食と農
B-11-4、参考文献
【参考1】
「自然栽培によるビルマ米の成果」
最近兵庫県養父郡八鹿村の一信者から送って来た自然栽培にて穫れたビルマ米を見た処、一茎の粒は、少ないので二百六七十粒、多いのは三百八十一粒が最高で、平均三百二十粒位であった、処で内地米は、上等で百五六十粒だから、約二倍余に当る、そうして内地米より稍々大きいから、量としては内地米の二倍半位と見てよからう。では之程の違ひさの理由は、初めからの種子そのものにあると誰しも思ふであらうが、実はそうでない事が判ったのである、全く原因はビルマでは殆んど肥料を用ひず、全くの自然耕作による為である、としたら農業に於ては文化を誇る日本人より、ビルマ人の方が勝ってゐる訳である、此事実によってみても、我自然農法の重要性は解る筈である、次の報告は、それを如実に證明してゐるのである。
(「この事実」栄81号 昭和25年12月6日)
悪条件の田畑で此御蔭
愛知県 五六七大教会神光中教会 鵜飼楓一
日々の御利益に感謝し、あわせて自然栽培法の近況を御報告し御礼申上げます。
おもえば子供の頃より冷たき家庭に育ち、八カ年の軍隊生活、又ビルマ戦線にて九死に一生を得て帰還しましたが、健康はすぐれず療養しておりました。約半年後に健康が恢復したので縁あって結婚しました。ところが家庭の不和から離縁し前途に希望を失い、悲観のどん底に墜ちつつも、戦線のあの苦悩に耐え忍ぶ力を得て、その日その日を送る内、弟の熱烈なる勧めにより、しぶしぶ名古屋の瀧先生よりお守を頂いたのです。
入信して一番心を引かれた事は、自然栽培法の件でした。思い起せばビルマの戦線で敗戦後、食糧は自給自足の為現地にて農耕をやった時、不思議な点に疑問を抱いていたのです。その疑問を解いて下さった時の私の喜びは到底筆舌には表わし得ないのです。それは現地ビルマ人の農耕法と私達の農耕法の相違であります。
私達は内地と同じく除草に施肥、手入等手落ちなくやっているのにビルマ人は極く簡単な栽培法であるのに収穫は上成績である。しかるに私達兵隊の農場は問題にならぬ不作で、ほとんど裏成り同様の失敗続きで、少しも実収がありませんでした。これ程努力するのにどうしてこんな結果だろうと、私はビルマ人の畑地を度々視に行ったのですが更に解決し得なかったのです。入信の際先生より救世教の自然栽培法のお話を聞きましてびっくり致しました。
私は復員後ビルマで見た事、研究した事を内地でやってみようと色々考えて、入信前に実施したのです。それは残り種などを素畑にバラ蒔き試作しておりました。それが本当に不思議な位良く出来るのです。近所の人達はどうして作ったのかなどと尋ねられるので、これはビルマ式で作ったのだよと言って説明しておりました。前述のごとき事情で二月入信させて頂き、『地上天国』創刊号を拝読して、更に疑問は解かれたのであります。私の嬉しさはいかばかりか御察し下さい。
早速実行に移すべく、三月の薩摩芋の苗床より始め、馬鈴薯、玉葱、キャベツ、トマト、稲作、里芋等の自然栽培法を始めたのです。中でもトマトは味の良い事は有肥のそれと比較にならず、妹は自然耕作の物を食べてからは、有肥のを食べなかった程でした。又里芋の収穫は親芋より子芋が素晴らしく大きかった上に、非常に美味であるのです。しかしながら反対である父親も食する時は、ニヤニヤ笑いながら、自然栽培法の悪口を言うのです。それは「無肥料で作物が採れるはずはない。そんな馬鹿な事があるものか、取れても少しだ、肥料は作物の食べ物だ、お前も飯を食べずには仕事は出来まい。今年は今までの肥料気が残っていたから収穫があったのだ」と罵るのみであります。その上「困ったものだ、信仰気狂だ、たぼけている。だから嫁の来てがない」と言われるのです。私は一生懸命に判って貰いたいと神に念じつつ実収と味覚を見せても判って貰えないばかりか、私のお詣りに行く事まで邪魔をするようになりました。このような父の無理解の為稲作は非常に困惑致しました。勿論苗代を作る田は全部施肥してありました。仕方なく昨年麦の自然栽培の試作田として、父より許された悪田(毎年旱害で無収穫の多い田)を整理致し、苗代を作りました。ここへ植えた稲は現在出穂期になっておりますが、自分乍ら好成績に驚いております。近所の人もこれが自然栽培か、嘘だろうと言われる程で、中には内緒で肥料を入れたと疑う人もあり、近在の話題の種になっております。私も非常に嬉しくこの分では収穫期には皆驚くのではないかと想像されます。
野菜類は昨年より少しずつ試作致しましたが、本年は一番収穫の少い坂畑に父の反対を押切って実施致しました。その中で妹達に自然栽培の良い事を知ってもらえた、キャベツの御利益を御報告させて頂ます。種は買った物で御浄霊して蒔きました所、発芽したのは僅か三十本足らずでした。それを前記の畑に移植して浄霊を度々やりましたが、虫害で度々枯れそうになりましたが、最後にあった虫害ではほとんど駄目になり諦めました。それから十日位忘れている内に入梅となり、他家のキャベツは雨の為結球したのが割れ水が入って腐るのに、もう駄目だと思っていた私のキャベツが見事に結球しているので、私は思わず東の空を仰いで明主様に感謝の祈りを捧げました。まず先生宅の大光明如来様へお供えし、それから隣家と弟宅へ自然栽培法にて収穫したのだと言って、試食して貰いましたが、風味がよく味は大変おいしいと喜ばれました。
それ以来、母も妹も自然栽培の良い事を喜び、協力してくれるようになりました。無理解な父は相変らず施肥をせねばと叫び続けております。一日も早く、世の人の一人も多く、自然栽培法の有利なる事に目覚められん事を祈って止みません。
明主様の御霊徳に感謝し厚く御礼申上げますと共に、諸先生の陰に陽に御指導下さった事を感謝して筆を置きます。
【参考2】
「練馬大根不作の真因」
左に就て、些か言いたい事は、練馬大根の不作は、全く長い間の肥毒の為、痩土となったからで、それに気が付かない愚さは、気の毒なものである。移動すれば成績がいいのは、肥毒が少ないからである。高い肥料を購い、手数を掛けて、不作になるという馬鹿々々しい例は、全国到る処にあるという、現在の農業であるとしたら、かえすがえすも残念である。之を見ても、自然農法の宣伝は、忽せには出来ないのである。
又、南から北へ移動するのは、逆である。北が霊、南が体であるから、霊主体従の法則によって、そうするのが本当である。太陽も東から出て、西に行くではないか。
(「自然農法をよく理解せよ」栄98号 昭和26年4月4日)
参考文献
農耕異変「大根」北へ行く
『栄光』98号、昭和26(1951)年4月4日発行
東京都 生和中教会本部 小池祐司(36)
まことに失礼な申分ながら「練馬大根」と言えば直ぐ脚の太い御婦人を連想する位、この大根はその太さにおいて余りにも有名である、大江戸は北豊島郡下練馬村一帯が原産地であった為にその名の由来となり、俗に尻留、尻長といわれ、色、味よく沢庵はもとより、煮食からフロフキといって柚子味噌で頂くにはこの大根が最適であろうとは余談、今更大根の能書でもあるまいが、かつて徳川の治下、かの高僧沢庵禅師が練馬村金乗寺という寺にいた頃、その付近一帯に産する大根に着目し、その長期保存法を工夫研究の末、今日の沢庵潰となったとは土地古老の昔話ではある。
想えば往時は土地も肥え化学肥料なるものもなかったから、その惟神の出来栄えの素晴しさは、流石の沢庵和尚をして一驚せしめたものであったろうが、年変り星うつり、昭和の御代の「練馬大根」には、既に昔日の面影はないという、これは勿論肥料過多による酸性土壌の年々歳々の硬化により、大事な根の発育を阻害したからであって、面白い事には、土地の老農のいうところを聞けば、もうそろそろ大根はこの辺の土地に飽きたというのである、つまり大根は移動を開始したのである、といったら大変妙な言い方かも知れないが事実この練馬大根はその本場の練馬を捨てて、更に北へゆく程成果を挙げている現状である、即ち練馬から北へ東上線を上り、新倉村朝霞町(共に埼玉県)辺が「練馬大根」の新たな本場となっているのである、勿論新倉、朝霞が神示の自然栽培をやっているという訳ではなく、大根自身が肥料で連作をする練馬を嫌って(自然なら連作でよい筈だが)未だそれ程なじんでいない新規の土地を好んだのであろう、浮気な大根奴! だがやがてその土地にも大根はケンツクを喰わせ、更に北へ(これは必ずしも北と限った訳ではないが、言霊学上、キタとは気多であって、清浄な霊気の多いところとの意味に解して)北へと移動するであろう事は想像にかたくない、時しもあれ、今年の練馬一帯の大根の成績は、正に全滅に瀕しているというのは既に双葉の頃から油虫の害で(勿論、農家の事だから除虫法は充分講じたであろうが)発育悪くその八割は見事に荒されている。
東上線、武蔵野線に沿って挑むれば、大根の葉の黄ばんでくびれた無残な姿がそこ、ここに続いて見得る大本教のお筆先に――大根の枯葉まで食わねばならぬ世の中が来るぞよ――とはこのような有様をいうのであろうかと慄然たるものを感じる次第である、この大浄化(大根を主として野菜類)は時ならず不意打であっただけに、農家の人達を唖然たらしめている、まして年収の半分を大根に托するというこの辺一帯の農家や、それを漬物に加工する沢庵工場のどれもこれもが、思わぬ目算違いにとまどいし悲鳴をあげている、これは昭和八年以来の大不作とかでその当時よりも一層ひどいと土地の人は噂し合っている、もとより彼等はその原因が永年にわたる有肥栽培の結末である土地の浄化作用である事は知る由もない。我等の自然栽培の話を受入れればこそ、来年こそはと賢明な?対策を講ずる事であろう、哀れにも頑迷な人達よ! 来年の事をいえば鬼が笑うという。
かくて、大根は北へゆくのである、否、大根ばかりではなく、全ての生きとし生けるものみなが北へゆかねばならない時が迫っているというべきであろう。
【参考3】
「土自体が、肥料の塊り」
左記の人は、まだ自然農法に徹底していないからで、斯ういう見方の人は非常に多いと思うから、一寸注意しておこう。最初の十五俵という多収穫は、堆肥を多くしたからというが之は逆である。堆肥が余り多いと、土の成育力を妨害するから、反って不作になる。此見方もまだ肥料迷信が残っているからである。又青田の頃見たままで良否を決めるのは早計である。要は収穫を見て批判すべきである。次に失敗した過程などというが、自然農法に失敗は決してない。もし失敗があったとすれば、それは今迄の肥毒が残っている為である。要するに土自体が、肥料の塊りであるという事が判ればいいのである。
(「土は肥料の塊り」栄97号 昭和26年3月28日)
参考文献
自然農法寸考
愛知県 愛光中教会 藤枝光三郎(27)
自然農法普及に当って、これを布教の側に立っている面より感じた二、三を書いてみようと思います。
人間の気持として物をヒイキ目に見たがるのは自然の成行ですがこの一見陥り易い過失が、案外普及の妨害となっている事であります。世間一般の人は、こちらの一番悪いものと彼等の一番よいものを比較しようとする。それはこの新形式の栽培法に対してそれを何とかして認めたくないという、因襲的な気持からでありましょう。又こちらとしては何か成果発表の場合、それと気付かず疎漏の愚を犯している事であります、従ってこの際大切な事は、一般の人々はどのように考える傾向があるかと言うその傾向を、一応は認識してかかる事が必要であると思います、例えば、段当十五俵と言う発表に対してそれを実際によく調査して見ますと、ほんの数坪の土地に堆肥を思う存分施して作り、その収穫を拡大して段収に見積って十五俵と言う事がありますと、それを向うから見た場合「そんな狭い地域ならば誰でも出来る、試験場の記録はもっと成蹟をあげている」と言うでありましょう。
先日数十人の会員の方と自然栽培実習地を見学に参りました、自然農法の田の右隣りは有肥田で被害甚大見るも哀れなものです、そして又左隣りは有肥田でありながら、差程被害を受けておりません、ところがほとんどの人が自然に右の方へ集り悪田と比較して自然農法の礼讃をはじめました、これを見た一人の会員が「あなた方は駄目だ、悪いのと比較しても何にもならぬ、よい方と見比べなければ」と叫びましたので我にかえり、左の良田との比較をはじめたと言う事があります。
この一見人情よりすれば、当然と許容さるべき点も、実は反って逆効果を来し、反対に非難して遠ざかる材料を与える事となり、普及を妨げる結果となりましょう、正確に観察し、発表する、これが大切であると思います。
次は研究態度の問題であります、稲作の場合に例をとりますと、段当八俵で隣接の有肥田より品質もすべてにおいて良好である事を強調致します、ところがその際、裏作の麦の研究が足りないと「田の方は余り肥料をやらなくても出来るが、そのやり方では裏作の麦は出来ないでしょう、麦は特別に肥料が要るから」と言うでありましよう、実際から言っても麦の裏作の場合、自然農法が稔るまでに有肥に比して長期間を要する点からこれを飲込んでおらぬ場合相当不成績に終り、とんだ非難を受けると同時に、実施者自身外部よりの圧迫等によって熱意を失ってしまう事があります、ただなんでもやりさえすればよい、必ず増収しますと宣伝して、田の裏作より始め、実に思わぬ失敗に終っているところを散見するのであります、ここで、明主様の御言葉を今一度反省する必要があります「自然農法に失敗は絶対にない。うまくゆかぬ場合は(一)自然農法になっていない事、(堆肥に厩肥を使ったり、播種の時期が遅きに過ぎたり、その他)(二)肥毒の為の浄化以外にない」この(二)の点は当然受くべきもので不可避ですが、(一)の点は十分飲込んで研究の余地があると思います、所期の成果が上らなかった場合、何か自分の信仰に対する妙な気持から、その貴重な失敗を活かさず、ひた隠しにかくす事があります、これでは結果から言って、自然農法に対する疑念を残すのみで、何にもなりません、信仰は出来るだけ疑えと申されている事から考えましても、この失敗をこそ正しい目で見、堂々と取組んで自然農法を理解し、その土地と事情に応じて適切な方法を生み出してゆく事こそ、新しい道を拓いて行く者の正しい研究態度ではないかと思います、又発表して戴く場合も、成功したと言う簡単な結果報告よりも寧ろ、失敗とそれに対する検討、又克服した過程を聞きたいと言う要望が多いように思います、これこそ現在実施している者にとって、又これから実施に移らんとする人々にとって、その導きの杖となり、無駄を省き、順調な普及が出来る事と思います。
救世教からの通牒にもあります通り、隣接地の同種による同等級田との比較発表と、あわせて耕作者の見解意見を添えて戴きたいと思うのであります。
【参考4】
立札、看板等の奇蹟
「立札の奇蹟」
『地上天国』2号、昭和24(1949)年3月1日発行 大分県南海部郡川原村大字横川一九五 日本五六七教会帰一会 小野九十九(51)受教修昭和22年12月18日
私の地方では杉山を売ると杉材を搬出後必ず山一面を焼きます。そしてその焼地に翌年杉の植付まで、大根、白菜、里芋、菜種、豆類等を作る習慣となっています。
私も今年杉山跡約一反歩に大根、蕎麦、白菜、大菜を播きました。まず種子に約五分間浄霊を施し撒播しそれを耕作しますところ、非常に発芽がよく見事に発育を続けていました。ところが発芽後十日程して行ってみましたところ、周囲が雑木林、草野のため「兎」や「きじ」「からす」がこれをみつけ、初めは少しでしたが段々と広く荒しますので、このままにしておけば全滅の外なしとフト思いついて立札に「兎、からす、きじ、この大根、白菜を荒すな」と書きその立札に浄霊をして山(畑)の一角に突たてました。その翌日行ってみると驚くべし、効果百%その後周囲にはいっても絶対荒さなくなり、現在では普通の畑に作ったものよりも、無病健全にして、しかも物凄く豊作型、近来なき上成績これではっきりと観音妙智力の素晴しさをみせられました。
「観音光の作物」
『地上天国』1号、昭和23(1948)年12月1日発行 自観叢書第2篇『無肥料栽培法』昭和24(1949)年7月1日発行(二)愛知県 日本五六七教春陽会 山本チエ
住所の一隅に在る約七十五坪の山田の耕作、この度その御利益の一事を申上げさせて戴きます。
私の耕作地は山に包まれ周囲はおおく稲でその最中に特別早稲の植付をいたし、八月五、六日頃には穂も出てその上この辺は雀の巣と言う程雀も多く、私の家では早稲の事とて昨年迄は鐘や太鼓で雀おどしを毎日やっていても被害がとても多う御座居ましたが、今年無肥料にて「モミ」より浄霊を施し、田の四隅に立札を立て「米は人の食べるもの雀の食べないもの」と書き浄霊したところ、毎年来る雀も一羽も来ないので御座居ます。
過日この辺りを村会議員や農業関係の幹部達が、この立札を見て大笑いをしました。他の田の人達は今なお雀おどしに大童ですが、私の田だけはその必要も無く今ではこの立札を見て笑った人達も観音様の妙智力にびっくりしております。その他、野菜物等も虫も付かず意外に収穫も多く家内中が喜んでおります。
私は観音様の有難い事を余り喋舌続けますので村人や隣村の人迄も観音婆で通っております。本当に有難くて忘れる事が出来ません。厚く御礼申上げます。
「野猪の畠荒しより救はれて」
『地上天国』2号、昭和24(1949)年3月1日発行 日本五六七教会専信会 牟田原利子(20)
宮崎県隅田武夫教導所にて本年三月十八日、日本五六七教会へ入信教修を受けそれ以来救われし身の今は他人を救う事の出来る身となり、私の喜びこれに勝るも のなく数々の奇蹟御利益と目の当りに見る事が出来、深き御加護によって暗き心と病の中より救われて、我が身に受けし喜びを分ち、神の実在と神の偉大なる力
なるものを皆様に知って頂きたく拙なきペンを持って御利益の一端を述べさせていただきます。
私の家は山間の農家にて畠は山の麓にございますので 毎年猪の横行にはホトホト手をやいていましたので早速先生にお伺い致しましたところ、畑の四隅に「畑の作物は人間の喰うものなり、汝猪等これを喰い荒すべ
からず」とかきし立札に霊気を通して立てよとの事、早速急ぎ帰りて実行致しお縋り致しましたところ、それ以来猪は通ることは通りますが荒す事は「ぴたり」
と止めてしまいました。私もこれには吃驚しただただ不思議でなりませんでしたが、爾来色々な御利益をいただき家の者と共に観音様の御利益の有難さに深く感 謝し、益々光明の道に励まさしていただいております。
「水害絶無の自然農法」
『自然農法解説』昭和26(1951)年1月15日発行岐阜県五六七大教会専信中教会 田中信義(30)
私は入信後昭和二十三年も半ば過ぎでした、専信中教会へ渡辺先生が御来場下さいました時、特に自然耕作のお話しを判り易く御聞かせ下さいました。その中でも特に自然栽培は風水害には最も安心だと申されましたので、早速私は同年十一月より実行に移りました。その間種々の体験を得ました。その内の水稲の自然栽培がいかに水害に対して強いかを報告させて頂きます。
私の土地は大変低い所でちょっと雨が長いと、早速やれ排水機というわけで、丁度翌二四年八月中旬頃でした、雨量が多く田一帯が海のようになって、稲も全然見えず、それに十日ないし十三日間程水に浸っておりました。その上丁度出穂寸前でしたので、これは駄目だと思いました。しかし私は内心先生の御教示通りに実行してよかったと喜んでおりました。ところが長い浸水も排水された頃には穂も出穂し始めましたところ、金肥使用の稲は色々の病気が発生し中でも葉巻病、葉枯で村中大騒ぎとなり、消毒で大変でした、ところが自然栽培のは少しの被害もなく、しかもすくすくと伸びて青々としておりました。十月下旬頃になって金肥使用田は一帯に倒れ、立っているのはほとんど白穂となり見るからに悲惨なものでした。それに反し自然耕作田は異状な発育振りで、見るからに気持よくその中でも専信中教会で作られた「神示の耕作地」と書いた立札を立てた田は特別目立ってよく、一本として折れたり倒れたり、病害のものもなく、黄金の波を打ってとても水害の後とは思えない位で、村の人達も不思議だ不思議だと時々尋ねられその度毎にいとも朗らかに自然耕作の有難さを一々説明するのでした。
以上のごとく自然栽培初年度より、大水害より免れ、現実に多大なる御守護と御利益を賜り自然栽培の絶対であるとの信念を得ました。希くば農村の皆様かようなる理想の農耕法はひとり神のみの知らるる農業天国化の、一大福音でなくてなんでありましょう。
以上拙文ながら御利益の一端を報告申上げます。
「費用かけず一分の増収」
自観叢書第2篇『無肥料栽培法』昭和24(1949)年7月1日発行
静岡県 日本五六七教真善会 大石文一(25)
私は無肥料耕作にて御利益を戴き喜びに満たされています。私の村は山に包まれ耕作が少なく耕作労力を多く必要とする不便な地です。
私は二十二年二月入信。当時、無肥料耕作法を聞かされても信じる事は出来ませんでしたが、度々の御面会を戴くようになってから何となくやって見たくなり、二十三年度の稲にと思いつき種籾を分会長先生に御浄霊をして戴き早稲の苗田を作り、三月三十日に籾種を蒔き数回浄霊をしました。苗が五分程のびた頃、烏が芽をくって困りました。先生に御伺いしたら烏がつつかない事も出来ると言われましたので、早速お願いして四隅に御浄霊した立札を立てたところ、烏が少なくなり、二日目には一羽も来ないようになりました。観音様の御力のお蔭と有難く感謝し、五月五日に本田に植付けました。
六月十五日頃一番除草終りました。稲は黄色くてひょろひょろしていましたが、七月十五日前後二番除草を行う頃には大分大きくなり、十二、三本に分重しこれで稲らしくなりました。八月に入り他の稲より伸びてはいませんけれど、見るからに丈夫そうです。八月中旬の出穂期になると他家のものよりは分蘖は少なかったけれど穂はずっと大きく、九月に入り稲穂はずっと大きく、十月に入り稲穂は重々と頭を下げて日増しに色付いて行きました。
九月上旬ごろより全般的に「ウンカ」が発生し、他では毎日「ウンカ」取りに大騒ぎです。私は一匹の「ウンカ」も付くものかと思っていたが心配になるので行って見ると大変です。「ウンカ」は田の中程より発生、外へ向っています。さあ大変と私も焦りました。先生に御伺いしたらよく浄霊をしなさいといわれましたので、懸命に浄霊しましたがなかなかとれません。他家のは白く枯れたところが数カ所ありましたが、私は二カ所で喰止める事が出来ました。私の方は反当り二俵半から四俵というところです。他家では今年は平年作にいかないだろうと嘆いています。私のは少くとも昨年の七分はあると思って稲刈りも終り、籾すりをしてみて八分という上成績を得ました。私は肥料代と手間代だけ他より少なくて一年目にこの成績を得たのです。一家中、神の恵の偉大さを今更ながら有難く、一層努力すべく心に誓い少しでも参考になればと御報告をさして戴きます。厚く御礼申し上げます。