食と農
A-2-3、農耕者が陥っている迷信
「困難な肥料迷信からの脱却」
自然農法の成績報告は、其後ボツボツ集ったので、此前程全面的ではないが、纏まっただけを以て再び特輯号を作ることにしたので、勿論その悉くが実行者自身の手になったものであるから、絶対的信を措いて差支えないのである。之に就て思い出されるのは、本年二月の自然栽培特輯号を出した時は、国務大臣、両院議員、新聞社を始め、全国の農事関係方面へ一万数千部を配布したので、相当の反響があるだろうと期待していたが、成程少しは問合せ等、幾何かの反響はあるにはあったが、仲々目が覚めないと見え、農村は相変らず人肥、金肥に憂身をやつしている始末である。とはいうものの、何しろ長い間の根強い肥料迷信に罹っている以上、早急に転換する事は困難であるから、吾々の努力も並大抵ではないのである、とは思うものの、多くの人の中には兎も角試験的に行ってみる位の人は相当あるであろう事も想像されるのである。
そうして今回の報告中、下に掲げた成績の如きは、実に驚異的で、之を読んだなら如何に疑い深い人でも、実行せずには居れないと思うのである。としたら現在国家の最大の悩みである主食問題が、肥料代も要らず、手数も省け、病虫害からも解放されるとしたら、恐らく之程素晴しい福音はないであろうから、一日も早く実行に移らん事を痛切に勧める次第である。言うまでもなく、当局者を始め農業に関係ある限りの諸君に云いたいのは、一切の既成観念から脱却し、断乎として、一日も早く我自然農法を採用されん事を、重ねて勧告するのである。
(「自然農法の驚異」栄163号 昭和27年7月2日)
「薬剤迷信と肥料迷信」
本教の目的とする処は、新しい文明の創造である事は、いつもいう通りであるが、第三者が之を見たら、一寸不思議に思うであろう。何となれば、現在野蛮時代ではあるまいし、今更新しく文明の創造なぞとは、少しどうかしているのではないかと思うかも知れないが、決してそうでない事は、一通り此文を読んでみれば成程と肯くであろう。
吾々の方からいえば、現在は成程形だけは確かに進歩した文明世界であるが、内容に至っては、真の文明とは到底言い得ないのである。それはどういう訳かというと、何も彼も殆んど誤謬だらけであって、其誤謬とは大体左の如き、三つの大きなもので、それを今かいてみよう。
(一)薬剤迷信
之に就ては私は常に充分解説してあるから、改めてかく必要はない位だが、第三者に知って貰いたいからかくのである。今日何人も病気の場合、何よりも一番頼りにしているのは、勿論薬剤であるが、驚いてはいけない。之こそ実は人間の健康を弱らせ、病気を作り、命まで危くするものであって、世に之程恐るべきものはないのである。それ程のものが今日迄何故気が付かなかったかという疑問が、当然起らなければならない筈だが、それは全く薬剤迷信に深く陥っていたからである。従って人類を救うとしたら、此迷信を打破し、目醒めさせる以外他に方法はないのである。
(二)肥料迷信
之も本教信者はよく知っており、今更かくまでもない事だが、之も第三者に対して少しかいてみると、本来土とは神が人間に食糧を作らすべく、素晴しい性能を与えたものであって、言わば土其物は、肥料の塊りとも言うべき貴重品である。それを何時の時代どう間違えたものか、肥料という土を殺し、土自体の栄養を阻止するような汚物を手数を掛け、農民の懐を絞り、反って減産に役立つものを使うようになったかという事で、全く驚くべき迷信にかかって了ったのである。何よりも現在我国の産米、一カ年二千万石も不足するという事や、年々虫害に苦しむ事なども原因は全く肥料の為である事は、私が長年に渉って警告している処である。(後略)
(「三大迷信とは何か」栄119号 昭和26年8月29日)
「医学迷信と肥料迷信が人間の大敵」
(前略)なかなか迷信を打破る事はできないのです。つまり一家で子供が次々に死んでも、相変らずお医者さんの厄介になるというのとよく似てます。そういうわけで、この医学迷信と肥料迷信というものが人間の大敵です。ですからこれは、共産主義などというのはこれに比べたら屁みたいなものです。このくらいの大きな迷信による被害はないわけです。それを教えるのが一番肝腎だからやっているのです。(後略)
(御教え集27号 昭和28年10月26日)
「科学肥料に頼つてはいけない」
(前略)今――現在行(ヤ)らうとし、行いつつあるのは、農業の自然栽培ですね。農業特輯集号は大分効果が見えつつある様です。で、それに就て、広川農林大臣の話に良くそれが現われているんです。大臣曰く、之から硫安を成丈使わない様にしろ。どうも硫安はいけないと言うんで、之から自給肥料を使う様にしなければいけない。と言つているんです。自給肥料は所謂堆肥ですからね。堆肥とは言えないんです。はつきりはしない乍らも、どうもこつちの宣伝みたいになつている。それから虫害なんかも、薬剤が適当でないと、却つて増える。だからその点も大いに考慮して適切にしなければいかんと、甚だ曖昧ですが、余程あれに刺戟されたと思える節(フシ)があるんです。広川と言う人は、去年も特輯号を出しましたが、あの時も大臣だつたんです。あの後にやはり、余り科学肥料に頼つてはいけないと言う事を、何か喋つた事があるんですがね。ははあ可笑しいなと思つた事がありました。今年は少し強めた――余程進んだ言い方だつたので面白いと思つた。余程あの人の心は動いてますね。それから大分方々から問合せもある様ですが、あの新聞を見た限りの人は、じや一つやつて見よう。と言う様な農民は随分出来ただろうと思いますね。で、結局一寸でもやれば段々解つて来るんですからね。そこにもつていつて今迄信者さんがやつたのを、村などの、隣近所の人が非難したり、嘲笑したと言う事が大いにあつて、随分苦しんだ。それがお蔭話なんかに沢山ありますが、そう言う事も随分軽減されるだろうと思います。物と言うのは少しづつチビチビやつていると、先方で何んだ彼んだ言うんです。思い切つて大胆に、高飛車にやるんです。そうすると却つて沈黙するんです。やつぱり逆効果の一種ですがね。特輯号は農業団体とか、公の団体に配りましたから、いずれ話題に上りますから――「ああ村長さんはこう言う事を言つて居た」と。して見るとそんな生じつかなものではない。あんまり馬鹿にも出来ないと言う様な観念が起りますから、色んな悪口を言うのも減りますよ。行(ヤ)り良くなるんですね。そうこうする内に、こつちの信者さんの方で行つている人でも――去年あたりのお蔭話でも――今年は少し行つているが、来年から全部の田畑を自然農法にしようと言うのが随分ありますから、今年なんかは、その点も――肥毒が又、一年分余計抜けますから、成績も去年より又良いです。之から、年一年飛躍的に広がると言う事は確かですね。(後略)
(御教え集8号 昭和27年3月26日)
「迷信でないものを迷信とみる迷信」
迷信の定義などとは、今日迄余り言はれない言葉だが、実は迷信にも定義があるのだから面白い。迷信でないものを迷信とみるのも一種の迷信である。善いと思ってする事が悪い結果になるのも迷信の為である。効かない薬を効くと思って服むのも、それを人に勧めるのも同じく迷信であり、肥料をやるよりやらない方が、沢山穫れるに拘らず、肥料を施すのも迷信だからである。(中略)
(「迷信の定義」栄74号 昭和25年10月18日)
「一時的見方をしないこと」
世の中を熟々みる時、人事百般に渉って二種類の見方がある。即ち一は一時的見方であり、一は永遠的見方である。処が一般人は一時的の結果によって善悪の判断を下したがる。(中略) 現代人はどうも物の観方が一時的で一時的結果に幻惑されがちである。故に人間は何事を観察する場合でも、永遠的の眼で観なければならないのである。(中略)
此事は凡ゆる事に当はまる。(中略)私の唱える無肥料栽培にしても、今迄の農業は金肥や人肥を施すと一時は成績が良いが、土を殺すから土は段々痩せてくる。それが気がつかないで、肥料の一時的効果に幻惑され、遂に肥料中毒に人も土も罹ってしまふのである。(後略)
(「正直者が馬鹿をみるとは嘘だ」地3号 昭和24年4月20日)