食と農
A-2-1、従来の農法について
「過去の農業について」
(前略)それからもう一つ官吏の言っている事は“明治初年あたりには反当一石くらいだった、それが科学肥料を使うようになってから俄然として成績が良くなった。だからそんな無肥料という事は絶対に駄目だ”という事を言ってます。しかし明治初年には一石というのは少し大袈裟な言い方で肥料を使うようになってからとそんなには違わないが、しかし一時は違ったです。それはどういうわけかというと明治までが無肥料でやって来たのならそれは学者の言うとおりです。しかしそれまでに散々人糞をかけていたのです。だからそれが妨害していたわけです。それで科学肥料をやるようになってからは人糞の害から免れたので良くなったのです。これはやっぱり病気と比べてみるとよく分ります。つまり日本人の体力というものは漢方薬によって非常に弱らせられていたのです。というのは漢方薬は量が多いのです。ところが西洋の薬になると量は実に少ないのです。漢方薬からみると、その百分の一か千分の一くらいなものです。ですから西洋の薬が相当に毒があっても、量が少ないために一時は良くなったのです。ですから最近言われている“日本人の寿命が延びた”という事はそれがためです。近頃になっては、みんな漢方薬をのまなくなって西洋の薬をのんでます。そこで薬毒が減ったから寿命が延びたわけです。更に西洋の薬も止めてしまえば、もっと寿命が延びるわけです。迷信というのは妙なもので、それに限ると思ってしまうと、理窟の多い方に理窟をつけるのです。そういったような迷信を分らせるのだから、とに角私の仕事というものはそれは大変なものです。(中略)
(御教え集26号 昭和28年9月16日)
「農耕者の肥料迷信」
今度各地から報告された昨年度の成績をみると、時期が早い為収穫迄に到らないものもあって遺憾ではあるが、併し大体は判ったので、これに就いて私の感想をかいてみるが、何よりも自然農法は、今迄作物の生命と頼んで来た肥料を否定するのであるから、最初は家族をはじめ、村人等から思わざる非難攻撃を受け、嘲笑の的とされるので、実に血の涙で隠忍自重、黙々と頑張り通して来た事は、読み乍ら私は目頭が熱くなる位である。全く信仰ならではという感が胸に迫るが、何しろ先祖代々肥料迷信になり切っている人達からみれば、反対するのも無理はない。これに就いて惟われる事は、歴史上今日でも、人類に多大な貢献をなしつつある発明発見と雖も、その当初は例外なく誤解と迫害を浴び、苦心惨澹押し切って来た幾多の記録は、吾々の魂を揺り動かさずには措かないものがある。
そんな訳でこの自然農法と雖も、一時は相当反対されるであろう事は覚悟はしていたが、何といっても実際に驚異的成果を挙げる以上、或時期迄の辛抱と思っていた。処が予期の如く、漸く各方面の注目を惹くに至った事は、今度集っただけの報告をみてもよく分る。併し最初は何といっても周囲の事情も悪いし、本人でさえ確信が有てない事とて、思い切って堂々とやり始めた人は少なく、大部分はオッカナ吃驚試作的に始めたのである。而も土地にも種子にも肥毒が相当滲み込んでいるので、最初の年などは枯死するかと思う程の黄葉、細茎等で、これを見ては不安焦燥、只管神様に祈るのであるが、収穫時になると案外好成績なのでホッとするとは誰もがいう言葉であって、この難境を切抜けてこそ、勝利の栄冠を贏(カ)ち得るのである。(後略)
(「農業の大革命 五カ年にして米の五割増産は確実(二)」革自 昭和28年5月5日)
「肥料迷信の例」
去る十月二十日NHKの昼間放送「ひるのいこい」の中に、左の如き話があったが、面白いと思い茲に載せたのである。その中で反対の結果に対し、農家の人達は、これはどうも解せぬといって、枯れた稲穂を前に、首をかしげて考え込んだというのであるが、これこそ全く肥料迷信の目で見た為である事がよく分る。
今日の「RFD便り」は先ず水戸放送局の館野RFD通信員から届いたものをお伝えしましょう。茨城県の「穀倉地帯」といわれる新利根川の流域も、今年は冷害やイモチ病の為に大変な被害を受けました。特に米を反当り十俵も穫ってやろうと硫安や緑肥をウンと注込んだ田圃では、稲が倒れたりイモチの為に穂が真っ黒になったりして、見るも無漸な姿になってしまいました。それにこの地方では今年は螟虫(メイチュウ)退治のために「パラチオン剤」をしこたま撒いた為、薬が効きすぎて田圃のエビガニや鰌(ドジョウ)までが死んでしまい、こんどはそれが又肥やしになって反ってイモチ病を激しくするという洵に皮肉な事になってしまいました。処がその反面手許不如意の為に思う丈の肥料をやれなかったり、又手不足の為に碌々草もとらなかった様な田圃が、反ってよく出来たりしたので、農家の人達も「これはどうも解せぬ」といった面持で、枯れた稲穂を前に首をかしげて考え込んでおります。
(「無題」栄245号 昭和29年1月27日)
「今や、肥料で土を殺す恐怖時代」
今世界的大戦争の真最中といったら驚くだらう、それもその筈、眼に見えない-神と悪魔の大戦ひなんだ。(中略)
平和を齎(モタ)らさんとして戦争をする、天国を生まうとして、地獄をつくる。健康者たらうとして薬毒を服む、農業を発展させようとして肥料で土を殺す、幸福を得ようとして嘘をつき信用をなくす。人類の福祉を増進する目的で発明発見をしたら、その為に恐怖時代が来そうだ。
(「寸言」光14号 昭和24年6月25日)
「現代農業の土は肥料中毒」
(前略)私の唱える無肥料栽培にしても、今迄の農業は金肥や人肥を施すと一時は成績が良いが、土を殺すから土は段々痩せてくる。それが気がつかないで、肥料の一時的効果に幻惑され、遂に肥料中毒に人も土も罹ってしまふのである。(後略)
(「正直者が馬鹿をみるとは嘘だ」地3号 昭和24年4月20日)
「現代農業の間違い」
私は十数年以前から無肥料栽培を唱えて来たが、最初の中は誰もまともに受け入れる者はなかった、然し私が唱え出したのは、ただ徒らに奇を好んだり理想論に走ったりするのではない、実験の結果からである、勿論私は農業に経験のない素人ではあるが神の啓示のまま穀物、野菜、果実、花卉類に至るまで約三段歩の土地に十数年に渉って試作研究の結果、従来の農業が如何に誤謬に陥っていたかを発見したからである。
それは永い間人肥金肥の如き人為的肥料を作物に対する唯一の栄養素と誤認し、今日の如く根強い伝統的精神とまでなって行はれて来た事は誰も知るところで、実に一大迷信に罹っていたといっても過言ではないのである。
そうして私の根本理論としては、この地球の土壌なるものは造物主、即ち神によって作られたものであるとともに農作物もそれによって生育するもので、土壌の性能も作物のそれも、人間生命保育のために造られたものである事は自明の理である、勿論それは火水土の三位一体の力素に因るので、人間に必要なだけは生産されるのは当然である、然るに近来、日本は人口を養うに足るだけの量が出来ない結果、産児制限の如き反自然的方法を行わなければならないという事は何処かに原因がなくてはならないが、其原因こそ農耕に対する反自然的誤謬である、然らばこの反自然的農耕法とは如何なるものであるかを詳説してみよう。
「 肥料は土壌に有害作用」
元来、金肥人肥の如き人造肥料は何時の世如何なる人間によって施行されるようになったかは知らないが、この人造肥料こそ土壌に対し非常な有害作用をするもので、これを用いる結果として、漸次土壌の活力は減退し、痩土化したのが現在我国の農耕地である。
元来あらゆる作物は土本来の栄養素を吸収して生育さるべく神が造られたもので、これが真理である、然るに人造肥料を施すと、作物の機能は変質するのである、即ち土壌から栄養を吸収する機能が土壌分より肥料の要素が多い結果、土壌以外である肥料からも栄養を吸収せざるを得ない事になるので栄養吸収性が転移し変質化するのである、此変質性となった以上、偶々肥料を減少、又は無肥にする場合、作物は栄養失調になるのは当然である、故に変質性が常態に復するまでに時を要する、その期間、即ち本来の土のみの栄養を吸収する機能が弱力化の為生育不良を呈する、それを誤って農民は肥料を施さないから悪いと思ひ依然として人造肥料に依存し今日に至ったのである、何よりの證拠は無肥料栽培の幾多の報告に見るも明かで、無肥料に転化した当座は生育不良にみて明かである、然るに其時を経過するに及び漸次良好となり、収穫時には意外に多量の収穫に驚くのである、今一つの例は人間に於る近来流行の麻薬中毒を見れば分る、中毒に罹った者は麻薬がきれると生きるに堪えない程苦しむのと同様である。(中略)
「化学肥料で虫害増加」
そうして今年の産米が、最初の予想より病虫害のため一割減という事で、政府においても二百四十五万石の供米減免を決定したが、これによってみても如何に虫害の恐るべきかを知るのである、しかも近年倍々虫害が殖える傾向があるのであるから、実に軽視出来ない問題である、この原因は勿論、施肥増加の為である事は、無肥栽培によれば虫害は問題にならない程著減するに見て明かである、又年々風水害による被害も馬鹿にならないものがあるがこれも無肥栽培に於ては、有肥に比し茎折れが非常に少く、畑作にしても花落が目立って少いから、この事も見逃せない有利な点である、今一つ特筆すべき事は無肥のものの美味で、無肥の味を知ったものは、有肥は口に出来なくなる事は異口同音に称讃するところである、又穀物豆類の目方の多い事でこれはコクがあるからである。
以上の如く驚嘆すべき効果があるによってみても、この家庭菜園が一般に知れ渡るにおいては、日本の農耕は一大革命を起す事は火を見るよりも明かである。
以上は、専門家を目標に書いたのであるが、近来流行の素人栽培に対しても大なる福音である、素人が人糞を扱うことの如何に苦痛であるかは誰も知るところで、田園と違い、人家稠密の間に一坪菜園の如き臭気の不快から免れるとともに、不潔不衛生からも解放されるとしたら如何に救はれるかである、一家団欒の食膳に美味で、虫害の危険もなく多収穫で、生食でも不安なく食せるといふ事は、何たる幸福であるかを想像されたいのである。(後略)
(「無肥料栽培の勝利 悩みの食糧問題一挙に解決せん」光39号 昭和24年12月10日)
「化学肥料は環境悪化を招く」
(前略)病人を作らない病なき世界を造るにも、この肥毒を止めさせるという自然農法が間接に病を無くする大きな原因になるわけです。(中略)
そういうようなわけで、ドジョウやエビガニが死んだというのですが、一体ドジョウやエビガニは何かというと、農村では海に遠いから、そこで神様は偶には魚も食わせなければならないというので、ドジョウやエビガニというものが自然に出来るようになっているのです。タニシなどもそうですが、それが近頃は誠に無くなって来てます。これは化学肥料を入れるから死んでしまうのです。ですから如何に間違っているかという事が分ります。やっぱり“超愚”です。(後略)
(御教え集27号 昭和28年10月27日)