食と農
A-3-6、自然農法と信仰
「信仰と無肥料栽培」
話の前にちょっと言いたい事があります。今度の三日間に来た人は非常に少ないのです。何時もの丁度半分です。聞いてみると、今農村が一番忙がしい時で、そのためだろうと言うのですが、これは大変な間違いです。どんなに忙がしくても、どんな事があっても来なくてはいけないのです。他の事情なら仕方がないが、農村の事情が忙がしいから来ないという事は間違ってます。そのために一日か二日の暇をかいても、それでどうという事はありません。神様はそんなものではありません。神様は大抵十倍ですから、一日の御参りで十日のお蔭をいただきます。若しそういう考えで休むとしたら大変間違ってます。そういう事を支部長や教師などの人がよく知らしてやるとよいです。むしろ、そういう忙がしいところを休んで来るほどかえってお蔭があるのです。そこが人間の考えと違うのです。殊に今度の三日間は農事に関係した話をする事が多いのです。私はできるだけ百姓に話したいと思ったところが、そういうわけで、どうも残念に思うので、今一言いったわけです。
信仰の考え方が未だなかなかずれている点があるのです。例えば肥料にしても、本当に私の言うとおりにやる人は少ないのです。大抵中途半端が多いようです。農民の人は“明主様は病気や何かの場合は、それはよく治るし、確かに仰言るとおりに違いないが、作物の方は百姓の経験はないし、そのとおり言う事を聞いていたら、とんでもない事になる”というので手を出さない人と、又手を出しても徹底しなかったのです。金肥人肥はいけないというと、それでは鳥の糞や馬や牛の糞なら良いだろう、油カスなら良いだろうとか、ヤレ灰をかければ良いだろう、ごくよいところで、堆肥をウンとやれば良いという考えなのです。ところがそれはみんな土を穢すからいけないのです。これは私が言うのではないので、神様がみんなを助けるために言うのです。どうも私の考えで言うように誤解するのです。(中略)教師自身が実は無肥料栽培という事を信じてないのです。だから言い方が弱いので、ウッカリすると百姓に言い負かされてしまうという事を聞きました。(中略)そういうわけですから、参拝日に暇をかくとか、いろんな事で来難い時に来るほどお蔭があるのです。これが遊び事なら都合のよい時にという事になるが、そうではないのですから、こういう事を大いに心得ているべきです。農事が忙がしいから行けないという事は、甚だどうも当を得ていません。理窟に合いません。この話はそのくらいにしておきます。
(御教え集27号 昭和28年10月27日)
「無肥料栽培は信仰に関係なく普及を図る」
(前略)とに角信者の人だけは大体分ったので、これからは世間的に分らせなければならない。とに角未信者が実行する様になると非常に早いです。そこで“信者にならなければいけない”という事になると普及が非常に遅くなるから、そうすると日本の現状を救うという事が遅くなるのです。だから私は信仰に関係なく、肥料無しでかえって良く出来るという事も知らしてあるのです。その点においても、信者の人で間違った考えをしているのです。浄霊も、大勢に見える様にしてやっているのはいけないのです。というのは“あんな事をしなければ良く出来ないとすると考え物だ”という事になりますから、だから“浄霊も何もしなくて、ただ肥料が無くなれば良く出来る”という事を知らせるのです。だからこの無肥料栽培を、信者をつくる目的のために利用するという事はいけないのです。そんな事よりも、日本が困っているのを早く良くするという事を根本にしてやるといいのです。ですから浄霊も、それは全然秘密にしなくてもいいが“信仰でこうやれば、こんなにとれる”という事をみせびらかすという考えはやめるのです。(後略)
(御教え集19号 昭和28年2月25日)
(前略)ちょっと考え違いをしている点がある様です。それは、信者にならなければ良く出来ないという事を知らせ様と思っている事が大変な間違いです。“信者にならなければならないとすると、面倒臭い。だからもう少し見合せ様”と躊躇(チユウチヨ)しますから、そうするとそれだけ普及が遅れますから、日本の増産を妨げる事になります。それで佐渡では浄霊しないのですが、一番良くとれるのです。それは神様の御趣旨に合っているからです。その点が大事です。だから浄霊すれば、肥毒を消すから良いには違いないが、しかしそのために未信者の農民が見て“あんな事をしなくては良くとれないなら、面倒臭いからよそう”という事になって拡まらない事になる。そうすると“日本が現在困っている食糧問題を解決して、食糧増産をしよう”という神様の御趣旨に反する事になる。そこで佐渡では浄霊しないで、最初の年から良くとれたという事は、神様の御趣旨に合うからです。だから根本的の考えでなければならないのです。上っ面(ツラ)でなくて、この目的はどこにあるかという、つまり大乗的考えです。ところが中には、大いに信者をつくる一つの手段にしようと考えている人がある様ですが、それは考えなければならない。日本の大勢の人が困っているのを救うには、どうすればみんなが一番実行する様になるかという事が肝腎ですから、それに合う様にしなければならない。だから浄霊してもいいから、人に見えない様に、夜にでも浄霊するのです。つまりできるだけ人に見られない様にやるのです。それで浄霊も日に二、三度で沢山です。あんまり浄霊にこだわってはいけないのです。と言っても、病気の場合にその考えを起されると、それは困ります。病気の場合は浄霊するに限るのです。ですから自然栽培の場合と一しょにしない様にする事です。別々に考えなければならない。病気をなおす場合はできるだけ信者にした方が早くなおります。そういう様に別々に考えるという事にするのです。(後略)
(御教え集19号 昭和28年2月26日)
(前略)今までの報告では佐渡が一番良いのです。佐渡だけは初年目から少しずつ増えているのです。ですから信者でない農民もそれを真似して、今どんどん増えているのです。ですから今も読んだとおり、佐渡だけは十年以内には全島自然栽培になるだろうと思ってます。では、どういう訳で佐渡ではそんなに成績が良いかというと、佐渡の人は浄霊をしないのです。これはおもしろいのです。少しはする人もありますが、大体はあんまりしないのです。これが神様の思召しに適(カナ)っているのです。ところで“浄霊をしなければ良く出来ない”という様に思わせる事が大変悪いのです。何故かというと、そうすると“信仰にはいらなければならないから、もう少し考えよう”という事になるのです。それでは普及が非常に遅れます。だから“信仰にはいらなくても肥料さえやらなければ良く出来る”という事を思わせるのです。そうすると“ああそれではわけないから”というので、どんどん真似する様になります。そうするとそれだけ増産になりますから、早く効果があるわけです。だから浄霊をして、それを知られるという事が、大変に普及のお邪魔をしているわけです。というのはそういう考えは、信仰した方が良く出来るというのを見せて、信者を増やそうという考え方ですから……悪い事はないが……その考え方が小乗的なのです。(後略)
(御教え集19号 昭和28年2月27日)
「信仰しなくても無肥料にすれば出来る」
(前略)次に二、三注意したい事は、今だに報告書の中に浄霊とか御守護などの言葉があるが、宗教臭くてはいけないとして、昨年の特集号にも出した程であるから、今後は充分注意して貰いたい。というのは入信しなければ増収が出来ないとしたらそれだけ普及に影響するからである。又事実からいって信仰なしでも無肥料にさえすれば五割や十割の増産は確実であり要は今日の日本を一日も早く救わねばならないからである。(後略)
(「本農法の技術面その他」栄245号 昭和29年1月27日)