第三章 信仰の向上を図るために
8、発展、拡大に向かって
「お任せして努力する」
「(そこで神様に任せる事と、自分の奉仕する時所位において努力するという区別が分りませんが)
だから神様にお任せして努力するのです。あなたは切り離すからいけないのです。“人事を尽くして天命を待つ”で、神様にお任せして努力するのですから、それでよいのです。
今の質問は大変よい質問です。そういうように思って居る人があるかも知れないから、そういう事は大いに質問して、本当に心から分るようにして働いた方がよいです。」
(御垂示録25号 昭和28年10月1日)
「自分の事に捉われてはいけない」
「(他の教会に負けずに発展する様に祈願致す事は如何でせうか。)
これは少しケチくさいですね。この道は世界を救ふんだから、他の教会も発展し、自分の方も発展する様に祈る事が本当ですよ。負けずに発展しようってのはいゝ意味の競争だけど、然し未だ小さいですね、小乗ですよ。だからそれよりかも、この教団全部が発展して人類全部が救はれる様に祈願すべきですよ。他の教会なんか目に入らない位になるのが本当ですね。どうも日本人の悪い癖としてケチな根性があるんですね。例へば、どうか日本がよくなります様にってのは悪くはないけど、やっぱり小さいでしょ。日本だけよくなればって気持から今度の大戦が起きたんですからね。もっと大きく世界人類を救はうと念願すべきですね。
以前、大本時代に「どうか自分は天国に救はれ度い」って言ふ人がありましたがね。その人に対して私は「自分は一寸も天国に救はれ度いとは思はない。むしろ一人でも多くの人を天国に救って上げられます様にと願ってる。その為には、たとへ私は地獄へおちてもいゝ」って言った事がありましたがね。人間はどうしても自分を主にし、自分の事にとらはれてしまふんです。勿論全然とらはれないって事は出来ないけど、自分にとらはれてはいけないんだって事を知ってれば目先がきゝ腹が大きくなるんです。そして腹の大きい人の方がどうしたって大きく発展しますね。小さい人はやっぱり駄目ですよ。」
(御光話録19号 昭和25年4月3日)
「神様に対してピッタリしない点があると発展しない」
「(前略)それから、発展しないのは、人間が見ていゝ様でも神様に対してピッタリしない点があるんです。ピッタリしてれば、神様がこの人ならといふ教導師の所へ信者を持って来てくれるんです。神様が霊界でその人の守護神を働かせて連れて来て下さるんです。思ふ様に信者が来ないってのは神様の気に入らない点があるんです。人間が気を揉んだりすると、神様の方では「あれは俺を信じてないから、いゝ加減にしてやらう」って事になるし、人間の方で心から神様を信じてれば「そんなに俺を信じるんなら、俺も相当にやってやらう」といふ事にもなるんです。感情の点では神様だって人間と同じですよ。喜怒哀楽は同じなんですよ。唯、違ふのは、神様の方はそれが大きいし、人間の方は小さいといふ所が違ふんです。人間は自己愛が強いんですが、神様は非常に自然であり合理性なんですよ、理窟に合ってるんです。
それに、時期といふ事もあるんです。時期といふ事は大切なんですが、人間は全く之を閑却して進むもんだから、どうしても逆結果になるんですよ。」
(御光話録15号 昭和24年9,10月)
「発展する支部の主因は愛が強い事」
「(前略)ですから根本は霊界なのです。(中略)其処の家に入ると、なにかつめたいような、さびしいような家がありますが、それは其処の主人公に愛がないからです。つまり自分さえ良ければ人はどうでもよいというつめたい心、要するに冷血動物です。だから其処の家がつめたいのです。人間でもそうです。あの人に会うと、何処かしらつめたい、又温かい人だ、という事が分ります。それは霊で、その人の霊が受ける感じです。ですから受ける感じが温かければ愛が多いのです。万事それで分ります。
支部でも、発展する支部と発展しない支部という事も、最も主要なる原因はそこにあるのです。愛が多く愛が強いという事は、光が多いという事です。そこで人は光に憧れて集まるという性質を持っているから、どうしてもそういう温かい所には足が向くという事になります。オレの喋り方が悪い、場所が悪い、家が狭い、という事も多少はありますが、根本的のものではありません。根本は其処の支部長の愛が強く、そうして人を引き付けるという事です。(後略)」
(御教え集26号 昭和28年9月16日)
「教導所の発展しない理由」
「(教導所の発展しない理由を御伺ひ申し上げます。)
どっか脱線してるからですよ。要するに軌道が外れてるんです。一番の原因は、なにが多いですね、あの小乗的信仰の場合が。こういふのは発展しないですよ。どうしても大乗でなくちゃいけないですね。発展ってのは大きくなる活動ですからね、大乗がどうしてもいゝんですよ。小乗のは窮屈でね、あれはいけない、これはいけないといろいろ咎めるのはいけないんです。それでは観音行ぢゃないですよ。観音様ってのは大乗であり、善悪無差別ですからね。それに対して、人間が善悪を決めるのは間違ってゐるんです。まあ、或程度は常識で善悪の判る事もありますが、徹底して判る事はないんですよ。之は悪い之は悪いと言ひ乍ら、その人自身悪い事がよくありますからね。一寸思った事を簡単に言ふ位ならいゝですがね、どこまでも自分の思った通りを人にさせようとするのは決してよくありません。何でも、こう、気持のいゝ様にせねばいけない。まあ、根本的原因は一口に言ふと、教導所に来て気持がいゝ、愉快だ、といふ風にさせてないからですね。
それから、あの「くどい」のはいけません。一事を繰り返し繰り返し言ふ人がありますが、あれはごくいけませんよ。神様ってのはあっさりしたもんですよ。いろんな宗教でもしつっこいのがありますがね、そんなのは本当は邪教ですよ。一言話して先方が言ふ事を聞かなかったら時期を待つ様にするんです。(後略)」
(御光話録8号 昭和24年3月)
「(教導所の発展するのとしないのとの根本原因と、大いに発展して御奉仕の出来る道を御諭し下さい。)
これはいろいろあるが、根本としては極く簡単なんで、その人の目的といふか、心の持ち方といふか、それが大きい方が発展する。(中略)皆それぞれ持ってる心に原因がある。
治療時代に、私は、治療士(今の教導師)には治療屋と治療士とあって、治療をして安楽に食っていればいいといふのは治療屋であり、大いに多くの人を助けなくてはならぬといふ愛の気持で従事するものを治療士といった。
世界人類を救はなくてはならぬといふ考えでやってる人は、その人の教導所はドンドン発展してゆくし、小成に安んずる人はいい加減な所で発展が止っている。要するに世界人類を救ふといふ気持の薄い人は発展が鈍い訳となる。
中にはそんな事は到底出来ないと思ってる人もある。然し、この教団は世界人類を救ふ力を持っているのである。そして五六七の世は造らねばならぬし、又造り得る時期になっているし、又明主様(私)はそれを造るべき力を与えられている。だから、決して之を危うんだり、心配する必要はないのである。(後略)」
(年代不詳)
「信仰の根本は愛」
「(前略)結局人間により人間の霊の高さです。だから磨いて霊を高くするという事が一番です。
これは支部長なら支部長という人の霊の高さによって人が集まってくるという事です。その人の徳というが、結局そういう訳です。これも信仰の根本は愛です。その人を助けたい、幸福にしたいという想念が強くて、そういう様な、要するに良いものが沢山ある人ほど発展する、そういう人ほど光が強いから、その人の側に行くと気持が良いのです。それもやっぱり大乗的に考えなければいけないのです。(後略)」
(御垂示録19号 昭和28年4月1日)
「一番肝心な事が一つある」
「(前略)一番肝心な事がたった一つあるんです。それはね、どうしても発展しよう、大きくならうって強く思ふ事ですね。それが根本です。俺は駄目だ、なんて思ふ事が一番悪い。俺も人間だ、人がやれるなら俺にだって出来るっていふ気構へでね、失敗しても、笑はれても諦めないで、どうしてもやり遂げるっていふ、さういふ人が発展しますね。私自身がさうなんですよ。それを、一度転んだらもうしようとしないなんていふんぢゃ駄目です。「諦めが肝心」と言ひますがね、物によってはさうですが、物によっては「諦めないが肝心」ですよ。だから、悪い事は「諦めが肝心」、いゝ事は「諦めないが肝心」ですよ。(後略)」
(御光話録8号 昭和24年3月)
「最初は小さく、漸次進んでゆくのが順序」
「(前略)すべて物事は漸次進んでゆく事がよくそれが順序である。突然に変るのは本当でない。例えば新しく教会をひらく場合、最初は出来るだけ小さくする。人間が赤ン坊から育ち一人前になる如く、又草木の種子が段々二葉から大きく育つ。それなら根が張り枯れたりなどしない。之が大自然の実相だ。私など此仕事は六畳一間から始めた。信仰も最初は種蒔であるから話だけにしておく。それが育つに従い先方が耳を傾ける程度になつたら雑誌、新聞をみせる。その中に教修を受けたくなり教修を受けさす。そのうち病気が治つたりなどして光明如来様をお祭りする。此様なやり方で入つたのは信仰に動揺がない。急いで入信したのは所謂根が固つていないから動きやすい。之は如何なる事でもそうである。面白いもので最近新興宗教というと本教が一番目指されるが、決して一番になろうと思つた訳でない。之も最初は目立たぬよう出来るだけ大きく見せないようにした。此点世間とアベコベでその結果一番拡がつたようだ。」
(教えの光 昭和26年5月20日)
「浄霊の閑なのは一時的現象」
「(前略)神様の方にもいろんな事情があつて遅速があるのである。
私は最初の頃よく散花結実という言葉を用いたがそういう場合もある。之は花が散つて実が実るという事で、多くの場合一時盛んになるが、花が散る時が来ると暇になるのであるが、実が出来るのは時間がかかる。人間は焦りたがるが、閑なのは一時的現象で、決して長く続くものではない。何事も始めからパツとするのはいけない。実がみのる様に始めは小さく徐々に大きくなるのが本当である。又発展しない理由は、何か神様のお気に入らぬ事がある訳もあるから、よくその心と行を考えてみるべきである。」
(教えの光 昭和26年5月20日)
「相手は信者の幸福な状態を見て心が動く」
「(前略)世間よく人を救おうとする場合、自分が病貧争から抜け切らない境遇にあり乍ら宣伝をする人があるが、之等もその心情は嘉(ヨミ)すべきも、実は本当の行り方ではない、何となれば、自分が救われて幸福者となってゐるから、他人の地獄的生活に喘いでゐる者を、自分と同じような幸福者たらしめんとして信仰を勧めるのである。それで相手が自分の幸福である状態を見て心が動く、宣伝効果百パーセントという訳である。私と雖も、自分が幸福者の条件を具備しなければ宣伝する勇気は出なかったが、幸い神仏の御加護によって幸福者たり得るようになってから教を説く気になったのである。
地上天国とは、幸福者の世界でありとすれば、幸福者が作られ、幸福者が聚(アツマ)る処、地上天国の実相でなくて何であろう。(後略)」
(「地上天国」 昭和24年1月25日)
「奇蹟があるのは立派に理由がある」
「(前略)奇蹟なるものは、決して偶然やマグレ当りではなく、立派に理由があるのであるから、それが判ったなら、奇蹟は不思議でも何でもない事になる、だから私などは奇蹟があるのが普通で、奇蹟がないと不思議に思う位である、此例として偶々難問題に打つかって、解決がグズグズしていると、もう奇蹟がありそうなものだと待っていると、間もなく奇蹟が出て解決する事がよくある、之は信仰が深く、徳を積んだ人はそういう体験は数ある事と思う、従而、人間は善を思い、善を行い、徳を積み、霊衣を厚くするよう心掛けていれば、不時災難など決してないのである、又霊衣の厚い人程接すると何となく温味を感じ、慕わしい気持が起る、よく人を惹きつけると言うのはそういう人である、だから斯ういう人には自然多くの人が集ってくるもので、仕事も旨くゆき、発展するようになるのである、今一つの例を挙げてみるが、以前から私が行き始めると、其家は必ず繁昌する、又私に接近する人は、必ず発展し幸福になる、之は私の霊衣の幾分でも貰うからである。
(「奇蹟の解剖」 昭和26年6月6日)
「信者になる人---神様なり先祖なりが連れて来る」
「(教導所をつくつた場合に、一般に知らせるのに広告などは如何でしようか)
広告は要りません。そんな事をしなくても良い。理由を言えば、信者を連れて来るのは――信者になる人が来ますね。お客様がね。来ると言うのは神様なり、そこの家の先祖なりが連れて来るんです。だから広告を見なくても来るべき人は来る。大体あゝ言うやり方は神様を冒涜する事になる。按摩を開業したとか、歯医者を開業した、と言うやり方と同じだ。之は極端な話だが、金光教の信者で、広告とか、人にも宣伝しないと言う――極端ですが――何にもしない。何とかしたら良いでしようと言うと、いや神様が連れて来るからと言う。二年間一人も来なかつたそうです。それから一人来て、それからぼつぼつ来て、大変に繁昌したというんですね。之は極端ですが、神様を信ずると言う点では面白いと思う。
だから、私は新聞広告だとか、宗教宣伝すると言う気持はちつともない。(中略)
信者が病気が治つて、その人が宣伝して、段々連れて来るんです。その人が又連れて来ると言うやり方がしつかりしている――強いです。人間の目には見えないけれども、神様には分る。この人が救われたら、こつちの人、今度はあの人と、霊界では順序が定まつている。だから、順序が来ていないのに、この人に知らせても入れないんです。
(重要な人間が入つたら拡がるかと思つていると、そういきませんですね)
そうはいきません。天理教で言つている、学者、金持ち後廻しと言うが、あゝ言う事はあります。いずれインテリの信者が沢山出来ますが、時期がありますからね。霊界の中で浄化が強くなるから、つまり、理屈だけで、インテリは押していきますからね。処が浄化が強くなると、理屈では押していけなくなる。(後略)」
(御垂示録3号 昭和26年10月5日)
「神様の御経綸は、人間には分からない」
「(前略)神様の御経綸は、実に深いもので、到底人間の眼や頭脳で、判りよう筈がないのである、大本教の御筆先に斯ういう文字がある『神の奥には奥がある、その又奥の奥の仕組であるから、人民には分りよう筈がないぞよ、神界の事は分らんと思う人民は、判ったのであるぞよ』とか、『そんな人民に判るようなチョロコイ仕組で、三千世界の立替が出来ると思うかと申すのであるぞよ』此御言葉は実に簡単にして、よく言い表わしていると思う。」
(「之も慢心」 昭和26年9月12日)
「大衆に知らせる事が、人類救済」
「(前略)本来、信仰をすればする程、其徳に由って罪障が消滅し、幸福の境遇になり、無病息災にならなければならないのに、それが反対に苦悩が持続する。それが常態になって了って誰もが怪しまないといふのが実状である。不幸を除去し得ない宗教は止むを得ずトリックを使ふ。それは、不幸や苦痛も神の恩恵として感謝しなければならないといふ、洵に変態的心境にして了ふのである。嗚呼、何と驚くべき悲惨事ではなからふ乎。
然るに、我観音会の信者即ち入会者は、全然之とは異って、病貧争が全く無くなるのである。如何程会員が増えても、増える丈会員の家庭に病人が発生しないのである。此事実こそ、恐らく全世界に、又、人類の歴史にも無いであらふ。私に言はせれば、病の無い世界、それは容易(タヤス)い事である。全人類が挙って観音会員になればそれで可いのである。斯の様な、洵に痴人の夢にも等しい一大福音が既に現はれてゐるのであるから、一日も速く大衆に知らせる事、それが何物にも増しての人類救済である。之に由って結核療養所も、癩療養所も、病院も、養老院も、孤児院も、終には警察も裁判所も要らない時代が来るであらふ。繰返して言ふ。それは観音会といふ団体が拡充する事に由ってである事を--。」
(「不思議な団体」 昭和11年)
「大乗信仰が本当の救世教信者」
「(前略)私は耳にタコの出来る程、小乗信仰では不可ない。大乗信仰でなければ、神様の御心は分る筈はないといっているが、どうも難かしいとみえて、間違った人がまだあるのは困ったものである。処が世間一般を見ても分る通り、凡ゆる面が小乗的であり、特に日本はそれが甚だしいようである。信仰団体なども内部的に派閥を立て、勢力争いなどの醜態は時時新聞を賑わしているし、その他、政党政派、官庁、会社等の内部にしても、御多分に洩れない有様で、これ等も能率や事業の発展に、悪影響を及ぼすのは勿論である。尤もそういう間違った世の中であればこそ、神様は立直しをなさるのである。そうしてこれ等の根本を検討してみると、悉く小乗なるが為であるから、どうしても大乗主義でなくては、到底明朗おおらかな社会は、実現する筈はないのである。
それだのに何ぞや、本教信者でありながら、世間並の小乗的考え方がまだ幾分でも残っているとしたら早く気がつき、頭を切替えて、本当の救世教信者になって貰いたいのである。そうでないと段々浄化が強くなるにつれて、神様の審判も厳しくなるから、愈々となって臍を噛んでも追っつかないから、改心するなら今の内と言いたいのである。大本教の御筆先に“慢心と取違いは大怪我の因であるぞよ”という言葉が、繰返し繰返し出ているが、全くその通りである。
(後略)」
(「裁く勿れ」 昭和28年5月13日)
「人によりそれぞれ違った御用がある」
「(最近各支部の月並祭後信者を浄霊中自然に憑霊現象が起る様に成り、何かと色々霊界又は霊的の事を勉強させられて居ります。よく信者の御先祖が救いを求めて出られたり「位牌をつくつてくれとか、位牌の祀り方の順が違うから直してくれ」と出られますので、出来る限りの事はして居りますが、或る先生の御話等を聞く処に依れば「余り親切に霊の救いをすると、いくらでもたよつて来て限り無いしそうした事をしていると物質迄皆○(ゼロ)に成る」と言われます。
私はたよつて来るからには皆霊線がつながつて居るからたよつて来るのであつて、無茶苦茶にたよる訳は無いと思います。尚霊を救つてやれば必ず感謝の想念はいつかは物質化するものと思われますが、如何なもので御座居ましようか。右に対し何卒宜しく御教示の程御願い申し上げます。)
右のような或先生には困つたものである。○○の一つ覚えのように、融通が利かないのだから、斯ういう先生は、千変万化、自由無碍、応身の教に外れている。此意味によつて霊的事象も、人により処により、時によつて正邪、善悪色々ある。之を見分けて適当に処理する事が、出来るようになれば一人前の本教信者である。
従而、此人の憑霊は、此人には此御用があるのだから、何等心配なくやればいいのである。すべて人によりそれぞれ違った御用があるのだから、単なる自己判断で決めるのは最も間違つているから、其点よく心得て貰いたいのである。恰度芝居に譬えればよく判る。色々な役があるから面白い芝居が出来るのと同じである。」
(地上天国29号 教えの光
昭和26年10月25日)
「人を導くには智慧が必要」
「(人をなかなか導けないのは導く人の四魂の働きが鈍い為でしょうか。それだけの因縁なのでしょうか。御伺い申し上げます。)
人を導けぬのは両方である。因縁と又導き方の悪い場合もある。(分らない場合もある)
話は下手でも、誠であれば向ふへ通ずる。喋り方はまずくてもよい。此方の想念や気持が動かすのである。又、相手によって違ふ。同じように持って行くのは違ふ。菓子の好きなものには菓子を、酒の好きなものには酒をやる。相手の気持を察するのである。やはり智慧が働かなくてはいけない。浄霊でも、急所を外れるようなものである。」
(昭和24年2月14日)
「信者は常に魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間を目指す」
「(前略)善い言霊は魂に響くから魂の光が増し、それによって心の曇りが減り、副守護神は萎縮する。萎縮するから悪を好まなくなる。というわけで、人間を苦しめていた副守護神は、善言讃詞によって萎縮、または、離脱することになり、心の曇りも減少するから、苦悩から解放されるのである。
右によってみても、善言讃詞の言霊は、如何に善美極まるものであるかが判ると共に、善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。特に今一つの重要事がある。それは言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。即ち、魂の清い者程、言霊の偉力は発揮されるのである。それは、霊的階級が上位であるからである。(中略)
従って、信者は常に魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間たることを心掛けねばならぬ。」
(「言霊の偉力」 昭和25年)
「霊の働きが一番」
「(前略)霊の働きが根本です。(中略)その霊が、どうか救世教の美術館に出してもらいたいというので働いたわけです。働くとどうするかというと、其処の子孫、現在持っている人が金に困るようにするのです。霊界の祖霊が損をかけるとか、或いは大いに金を使わせるとかして貧乏にするわけです。そうすればいやでも売りますから、つまりそういうようなやり方が主なやり方なのです。そのためにどうしても売らないわけにはゆかないというわけで、手放すわけです。
しかしそうすると、祖先とも言われるものが子孫を貧乏にするというのは随分ひどいと思うでしょうが、しかしそれがためにその後に大きなお蔭をいただいて、大変に結構になり、幸福になるわけです。今金に困るのは一時的ですから、やっぱり祖霊はそういう事を知ってます。深い考えでやるわけです。結構なわけです。(後略)」
(御教え集32号 昭和29年3月26日)
「(前略)霊界に於て其作者は勿論愛玩していた人、其品物に関係のあった人等の霊が、大いに手柄を立てたいと思い、適当の順序を経て私の手に入るように仕向けるのである。何故なれば其功績によって救われ、階級も上るからである。(後略)」
(「美術品の集まる理由」昭和27年10月8日)
「発展しないのは小乗信仰の場合が多い」
「(地方では、メシヤ教に治して貰つたら――神様にはお金を使わず治して貰えると言う様な事を言つて居りますので――)
最初はそうですよ。然し本当にお蔭を戴けば、そうしては居られないですよ。そう言うのは、信仰が違つている。何故なら、人によつて、非常に発展する人と、発展しない人がある。非常に発展するのは、良く合つているんですね。発展しないのは、こう思つて改善していかなければならない。そう言う場合には、時々その人が小乗信仰ですね。そう言う場合が多いです。発展しないのはね。だから、やつぱり大乗信仰でなければならない。気の小いさい人は発展しない。気の大きい人は発展する。そうでしよう。気の大きいと言う事は霊が大きいので、魂が大きいと、教会もそれ丈け、発展する。気が小さいと、いじけているので、教会も小いさくなる。だから、メシヤ教は何んなに大きい考えを持つても良い。世界中を救うと言うが、空念仏ではないんです。実際に効果をあげているんです。」
(御垂示録4号 昭和26年11月5日)