食と農

 

「食」について

 

9-2、菜食について

「菜食の効果」

 (前略)私は十五才の時肋膜炎を病み、医療により一年位で全快、暫く健康であったが復再発したのである。然るに今回は経過捗々(ハカバカ)しくなく漸次悪化し、一年余経た頃畢に肺結核三期と断定せられた。其時が丁度十八才であった。

そうして最後に診断を受けたのが故入沢達吉博士であって、同博士は綿密に診断の結果、最早治癒の見込なしと断定せられたのであった。そこで私は決心した。それはどうせ自分は此儘では死ぬに決ってゐるとすれば、何等か変った方法で、奇蹟的に治すより外に仕方がないと意(オモ)ひ、それを探し求めたのである。其頃私は画を描くのを唯一の楽しみにしてゐたので、古い画譜など見てゐると、其時、漢方医学で使った種々の薬草をかいた本があったので、それを見てゐるとハッと気がついたのである。それは何であるかといふと、私は今日迄動物性栄養食を盛んに摂ってゐたのである。勿論牛鳥肉魚等は固より粥までも牛乳で煮て食ふといふ訳で、特に其時代の医家は、栄養といへば動物性のものに限ると唱へたのであったから、私も其儘実行した訳である。然るに、右の本を見て思った事は野菜にも薬や栄養があるといふ事である。そう考へると、昔の戦国時代などは殆んど菜食であったらしいが、史実に覧(ミ)るやうな英雄豪傑が雲の如く輩出したのであるから、之は菜食も良いかも知れない。特に日本人はそうあるべきであると想ったので、断然実行すべく意を決した。そして試験的に一日だけ菜食を試みた所、非常に具合がいいので二日三日と続けるうち益々良く、是に於て西洋医学の誤りを覚り、一週間目位には薬剤も放棄した。其様にして一ケ月位経た頃、病気は殆んど全快し、畢(ツイ)に菜食を三ケ月続けたのであった。其結果罹病以前よりも健康になったので、其後他の病気には罹ったが結核的症状だけは無いにみて全く全快した事は明かで、四十余年経た六十余才の今日矍鑠(カクシャク)として壮者を凌ぐ健康にみても、結核は決して恐るべきものではない事を知るであらう。(後略)                           (「微熱」結正  昭和18年11月23日)

     

「健康には無医薬と菜食」

(前略)此湯西川村の存在理由に就てかゝねばならない事がある。(中略)最初一族が此処へ来た時は食糧がなく、仕方なしに葛の根を食って僅かに露命を支えてゐたそうである。そうして驚くべき事は此村には病人が全然ないといふ事で、現在大酒の為中風になった爺さんが一人あるだけだとの事である。

結核などは勿論一人もない。彼女の言ふには此土地のものは近くの日光かち先へは絶対縁組をしないそうで、况(マ)して東京などには行く者は殆んどないとの事である。それ等は何の為かといふと東京などへ行くと肺病になるからだといふ。処が面白い事には此村は無医村で絶対菜食である。

附近の川に山女や鮎などゐるが、決して捕らうとはしない。

何故なれば先祖代々魚を食った事はないからで、別段食いた
いとも思はないといふのであるにみて、如何に徹底した菜食村であるかヾ知られるのである。以上の事実によってみても無医薬と菜食が如何に健康に好いかといふ事実で、全く私の説を裏書してり非常に面白いと思った。(後略)                       

                                     (「湯西川温泉」自叢五  昭和24年8月30日)

 

「菜食が一番人間の栄養」

   "歴史には二百位まで永生きしてゐる記録がありますが、あれは何故でせうか。


"毒が少ないからですよ。然し二百と言っても今はないですよ、昔の事ですよ。之は嘘か本当か知らないけど、仙人の一番永生きしたレコードは八百才ですよ。その次が六百幾つでしたかね、仙人で二百才なんて言へば早死ですよ。
 仙人は朝鮮が本場で、日本に沢山居たのは皆朝鮮の仙人の弟子なんです。朝鮮には今でも居るそうですがね。何を喰ふかって言ふと、蕎麦粉と松葉を練り合はせた団子を食ってゐるんです。そして仙人の修業の時には、最初にその団子を一日に三つ食ひ、次に二つにし、一つにして最後には水ばかりにするんです。大抵の人はこゝで参ってしまふそうですがね。

その水だけの所を卒業した人が大仙人になる訳ですが、とに角そういふ食物で永生きするんですよ。
 私もだから九十以上になったら絶対粗食にする積りです。絶対粗食にすると栄養器官が非常な活動をするんで、ずっと若返るんですよ。だから年をとる程所謂「栄養」を食はない様にするのがいゝんです。栄養不足だから弱いって言ひますが飛んでもない間違ひですよ。みんな、栄養過剰だから弱いんです。今は田舎のお百姓も蛋白が足りないからどうの、ビタミンが足りないからこうのといってますが、あれはあべこべで、つまりお百姓はあんなに粗食をするからあれだけ労働が出来るんです。肉みたいなものを喰べてたらあんなに続きはしませんよ。

登山家でも本当の登山家は一週間前から絶対菜食にするんです。外国の登山家でもそうなんですよ。肉や魚を喰べて山に登ると息が続かないんです。菜食が一番人間の栄養なんです。ですから私は今美食してますがね、栄養不足になりゃあしないかと心配してるんです。(笑声)みんな魚や鳥がいゝんだと思って、そういった料理ばかり作るもんだから、「こんな栄養不足のものばかりぢゃいけない、もっと栄養のある野菜をつける様に」って始終喧ましく言ってるんです。
 栄養の事に就て今度本に書きますが、今迄の考へとはまるで違ふんです。やれビタミンだ何だって言ってそういふものを摂ると、体が弱って仕様がないですよ。完成したものを食ふと必ず体が弱るんです。完成してれば栄養器官が働く必要ありませんからね。所が、そういった器官が活動するのが、人間の生きて行く力になるんですから、それが働かずに済めば器官も弱るし体も弱るんです。実に、何て言ったらいゝか、まあ馬鹿ですよ。                                           (御光話録10号  昭和24年5月13日)

 

「健康には菜食が一番」

(前略)健康上から言うと菜食が一番良いのです。ですから私は今でも出来る丈偏しないのです。野菜とそういつた動物性の物と、大体半々にしてます。処が料理をする人は、御馳走と言えば何んでも魚や肉だと思つて、そういうのが多過ぎて困るのです。それで始終小言を言つている。私は野菜を多く食べなければ困るのだから、野菜を多くする様に考えて呉れと始終言つている。栄養は野菜だが、文化生活をする上に於てあんまり大人し過ぎても仕事が出来ないから、そこで動物性の物を食べるのです。それを心得てやれば丁度良いわけです。で、競争心は結構ですが、それがもつとひどくなると闘争心です。闘う方です。だから肉食人種は闘争心が強いわけです。(後略)                     

                                          (御教え集13号  昭和27年8月25日)

 

 「菜食をすると体は温かい」

(前略)それから誰しも意外に思う事がある、それは菜食をすると実に温かい。成程肉食は一時は温かいが、時間の経つに従って、反って寒くなるものである。之で判った事だが、欧米にストーブが発達したのは、全く肉食の為寒気に耐えないからであろう。之に反し昔の日本人は肉食でない為、寒気に耐え易かったので、住居なども余り防寒に意を用いていなかった。

服装にしても足軽や下郎が、寒中でも毛脛を出して平気でいたり、女なども晒の腰巻一、二枚で、今の女のように毛糸の腰巻何枚も重ねて、尚冷えると言うような事などと考え合わすと、成程と思われるであろう。(後略)      (「栄養」結革  昭和26年8月15日)

 

(前略)菜食をすると非常に身体の工合が良い事と、冬でも非常に温い。その時分はユタンポを入れなければ寝られないのが、菜食をするとそういうものは要らないのです。よく肉食をしなければ身体が温まらないと言うのですが、それは一時的なものです。それから酒を飲むと身体が温まると言いますが、菜食をすると身体の芯から温まるのです。だから良いのです。然し菜食をして居れば気持が違うのです。あんまり不平不満が無くなる。怒らなくなります。諦めが良く、それから無抵抗になつて、凡てに満足するという気持に変ります。それは実に著しいです。それですからして非常に苦しみがなくなるのです。

つらい事がなくなる。我慢がし良いのです。(後略)       

                                          (御教え集13号  昭和27年8月26日)


(前略)何故に菜食が良いかという事ですが、一番良い事は菜食をすると非常に温いのです。其時分はユタンポを入れなければ寝られなかつたが、菜食をすると入れなくてもポカポカするのです。よく寒いという人は肉を食べますが、あれは一時的なものです。やつぱり薬毒と同じです。だから年を取つた人で、そう欲張る必要のない人は出来る丈菜食にすると温いです。(中略)我慢出来るというのは、みんな菜食をするからです。

今の人は肉を食べるから寒がりなのです。外人は特に寒がりですから、部屋を締切つてストーブを焚くという保温装置が出来たのです。日本人は障子なんかでやつているのは割合野菜を食べるからです。そういう点も色々知つて置かなければいけないです。病人なんかでも非常に寒がるのは野菜を多く食べさせるのです。(後略)            (御教え集13号  昭和27年8月27日)


(前略)それから誰しも意外に思う事がある。それは菜食をすると実に温かい。成程肉食は一時は温かいが、或時間を過ぎると、反って寒くなるものである。これで判った事だが、欧米にストーブが発達したのは、全く肉食の為寒気に耐へないからであらう。之に反し昔の日本人は肉食でない為、寒気に耐へ易かったので、住居なども余り防寒に意を用ひてゐなかったのである。又服装にしても足軽や下郎が、寒中でも毛脛を出して平気でゐたり、女なども晒の腰巻一、二枚位で、足袋もあまり履かなかったやうだ。それに引換へ今の女のやうに毛糸の腰巻何枚も重ねて、尚冷へると言うやうな事など考へ合はすと、成程と思はれるであらう。(後略)        (「科学篇  栄養」文創  昭和27年)


「菜食のいい例」

 此間奈良薬師寺の管主であり、法相宗(ホッソウシュウ)の管長である橋本凝胤(ギョウイン)師が、武者小路流の茶道の宗家官休庵師匠の案内で来られ、数時間談話を交したが、殆んど十年の知己の如く話がはずんだ末夕飯となり、共に食事をしたが、驚いた事には絶対菜食なので、鰹節も入れずに一人前だけ料理を別に作らした程であったから、如何に徹底した菜食家だという事が分るであろう。先づ栄養学者からいったら、無論素晴しい栄養不足食というだろう。
 処が事実は反対も反対で、師の面貌を見ると六十歳以上であり乍ら、其艶々とした顔色の好さ、肉附も申分なく、素晴しい健康色で、受ける感じの快さは今迄に見た事のない人柄である。而も其頭脳の明敏、記憶のよさ、私が仏教美術に就て色々質問したが、其名答振りも亦驚く程で、私は全く心を打たれたのである。之でみても如何に菜食が健康にいゝかという事が熟々思われた。勿論生れてから病気した事もなく、薬の味も知らないというのであるから、私の説を裏書して余りあるのである。

それに引換え現代人と来ては、栄養を大いに食い乍ら、顔色の悪さは固より、頭脳の鈍さと来てはお話にならない程であるから、其無智なる何といっていゝか言葉はないのである。          

                                   (「菜食のよき例」栄174号  昭和27年9月17日)


「絶対菜食の効果」

 (前略)私は十七歳の時、肋膜炎を患い、穿孔排水一回し、三月ばかりで治り、安心しているとそれから一カ年後再発したが、今度は前の時と違って中々治らない。医療を受け乍ら漸次悪化し、一年余を経た頃、遂々三期結核となって了った。最後の診断を受けたのが、当時有名な入沢達吉博士であったが、入念に診察の結果、全快の見込なしとの宣告をされたのである。何しろ日に々々衰弱が加わり、自分の手を見ると白蝋の如く、血の気など更になく、痩せ衰えて骨と皮になって了った。

先ず衰弱の程度から推すと、精々後一カ月位で駄目だという事がよく分るので、覚悟はしたが、何とか助かる方法はないものかと思い、色々考えた末、何か大いに変った事をして、旨く当ればよし、外れゝば元々だといふ気になっていた処、病気以前私は絵を習っていたので或日色々な絵の本を見ていると『本朝薬草彙本』という漢法薬の本があった。勿論草根木皮の絵ばかりで、何の葉は何病に効くとか、何の実、何の花は、何の薬になると出ているので、私は"ハハァー斯んな植物にも、そのような有効成分があるのかしら"と思うや、不図気が附いたのは、それまで私は栄養は動物性に限ると思っていた事とて、試しに一日菜食にしてみた。処が驚くべし、非常に工合がいゝので、これは不思議と、翌日も翌々日も続けた処、益々いゝので、茲に医学に疑いを起し、薬も廃めて了い、三カ月間絶対菜食を続けた結果、病気以前よりも健康になって了ったのである。今一つは、私は二十五歳の時妻を娶ったが、一年位経た頃、妻はヤハリ結核に罹って了った。喀血、血痰等引っきりなしで、普通より大柄な癖に、体重は十貫五百匁という痩せ方だ。だが私は自分の経験によって、医者にもかけず、絶対菜食にした処メキメキ快くなり、三カ月で全快し、二年後体重を計った処、十六貫五百匁に肥っていた。
 次に斯ういう事もあった。之は栄養には関係がないが、以前慶大の学生で、一日か二日置き位に、必ず喀血するという青年が治療に来た。本人曰く「苦痛がないので医療も廃め普通人同様にしている」と曰うので、私も「喀血は浄化作用で結構だから、其儘放っておいた方がいゝ」と曰ってやった処、それから二カ年程で全快したという事を聞いたが、之なども大いに参考になると思う。又喀血であるが、之に就ても斯ういう患者があった。三十歳位の青年で、此人は肉食をすると必ず喀血するが、菜食にすると直ぐ停まる。丸で判で捺したようだとの事である。之を見ても分る如く、喀血を停めるには菜食に限る事を知ったので、其後私はみんなに教えている。之等によってみても、結核に菜食のいゝ事は確かであるから、栄養学者は大いに研究して貰いたいのである。(後略)     (「栄養」結信  昭和27年12月1日)

(前略)私が十八の時結核で医者より見離された時には、絶対菜食です。カツオブシも止したのです。三カ月絶対菜食にして――之は私の本にも書いてあります。(後略)   

                                          (御教え集13号  昭和27年8月25日)

(前略)菜食についての私の実験をかいてみよう。
 私は十八歳の時一年以上患っていた結核が段々悪化し、遂に有名な某博士から死の宣告まで受けたので、失望懊悩の結果何等かの方法はないかと思ったところ、一寸したある事によって菜食のよいことを知ったので三カ月間絶対菜食をしたところ、病気はメキメキ快くなり、発病以前よりも健康になったのである。その時自分の体でわかったことに、目立って根気のよくなったことである。それと共にその頃遊び半分絵を描いていたのでわかったことは、筆力である。以前は線など震えて思うようにかけなかったものが、一気に思うように描けるようになった。
                (「名人の失くなった理由(三)」栄192号  昭和28年1月21日)

 

「菜食の力」

明主様  現代の画家の画は筆に力がないのです。それは現代の美術家の不断の生活が違っているのです。力というものは食物が大いに影響するのです。ビフテキを食べたり牛乳を呑んだりしていては力は出ないのです。それで仕方がないので塗抹絵になるのです。今のはそれです。(中略)宋時代のは殆ど坊さんですから、坊さんというのは、山に入って菜葉に麦飯を食って行をした。それが画くのですから断然違うのです。要するに菜食して精進せねば駄目です。(後略)
        (「日置昌一氏との御対談  ビフテキ食べてかいた画」栄186号  昭和27年12月10日)