第五章 霊的知識を深める
5、「天津祝詞」「善言讃詞」について
6、参拝について
私達は、日頃は近くの拠点とか支部へ参拝させていただいていますが、その他の参拝としては本部への参拝、あるいは箱根、熱海、京都などへの参拝など、色々とありますが、参拝とはどういうことなのか、どういう姿勢で臨ませていただけばいいか、さらなる御守護をいただくためにも、御教えを通して学んでいきたいと思います。
「忙しいところを休んで来るほど、お蔭がある」
「(前略)今度の三日間に来た人は非常に少ないのです。何時もの丁度半分です。聞いてみると、今農村が一番忙がしい時で、そのためだろうと言うのですが、これは大変な間違いです。どんなに忙がしくても、どんな事があっても来なくてはいけないのです。他の事情なら仕方がないが、農村の事情が忙がしいから来ないという事は間違ってます。そのために一日か二日の暇をかいても、それでどうという事はありません。神様はそんなものではありません。
神様は大抵十倍ですから、一日の御参りで十日のお蔭をいただきます。若しそういう考えで休むとしたら大変間違ってます。そういう事を支部長や教師などの人がよく知らしてやるとよいです。むしろ、そういう忙がしいところを休んで来るほどかえってお蔭があるのです。そこが人間の考えと違うのです。(中略)
信仰の考え方が未だなかなかずれている点があるのです。例えば肥料にしても、本当に私の言うとおりにやる人は少ないのです。大抵中途半端が多いようです。農民の人は“明主様は病気や何かの場合は、それはよく治るし、確かに仰言るとおりに違いないが、作物の方は百姓の経験はないし、そのとおり言う事を聞いていたら、とんでもない事になる”というので手を出さない人と、又手を出しても徹底しなかったのです。金肥人肥はいけないというと、それでは鳥の糞や馬や牛の糞なら良いだろう、油カスなら良いだろうとか、ヤレ灰をかければ良いだろう、ごくよいところで、堆肥をウンとやれば良いという考えなのです。ところがそれはみんな土を穢すからいけないのです。これは私が言うのではないので、神様がみんなを助けるために言うのです。どうも私の考えで言うように誤解するのです。これは古い人にはそんな考えはないのですが、新しい人に大いにあるので、その点をよく徹底するように教師の人などは教えてもらいたいと思います。ところが昨日も聞いてみると、教師自身が実は無肥料栽培という事を信じてないのです。だから言い方が弱いので、ウッカリすると百姓に言い負かされてしまうという事を聞きました。それは今まではそうでしょうが、今年はみんな目が覚めただろうと思うから、これからは大丈夫だろうという事を言っている人がいました。
そういうわけですから、参拝日に暇をかくとか、いろんな事で来難い時に来るほどお蔭があるのです。これが遊び事なら都合のよい時にという事になるが、そうではないのですから、こういう事を大いに心得ているべきです。農事が忙がしいから行けないという事は、甚だどうも当を得ていません。理窟に合いません。(後略)」
(御教え集27号 昭和28年10月27日)
「固く決心すれば御守護があって都合よく行く」
「(前略)例祭をすると決めた日を絶対に守るっていふ気持ちがあれば、御守護があってちゃんと都合よく行くんです。所が、心にゆるみがあるといろんな差支へが起ったりするんです。熱海へ来るんでもそうですよ。この次は何日に熱海に絶対に御詣りに行くと決めたら、何の故障もなく来れるものなんです。それを、都合がよかったらとか、その時の都合でどうとか思ってると、屹度故障が起るんです。
邪神が何時も邪魔しようと狙ってるんですからね。心にゆるみが出来ると邪神に隙を与へる事になるんです。雨が降っても、槍が降ってもどんな事があっても行くっていふ心構へだったら決して邪神は邪魔出来ない。固く決心すれば間違ひの起る事はないんです。(後略)」 (御光話録14号
昭和24年8月23日)
「何事も神様のことは主にする」
「(前略)神仏等に参詣に行く場合、他で用達をしてから参詣するのは何にもならないのである。それは用が主になり、神仏が従となるからである。故に病気浄霊を受けに行く時などもそうである。先づ教導所へ先に行き、他の用は後にすべきである。そうする事によって効果の著しい事はいふ迄もない。(後略)」
(「順序」 昭和24年8月30日)
「(前略)神様は几帳面ですからね。それが法と言うものです。ですから、法は順序ですね。ですから○○さんは注意しなければならない。あなたは、出し抜けに来て、お目にかかりたいと言う。あれはいけない。自分の御都合になる。昨日来たけれど、今日は面会日なんだから、今日の面会が主なんだから、面会が済んだら会うと言つた。今朝も来たのでそう言つた。と言うのは、今日は面会が主だからね。そうすると、あなたの個人の方が上になる。そう言う、順序が狂つている。それが、一つの法なんですね。だから、何んでも神様の方を先にしなければならない。主と従が、何んでもある。神様の事は何んでも主にして貰いたい。」
(御垂示録1号 昭和26年8月1日)
「参拝も資格が必要」
「(私は昭和二十一年四月入信当時、腹膜、腎臓の悪きため医薬も多量に用ひ、効果なく、御浄霊によって全快させて頂きました。其の後御訪問いたさず今日初めてお参りさせて頂きました処、家を出る時から胃の浄化を頂き、一昨夜と昨夜二回天帝より半面、裂ける様に激痛となり苦しみましたが、御浄霊によって治りました。如何なる訳でせうか。)
曇りが残っている為である。御面会も或程度浄まらぬと資格がないのである。」
(昭和24年11月27日)
「(御浄霊で霊界に逝かれた方の霊は 此の御席へ来られるものでせうか。)
来れる。沢山来てる。勿論或程度浄まった霊でないと来れぬ。」
(昭和24年3月2日)
「参拝に反対する家族が居る場合」
「(私の父は観音様信仰を絶対反対致しますが、本日御参拝致すにも反対を押切って参りました。今後は反対であれば中止して時節の来る迄待つ方が良いか、それ共反対を押切って御参拝した方が良いか、御教示下さい。)
一概には言えぬ。信仰は自由であって、これに反対するのは自由を束縛するものである。
父の霊が嫌ふのである。善の方になられると好きな事が出来ぬ。光を恐れるのである。
どっちともいえぬ。行動に表はさず、本など父に知れぬように読んで、時節を待つ。」
(昭和24年10月28日)