第三章 信仰の向上を図るために

 

7、大乗と小乗

 

 

「小乗の善は、大乗の悪」

「(前略)只単に誠といっても大きい小さいがあるから、気をつけなくてはいけない、私が常にいう小乗の善は、大乗の悪であるという意味である、如何に善でも誠でも、小乗の考え方では、結果は悪になるのである、本教は世界全人類を救うという此世創って以来の大きな仕事であるから、本教内部の事などは神様に御委せしておけばよい、何よりも社会否世界を相手として、考えるべきである、早くいえば眼を内へ向けないで、外へ向ける事である。(後略)」

 

                      (「之も慢心」 昭和26年9月12日)
   

「小乗では必ず行詰る---小乗の善は大乗の悪」

「(前略)先づ一口に言えば小乗は経で、大乗は緯である。又小乗は感情であり、大乗は理性である。小乗は善悪を差別し、戒律的であるから一般からは善に見られ易いが、大乗は善悪無差別で、自由主義的であるから善に見られ難(ニク)いのである。之を判り易くする為二三の例を挙げてみよう。
  茲に一人の盗人がゐる。夫を改心させようとする場合小乗的行方でゆくと悪事を窘(タシナ)めるべく説得するのであるが、大乗に於ては、自分も一旦盗人の仲間へ入り、機を見て、「悪い事をすると大して儲かりもせず年中不安に脅えておって詰らないではないか」というように話し、悪を廃めさせ善道へ導くのである。又親に従う事を以て孝の基とされてゐるが、偶々自分は目的を立て、それを遂行せんとする場合、親の許を離れなければならないが、親は不賛成をいう。止むなく一旦親に叛いて家出をし、目的に向って努力し成功してから、親の許に帰れば親もその光栄に喜ぶは勿論で、大きな親孝行をした事になる。之を観察すれば、前者は小乗的孝行であり、後者は大乗的孝道である。
又国家主義民族主義等も小乗的善であり、共産主義も階級愛的小乗善である。由来何々主義と名付くるものは大抵、小乗善であるから、必ず行詰る時が来る。どうしても大乗的世界的人類愛的で行かなくては、真理とはいえない。(中略)
故に世界人類尽くが共鳴し謳歌するものでなくては、永遠の生命あるものとはいえない訳で、之が真の大乗道である。由来何々主義というものは、限定的のものであるから、他の何々主義と摩擦する事になって、闘争の原因となり、遂には戦争にまで進展し、人類の惨禍を与える事になるので、小乗の善は大乗の悪であり、大乗の善は小乗の悪という意味になるのである。然し茲に注意すべきは一般大衆に向って、初めから大乗道を説く事は誤られ易い危険があるから、初めは小乗を説き、相手が或程度の覚りを得てから大乗を説くべきである。(後略)」
                          

(「大乗と小乗」昭和24年1月25日)
  

「大乗信仰でなければ発展しない」

「(前略)人によって、非常に発展する人と、発展しない人がある。非常に発展するのは、良く合っているんですね。発展しないのは、こう思って改善していかなければならない。そう言う場合には、時々その人が小乗信仰ですね。そう言う場合が多いです。発展しないのはね。だから、やっぱり大乗信仰でなければならない。気の小いさい人は発展しない。気の大きい人は発展する。そうでしよう。気の大きいと言う事は霊が大きいので、魂が大きいと、教会もそれ丈け、発展する。気が小さいと、いじけているので、教会も小いさくなる。だから、メシヤ教は何んなに大きい考えを持つても良い。世界中を救うと言うが、空念仏ではないんです。実際に効果をあげているんです。(後略)」

                                       

 (御垂示録4号  昭和26年11月5日)

  

「小乗的な人は発展しない」

「(前略)最近割合に教修者が少ないという事について、教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならないという事をいろいろ言ってましたが、それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎な所を忘れているというか、気がつかないのです。それは何かというと、何時も言うとおり大乗と小乗なのです。この小乗的考え方がいけないのです。前から言っているとおり、救世教は大乗でなければいけないというのです。だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。小乗的な人は発展しないのです。大乗的な人は発展するのです。これはひとり宗教ばかりではなく、何でもそうです。今一番発展している国はアメリカですが、アメリカは大乗的だからです。日本は小乗的だから、始終貧乏で苦しんでいるのです。(後略)」
                        

 (御教え集21号 昭和28年4月25日)
  

「本当の信仰とは、大乗信仰」

「(前略)私は今まで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。窮屈な感じがします。あなたはこういう事をしてはいけない、神様の思召しに適わない、というような事を言うと窮屈になります。そうでなく、自由でゆったりとした気持にならなければならないのです。又そうするのが神様の思召しに適うのです。
神様は小さな欠点はとらないのです。ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。だから仮りにその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、そういう人は神様の御守護が強いのです。それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳がある事になります。
もう一つは、それと同じ事ですが、小乗信仰と大乗信仰の違いさは小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人達を救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようという事は捨てて、多くの人を救わなければ、とても可哀想で見て居られないという事を、本人が始終思って念願するのです。
そういうのが本当の信仰です。ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。人から何を言われても、そんな事は気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。
だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとした事ですが、大変な違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういう事は言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないという事を始終思ったり口に出したりするのですが、それがいけないのです。第一人が良いとか悪いという事は分るわけはないのです。(後略)」 

                                          

 (御教え集21号 昭和28年4月25日)

  

「大和合の精神こそ今後の指導精神」

「昭和26年1月16日、メシヤ様は『今回の改革は、いよいよ大同団結し、救業に邁進する時となった訳である。「大和合」の精神こそ今後生まれるべき指導精神であり、「神の心」である。天国建設の根本は、先ずこの大和合精神の確立である』とお話される。」 

                         (側近奉仕者)

  

「浄霊を取り次ぐ場合も大乗的判断で」

「(前略)兎に角反対者のある場合――一軒の家でね。注意して成るべく避けると言う方針を取つた方が良いですね。問題を起すと言うのが一番面白くないんですからね。幾ら一生懸命やつても、逆になりますからね。そう言う場合に、大乗的に見れば良いですね。そう言う病人に限つて、面白くないです。病人は縋つて来るから、何とかして助けてやろうとするが、家の人が反対するので、何となく気持が悪い。それで、引つ込みがつかなくなつて、パツと死んじやう。私なんかも、昔あつたんですがね。そう言うのは避けるんです。薄情な様でも、パツと振り切るんです。それが、大局から言うと教団の為になる。それで、結果においてスラスラいつて、有利ですね。
ですから、何時も神様の事は算盤を取らなければならないと言うのは、そう言う訳です。何うしても、大乗は小悪を伴うんです。大愛でいつても、少しの悪はどうも止むを得ない。ですから、多く助け様と思つて、利他愛でやつた処で、少しは――随分、情無いと思う様な人もありますが、大局から見て有利の方をやつていくより仕方がない。それでないと、却つて神様の御神意に適わない事になる。
だから、神様は人類全部を助けるとは言われない。助かる者と滅びる者と出来ると言うんです。それが、最後の審判ですよ。最後の救いではないんです。審判と言うのは、やはり――罪(ツミ)人は罰せられると言う訳です。ですから、そこの点が非常に難かしいんです。そこで、どうしても大乗的にいかなければならない。小乗だと、あんなに縋つて気の毒だとなる。それに、ひかされている。それは小乗になる。 (後略)」       

(御教え集6号  昭和27年1月3日)

  

「大乗信仰は人間の自由を尊重する」

「(前略)観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違ふ点がある。然し戒律信仰は、戒律が厳しいから仲々守れない、止むなくつひ上面だけ守って蔭では息つきをやるといふ事になる。つまり裏表が出来る訳でそこに破たんを生ずる。と共に虚偽が生れるから悪になる。此理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。それに引換へ大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で裏表などの必要がない。従而、虚偽も生れないといふ訳で、これが本当の観音信仰であり、有難い処である。
  又小乗信仰の人は不知不識虚偽に陥るから衒ひたがる、偉くみせたがる、之が臭気芬々たる味噌になって甚だ醜いのである。そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。小人といふのは斯ういふ型の人である。(後略)」  

                            (「観音信仰」 昭和24年4月20日)

   

「本教は大乗を主とし小乗を従とする」

「(前略)抑々如何なる宗教にも大乗門と小乗門とあり、常に吾等の説く如く小乗とは火であり経であるに対し、大乗とは水であり緯である。従而小乗は戒律を旨とし、大乗は自由無碍を本義とする。此理によって転向の悩みは小乗的戒律の為で、大乗的に於ては転向の悩みなど全然ないのである。(中略)
小乗信仰は人間が限界を作り、それに捉はれて苦しむので、之は非常な誤りである。神の大愛とはそんな極限された小さなものではないに拘はらず、現在ある処の宗教の殆んどは、小乗的で、大乗的完全無欠なものは、殆んどないといっていい程である。もしありとすれば、今日の如き苦悩の世界は既に消滅し、地上天国は生れてゐなければならない筈である。従而、既成宗教は、多かれ少なかれ欠陥を有ってゐる。その欠陥の一つが、前述の如き小乗的見解であって、それが為に主神の大愛に帰一する能はず、宗教同志の醜い争いも絶えないのである。一宗一派の中にさえ派を立て、鎬(シノギ)を削り軋轢の絶間ないという事もそれであり、古き時代ヨーロッパに於る宗教争いが終りには大戦争さえ起したにみても、小乗信仰の如何に恐るべきかを知るのである。
  右の点に鑑み、本教に於ては大乗を主とし小乗を従とする以上、厳しい戒律はなく実に自由解放的である。一言にしていえば全人類を抱擁し世界主義的構想である。
  従而、本教に於ては他信仰に触れる事は些かも尤めない。絶対自由である。例えば本教信者であって他の宗教を研究しても何等差支えないのみならず、万一本教よりも優れたる宗教があれば、それに転向する事も自由である。と共に、一旦他宗教に転向した者が、再び本教に戻る事あるも、之亦差支えないのである。(後略)」

 

             (「転向者の悩みに応ふ」 昭和24年12月20日)

 

「人を尤めてはいけない---本当の愛、大乗愛で接する」

「(前略)人を尤めるって事は全然いけませんよ。それも警察官や裁判官ならいゝですがね。(笑声)先づ自分を尤める事ですよ。どんな事でも人を尤めてはいけないんです。どんな事でもね。だから私は人を尤めませんよ。たとへその人が間違ってる事をやってゝも  打棄らかしておくんです。勿論アッサリと教へる事はありますよ。「そんな事をすると、こうこうこういふ結果になる」って言ってやる事はあります。けど、私の言った事を用ひるか否かはその人の自由であって、たとへ聞き入れなくたって、それ以上もうどうにも仕方がありませんよ。何某だってそうですよ、私は以前注意した事があるんです。けど、あの人は私の言葉を守らなかったんですよ。矢張り、その人が腹からそう思ふんぢゃなくちゃいけない。そうでなけりゃ駄目ですよ。よく言ふんですが、石の落っこちるのを坂の途中で抑へるのは駄目なんです。下へ落っこちてから目が覚めて気がつく、それが本当なんです。
  こう言ふと、愛がない様に聞えるかも知れませんけどね、然しこっちの方が本当の愛なんですよ。日本では子供が転ぶと、親が直ぐ走って行って起してやるけど、西洋では子供が自分で起き上る様に言ふって事ですが、この西洋のやり方の方が愛が大きいんです。可愛がって親切にするってのは愛が小さいんです。だから、その人の将来を本当によくしてやるのが本当の愛なんですよ。例へば、金のない人に金をやったってそんなのは一時的で駄目なんです。自分で苦しんで、たとへ破産したっていゝから、そうやった挙句自分で覚るのが一番いゝんです。そしてそうするのが大乗なんですよ。
  そこで、人を尤めるのは一番いけない。人間が人間を尤めるのは神様の地位を犯す事になるんです。人間なんてみんなポチポチなんだから。(笑声)人を尤めるなんて慢心ですよ。だから中には尤める人より尤められる人の方が霊的に上位の事だってよくあるんですよ。(笑声)
(何か間違った事をした人に「何故そんな事をしたのか」と言ふ事は尤めることになりませうか?)
  「何故したか」って言ふのは尤めるんぢゃありませんね、聞くんだから。(笑声)


  (「それは悪い事だからこうしなさい」と注意する事は宜しいでせうか。)


  アッサリ話をして注意するんならいゝですよ。それからね、「こうしてはいけない」って言ふのよりも、「こうした方がよい」とか「こうすべきと思ふ」って言った方がいゝですよ。「相成らぬ」って言ふのはよくないですね。そして尤めると人が怖がる様になるんです。怖がらしておいて人を屈服せしめる――なんてのは最も愚かな事なんですよ。(後略)」

 

         (御光話録19号  昭和25年3月3日)

 

  

「小乗でも駄目、大乗でも駄目」

「(前略)小乗とは利己的信仰で大乗は利他の信仰のやうに解釈してをりますけれど、此の解釈は未だ、本当ぢゃないのですが、仮りにそういふものと仮定しても、実は小乗も大乗も間違ってゐるのであります。
  今日の小乗的信仰とは個人の利益、つまり自分が安楽に暮せばいゝ、自分の家族一族が倖せに暮せればいゝ、社会とか、国家とか人類とか、そういふものには一切関心をもたぬ、世によくある家内安全、無病息災商売繁昌などと拝む有難信仰がありますが、之が即ち個人本位の信仰であります。次に大乗的信仰と称するのは、全然、之れと反対で、社会とか、国家とか、世界人類とか、そういふ大きい事を対象として、自分の事を無視するのであります、兄弟親子と別れ、家庭を犠牲にしてでも、世の為に尽すといふのであります。
  之は一応甚だ立派なやうに見えます。成程、大きい救ひの為に、自己を犠牲にしてやるといふ事は、大変悲壮であって、立派であるが、矢張り之も、真理から言って間違ってゐるのであります。ただ特殊の場合止むを得ぬ事情に際会(サイカイ)した時を除く外、平常滅多にあるものではないのです。それで小乗でも駄目、大乗でも駄目だといふ事は明らかであります。然らば、一体どうする事が本当なのかと言へば、それは小乗にもあらず大乗にも非ず、又小乗であって大乗であるといふ事であります。それは或る場合には小乗で行き、或る場合には大乗で行く、その時と、場合、又人に依って、種々(イロイロ)に変化する事であります。例へば暑い時は単衣物(ヒトエモノ) を着、少し涼しくなるとセルを着、袷衣(アワセ) を着、寒くなれば綿入れを着ると言ふ如(ヨ) うなわけで、対象、環境に由って、即ち時所位に応じて変化する事、それが本当なのであります。(後略)」      

                     

 (「大光明世界の建設  -会主仁斎先生の御話-」昭和10年1月1日)

  

「正しい信仰とは大乗的で、自由主義的」

「(前略)私が常にいふ通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活である、処が反対に秋霜烈日の如き酷(キビ)しい戒律信仰は邪教であり、信仰地獄である、特に注意すべきは、之は人に言ってはいけないなどというような、聊かでも秘密があれば邪信と思っていい、正しい信仰は何等秘密がなく明朗そのものである。」

 

                     (「神は正なり」昭和25年3月18日)

  

「仏教は小乗、キリスト教は大乗」

「(前略)宗教に於る大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であり、キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水である。火は経に燃え、水は緯に流れる。故に仏教は狭く深く、孤立的で緯に拡がりがない。反対にキリスト教は大乗であるから、水の流溢する如く世界の隅々までも教線が拡がるのである。面白い事には小乗である仏教の中にも大乗小乗の差別がある。即ち南無阿彌陀仏は大乗であり、陰であるが、南無妙法蓮華経は小乗であり、陽である。大乗は他力であり、小乗は自力である。彼の阿彌陀教信者が「南無阿彌陀仏と唱えさえすれば救われる」という他力本願に対し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を称えるのみではいけない。宜しく難行苦行をすべきである。」といふ事になってゐる。斯様に経と緯と別々になってゐたのが今日迄の宗教であったが、最後は経緯を結ぶ、即ち十字型とならなければならない。此意味に於て時所位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、此十字型の活動が観音行の本義である。(後略)」
                          

(「大乗と小乗」昭和24年1月25日)

 

  

「大乗は緯で水、小乗は経で火」

「(前略)先ず根本から説いてみるが、大乗は緯で小乗は経である。即ち大乗は水で、小乗は火である。だから大乗はどこ迄も拡がるから無限大である。小乗は深くして高くはあるが狭い事になる。例えばキリスト教は大乗だから世界的に拡がったが、それに引換へ仏教は小乗だから拡がらない。孤立的になる。又大乗は唯物的で、小乗は精神的であるから、キリスト教によって白人文明は物質的に発展したが、仏教は精神文明であるから隠遁的で、一時は発展したが漸次衰えつつある。(後略)

                           (「大乗と小乗」昭和25年12月6日)

  

「大乗とは大自然という意味」

「(前略)抑々大乗とは大自然という意味である。大自然とは、万有一切の生成化育のあり方をいう事は勿論である。故に大乗とは一切を包含して余す処がない。此意味に於て、今私の説く大乗は大乗仏教ではなく、大乗道である。即ち宗教も哲学も、科学も政治も、教育も経済も、芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない、戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。(後略)」

 

                     (「大乗宗教」昭和25年1月30日)

 

「小乗信仰は自由がなく、大乗信仰は無碍の自由がある」

「世間一般の宗教観は、宗教というものは、非常に自由がないように思い、窮屈を恐れて触れない者も相当あるようである、処が之は大きな誤りで、斯ういう誤りの原因は全く既成宗教の中の小乗信仰に因るのである、小乗信仰は難行苦行と禁欲主義を実行する事によって、魂が磨け悟道に徹するという建前であるから、吾々からみると一種の宗教地獄に落ちるのである、之は何によって起ったかというとその信仰の本尊である神仏に力が足りないからで、本来なればその本尊の御光によって左程苦しまずに悟りを得、安心立命の境地になるのが本当である、とすれば、小乗信仰は自力であり、大乗信仰は他力という事になる、そして此小乗道は印度のバラモン宗から起った物である。
  以上によっても分る通り、小乗信仰は自由がなく、大乗信仰は無碍の自由がある訳である、といってただ単なる自由ではない、叡智が働かなければ我儘的自由となる危険がある、真の自由とは他人の自由を尊重する事であるから、そこに自らなる限度がある、所謂一定枠内の自由で、此自由こそ真の自由である、何となれば他人に些かでも障害を与えるとすれば気が咎める、不愉快であるから、そこに天空海濶的の気持にはなり得ない、どうしても他人に愉快を与える事によって自分も愉快になる、之が真の自由である事を知るべきである。」  

(「宗教に自由はあるか」昭和25年2月4日)
 

 

「程とは、伊都能売の働き」

「(前略)此程の字を標準にして、世の中の色々な事をみると、何にでも実によく当嵌る、例えて言えばやり方が足りないとか、やりすぎるとかいう事や、右に偏ったり、左に偏ったりする思想、金があると威張り、ないと萎びたりするというように、どうも片寄りたがる、多くの場合それが失敗の原因になるようだ、彼の論語に中庸を得よとの戒めもそれであろう、昔から程々にせよとか、程がいいとか、程を守れという言葉もそれであって、つまり分相応の意味でもある。
  之に就て、信仰的に解釈してみると、いつもいう通り、本教は経と緯、即ち小乗と大乗を結べば其真ン中が伊都能売の働きとなるというので、之も詮じ詰めれば程の意味である、従而人間は第一に程を守る事で、程さえ守っていれば、凡べてはスラスラとうまく行くに決っている、嗚呼程なる哉、程なる哉である。(後略)」          

                                (「程とは」昭和26年8月8日)

   

「本教は、世界を一家の如くする平和主義」

「(前略)今日でも何々主義、何々思想などといって、其仲間のグループを作り、他を仇のように思ったり、ヤレ国是だとか、何国魂とか、何々国家主義だとか、神国などと言って、一人よがりの思想が、其国を過らせるのみか、世界平和の妨害ともなるのである。
だから此際少なく共日本人全体は、今度の講和を記念として、世界人となり、今迄の小乗的考えを揚棄し、大乗的考えになる事である。之が今後の世界に於ける、最も進歩的思想であって、世界はこの種の人間を必要とするのである。
話は違うが宗教などもそれと同じで、何々教だとか、何々宗、何々派などといって、派閥など作るのは、最早時代遅れである。処が自慢じゃないが本教である。本教が他の宗教に対して、触るるななどというケチな考えは聊かもない。反って触るるのを喜ぶ位である。というのは本教は全人類を融和させ、世界を一家の如くする平和主義であるからで、此意味に於て、本教では如何なる宗教でも、仲間同志と心得、お互に手を携え、仲良く進もうとするのである。(後略)」          

(「世界人たれ」昭和26年10月3日)
 

 

「小乗信仰は堅苦しく窮屈で、偏りすぎ、善悪を決めたがる」

「私はいつもいう通り、大乗の悪は小乗の善であり、小乗の悪は大乗の善であるという事であるが、此肝腎な点をどうも忘れ勝ちな信者があるが、之は大いに反省して貰わなければならないのである。判り易く言えば、何事も大局的見地から観察するのが大乗的観方である。それに就てよく説明してみるが、一生懸命善と思ってしている事が、結果に於て案外教の御邪魔になる場合がある。而も斯ういう人に限って自力的で人間の力を過信し、大切な神様の御力を不知不識忘れ勝ちになっているのは、誰でも覚えがあるであろう。
  又、斯ういう事も屡々聞かされる。それはアノ人は随分熱心にやっているが、其割合に発展しないのはどういう訳であるのかと訝(イブカ)るが、之こそ小乗信仰の為であって、小乗信仰の人はどうも堅苦しく窮屈になるので、人が集って来ないから発展もしないのである。而も一番不可(イケ)ないのは、物事が偏りすぎるから常識を外れて、奇矯な言動をする。之を見て心ある人は、本教を低級迷信宗教と思い、軽蔑するようになるので此点大いに注意すべきである。処が其反対に、それ程熱心に見えないようでも、案外発展する人がある。斯ういう人こそ本当に大乗信仰を呑み込んで実行するからである。
  今一つ言いたい事は、小乗信仰の人に限って、他人の善悪を決めたがる。之も私は常にいう事だが、人の善悪を云々するのは飛んでもない間違いで、人間の善悪は神様以外分るものではないのだから、人間の分際で善とか悪とか言うのは僣上(センジョウ)の沙汰で、如何に神様を冒涜する事になるか分らないので、之程大きな御無礼はない訳である。何よりも斯ういう人に限って独善的で鼻が高く、人徳がないから発展しないばかりか時には碌でもない問題を起し勝である。(後略)」 

(「大乗たれ」昭和26年11月25日)

 

 

「大乗愛とは神の御心を心とし、無差別的愛で臨むこと」

「(前略)愛にも神の愛と人間の愛とがある。即ち神の愛は大乗愛であるから、無限に全人類を愛するが、人間愛は小乗愛であるから、自己愛や自分の仲間、自己の民族だけを愛するという限定的であるから結論は悪になる。此意味が分ったとしたら信者たるものは何事に対しても、大乗でゆかなければならない訳で、即ち神の愛を確かり胸に畳んで御取次する事で、必ず好結果を齎(モタラ)すに決っている。故にどこ迄も神の御心を心とし、無差別的愛で臨む以上、誰しも快く接する事が出来、喜んで人が集って来るのは当然であり、発展するのは間違いない事を、最近感じたまま茲にかいた次第である。(後略)」

 

(「大乗たれ」昭和26年11月25日)

   

「小乗信仰の人は、御守護を落としやすい」

「(前略)本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心している其油断である。此考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり畏しと憑依して了う。而も小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。
何しろ邪神が憑るや小乗善に尤もらしい理屈をつけて押し拡げ、巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。そうなると人の忠告など耳へも入らず、倍々深味に嵌って了い、二進(ニッチ)も三進(サッチ)もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、斯ういう人も早い内目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなって了い、御蔭を落す事になるから小乗善の如何に恐ろしいかが分るであろう。
小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのは茲の事である。又此点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、之が奴等の狙い処であるから、何事も常識眼に照して判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。 (後略)」  

(「霊憑りに就て」昭和26年12月5日)

   

「伊都能売とは、偏らない主義で、中道を行く事」

「(前略)伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。小乗に非ず大乗に非ず、といって小乗であり、大乗であるという意味である。つまり極端に走らず、矢鱈に決めて了わない事である。そうかといって決めるべきものは勿論決めなくてはならないが、其判別が難しいと言えばいえるので、言わば料理のようなもので、甘すぎていけず、辛すぎてもいけないという恰度良い味である。之は又気候にも言える。暑からず寒からずという彼岸頃の陽気で、此頃が一番快いのである。というように人間の心の持方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。処が今日の人間はどうかというと、実に偏りたがる。(中略)
  そうして信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、即ち感情と理性との相違からである。だから其場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである。(後略)」     

 

 (「伊都能売の身魂」昭和27年4月25日)

   

「大乗信仰でなければ、神様の御心は分る筈はない」

「(前略)人の善悪を云々するのは、徹頭徹尾神様の地位を冒す訳で、大いに間違っているから充分慎んで貰いたいのである。それは勿論人間の分際として人の善悪など些かも分る筈もないからで分るように思うのは全く不知不識の内に慢心峠に上っているからである。従って斯ういう人こそ、実は信仰の門口にも入っていない証拠である。又御経綸にしても人間の頭で分るような、そんな浅いものではないので、この点も大いに心得ねばならないのである。何しろ三千世界を救うというような、昔からまだないドエライ仕組なんだから、余程大きな肚にならなければ、見当など附く筈はない。つまり小乗信仰の眼では、節穴から天井を覗くようなものである。
  私は耳にタコの出来る程、小乗信仰では不可ない。大乗信仰でなければ、神様の御心は分る筈はないといっているが、どうも難かしいとみえて、間違った人がまだあるのは困ったものである。処が世間一般を見ても分る通り、凡ゆる面が小乗的であり、特に日本はそれが甚だしいようである。信仰団体なども内部的に派閥を立て、勢力争いなどの醜態は時時新聞を賑わしているし、その他、政党政派、官庁、会社等の内部にしても、御多分に洩れない有様で、これ等も能率や事業の発展に、悪影響を及ぼすのは勿論である。尤もそういう間違った世の中であればこそ、神様は立直しをなさるのである。そうしてこれ等の根本を検討してみると、悉く小乗なるが為であるから、どうしても大乗主義でなくては、到底明朗おおらかな社会は、実現する筈はないのである。
  それだのに何ぞや、本教信者でありながら、世間並の小乗的考え方がまだ幾分でも残っているとしたら早く気がつき、頭を切替えて、本当の救世教信者になって貰いたいのである。(後略)」
                           

(「裁く勿れ」昭和28年5月13日)

 

  

「伊都能売でやっていくと、ドンドン発展する」

「(前略)何時も言う通り、大乗と小乗ですね。大乗にあらず小乗にあらず、経と緯ですね。その真中が伊都能売です。それで、もう伊都能売にならなければならないんです。つまり、結ばなければならないんですね。処が、どうも極端になり易いんですよ。人間は――何しろ今迄の人間は、私が何時も書く通り緯と経ですからね。東洋文明の経と、西洋文明の緯が基本になつてますから、人間が皆んな経か緯か、どつちかになつている。(中略)あれは、左が経で右が緯ですからね。丁度真中が伊都能売になるんですからね。そこで、経緯を結ぶ――それはメシヤ教がやるんですからね。ですから、その信者が、経と緯をやる人でなければならないんですから――経と緯を結ぶと言う事は、大いにそれに中心を置かなければならないですね。ですから、今年は経緯を結ぶと言う頭でやらなければならない。之は解り切つた話で、つまり極端に行つちやいけないんですね。(中略)
そうして、どつちを主にする、と言うと大乗を主にしなければならないですね。何しろ――小乗が大乗の中にあるんですからね。小乗の中に大乗はないんですからね。ですから、大乗が主になつている。経緯――十は、長さは緯の方が長いのが本当ですがね。即ち、緯が大乗で経が小乗ですから、緯が経よりも少し長いのです。緯の働きが経よりも大きいのです。(中略)
そう言う風に、どつちにも偏らないで行くと、どんどん発展していくんです。よく、私は自動車の運転に例えますが、右に行つても左に行つてもぶつかるから、真直行くんです。だから、信仰の方も、この様にやつていくと、ドンドン発展していく。(後略)」
                         

(御教え集6号 昭和27年1月2日)

 

  

「結果が良ければ大乗も小乗もない」

「(前略)私は何時も大乗と小乗という事をよく言うんですが、之が本当に腹に入るのは、中々難しいらしいんですね。それで、全く難しいには違いないんですよ。そこで私は小乗にあらず大乗にあらず、大乗であり小乗であり――両方反対の事を言つているんです。之は経と緯でいえば、緯が大乗で経が小乗ですね。そこで大乗でもいけないし小乗でもいけない。それから大乗でなければいけないし小乗でなければいけないですね。だから非常に難しいと言えば難しいんですがね。解れば易しいんです。何でもない。だから一番それが分り易い考え方は、結果を見るんです。結果が良ければ大乗も小乗もないんです。大変理窟に合つていて結果が悪い人は沢山あります。むしろ理窟に合う方が結果が悪いんです。理窟に合わない方が結果が良いんです。(後略)」

               

(御教え集11号 昭和27年6月6日)

  

「メシヤ教の信仰は大乗信仰」

「(前略)何時も言うとおり救世教の信仰は大乗信仰です。それでよく昔から仏教の方で出た言葉で“大乗道”“小乗道”というのがあります。大乗小乗と言っても、本当の大乗は今までなかったのです。大乗小乗は仏教から出た言葉ですが、仏教そのものが小乗信仰なのです。だから今までの大乗というのは、小乗の中の大乗です。
それで大乗道というものは仏教でよく説かれてますが、見当違いを説いてます。というのは仏教は小乗の限られた枠(ワク)があるのです。本当の大乗というのは枠がないのだからして、そこでくい違うわけです。だから本当の大乗は仏教では説けないわけです。
つまり大乗というものは、あらゆるものが包含されているという事は勿論ですが、大乗の考え方というものは、要するに非常に深遠微妙と言いますか、人間にはちょっと分らないのです。だからいろんな説や思想がありますが、これは悉(コトゴト)く小乗です。それで本当の大乗というものを分るようになれば、それはどんな問題でも、どんな事でも分るのです。(後略)」
                         

(御教え集21号 昭和28年4月26日)
  

「小乗人間に大乗を説くと、往々間違がある」

「(前略)結局、何んでも決めるのがいけない。決めると間違う。決められない事もあるんだからね。だから、大体決めてはいけないと言うことにして、それから決めなければならない事は決める。それは、事と次第によつて色々あるんだから――決めないと決める様にするのもいけない。そこが千変万化、幽玄微妙の境地なんです。だから、それに少しでも近寄つて行けば、その人は本当に身魂が磨けているんです。之は今迄の信仰にはないんです。之は高い信仰なんです。そう言う人の信仰は間違ないんです。それが真理なんだからね。
  そう言う頭で物を考えると、兎に角面白いですよ。世のなかのことをそう言う考えで見ると、非常に良く判る。それが大乗と言うんですよ。大乗道は芯になるんです。処が、小乗人間に大乗を説くと、往々間違があるんでね。大乗はやたらに説けない。だから、覚りで行くんですがね。覚りでいつて、その人が会得すれば大したものです。(後略)」

 

           (御垂示録8号 昭和27年4月1日)

 

  

「大乗と小乗を使い分ける」

「(前略)考えが、大乗と小乗と違ってくるのです。何でも神様にお任せすればよいという事も真理なのですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるという事も必要なのです。とに角そこの使い分けです。
そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗の方が主になってはいけないので、大乗の方が主になって、小乗の方が従にならなければなりません。その使い分けに難かしい所があり、言うに言われない面白味があります。(後略)」  

                                           

(御垂示録21号 昭和28年6月1日)

  

「大乗信仰というのは結果がよければよい」

「(前略)又、正直でなければいけないと、それは結構です。しかし或る場合には嘘をつかなければならない事もあります。というのは正直のために結果が悪い事と、嘘をついたために結果がよい事と両方ありますから、要するに結果なのです。結果という事は大局から見てです。そこですが、大乗信仰と小乗信仰の違うところです。大乗信仰というのは結果がよければよいので、小乗信仰は結果を見ないで、ただ正の判断のみでゆくのです。だからそういう考え方は一種の主観です。千変万化、融通無碍という事はそういう事なのです。決めてはいけないし、型を作ってはいけないのです。
  昔から信仰というと小乗信仰が多いので、殆んど小乗信仰です。それで小乗信仰のために、つまらない事を心配したり、クヨクヨして地獄を作っているのです。小乗信仰というのは信仰地獄に陥るのです。天国というものは大乗です。苦しんだりいろいろする事は地獄に陥るのだから、つまり苦しまない事です。病人でもそうで、あの病人を助けなければならないと思うのは結構ですが、その心配のために地獄になります。 後略)」 

                                    

(御垂示録23号 昭和28年8月1日)

 

「大乗と小乗はないのが本当」

「(前略)本当の智慧というものを教えるのは救世教より外にないのです。いわゆる神智です。そこで今大乗と小乗と言うが、大乗でもいけないし小乗でもいけないのです。それから大乗でなくてはいけないし小乗でなくてはいけないのです。小乗にあらず大乗にあらず、小乗にして大乗なりというわけです。だから大乗でなくてはいけないと思うと、限定する事になるから、それでは大乗でなくなるのです。だから大乗でなくてはいけないと思う事がもう小乗なのです。これが分ればその人はよいのです。つまり一人前になったわけです。
  だから本当言うと大乗と小乗はないのが本当です。そこでバッチにあるとおり、大乗と小乗が組合わせてあって、その真中に居るのが本当です。この真中が伊都能売です。此処は経も緯もないのです。両方が組めば経緯が無くなってしまって、つまり丸になるわけです。それが本当ですが、それを知るという事は覚りなのです。(後略)」

 

                                 (御垂示録26号 昭和28年11月1日)

  

「邪神であるかないかは、人間には分らない」

「(前略)どうも一番困るのは、何時も小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは“あの人は邪神だ”とか“あそこの家には邪神がいる”とか言う事ですが、これが一番悪いのです。
  ですから私は『人を邪神と言う人は、その人が邪神だ』と言ってありますが、邪神である邪神でないという事は、決して人間に分るものではありません。神様以外には分るものではありません。それを分ると思うのは、神様の地位を犯している事になります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。
それからもう一つは、邪神を恐れる人があります。“あの人は邪神が憑いているから注意しなければならない”とか“あそこの家には邪神がいるから気をつけなければならない”と言うが、大変な間違いです。そうすると神様の方が弱い事になります。邪神を恐れるという事は、神様を下にみる事になります。本当言えば邪神の方で恐れるのです。それを邪神を恐れるという事は、神様の方が邪神以下という事になります。(中略)
この間のレントゲンの光が神様の光を通らないという事は、神様の光の方が上だからです。レントゲンというものは邪神のようなものですから、邪神の方は敵(カナ)わないのです。ただ今までの他の宗教は、殆んど邪神に負けるのです。しかし救世教の神様は決して負けません。又そのくらいでなければ世界を救う事はできません。
ですから邪神のいる所なら大手をふって、自分も行き、人も行かせればよいのです。私は前から“あの人はいけないから来ないようにしろ”とか“行かないようにしろ”という事を言われましたが、私は平気なのです。それはこっちより上のものはないので、みんな以下のものだからです。それを恐れるのは、こっちの力が足りないと思うのです。
そうすると救世教の神様に対して大変な御無礼になる、というよりか、むしろ認識不足過ぎます。ですからそういう事は一向に無頓着でよいのです。それは邪神の方がみんな恐れているのです。その点を間違えないようにしなければいけません。しかも邪神とか邪神でないとかは決して人間に分るものではありません。何となれば、邪神々々と言われている人が大変なよい働きをしています。それよりも、邪神々々と言う人が邪神なのです。
何となれば、自分の方が恐れるのだから邪神に違いありません。その点を間違えないようにしなければなりません。邪神の方は救世教の神様を大変に恐れているのです。ですから信者に憑って、やられないように邪神が擁護しているのです。救世教の神様がそこに行くと邪神の方はひどくやられますから、邪神の部下がその人に憑ってやらせるのです。ですから人間の考えは殆んど逆が多いです。
  それから人間の理窟では到底分るものではありません。神様の方は実に深いのです。たとえてみれば、医者は邪神と思うでしょう。健康な体を薬で弱らせたりして、結局命までとるという事は、とんでもない邪神です。ところがその邪神のために救世教というものが現われたのであるし発展しつつあるわけで、若し医者が片端(カタハシ)から病人を治してしまえば、救世教は発展しません。救世教がドンドン発展して威張れるという事は、医学という邪神のためなのですから、そうなれば邪神というものは大変なよい働きをしているわけです。
しかしなにも態々こっちでそういうように計画的にやるわけではないので、そういうようになっているのですから、それを良いとか悪いとか批判する事はできませんが、そういうようなものです。だから何時も言うとおり、今まで教団でも、邪神のために随分助かったり、随分よい功績があります。だから、良い悪いは言ってかまいませんが、決めるのがいけません。
何となれば神様というのは、やっぱり悪い方を利用するのです。それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。正邪の戦いという事も、全然善人ばかりだったら、戦いも何もないからおしまいです。ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるから勝たなければならないのです。
ただ今までは邪神の方が強かったために、かえって神様の方が一時的でも負けるのです。それで不幸や災があるのです。今度は神様の方が邪神より勝ってゆけばよいのです。だからミロクの世になっても、全然悪が無くなるわけではないので、やはりあるのです。ただ神様の方に負けるのです。しかし邪神というのはしつこいもので、負けても諦めるというのではなく、何処までもやります。またそれが邪神としての役目なのです。
そこでそういう事を考える必要もないくらいなものです。ただ邪神に負けなければよいのです。負けなければよいと言っても、ただ勝とうと思っても、それは智慧によって負けた方がよい場合もあるのですから、そういう場合は負けなければならないのです。だから今までは邪神に負けても、最後に神様の方が勝つという、みんな知っているとおり「邪は正に勝たず」で、結局は正が勝ちますが、今までは邪神の方が力があったから、負けている間が長かったのです。それがだんだんあべこべになってゆくのです。そしてあべこべになりきった時がミロクの世です。
結論において邪神を恐れない事と、あの人は邪神だとか、あれはどうだと決める事が大変な間違いであるという事で、それはつまり神様の領分を犯す事になります。

(後略)」
                          

(御垂示録23号  昭和28年8月1日)