第六章 正神と邪神
6、信徒としての姿勢
7、その他
「霊憑りは危険、やめるべき事」
「霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているに拘わらず、今以て止めない人があるが、之は断然やめるべきである。それに就て何故悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割迄は狐霊であって、狐霊の九割九分迄は邪霊であるから、人を瞞す事など本能的であり、人間に悪い事をさせるのは何共思わない処か、寧ろ面白くて仕様がないのである。という訳で彼等の中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、御本人もすっかり其気になって了い、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、贅沢三昧に耽るのがよくあり、之が狐霊の本性である。そうして狐霊中でも劫(ゴウ)を経た奴になると、相当神通力を有っており、人間に憑依するや其人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々な企(タク)らみをする。例えば其人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依して了い、本人の思惑通りに取りかかる。自分は是れ々々の立派な神の再来だとか、最も多いのは天照大御神の御名を僣称する事で、之は誰も知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、此人はと思う人には自分との因縁を結びつけようとしたり、多少の奇蹟も見せるので、善男善女は一杯喰って了うのである。之は世間よくある話で、方々にある流行(ハヤリ)神などは皆此類(タグイ)で、勿論斯ういうのは一パシ腕のある狐霊で、世間の甘い人達は遂瞞されて了う。又中には無暗矢鱈に金を欲しがる人があると、それを知る狐霊は憑依するや、悪智慧を働かせて、巧く金を掴めるようにするが、勿論手段を択ばず式で、大抵は罪を犯させ、一時は巧くゆくが結局は失敗して了い、其筋の御厄介になる者さえよくある。又女を得たい人間には巧妙に其女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだから危い話である。
其様に元々動物霊であるから、善も悪もない。只人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。此様に狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、之が分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。(後略)」
(「霊憑りに就て」S26.12.5)
「豆撒きをしてはいけない」
「(前略)この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押込められたという事になってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。それで、あんまり喧ましい……と言うよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他の沢山の神様が艮(東北)に押込めたわけです。その神様は三千年の間隠退(インタイ)されて、その間霊界に居て閻魔大王(エンマダイオウ)となっていたのです。
それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という事と「今度は炒豆(イリマメ)に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総大将が天若彦尊という神様ですが、その時に“炒豆に花が咲いたら再び出て来い。それまでは出られないように押込める”という事なのです。ですからしてあの豆まきという事はそういう意味なのだそうです。これは信じられない事はないです。
ところが、それに対してお筆先には“今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ”というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それが何時かというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日に大変な神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という“艮の金神の世になりたぞよ”という事は、自分が世界の支配権を握るという事です。それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。それが一昨日その型があったのです。神様は凡て型でやり、型を見せるという事になってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思っているのです。では、その結果どういう事になるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は滅びるという御働きです。それがこれからはっきり現われて来るわけです。その点から大いに変るわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。
ですから、つまり霊界が明かるくなるわけです。明かるくなるという事は、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。それからいろんな悪い事も秘密な事も浮かんで来るわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出て来ますが、これも今まででは珍しい事です。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、或る時期にゆくと、病気の増えるのも……これは一ぺんになりそうです。ですからそうなったら、何時も言うとおり、とても忙がしくなりますから、今からその覚悟をしていてよいです。その代り信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、或いは神様の言われる事に違ったりすると、手厳(テキビ)しくやられる事になるのです。それもボツボツは出ているようです。これはあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常に面白いです。そこで、人間が我を通して威張ったり、言う事を聞かなかったりするとやられる、という事がだんだんひどくなるわけです。そういうわけで、今までとは違って来ます。(後略)」
(御教え集31号 昭和29年2月5日)
「鬼門を嫌う必要はない」
「(前略)そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌(キラ)って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様という事になるからして、実は、一番善い神様、一番立派な神様です。それで面白いのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまく時には「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。
そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うという事は、人間が正しい人がなかったからです。大抵穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、若し方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。
ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常に盛んで、むしろ宣伝的にやりますが、救世教は絶対にやらないという事は、そういう根本的の理由があるからです。」
(御教え集31号 昭和29年2月7日)
「地名にも気をつける」
「【質問】御道発展の為地名の良い所を選んでその方向に力を注ぐ事は良いのでありますか。右、御教示御願ひ申し上げます。
【答】地名の悪い所をやった方がよい。成可く悪い所へ悪い所へ進めた方がよい。これは浄めるものであって、汚い所ほど浄める要がある。良い地名の所が楽とは限らぬ。良い所は反って邪神が握ってるのがある。東京などはいい字だが一番邪神の巣窟で、濁っている。」
(講話集補 年代不明)
「七五三、シメ縄について」
「七五三はシメとよむ。土が一番上へ行っている。七土 五火
三水、五六七が本当の状態である。本当の事をいえば反って間違っている。邪神の仕組である。シメ縄張るのを魔除けというが、之は神様を押込める意味になる。お宮など戸を閉めて錠がしてあるのがある。邪神が勝手な事をするのに神様は邪魔になる。それでシメ込む訳である。正神を押込め、邪神が勝手な事をするのが夜の世界の状態であるから、本当は、七五三は祝わぬ方がよい。」
(講話集補 S23・11・16)
「布教は地名の悪い所を・・・」
「【問】地名により御道の開け易い所を選んで伝道するのは如何でせう――
【答】之は反対です。むしろ地名の悪い方を選んだ方がよい。悪い所汚れた所に伝道してそこを浄めて行くのが本当です。
【問】悪い地名の方が骨が折れると存じますが――
【答】さうとも限らない。むしろ悪い方を却って邪神が閑却することもあるんです。東京といふのは言霊はいゝのですが一番濁って居り邪神の巣窟です。」
(御光話録 昭和23年9月18日)
「憑霊の事も、世の中の事も、騙されて結構」
「(前略)それから憑霊ですけれど、みんないけない訳ではないのです。良いのもある。その見別けが難かしいので、――だからしないだけが良いのではなく、するのが良いのでもない。理想は必要なだけが良いが、そうも行かない。唯、あんまり喋り度い時は聞いてやつても良い。本物ばかりではなく、贋物があるからね。何うしても口をきいて出る場合は聞いてやると良い。それを贋物と思つてはいけない。本物と思つて聞いてやる。仮に狐が出ると――「先祖の何々」と云うから、その儘聞いてやる。それで後で「先祖の何々」と云うのは「誰の時代か」「その時代の年号は」「何んで死んだ」「幾つで」「その時分は何て名前ですか」――と聞いているときつとボロを出す。すると「それは判らない」「判らない筈はない。あなたは祖霊で、さつき、死んだ病気の名前を知つている位だから判らない筈はない」と云い出す。すると、尻尾を出し、「ああいけない」とか云い出す。何でも信じてやると却つて相手は暴露して来る。騙されたら騙されて結構。之はひとり憑霊ばかりではない。世の中の事でも騙したりするが騙されて結構です。騙されている中に気を許してはいけない。又騙している奴は何処かに一貫していない。私の処へ来る奴も聞いているんです。その言葉の中に、何か一つ嘘があるんです。憑霊の事でも、世の中の事でも、その時、こつちが先方を利用したりする様にする。」
(御教え集1号 昭和26年8月8日)
「動物霊に負けないように・・・」
「 (一、芸者、娼妓、「パンパン」等を職業とする者の過去にはいかなる罪があるのでせうか。又、霊的にはいかなる者がなるのでありませうか。又、あの様な生活をする事により罪は軽くなるものでせうか、或は重くなるものでせうか。)
罪が軽くなるって訳はありませんよ。若しそうなら、あんた方だって大いにやったらいゝ。(爆笑)
(人を喜ばせるといふ意味から、幾らか罪の償ひになるのかも知れぬと存じますが――)
人は喜んだって、その次には悲しみますよ。そりゃあ、永遠に喜ぶんならいゝですよ。所が決してそんな喜びは永遠に続くもんぢゃないんですからね。あとでカサかいたり、痳病になったりね、(笑声)芸者なんかとの関係を細君が知ったら家庭の紛争の元になりますしね。こんなつまらない事はないですよ。一時間の享楽が一年間の苦しみになりますよ。遊ぶと金もかゝり、そうすると穴が開いて商売はつまって苦しくなりますしね、実につまらないもんですよ。
(牛馬は叩かれたり、殴られたりして快感を覚え、又罪も軽くなるといふ事とは関係ないのでせうか?)
だって、芸者や娼妓は牛馬ぢゃない、人間でしょ?(笑声)人間と四ツ足とは一緒ぢゃないですよ。却って反対ですね。獣は副守護神で、人間は神様の方ですから逆になる訳です。こういふ事をするのは動物霊で、狐や狸や猫ですが、そういった動物霊に負けるんですよ。つまり本守護神が副守護神に負けるんです。副守護神が勝てば屹度罪を作りますからね。罪悪ですからこんな事は絶対にやっちゃいけないんです。本守護神が副守護神に負けるのは、本守護神が弱いからなんです。ぢゃ、何故弱いのかって言へば、その人に罪が多くて曇ってるからですよ。曇りが多いとどうしても副守護神が強く働くんです。前の世の罪もあるし、祖先の罪もあるしね。その上にこんな事をすると余計に曇ってしまふんです。こんなのは一遍に破綻が来ますからね。こわいもんですよ、実際。」
(御光話録12号 S24.6.3)
「信仰すれば、普通量以上は飲めなくなる」
「飲酒と宗教は大いに関係がある事は余り知られてゐないようであるが、之に就て説明してみよう。
普通量の飲酒は兎も角、大酒癖は霊的原因に由るのである。というのは大酒家の腹中には天狗、狸、稀には龍神の霊もあるが、それ等が、蟠居し酒を嗜むのである。腹中の霊は酒の精気を吸収するので、之によって酒の量は何分の一に減少する。世間よく水一升は飲めないが、酒一升なら飲めるというのは右の理に由るからで、恰度腹中に海綿があって吸収するようなものである。そうして酩酊するや理屈を言いたがり、議論を吹かけ、高慢になるのは天狗の霊であり、酩酊するや御機嫌が好くなり、大いに嗤ったり、眠たがるのは狸の霊である。龍神は酩酊するや目がすわり、執拗に絡むといふ癖がある。
大体右の三種であるが、その面貌をみてもよく判る。天狗らしき風貌、狸らしき顔、龍神は絵画、彫刻等に見る如くで、人間にあっても目が窪んで光あり、顴骨隆く、額角張り、痩型である。又酒乱といひ、酩酊するや常識を失ひ、精神病的粗暴の行動をするが、之は大抵人間の死霊が憑くので、生前大酒の為頭脳組織が破壊され、それへ動物霊が憑依する等の為であり、悪質は狂暴性を表はし、周囲の者を困らすのである。
以上の如き大酒癖は絶対矯正されなければならないが、人も知る如く、大酒癖は本人及び社会の損失は固より、妻女を初め家族の者も絶えず苦しめられ、家庭は円満を欠き、最後は不幸なる運命に陥り易いからである、従而大酒家自身も矯正しようと何程努力をしても効果はない。前述の如くその原因が腹の中に居る、形無き御客様の為だからである。此の大酒癖を矯正するのは精神的方法、即ち宗教によらなければ目的を達し得られないのは当然である。然し乍ら、そのような力ある宗教はあまり見当らないようで、一二の宗教にはないでもないが、それは克己的に禁酒するので、克己は苦痛が伴うから面白くない。
甚だ自画自讃であるが、我観音教団では些かも節酒や禁酒を奨めない。飲みたければ自由に飲んでも差支えない事になってゐるので、飲酒家は初めは喜ぶが、時日を経るに従ひ段々酒が不味くなった、少しで酔うようになったと言うようになり、終には普通量以上は飲めなくなるので、そういふ人は教団に無数に居るが、之は如何なる訳かというと、腹の中の霊が常時観音様の御光を受ける為萎縮するからで、それだけ酒量が減るという訳である。
此理に由って如何なる宗教と雖も、光明の輝きさえあれば、その信徒に大酒家がなくなるのである。」
(「酒と宗教」S24.1.25)
「救世(メシヤ)教信者は深い根本に気付くように・・・」
「(前略)最近盛んに水素爆弾とか、今度は窒素爆弾という頗(スコ)ぶる恐ろしいのが出て来ましたが、これはいよいよこれから世界の切替について、神様の方で深い考えがあるのです。あれはみんな神様が作ったのです。よくみんな悪魔が作ったように言ったり思ったりしてますが、悪魔にはそんな力はないので、神様が作ったのです。つまり悪魔に作らせたのですが、その悪魔が本当に世の中を浄める働きをするのだから、形は悪魔でも、根本はやはり正義、善なのです。ただ、人間の判断はごく薄ッペラな判断だからそう思うのです。人間の解釈というのは深い所が分らないのだから、救世教信者たるものはその点をずっと深い根本へ気が付かなければいけないのです。(後略)」
(御教え集33号 S29.4.5)
「自らの心の掃除を心掛ける」
「(前略)本当に良い世界を造るという事は、救世教のやり方以外にないわけです。
ところが救世教をおそろしく毛嫌いするのですが、というのは、つまり身体の中に汚ないものをウンと持っているから、どうも掃除がつらいというわけです。
この掃除がつらいというのが副守護神です。というのは、自分にとって勝手が悪い事になるから、極力止めようとするのです。特に狐や狸というのは自分の居所が無くなるようなわけですから、つまり萎縮してしまい、活動が出来なくなるのです。彼等が一番怖いのは光ですが、救世教は光で救うのです。ところが一方祖先とかいうのは、光によって浄められれば霊界の地位が上りますから、救われたいというわけです。よくお蔭話で、祖霊が喜ぶ状態とか、信者にしたいとか、副守護神が邪魔しているのがありますが、それが分って見れば、実によく分ります。近頃非常に精神病が増えたという事は、そういった動物霊が働きやすくなったからです。働きやすくなったという事は、人間の霊が曇ると彼等の活動力が増しますから、此処に汚ない血膿なら血膿があれば霊の方は曇りが強いわけです。それで曇りがあるほど動物霊というのは其処で仕事をしやすくなるわけです。だから了簡(リヨウケン)の間違った者や罪を犯す者は、副守護神、つまり動物霊が働きよい状態に置かれているわけです。だから犯罪者が多いという事や、さっき言ったとおり正義感が少ないという事は、それとチャンと平均しているわけです。
(後略)」
(御教え集29号 S28.12.15)