食と農

A-3-1、自然農法の理念

「自然農法について」

 

   私によって提唱された無肥料栽培の理論ほど、読む者をして其あまりに異説に唖然とし、到底信じられないといふのが一般の観方である。事ほど左様に、農作物ばかりではない、人間自体が肥料中毒に罹ってしまってゐるのである。

 

  然し、私の唱える説であるが為、相当の信用を払ふ人も多くあるにはあるが、それでも最初は恐る恐る実行してみるといふのが例外なく報告書に表はれてゐる。処が収穫直前になると俄然として様相が変り、予想外の好成績を挙げるのである。

 

  百の理論よりも一の事実に如かずといふ事は、今更改めて言ふ要はないが、私は想ふ、此大発見の結果として日本農業は一大革命を惹起するのであるばかりか、何れは世界的農業革命にまで及ぶかもしれない。とすれば斯様な偉大な人類救済は空前の一大福音であると共に、地上天国樹立を目標とする本教として当然過ぎる事であらう。

 

 

(「序文」自叢二  昭和2471日)

 

                  

「自然栽培の基本理念」

 

   (前略)以上の如く凡ゆる耕作物は、有肥栽培に比して無肥栽培の方が、比較にならない程有利であるかは以上の通りである。それに就いて知らねばならない事は、第一土なるものの性能である。抑々土とは造物主が人畜を養う為に作物を生産すべく造られたものである以上、土そのものの本質は、肥料分があり余る程で、言わば肥料の塊りといってもいい位のものである。それを今日迄全然知らず、肥料は作物の食物のように誤ってしまい、色々な人為肥料を施した結果が、意外にも土本来の力を弱らせてしまったのである。よく日本の土質は酸性だと言われるが、全くその為である。としたら何と驚くべき錯誤ではなかろうか。この意味に於て作物を増産せんとするには、土自体の力を出来るだけ強化させる事である。ではどうすればいいかというと、それは土に対し堆肥以外些かの不純物も混えず、出来るだけ清浄にする事で、それだけで素晴しい成績を挙げられるのであるから、今迄の頭脳では到底信ずる事は出来ないのである。

 

  右の理によって、自然栽培の根本理念は飽く迄自然尊重であって、それは自然がよく教えている。凡そ世界にある森羅万象凡ゆるものの生成化育を見れば分る如く、大自然の力、即ち太陽、月球、地球という様に火水土の三元素によらぬものは一つもない。勿論作物と雖もそうであるから、日当りをよくし、水分を豊富にし、土をより清くする事によって、作物は人間の必要以上余る程生産されるものである。見よ地上には枯草も落葉も豊富に出来、年々秋になればそれが地上を埋め尽すではないか。これこそ全く土を豊穣にする為のものであって、それを肥料にせよと教えている。そうして耕作者は堆肥に肥料分がある様に思うが、決してそうではない。本来の堆肥の効果は、土を乾かさない為と、温める為と、固めない為である。つまり水分を吸収し、熱を吸収し、土が固まらないようにするにある。(後略)

 

 

(「農業の大革命  五カ年にして米の五割増産は確実(一)」革自  昭和2855日)

       

                  

「自然農法の原理、その1

 

 

 

  抑々自然農法の原理とは、土の偉力を発揮させる事である。それは今日迄の人間は、土の本質を知らなかった。否知らせられなかったのである。その観念が肥料を使用する事となり、何時しか肥料に頼らなければならない様になってしまった。全く一種の迷信化したのである。何よりも私が最初の頃如何程無肥料栽培を説いても、全然耳を傾ける者がなく、一笑に附せられたものである。それが段々報いられて、近年、年毎に自然農耕者が増加し、収穫に於ても、至る処驚異的成果を挙げている。しかし今の処未だ信者の範囲を出でないが、漸次各地方に於ても未信者の間に共鳴者続出し、本栽培者は非常な勢を以て激増しつつあるにみて、やがては日本全土に行き渡る日も、左程遠くはあるまいとさえ予想さるるのである。右の如くであるから、本農法宣伝は端的に言えば、肥料迷信打破運動と言ってもよかろう。

 

  そうして、人肥金肥は一切用いず、堆肥のみの栽培であるから、その名の如く自然農耕法というのである。勿論堆肥の原料である枯葉も枯草も、自然にできるものであるからであって、これに引換え金肥人肥は固より、馬糞も鷄糞も、魚粕も木灰等々天から降ったものでも、地から湧いたものでもなく、人間が運んだものである以上、反自然である事は言うまでもない。

 

  抑々、森羅万象、如何なるものと雖も、大自然の恩恵に浴さぬものはない。即ち火水土の三原素によって生成化育するのである。三原素とは科学的にいえば、火の酸素、水の水素、土の窒素であって、如何なる農作物と雖も、この三原素に外れるものはない。神はこの様にして、人間の生命の糧である五穀野菜を過不足なく生産されるよう造ったのであるから、この道理を考えてみればよく分る。神は人間を生まれさせておき乍ら、その生命を繋ぐだけの食糧を与えない筈はない。もしその国が有する人口だけの食糧が穫れないとしたら、それは神が造った処の、自然の法則にどこか叶わない処があるからである。としたらこれに気附かない限り、食糧問題の解決など思いもよらないのである。

 

  以上の様な大自然の法則を無視した人間は、人為的肥料を唯一のものとして今日に到ったのであるから、食糧不足に悩むのは寧ろ当然と言うべきである。全く自然の理法に盲目であった為の応報とも言うべきであろう。しかもそれに唯物科学という学理が拍車をかけたので、遂に今日の如き食糧難時代を来したのである。この意味からいえば、現在の農耕法は進歩処ではなく、事実は退歩したといってもよかろう。従って自然尊重の農耕法こそ真理である以上、如何に不作でも一人一年一石として、我国の人口八千三百万とすれば、八千三百万石は必ず生産されるべきである。これは大地を叩く槌は外れても、この理は外れる訳はないのである。

 

  私が唱える自然農法とは、右の理が根本であって、現在日本の食糧不足による農民の疲弊困憊なども、実行次第で難なく解決出来るのである。この誤りを見そなわれ給う神としては、捨ておけぬという仁慈大愛の御心が私を通じて自然農法の原理を普く天下に知らしめ給うのであるから、一刻も早くこれに眼を醒まし、本農法を採用すべきであって、斯くして農民諸君は全く救われるのである。

 

  曩に述べた如く、火水土の三原素が農作物を生育させる原動力としたら、日当りをよくし、水を充分供給し、浄土に栽培するとすれば、今迄にない大きな成果を挙げ得る事は確かである。いつの日かは知らないが、人間は飛んでもない間違いをしでかしてしまった。それが肥料の使用である。全く土というものの本質を知らなかったのである。

 

   (「自然栽培の勝利  土の偉力  自然農法の原理」革自  昭和2855日)

                         (「土の偉力」自解  昭和26115日 類似)

                             

 

                

「自然農法の原理、その2

 

 

 この原理を説くに当って徹底的に分らせるためには、どうしても既成科学の頭脳では無理であるから、私が神示によって知り得た唯心科学を以て説くつもりである。従って最初は相当難解であるかも知れないが、熟読玩味するに従い、必ず理解される筈である。若しそうでないとしたら、それは科学迷信に囚われているからで、これに気附けばいいのである。そうして私の説く処絶対真理であるのは何よりも事実が示している。故に、これに従えば、初年度から一割乃至五割増産は確実である。それに反し現在の農法は知らるる如く伝統的方法と科学的方法とを併せ行い、大いに進歩したように思っているが、結果はそれを裏切って余りある。昨年の大減収によっても分る如く、その直接原因である種々の災厄に対し、それに打克つだけの力が稲になかったからで、つまり稲の弱体である。ではこの原因は何によるかというと、これこそ肥料という毒素の為であると言ったら、唖然として開いた口が窄(スボマ)らぬであろう。何しろ今日迄の農業者は、肥料を以て農耕上不可欠のものと信じ切っていたからでこの考え方こそ農民の低い知識と科学の盲点との為、肥料の害毒を発見出来なかったのである。これに就いて重要な事は成程科学は他の物に対しては結構に違いないが、少くとも農業に関する限り、無力処か大いに誤っている。例えば土の本質も肥料の性能も今以て不明である為、人為的方法を可とし、自然の力を無視している点にあるからである。見よ長年に渉り政府、篤農家、学者が三位一体となって努力しているにも拘らず、何等の進歩改善も見られない事実にみても分るとおり、昨年き如き大凶作に遭えば手も足も出ず科学は自然に一溜りもなく敗北したのである。としたら今後打つ手は何もあるまい。全く日本農業は壁に突当ってどうにもならないのである。処が喜ぶべし、神はこの壁を突破る方法を教え給うた。これが自然農法であって、これ以外日本を救う道のない事は断言するのである。では一体この農法は如何なるものであるかを、以下詳しく説いてみよう。

 

  抑々この問題の根本は土に対する認識不足からである。というのは今日迄の農法は肝腎な土を軽視し、補助的である肥料を重視した処に原因がある。考えてもみるがいい、如何なる植物でも土を離れて何の意味かある。これに就いての好い例は、終戦後米の駐屯兵が水栽培を行い注目を引いた事はまだ記憶に新たであろうが、これも最初は相当の成績を上げたようだが、最近聞く処によれば漸次退化し、遂に廃めてしまったという話である。これと同じように今日迄の農業者は土を蔑視し、肥料を以て作物の食料とさえ思った程であるから、驚くべき錯誤であった。その結果土壌は酸性化し、土本来の活力の衰えた事は、昨年の大凶作がよく物語っている。それに気附かない農民は、長い間多額の肥料代や労力を空費し、凶作の原因を作っていたのであるから、その愚及ぶべからずである。(後略)

 

(「日本農法の大革命  無肥料で初年度から一割乃至五割増産」栄245  昭和29127日)

 

 

「農業も人体と同様で飽迄自然に」

 

 

最近新聞紙によれば「電熱によって無肥料でも稲作が二倍の増産をした」という発見が出ていたが、この電流による増産法も古いもので、一時は相当注目された事もあったが、何時とはなしに消えて了った、それは一時的であって漸次効果のないことが判るからである、何となれば農業は人体と同様で飽迄も自然でなければならないに拘わらず、人為的方法に意を用いたがる、右の二倍増産も実は無肥料による効果の方が多い事はいう迄もない、肥料迷信に罹った人の眼からみれば肥料なしの増産は電力によるからだと誤認したものである。

                             (「農業の新発見に就て」光45  昭和25114日)

 

              

「無肥料栽培の根本は自然順応」

 

   (前略)私が提唱し好成績を挙げている農作物の無肥料栽培である。之は本紙創刊号に続いて毎号実際効果のある報告を掲げているが、土の成分と堆肥だけで驚くべき好成績を挙げている。此根本理論は自然順応にあるので、それに気付かない農業者は永い間、人為的肥料を可として、多額の肥料代と多くの労力を費し、土を殺し害虫を発生させ、それ等の労苦に憂身をやつし、成績不良という結果に悩んでいるのであるから、其愚及ぶべからずである。全く自然無視の結果であって、我等の農耕法が堆肥を重視するのは、落葉や枯草は自然であるからである。今一つ自然無視の害として医療に就て述べてみるが、人間に病気発生するのは、種々の原因によって滞溜せる毒素の浄化作用であるから、病気とは自然の生理作用で、甚だ必要事である。其際の発熱、咳嗽、喀痰、鼻汁、盗汗等の排泄物はそれによって身体が清浄化し、健康を増すのであるから、病気とは健康増進の摂理であって、実に神の大なる恩恵であるに拘わらずそれを反対に解釈した今日の医療は、毒素排泄作用を、停止するのを可としているのであるから、その誤りの如何に甚だしいかである。(後略) 

 

    (「自然無視の文化」自叢12  昭和25130日)

 

         

「自然農法の根本はあくまで自然」

 

(前略)すべて如何なるものでも、その用途というのは神様が決めてあるのです。それを人間が人間の智慧で外のところに使うというその事が非常に不自然なのです。反自然です。だから一時は良くても結局駄目になります。そういう事の解釈がみんな違うのです。これは唯物科学の間違いです。そういう様なわけで、根本を知ればいいのです。だから土というものは、米を育てるために神様が作られたのだから、そのままでやればいいわけです。それをいろんな物を入れるという事は、それだけ土を穢(ケガ)すという事になります。という事は邪魔をする事になります。土が働こうとするのを働かせない様にして、とれない様にするのですから、これほど間違った事はありません。

 

  それで私が自然農法の根本を知ったという事はそこにあるのです。私が宝山荘に居た十年の間研究した結果少しも間違いがないので、そこで作らして今日に至ったのです。(後略)

                                                

(御教え集19  昭和28225)

 

     

「一番肝腎な点は土を清浄にするという事」

 

 

 

 (前略)それでお蔭話を見ると、やっぱりいろいろ迷ったり、中途半端な人は、やはりそれだけの結果しか得られないのです。私の言うとおりに断乎としてやった人は皆成績が良いのです。これは、はっきりしてます。それで、一番肝腎な点は、肥料迷信は無論ですが、土を清浄にするという事です。これがどうも分らないらしいのです。だから無肥料にしたとは言いながら、廐肥は差し支えないだろうと思って入れたり、外の変な物を入れるのですが、それが大変な災をして成績が悪いのです。それから、まだ迷信が抜けきれないので、藁を沢山入れたり枯草を入れたりしてますが、これがかえって邪魔するのです。本当言うと土ばかりが一番いいのです。混ぜただけいけないのです。(後略)                                        

(御教え集19  昭和2827)

 

          

「無肥料栽培ではなく、自然農法」

 

   (前略)尚、従来、明主様御提唱の農法を金肥、人肥を施さぬ故を以て一般に無肥料栽培と通称し来ったのであるが、申す迄もなく本農法に於ては自然堆肥は大いに活用するを以て、無肥料の名は妥当ならず、自然力を尊重するを眼目とするので自然農法、自然栽培等「自然」の名を冠するのが最も適切であり、爾今その様に呼称するよう、明主様より御制定があった故、右徹底せられたいのである。

 

(「信徒諸士に告ぐ」地17  昭和251015日)

 

         

「原理は土の偉力を発揮させる」 

 

   次に自然農法の原理について簡単にいうと、土の偉力を発揮させることだ。自然農法の名は人肥、金肥は一切用いず堆肥だけの栽培で堆肥の原料である枯葉も枯草も自然に出来るものだから私がこうつけている。そもそも森羅万象どんなものでも大自然の恩恵に浴さないものはない。つまり火、水、土の三原素によって生成化育するということがいえる。三原素を科学的にいうと火の酸素、水の水素、土の窒素であって、どんな農作物でも、この三原素から成立っているわけだ。(後略)     

                         

(「法話()自然農法で三割増産」東日  昭和28227日)

 

                 

「医学も自然農法も同じ理窟」

 

 

(前略)私が一番狙うところは、医学の革命です。これは又一番難かしいのです。この自然農法が全国的に分ると、その医学に対する効果も、丁度自然農法と同じような理窟で、肥料というのは医学で言う薬です。「肥料をやるために土が弱る」という事と、「薬を飲むために健康が弱る」という事と、理窟は同じですから、この面から医学の方を分らせる上において非常によいと思うのです。そういうわけで、肥料のために、その毒素が人間の健康に非常な害があるという事も分るわけです。(後略)

 

                          (御教え集32  昭和29327)

 

     

「土本来の意義、自然力、Xについて」

 

   (前略)ではこれから土の本質に向って神霊科学のメスを入れてみるが、その前に知っておかねばならない事は土本来の意義である。抑々太初造物主が人間を造るや、人間を養うに足るだけの食物を生産すべく造られたものが土であるから、それに種子を播けば芽を出し、茎、葉、花、実というように漸次発育して、芽出度く稔りの秋を迎える事になるのである。してみればこの米を生産する土こそ実に素晴しい技術者であり、大いに優遇すべきが本当ではなかろうか。勿論これが自然力であるから、この研究こそ科学の課題でなくてはならない筈である。処が科学は飛んでもない見当違いをした。それが自然力よりも人為力に頼りすぎた誤りである。

 

  ではこの自然力とは何であるかというと、これこそ日、月、土、即ち火素、水素、土素の融合によって発生したX即ち自然力である。そうしてこの地球の中心は、人も知る如く火の塊りであって、これが地熱の発生原である。この地熱の精が地殻を透して成層圏までの空間を充填しており、この精にも霊と体の二面があって体の方は科学でいう窒素であり、霊の方は未発見である。それと共に、太陽から放射される精が火素で、これにも霊と体があり、体は光と熱であり、霊は未発見である。又月から放射される精は水素で、体は凡ゆる水であり、霊は未発見である。というようにこの三者の未発見である霊が抱合一体となって生まれたものがXである。これによって一切万有は生成化育されるのであって、このXこそ無にして有であり、万物の生命力の根原でもある。従って農作物の生育と雖もこの力によるのであるから、この力こそ無限の肥料である。故にこれを認めて土を愛し、土を尊重してこそ、その性能は驚く程強化されるので、これが真の農法であって、これ以外に農法はあり得ないのである。故にこの方法を実行する事によって、問題は根本的に解決されるのである。(後略)

 

(「日本農法の大革命  無肥料で初年度から一割乃至五割増産」栄245  昭和29127日)

 

              

「自然栽培は進歩した科学」

 

 (前略)科学々々と言うが、世間で言つている科学は、今言つた通りビツコの科学ですからね。本当の科学じやないからね。半分の科学だから、科学であつていて旨くいかない。逆効果になるからね。病気と同じですね。自然栽培と言うのは、今迄の世間の科学とは違いますよ。世間の科学の方が、ずつと幼稚です。こつちの方が進歩した科学です。向うの科学は、迷信科学ですね。それを心から解れば良いんですね。 (後略)   

                                                          

(御教え集6  昭和27115)

 

            

「自然農法は農業の芸術」

 

   (前略)従而、吾々が病気を治すのも、農耕法を改革するのも勿論芸術である、前者は前述の如く、生命の芸術であり、後者は農業の芸術である、之に加えて吾等が地上天国の模型を作るのも美の芸術であって、右の三者の合体によって、真善美の三位一体的光明世界が造られるのである、之即ち地上天国ミロクの世の具現である。

 

                               (「天国は芸術の世界」栄72  昭和25104日)

 

               

「土地の状態により臨機応変に」

 

(前略)それからもう一つは、土地によって、気候の関係もあるし、水の多い少いがあるし、それから水でも、高い山から流れて来るのと、低い山から流れて来るのは、まるで水の温度が違います。それから日当りの良い所と、山陰の所といろいろありますから、その状態によってそれに合う様に工夫していくという事が肝腎なのです。それで根本は土を穢さないという事です。そうすればまず今までよりか倍は穫れます。普通反収五俵として、大抵な所で十俵は穫れる様になります。余程条件の悪い所でない限り十俵は穫れます。これを頭に入れておくといいです。(後略)

                        

(御教え集19  昭和2827)