食と農

A-3、自然農法について

   

「劃期的農法・・・自然農法の誕生」

 

『日本は救われた』と私は叫びたいのである。その訳は現在我国に於ける最も重大問題としての、米作多収穫の一大福音が生まれたからである。衆知の如く、終戦後我国土は四分の三に狭められたばかりか、人口増加の趨勢は産制など尻目にかけて、相変らず一カ年百万以上というのであるから、到底楽観は許されないのである。としたら今日これ程痛切な問題は他にあるまい。というのは国家は年々多額の予算を計上し農地改良は固より、あらん限りの施設方法を立て官民共に大童になっているに拘らず、予期の成果処か平年作維持さえ精一パイという有様である。そこへ昨年の如き颱風、冷害、虫害等の災厄続きで、アノような大凶作となったのであるから、我国農業の前途を考える時、全く寒心の外ないのである。

 

   尤も昔と違い、今日は外国からの米麦輸入の道もあるが、これとても一時凌(シノ)ぎであって、そう長くは続けられないのは勿論である。というのは近年の如く貿易の逆調甚だしく、経済界の危機さえ叫ばれている今日、緊急対策を立てねばならない処に来ているからである。そのため政府に於ても相当思い切ったデフレ政策に転向すべく、その対策を練ってはいるようだが、これも無理からぬ事であろう。というように事態は容易ならぬ段階に来ている。併しこの問題解決の鍵は、何といっても米の増産である。率直にいって全人口を養い得るだけの絶対量確保にあるのは言う迄もないが、今の処そんな夢のような希望の実現は到底不可能であろう。処が驚いてはいけない。この危機を打開すべき劃期的農法が生まれたのであって、これが自然農法である。これによれば必要量の増産処か、それ以上の収穫も可能であるとしたら、余りに棚牡丹式で反って信じられないであろうが、事実は飽迄事実であって現在全国各地に於て驚くべき実績を挙げつつあるのである。昨年の如きは到る所減産の悲鳴の中に、独り自然農法者のみは一人の減産もなく、悉く増産の歓喜に輝いているので、これを見る今迄迷っていた近隣の農民達も堪らなくなり、慌てて各地共入会者続出という有様である。従って私の予想である数年ならずして日本全国の大半はこの農法に切替えられる事となるのは、最早間違いないと思う。

 

   これに就いては三年前から、毎春前年度の実績を資料として特集号を出して来たが、漸次実行者が増えるに従い、その報告も増え、従来の八頁ではどうにもならないので、今回活字改良と共に四頁を増し十二頁にしたのである。然も幸か不幸か昨年の如き全国的大凶作に対し、本農法は反対に一斉大増産としたら、全く神が与えた好チャンスとして、この際大々的会員獲得運動に活躍する事となったのである。その為百万部増刷の準備も出来たので、会員諸氏もその方針を以て奮闘されん事である。(後略)

 

 

(「日本農法の大革命  無肥料で初年度から一割乃至五割増産」栄245  昭和29127日)

 

       

「無肥料栽培を自然栽培という名に」

 

(前略)これは本当は最初「無肥料栽培」と言っていたのですが、戦後進駐軍が占領中、進駐軍の方の規則で、作物には肥料をやれという事があるのだそうで、進駐軍の方で何か言いそうな懸念(ケネン)が大分あるし、――又当時は観音教団ですが――その反対者の方で進駐軍を動かそうとして頻りに運動しているのが居て危ぶないというので「自然栽培」という名にしたのです。しかし本当は無肥料栽培という名にするのが本当です。しかしもう日本は独立国になったのですから一向に構いません。ところが長い間肥料迷信によって、さっきも言ったとおり無肥料になり切れないのです。そこでそれを徹底させるために、今読んだ論文も、異物を入れては不純土になるからいけない。何も入れない純土にしなければならない。それには連作によって高めるという事を書いたのです。それで肥料が如何に恐ろしいものかというよい報告が来たので読ませます。それはつまり人間の健康に関係しているのです。(中略)

 

  病人を作らない病なき世界を造るにも、この肥毒を止めさせるという自然農法が間接に病を無くする大きな原因になるわけです(後略)                           

 

  (御教え集27  昭和281027)

 

     

「肥料迷信---自然農法は迷信打破運動」

 

 

 

    「本日糯米を五升持つて参りました信者の話で、五年目で御座いますが、脱殻機には、粒が大きいのでかからないそうで御座います。八人やつて居りますが、八人共かからないそうで、脱殻機を改造しなければならない事になります」

 

    「普通のお米でも、網の目から落ちないそうで御座います」

 

  着物なら合わない。洋服なら小いさいと言う訳ですね。よく田舎では、無肥にして、一、二年だと、良い加減出来ると、之は先の肥料が残つているのだからだと言うが、年に従つて良く出来るので、面くらつちやいます。肥料迷信に、徹底的に固まつちやつているんですね。迷信打破運動ですね。そいつを、先が迷信打破と言うんだからね。それは迷信屋から見れば、迷信でない者が迷信に見えるのは当り前でね。宗教と言えば、大変な――一つの運動ですね。迷信打破運動です。

                                                        

 (御垂示録5  昭和26126)

 

                        

自然農法の勝利

 

   今度新潟県佐渡地方の信者の、自然農法成績に関する座談会が開催された其記事を読んでみると、今迄にない快いものがあったのである。というのは自然農法に切換えた最初の年から、一人の減収もなかったという事実で、全部初年度から二年、三年と漸次増収しつつある報告である。而も私の指示をよく守った人ばかりなのであるが、それは浄霊せずとも増収する事を、如実に示された点である。

 

  然し他の信者でも私の説を守らない訳ではあるまいが、どうも長い間の肥料其他の迷信から抜け切れず、兎もすれば私の説を軽視し勝ちで、自分の考えが幾分でも混る為、それだけ成績に影響を及ぼすのである。例えば水田は藁を細かく切れといってあるのに、非常に長く切ったり、其土地の習慣上堆肥といっても、糞尿とか馬糞などを交ぜたがる。又指導者の中にも自分の考えが多少混る事もよくある。といったように純粋堆肥を使わない人も幾らかあるようだが、充分注意されたいのである。

 

  という訳で本当を言えば、自然農法に於ては指導者の必要はないのである。何となれば私の説をよく噛み締めれば、それで充分解る筈だからである。そうして不徹底な人の多くは、技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術は大して重視する必要はない。常識で考えただけで沢山である。何よりも此原理の根本は、肥毒を早く消滅さして、土自体の性能を発揮させれば可いからである。

 

   (「自然農法の勝利」栄163  昭和2772日)