、何しろ邪神界にとっては、私程恐ろしい者はないので、何とかして私を亡ぼそうとして心を砕いてゐる。といふのは私が有ってゐる神力である。彼等は長い間神は此世にないものと思はせ、散々人類を瞞し、堕落させ、善悪の差別さへ分らない程にして了ひ、最後には世界全体を掌握しやうとしてゐるのであるから大変な話である。処が今日迄はサタンの思ひ通りに進んで来たので、遂に現在の如き暗黒無明の世界となったのである。そんな訳で彼等が安心しきってゐる中へ、私といふ大きな光が現はれたのであるから、邪神界にとっては空前の大事件である。
そこで彼等は私をして何とか葬って了はうと思ひ、執拗に彼の手此手で攻めゐるのである。とはいふものの私の方には、最高の神様が守ってゐる以上、其都度悪の攻撃は或程度で止まり、難を免れるといふ例は絶へずあるので、本当を言えば私は始終悪魔に取巻かれてゐるやうな気がしてゐて、一日として心から安心される日はないのである。併し之は斯ういふ意味でもある。
つまり神様の経綸は此世界が九分九厘迄邪神に占領され、後一厘といふ瀬戸際で一厘の御霊が現はれ、悪の世を引っくり返し、善の世界にするのである。(後略)」     

 

(「私とサタンとの闘争史」昭和27年)

 

     

「邪神は医学の間違いを暴露されると困る」

「(前略)なにしろ邪神の方も苦しまぎれにいろんな事をやります。四、五年前は新聞で随分挑戦して来ましたが、遂々こっちが勝ってしまったのです。その次は官憲を利用して丁度三年前にああいった裁判をやりまして、それでも結局先方は負けてしまったのです。とに角救世教をつぶしてしまおうというのです。そうしなかったら邪神の方が滅びる事になりますから、霊界では死に物狂いになってやっているのです。それで新聞では駄目、役人を使っても駄目なので、今度はラジオを使ったわけです。
そういうような工合で、だんだん霊界が明かるくなりますから、邪神の方はだんだん手も足も出なくなってくるのです。そこでだんだん死に物狂いになって来ます。しかしそうなればなるほど、神様の方の力が強くなって来るのです。それでドンドン進んで行きますからよいのですが、先方の一番致命的な事は、医学を暴露されてやられる事が一番つらいのです。医学というものは邪神が人類を弱らせてヒョロヒョロにしてしまおうという計画なのです。そうして最後に或る強い民族が、弱っているのをやっつけてしまって、そうして世界の覇を握る、というのがその計画です。ですからそこで医学を暴露される事によって先方の目的が駄目になりますから、そこで先方にとっては大変なのです。(後略)」   

                                            

 

(御教え集23号  昭和28年6月6日)