第三章 信仰の向上を図るために
9、何事にも時期がある
「今は、九千年間に渉っての、あらゆる清算の時期」
「(前略)一切の清算、世界的大清算が、行はる時が来るんであります。此、清算は、本当から言ひますと、九千年間に渉っての、あらゆる清算であります。此の九千年に就ては、いづれ別に、詳しくお話する考へであります。そして其結果、森羅万象一切が、時処位を得て、「本然」に立直った時が、五六七の世、大光明世界なのであります。
それからが、永遠の平和であり、万民和楽の地上天国に、成るのであります。
私は大胆に、未来の事をお話致しましたが、之は人間が考へたり、私の出来心等で、言ふのではないのであって、遠き神代の時代に、主神が既に定められてある事が、愈々出て来るのであって、どうする事も出来ない、時期になったのであります。ですから、一日も早く、悪を捨て、善に立還るより、仕様がないのであります。(後略)」
(「大光明世界の建設 最後の審判」昭和10年1月11日)
「時期を待つ辛抱が大切」
「(前略)大自然は人間に対し、時期の重要性を教えてをり、大自然のあるがままの姿こそ真理そのものである、従而人間は何事をなすにも大自然を規範としなければならない、それに学ぶ事こそ成功の最大条件である、此意味に於て、私が唱える神霊療法も無肥料栽培も、其他の種々の方法にしても大自然に従ふ事を基礎としてゐるから、殆んど失敗はなく予期の成果が得られるのである、故に私は何かを計画する場合決して焦らない、充分多角的に凡ゆる面から客観し、熟慮に熟慮を重ね如何なる点からみても正しく、社会人類の為有益であり、永遠の生命ある事を確認し、然る後準備万端を調へ時期を待つのである、処が大抵の人は此時を待つ辛抱がなかなか出来ない、時期末だ熟してゐないのに着手するから計画と時期とにズレを生じ思ふようにゆかない、あせる、益益ズレが大きくなる、終に失敗する-といふ順序になるのである、従而肝腎な事は時期来るまでの期間の辛抱である、物には必ず丁度好い時があるものだ、昔から「待てば海路の日和あり」とか「果報は寝て待て」とか「狙い打ち」とかいう諺があるが、全くその通りである。(中略)
然らばその機運というものは何によって判断するかというと、先ず凡ゆる条件が具備し、機運からみてどうしても計画を実行しなければならないという勢が迸るようになる、そういう時こそ機が充分熟したのであるから、着手するや少しも無理がなく、楽々凡てが運んでゆく、そういう訳で更に力が要らない、自然にうまくゆく、要するに熟慮断行の四字に尽き、例えば重いものを坂から落す場合、閊えてゐるものがある、それを無理に動かそうとすると力が要る、そこを我慢して待ってゐると、障害物が石の重みで段々弱ってゆく、もう一息といふ時指一本で押すと訳なく転がるようなものである。(後略)」
(「時期を待て」昭和24年6月25日)
「救世(メシヤ)教の創立、霊界に於ける夜昼転換の時期に入った」
「(前略)本年二月四日立春の日を期して、標題の如き宗教法人世界救世(メシヤ)教の創立出現となったのである。
之は、非常に重大な意義があり、勿論神の深き御旨に由るのであって、人間の意図でない事は今更言うまでもない、何時も吾等が唱える処の、霊界に於ける夜昼転換の時期に愈よ入ったからである、之も吾等が常に言う処の仏教の救いは夜の期間中であるから夜の消滅と共に観世音菩薩の御救いの転移進展となるので、一言にして言えば仏滅を意味するのである、従而、観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。(後略)」
(「開教の辞 世界救世教の誕生に就て」昭和25年2月4日)
「メシヤとして大神力を揮はせ給う時期に」
「(前略)世界救世(メシヤ)教会の誕生となった事は、既に知らるる通りである。言うまでもなく、重大時期の切迫に応じた神様の大経綸に外ならないので、吾等は唯々諾々として素直に信奉すればいいので、寧ろその安易なるに勿体ない気持が一杯である。明主大先生の御言葉にもある通り観音様は仏のお働きであるから、凡てが和光同塵的、善悪無差別的で、温き御手を以て一切衆生に対し、大慈大悲の御救いを垂れ給うのである。然るに愈よ世界的大転換の時期となった今日、茲に化身の衣を脱ぎ給ひ、救世主(メシヤ)として、観音力より幾層倍の大神力を揮はせ給う事になったのである。
その結果とし善は輝き、悪は滅びるのは当然で、いよいよ善悪立別けの審判的御力を発揮されるのである。一言にしていえば、世界の大清算であって、実に恐るべくして喜ぶべき時とはなったのである。然しそれは恐るべきは悪人の側であり、喜ぶのは善人の側である。今日迄の長い間悪が覇張り、善が虐げられて来たのが、茲に一大逆転となるのである、踏み躪(ニジ)られて来た正義は、初めて華々しく報ゐられるのである。全人類は如何に此聖代を待ち望んだであらうと共に、此大偉業に参加を許された吾等の幸福や、全く空前にして絶後といふべきである。(後略)」
(「地13号巻頭言」昭和25年2月20日)
「神の実力が発現される時期に入ってきた」
「(前略)愈々、これからが神の実力が発現される時期に入ってきたといえる、西洋においてはキリストもさぞや本来の実力を発揮されることと思う、而して東洋においてはメシヤがほんとうに御神力を発現されることと確信する、だから従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない、もっと神秘にして幽邃(ユウスイ)な御神力がはじめて登場することになる、私はもちろんメシヤの代行者であるから、今後、如何なる形態によってメシヤの御働きが行われるか、想像だに許されないが、しかし、現在の僅かではあるが、神の御動静から推察してこれはまた大ヘンな御霊力が宇宙に御加護あられるということが申してもよいと思う」
(「本紙一年を記念して」 昭和25年3月11日)
「本教に教えを乞ふべき日が、必ず来る」
「(前略)凡ては神様が救世の力を揮はれてゐる以上、問題は時期である。時期が来れば吾等を迷信と見てゐた人達が、実は自分の方が迷信であった事に気がつき、本教に教えを乞ふべき日の、必ず来る事を確信して、其時を待つのみである。 (後略)」
(「どちらが迷信だ」昭和25年10月11日)
「決断がつかない時は時期が来てない証拠」
「(前略)人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は時所位に応じ、事情によって最善の方法を見出す事である。然しそうするには叡智が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。故に魂の曇りをなくする事が根本で、それが即ち誠である。誠とは信仰から生れるものであって、此理を知って実行が出来れば、大悟徹底した人というべきである。」
(「解脱」昭和26年1月25日)
「今の時期、身魂を磨いて心の準備が肝腎」
「(前略)何しろ、世界人類を救うという空前の大神業である以上、今後も驚くような事が、度々出て来るであろうから、胆玉の小さい人は、アフンとして、口も利けないやうな事があるかも知れないから、余程肚を据えておかないと、間誤つくような事があるであろう。又一方、新しい信者もドシドシ増えて、目が廻る程、忙しくなる時期が来るので、今から充分身魂を磨いて、一人でも多くの人を救うべく、心の準備が肝腎であります。(後略)」
(「春季大祭に際して」昭和26年4月4日)
「今や浄化作用も激しく病気も増し、最後の世となる時期」
「(前略)そうして此世界の実状を霊的に検討してみると、斯ういう事になる。何しろ全世界の霊界は曇りに曇り切っており、どうする事も出来ないまでになっているので、神様の方では時期も段々迫って来るし、光りも強くなってくるので、浄化作用も激しくなり、病気も増し、戦争も近寄って来ると共に、凡ゆる面にも変化が急速となり、愈々最後の世となるとしたら、一刻も早く多くの人々にそれを知らせ、一人でも多く救わなければならないのである。
従って吾々としても、よく世界の動勢を頭に入れて、御神示のまま大いに邁進しなくてはならないであろう。」
(「地28号 巻頭言」 昭和26年9月25日)
「最後の時期が迫ってくるとともに審判も厳しくなって来ている」
「(前略)今一つ重要な事は、最後の時期が迫ってくるとともに救われるものと救われざるものと審判が厳しくなって来ることである。従って本教の話をして分らなかったり、事実に目を背けたり、御神書を見せても分らない人は、時期が来ていないか既に滅びの方に運命づけられているのであるから、如何に救わんとして努力すると雖も徒労に過ぎないばかりか、救われるべき人に対してそれだけ救いが遅れることになるので、この点も厳に戒しめられているところである。(後略)」
(「信徒諸士に告ぐ!」昭和29年10月20日)
「世界の大転換の時期」
「(前略)今私が言はんとする処は、世界の大転換に関する主なる点であって何よりも先づ大転換の時期であるが、それは一九三一年六月十五日から始まってをり、一九六一年六月十五日迄の、三十年間で一段落がつく事になってゐる。然し人間の頭脳で考へる時、三十年と言えば相当長期間であるが、大宇宙に於ける神の経綸としたら、一瞬の出来事でしかないのである。そうして右の三十年といっても、現界に於ては急激な変化はなく、徐々として進みつつあると共に、右の三十年を挾んで其前後の時を合せると、六十余年の歳月を費す事となる。それは準備期と転換後の整理とに時を要するからである。(後略)」
(「霊界に於ける昼夜の転換」昭和27年)
「汚ごれて汚たない人間の清算が今という時期」
「(前略)だから、魂を治すんです。メシヤ教でやると治るんです。処が、医学では、中心を治すのでないから、一時良くなつても再発して駄目になつて了う。戦争もそう言つた様に、人間が曇りきつて――汚ごれきつてますから、汚ごれたのをきれいにする。それには――汚ごれてどうにもしようがない人間は命を無くして生まれ変るより外はない。色んな物質で、罪が溜つて汚たないのは、ぶち壊して新しくする。その時期が今日なんです。結局、今迄にない様な大きな戦争が始まると言う訳ですね。
そうして、之が最後になる。最後の大掃除が第三次戦争なんです。だから、掃除される汚たないものを人間の方で、先廻りして取つて了えば良い。之は外国人の人も分る筈です。無神論のカチカチ――之だけはしようがないですね。之は掃除の時に、掃除されるんです。之を皆んな助けると言う訳にはいかないそうですからね――神様の方は。
我々のやつている事は、生き残る人間を増やすんです。出来るだけ----一人でも多く、生き残らせ様とするのは当り前です。(後略)」
(御教え集2号 昭和26年9月27日)
「時を待つという事が一番肝腎」
「(前略)一生懸命にやつて結構ですけれども、唯急(アセ)つて、時期の来ないのに色々の心配したりする事は必要ない訳ですね。時を待つという事が一番肝腎な事です。そうかといつて、ぼんやり時を待つていては――寝ていて果報を待て――式じや、之は駄目で、行る丈の事は行る。そうして唯急つたり無理をしないという事を心得ていれば良い訳ですね。
(後略)」
(御教え集9号 昭和27年4月30日)
「新文明世界を造る仕組、素直に時期を待つという態度が一番」
「(前略)兎に角人類を救う――新しい文明世界を造るという位の非常に大きな深い仕組なんですね。だからして人間的の判断なんかで到底解るものではないです。そうかといつて、それをはつきり言う事が出来ないですね。矢張り時代に――時期に依りますからね。私は先から少し宛段々近い処を説く様にしてますが、未だ未だ其深さというのは何処迄もありますからね。時期の進むに従つて、説いていく訳ですね。だから人間は、奥の奥――深い処、神秘な処を分りたいのは誰でもそうですが、それを分ろうと思う丈ならいいが、只上つ面の処で――自分の小智小才を以て善悪を判断するというのが一番工合が悪いんですよ。それが又、分る様なら矢張り神様と同じなんだから、分らないのが当り前で、只素直に時期を待つという態度で居るのが一番良いんですね。(後略)」
(御教え集11号 昭和27年6月7日)
「神様の事は遅れただけは一度になる」
「(前略)大本教のお筆先に“神様の事は遅れただけは一度になるぞよ”という事があります。だからして、やっぱり丁度よい時と、遅れる時も、神様の時期は伸縮自在なのです。これもお筆先に“何事も遅し早しはあるなれど、これも神様の都合のことじゃ”という事があります。つまり遅い早い、遅れたり早かったりはあるのです。しかし決まる時期はチャンと決まっているのです。何年何月何日までにこの仕事、次はこうという事は決まっているのです。その間の進んだり遅れたりは幾らかあるわけです。ですからよくその時に考え違いをする事があります。ちょっと後戻りするように見える事がありますが、行く時になるとスーッと早く行くのです。尺進寸退というわけですから、それを心得ていなければいけないわけです。(後略)」
(御教え集25号 昭和28年8月6日)
「見て分らない時は、まだ時期が来てない」
「(前略)これは自分でも始終不思議に思ってますが、それが又面白いのは、時期々々に応ずるのです。必要な時期が来ると直ぐに分るのです。時期が来ない内はなかなか分らないのです。ヒョッと見て分らない時は、これはまだ時期が来ないからだと止してしまうのです。時期が来ていると直ぐ分るのです。
ですから、随分難かしい所があって、どうしたらよいかなと分らない事があります。そういう時は止して時期を待つのです。そうして時期が今決めなければいけないという時になるとはっきり分るのです。 (後略)」
(御教え集29号 昭和28年12月26日)
「楽にスラスラゆくのは時期が来ているから」
「(前略)何事も時期がありますから、時期をみるというのが一番肝腎です。うまくゆかなかったり失敗するという事は、時期に当嵌(アテハマ)らないからです。植物の種を蒔くにも、野菜や米の種を蒔くにも、やっぱり時期があります。
今度の特集号も非常に売れて、足りなくはないかというくらいなのですからして、これも時期なのです。丁度去年あれほどの凶作で、これからどうしてよいか分らないと、迷ってどうにもならない時に“これだ”という事を見せるのですから、飛び付くわけです。食物が無くて腹が減ってフラフラしているところに御馳走をやるというわけで、飛び付いて来るというわけです。
ですから骨折って無理にやるという事は、時期が来ない時に無理をやるから骨が折れるのです。私は骨が折れる事はよせと言っていますが、楽に楽しみながらやる事がよいのです。そうすればうまくゆくに決まっています。ですから楽にスラスラゆくのは時期が来ているからうまくゆくのです。苦しまなければうまくゆかないという事は苦痛の迷信です。苦しまないで、普通にやるというのが一番よいのです。それが本当です。(後略)」
(御教え集31号 昭和29年2月26日)
「人により救われる時期は違う」
「(前略)導くという事は導かれるというそういう人が機会を与えられた場合に、話を聞くとか、こっちの新聞を見ればそれでよいのです。あとは心配しなくてもよいのです。何故と言って人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、幾ら言っても駄目です。その時期というのは非常に神秘なもので難かしいものです。
例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。そこで救世教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人は今はちょっと言えませんが、大枝の方でしょう。大枝が救われて小枝が救われて行くのです。それを放ったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。
そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。だから分らないのはまだ時期が来ないのです。だからスラスラ行くのは時期が来たなと分るし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。(後略)」
(御垂示録22号 昭和28年7月1日)
「全ての事において、ゆっくりと時期を待つ」
「(前略)専門的に信仰の道に入るのも時期があるんですよ。その時期がどうして判るかっていふと、時期が来るとだんだん事情が熟して、何もかも揃って無理がなくなるんです。無理を通してやったり、反対を押しのけてやったりするのはいけません。その結果はよくないですよ。だから、ゆっくりと時期を待つ事です。そうすればちゃんといゝ時期が来ますよ。あらゆる事に於てそうですよ。
私の教へなんかも、非常に早く発展する様に世間の人は思ひますがね、私自身は一寸も早く発展させようなんて焦りはしないんです。神道で言ふ「惟神(カムナガラ)」ですよ。自然と、事情が熟してそうなって来てしまふんです。 (後略)」
(御光話録9号 昭和24年)
「生命に関はるのは治ってから入信すべき」
「(生後六カ月の幼児、御浄霊により高熱が続き発汗甚しく、全身粟粒大の発疹をし疥癬の様になり、元気もよく、食慾もあり、便通、発汗、順調になりましたけれ共、夜になると四十度以上の熱が出ては汗を非常にかいております。母親は是非入信させて頂き、自ら浄霊の希望でありますが家の都合でまだ入信しておりません。私が総本部へ伺うので此病人の浄霊が出来なくなりましたので、母親も非常に心配しております。入信者でない家族の御浄霊は、特にこの様な場合は御浄霊を断わつた方が宜敷いでしようか。)
断らなくてもよい。やつてやるべきだ。汗かいたりなど非常によい。症状からみて順調な浄化である。ほんとうは病気が治つてから入信するのが本当で、病気が治つて有難く、やむにやまれぬ気持で入信するのが本当である。例えばもし治らない中に入信して死ぬ場合がある。入信してから死ぬなんてあんな信仰は駄目だという事になる、すると怨まれる。特に肺病などは余計にそうで、入信すると余計に浄化が強くなる。肺病は医者に散々かかつて、もういけなくなつてから本教へ来るので、薬毒がうんと溜つてる。それの浄化が起り、浄霊すると反つて死ぬ場合があるから、特に肺病は治つてから入信するようにしなくてはいけない。ただ生命に関係のない病気は病気の治らぬ中に入信してもよいが、生命に関はるのは治つてから入信すべきである。これなど順調だから屹度治る、そうすれば家の人も判る。又入信してすぐに又光明如来様を祀らせたりせず、段々本人が判つて信仰が進み、拝みたくなり是非という時になつてから祀るべきである。(後略)
(教えの光 昭和26年5月20日)
「良い考えが浮んで来ない時は、決してやつてはいけない」
「(前略)それから、良い考えが浮んで来ない時は、決してやつてはいけない。時期が来ないからね。その代り良い考えが出たら、神様がしろと言うんだから、やると良い。そこの処は、一寸言うに言われない面白い処ですね。だから、ゆっくりする様な、非常に急ぐ様な、一寸――普通の世間的のやり方と、非常に違います。私などは、非常に仕事が早いですね。用は幾らでもありますが、そうかと言って、少しもせかせかしないですね。随分ゆっくりしている事もありますからね。だから、自分なら自分、中教会なら中教会で、予定の様にいかなかつたり、思う様にいかなかつたりする時は、決して悲観しないで、時期の関係で、神様の考えだからね。そうかと言うと、どんどん発展する。此分では、何んなになるだろうと思っていると、ぱっと止まる。それで良いんです。それで、一年前、二年前に較べるとウンと発展している。それでも、発展しないと言うのは、横道に入っている。軌道に乗つていない。神様にお願いして、それに気がつくと良い。暇な時に――こう言う時は本を読めと言う事に違いないと、御神書を読むんです。之は何んとも言えない処ですね。」
(御垂示録3号 昭和26年10月5日)
「注射をうつとすぐに死ぬような時期が来る」
「(前略)今迄医学の間違いをいつも言い、その中薬の間違いを書いたり言ったりしてゐるが、誰しも之を早く知らせなくてはならぬといふ気持が起るが、今後時期が段々進むと医者が先づ判ってくる。薬を用ふるとすぐに悪くなるとか死ぬとかする。医学は溶けかゝった毒を固めるのが目的で、それで治ったように思ふので、不知不識行ってゐるが、新しい薬でペニシリンとかオーレオマイシン等出るのは、以前の薬よりはよく固まる訳で、幾分でも固まるうちは薬に頼る。霊界の浄化が段々強まると注射をうつとすぐに死ぬようになる。そうなると医者が自分で判ってくる。又集団伝染病のようなものがふえてくる。そうなるとドンドン死ぬ人が出来る。どうしていいか判らぬ。その時メシヤ教は大発展をするのである。(後略)」
(「箱根日光殿増築落成祝賀式御講話」昭和26年6月15日)