第六章 正神と邪神
6、信徒としての姿勢
「邪神の妨害」
「(前略)邪神の邪魔は始終ある。邪神の邪魔は自分のメグリを除られる。こっちにスキがあり、又は原因をもっている。人に騙される資格があれば騙される。智慧の不足等考えなくてはならぬ。強盗や不良等が多いのは、日本人民全部が腐っている。そこへ蛆が湧くので、湧くような状態である。皆正しい本当の心持になれば霊界が浄まるから、悪い気持は起らなくなる。一切は相応する。共産党など怠けたり飲んだりして困ると社会が悪いといふ。自分の事は棚上げにする。野心はあっても力なく成功せぬ場合、成功する人間をやっつけようとする。正しければ苦労はない訳である。
前の世の悪人で正しいのもある。その為に苦労がある。之は前の世の罪の浄化である。祖先の罪の場合、然し本当の誠の人なれば御守護によりそう困らぬ。そういふ人は物資にも困らぬ。」
(講話集補 年代不明)
「信者全部を邪神が狙っている」
「(前略)それから又、邪神ですね。邪神だつて教団の中に入り込む。信者全部を邪神が狙つています。油断も隙も出来ないです。それで、邪神の為にひどい事になる人がありますが、それは浄化作用です。邪神にやられなければ浄くはならないですね。(後略)」
(御垂示録3号 昭和26年10月5日)
「邪神は、信者を一番目掛けている」
「(前略)邪神が中々活躍しているんですよ。この間も言つた通り、邪神と言うものは、信者を一番目掛けている。処が信者は、自分は神様の御守護があるから――邪神は信者でない者に憑いて、そうして邪魔すると――こう言う風に思い勝ちなんです。そう言う事はあるにはありますが、処がそう言う邪神は、極く力の弱い邪神なんです。邪神の方のへつぽこですね。処が邪神の方で、力――腕のある奴は、信者に憑るんです。之が怖いんです。それで――憑つても、決して悪い意味じやない。信者ですから、間違つた事や悪い事を考える事はしない。「之が良い。こうするのがお道の為になる」と思わせると言う――之が怖いんです。そうすると、之が教団の為になると、その人が思つてやるが、それが知らず識らず、教団のお邪魔になつたり、不利益になつたりする事が良くある。
ですから、邪神を気をつけるのは自分ですよ。自分のやり方は、邪神にやられているんじやないかと、審神(サニワ)するんですね。そいつは大いに必要です。ですから、そう言う場合に、よく――こうした方が良いか、ああした方が良いかと迷う時があるが、そう言う時は大乗で見ていくんですね。教団全体から見て何うかと、処がどうも――人間と言うものは、自分達の会なら会を盛大にしようと言うんですがね。それは大いに結構ですがね。その位の自信を――優越心がなくてはいけないですが、その為に他の教会なら教会に影響させて、自分が良くなろうと言う――この点がいけない。ですから、自分の会も良くし――他の会も良くなると言う様な意味から言えば結構ですが、そう言う時に、一寸自分を審神(サニワ)するんですね。自己批判ですね。難かしい事はない。直き解る。そう言う時を狙つて邪神がよくやりますからね。だから、その点を改心するんですね。」
(御教え集6号 昭和27年1月1日)
「(前略)よく、邪神々々と言つてますが、邪神が一番目掛けているのは、信者なんです。それで、大きな問題ではないんですが、時々小さい問題が、教団の中にあるんです。処が、信者さんの場合は、邪神にやられても、世間の人がやられる様なのとは違う。世間の人は、本当に悪い事をするが、そうではない。信者さんが邪神にやられると、良い事と思つている事が、結果が悪いんです。それを注意しなければならない。信者さんは、之が教団の為だと一生懸命やる。それが、実は反対の結果になると言う事がよくある。(後略)」
(御教え集6号 昭和27年1月3日)
「邪神は誰に憑るかと言うと、信者に憑る」
「(前略)邪神は――どうも、色んな事をやつてますよ。邪神と言つても、邪神は誰に憑るかと言うと、信者に憑るんですね。邪神としては、一番効果があるんですね。未信者に憑つても大して効果はない。メシヤ教が一番脅いんだからね。邪神の方で、腕のある奴はメシヤ教の信者にくつついて色々やろうとする。すごいものですよ。(後略)」
(御垂示録5号 昭和26年12月6日)
「(前略)だから、邪神と言つても、邪神と言うと未信者に憑く様に思うけれども、あべこべなんです。連中が一番憑き易い――憑き易いと言うより、狙つている。そうでなければ、邪神の力の強い奴は狙うんです。大本教のお筆先に「何時も抜身の中に居る様な気持でないと危ないぞよ」「悪神が狙いつめて居るから一寸の油断がありても――」そう言うのがありますね。それが、邪神が悪い事を言うんなら、それは分りますがね。良いと思つて悪い事をやられるんだから脅いんです。之が良いと思つて――御本人は一生懸命やるから、それが大きなお邪魔になつたり――それが脅いんです。そう言うのは、邪神でも高級の――智能的な邪神です。之は、信者でなくジヤーナリストに憑るので、智能的な邪神ですね。メシヤ教と言うのがいけないから、大いに攻撃してやれとか、やつつけてやれとか、始終私語くんです。それで、奴さんがその気になつて、口惜しそうになつて書くんです。(後略)」
(御垂示録5号 昭和26年12月6日)
「重要な役割をする信者に、邪神は直ぐ憑く」
「(前略)今、遅くなつたのは、こう言う訳です。之は邪神がやるんです。私の座蒲団を敷くのが一番大事な事です。肝腎な事を邪神は邪魔するんです。一番肝腎な事を、チヨイチヨイとする。実に、邪神が憑つている。邪神は何人も憑る。だからですね、肝腎な事をボーつとしちやう。そう言う時に私が黙つていると邪神に負けちやう。だから小言を言つた。そう言うものです。だから、信者でも、重要な役割をする人には、邪神が直ぐ憑く。大抵気がつかないんですが、気がついたら大変です。一番肝腎な事は、私の座蒲団を敷く事ですね。之を敷いてない。(後略)」
(御垂示録6号 昭和26年6月2日)
「迷わすのは邪神」
「【問】光明如来様を御祭りして病気がよくなったり、種々の災害から奇蹟的に救はれたといって非常に喜んで居る人もあり、又光明如来様を御祭りしてから家族の者が次々と色々な浄化の起る家がありますが、如何なる理由でせうか。御伺ひ申し上げます。
【答】その家の罪の多少による。例えば汚れた袋はきれいにしてから良い物を入れて下さる。大きい使命のある人程苦しみは大きい。よく磨かなくては使えないからである。
私の苦しんだ時よく思った、信仰は単純な自分の気持で決められないと。決心すれば苦しみはなくなる。病気でも生を諦めると助かる。迷ふ中は苦しみが続く。迷はすのは邪神で、信仰をやめさせようとする。迷ふ事は然し信念を強める。故に疑ふのも大いによい。」
(講話集補 S24・8・10)
「しつこいのは全て邪神」
「しつこいのはすべて邪神である。本当の正神はあっさりしている。これで判別すべきである。」
(講話集補 年代不明)
「邪神の見分け方、邪神はしつこく言う」
「(前略)よく邪神が憑いてるか憑いてないか、或いは邪神か邪神でないかを見る、一つの方法があるんです。それは、一番分り易いのは、邪神と言うものはしつこいんです。で、神様程あつさりしているんです。
ですからクドクドしく一つ事を言つたりするのは、之は邪神と見て良いですね。で、高級な神様程あつさりしている。ですから、あつさり言う人は身魂が高級と思つて良いですね。それからクドクドしく言うのは、邪神でなければ、神様では低い――低級とは言えないが、低いんですね。一番低いのは狐ですよ。まくし立てますが、あれは大抵狐です。そう言うのでなく、本当に身魂が良い人は穏かに――議論したりまくし立てたりする事はないですね。(後略)」
(御教え集9号 昭和27年4月6日)
「人間の霊的階級により、相応の龍神が憑く」
「人間の霊的階級により、各階層の龍神が憑く。善悪によっても憑く。赤龍など共産主義、黒龍は邪神の頭目である。」
(講話集補 S23)
「自分が邪神にならなければよい、邪神を恐れるな」
「(前略)
これは分りきった話なのですが、どうも一番困るのは、何時も小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは“あの人は邪神だ”とか“あそこの家には邪神がいる”とか言う事ですが、これが一番悪いのです。ですから私は『人を邪神と言う人は、その人が邪神だ』と言ってありますが、邪神である邪神でないという事は、決して人間に分るものではありません。神様以外には分るものではありません。それを分ると思うのは、神様の地位を犯している事になります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。
それからもう一つは、邪神を恐れる人があります。“あの人は邪神が憑いているから注意しなければならない”とか“あそこの家には邪神がいるから気をつけなければならない”と言うが、大変な間違いです。そうすると神様の方が弱い事になります。邪神を恐れるという事は、神様を下にみる事になります。本当言えば邪神の方で恐れるのです。それを邪神を恐れるという事は、神様の方が邪神以下という事になります。(中略)
ただ今までの他の宗教は、殆んど邪神に負けるのです。しかし救世教の神様は決して負けません。又そのくらいでなければ世界を救う事はできません。(中略)
それを恐れるのは、こっちの力が足りないと思うのです。そうすると救世教の神様に対して大変な御無礼になる、というよりか、むしろ認識不足過ぎます。ですからそういう事は一向に無頓着でよいのです。それは邪神の方がみんな恐れているのです。その点を間違えないようにしなければいけません。しかも邪神とか邪神でないとかは決して人間に分るものではありません。何となれば、邪神々々と言われている人が大変なよい働きをしています。それよりも、邪神々々と言う人が邪神なのです。何となれば、自分の方が恐れるのだから邪神に違いありません。その点を間違えないようにしなければなりません。邪神の方は救世教の神様を大変に恐れているのです。ですから信者に憑って、やられないように邪神が擁護しているのです。救世教の神様がそこに行くと邪神の方はひどくやられますから、邪神の部下がその人に憑ってやらせるのです。ですから人間の考えは殆んど逆が多いです。
(後略)」(御垂示録23号 昭和28年8月1日)
「(前略)それも芝居の役としてやらせられているんですから、だからさつきも言う通り、一番まずいのは決める事です。よく、邪神々々と言いますが、あれが一番悪いですね。之は口にしてはいけないですよ。邪神だつて良い働きするんだからね。神様には必要なんです。自分が邪神にならなければ良い。人の邪神は気にする事はない。大きにお世話です。
だから私は今度も書きましたが、人を邪神だと言う事を言う人があるが、それはその人が神様になるので、神様の地位を犯しているんだからね。邪神と言われるが、言う人は大変なものですよ。神様の地位になるんだからね。神様じやない、人間とすれば、大変な冒涜ですね。神様になつちやうんじやなくて、神様の上になるんだから、この人は本当の邪神が憑いていると言う事になる。第一邪神か邪神でないかと言う事は分るものではないですよ。狐が憑いているから邪神だと言うが、狐だつて立派なのがあるんですよ。若し必要がなければ、神様が無くしちやいますよ。必要だからあるんでね。善悪を決めると言う事は中々難かしいものですよ。あいつは邪神が憑いてると思う。その思う事は良いが、あいつは邪神だから気を附けろと人に言います。と、言うことが罪になる。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「あの人は邪神だとか、どうだと決める事は神様の領分を犯す事」
「(前略)正邪の戦いという事も、全然善人ばかりだったら、戦いも何もないからおしまいです。ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるから勝たなければならないのです。ただ今までは邪神の方が強かったために、かえって神様の方が一時的でも負けるのです。それで不幸や災があるのです。今度は神様の方が邪神より勝ってゆけばよいのです。だからミロクの世になっても、全然悪が無くなるわけではないので、やはりあるのです。ただ神様の方に負けるのです。しかし邪神というのはしつこいもので、負けても諦めるというのではなく、何処までもやります。またそれが邪神としての役目なのです。
そこでそういう事を考える必要もないくらいなものです。ただ邪神に負けなければよいのです。負けなければよいと言っても、ただ勝とうと思っても、それは智慧によって負けた方がよい場合もあるのですから、そういう場合は負けなければならないのです。だから今までは邪神に負けても、最後に神様の方が勝つという、みんな知っているとおり「邪は正に勝たず」で、結局は正が勝ちますが、今までは邪神の方が力があったから、負けている間が長かったのです。それがだんだんあべこべになってゆくのです。そしてあべこべになりきった時がミロクの世です。結論において邪神を恐れない事と、あの人は邪神だとか、あれはどうだと決める事が大変な間違いであるという事で、それはつまり神様の領分を犯す事になります。(後略)」
(御垂示録23号 昭和28年8月1日)
「常に人を見ないで自分を見ること」
「(前略)あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言う事は、神様の為さるべき事を犯しているので、大変な事です。だから、人を見ないで自分を見るんです。自分は間違つているかいないかと見るんです。それが本当の誠です。人の悪い事を諌める――注意するのが良い事と思つているが、それが大変な間違いです。一般社会ならそれで良いですが、此の教団の信者になつた以上はいけないんです。若しその人が間違つていれば、神様が捻つちやいますよ。何でもないです。若しそうでないなら、人間が神様の力より上になつちやう事になりますよ。(後略)」
(御垂示録8号 昭和27年4月1日)
「御守護を忘れる人ほど、悪魔の術策に陥り易い」
「(前略)万に一つも、助かる見込のない重患が、観音力によって助けられたとする。其時は自分の生命は、観音様から戴いたものであるから、生命を捧げても惜しくないといふ、熱烈な信仰心が起るもので、又、それを口へ出す人も尠くないのである。
それが幾日も経ち、幾月も経つ裡に、不思議な程忘れて了ふ人がある。実に浮薄、驚くべきである。それは、そういふ浮薄な人こそ、巧妙な悪魔の術策に陥り易い人で、折角一度、観音様の家来になり乍ら、惜しくも再び悪魔の虜となるのである。
そうして信仰を離れた人は、例外が無いと言ひ度い程不幸に陥って了ふ事実である。それを常に余りに多く見せつけられてゐる。然し、そういふ人も早い内に気が付いて、再び救を求めて来る人はいいが、偶には時機を失して了ふ人がある。そういふ人は、不幸の極、悲惨にも滅びるやうになる人さへよく見るので、恰度、一旦乗ったノアの方舟から、海中へ墜ちて溺れるやうなものである。真に救はれた人は、此点能々注意すべきである。」
(「悪魔の囁き」昭和11年4月19日)
「邪神の恐れるものは光、邪神に加担したものは永遠に滅びる」
「(前略)一口に邪神というが、邪神にも大中小種々あって、その頭目は兇党界の支配者で、曇りの多い人間程邪気の霊線によって自由自在に操られ、神に対し不知不識妨害手段をとるのである。処が邪神は今日迄何千年間思うまゝに振舞って来たので、霊界の転換を知らず今迄通りと思って悪を続けてゐるのである。然るに愈よ霊界の転換が寸前に迫ったので、彼等は眼が醒めぬまま周章て出したのも無理はないのである。
といふ事は、邪神の最も恐れるのは光であって、霊界が昼となるに従って光が強烈となるのである。即ち邪神の恐怖時代が来つつあるのである。それは邪神は光に遭うや萎縮し活動する力が弱るのである。(中略)
本教に向って妨害するものは、観音力から発する光を恐れるので、彼等邪神界は何とかして此光を防止しようとして凡ゆる妨害を行ってゐるので、それが昨今の彼等のあわて方である。然るに昼の光とは太陽の光線であるから、如何に死物狂いで防ごうとしても徒労以外の何物でもない。処が茲に何人も警戒しなければならない一大問題がある。それは邪神に加担したものは、最後の審判の場合、永遠に滅ぶる運命者となるのである。故に愈よとなるや、何程後悔しても先に立たずで、滅亡するのは必定である。随而何よりも今の中悔悟遷善し、神の大愛に抱かれ、悪から脱却し、善人の仲間に入り、歓喜の生活者となって永遠の生命を得なくてはならないが、それを吾等は奨めてやまない所以である。」
(「邪神と没落」 昭和24年11月20日)
「負かそうと言う気持そのものが、メシヤ教ではない」
「(前略)之はあり得る事で、心得て置かなければならない。それは「先は――暴れた人間に憑いた龍神は邪神だ。之をやつつけなければならないと思つた。私の神力で――お力でやつつけて貰いたいと言う意味なんですが、それは逆で、あなた方皆んな――十何人かの信者皆んなに邪神が憑つている。暴れると言う龍神は、神様なんだ。手紙には、何うしても勝たなければならないと言う事を書いてあるが、勝たなければならないと思う気持は、それは邪神なんです。だから、あつちに行つたら、負けなさいと言え」と言つた。負ければ、先が良い気持になる。負かそうとするから、先が怒つて来る。負かそうと言う気持そのものが、全然メシヤ教ではない。昔から言う通り、負けるが勝です。負けなければならない。勝とうとする気持が、全然メシヤ教の気持とはあべこべになつている。それは、行者か何かがやる事です。縦(ヨシン)ば邪神でも、負ければ良い。(後略)」
(御教え集4号 昭和26年11月5日)
「有徳者になれば、悪霊邪神もその光に恐れて近づけない」
「(前略)右に引換へ多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞するから、いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。よく神仏の像などにある円光なども、それを表徴したものである。(後略)」
(「霊界の不思議」昭和24年10月25日)
「邪神にやられてもスースーいく」
「(何事を致します時でも、神様を信仰して悪い事をすると言う事はないと思ひますが、スースーいくと言う事は、良いと思つてやるのが――)
いけないし、スースーいつても駄目です。何故なら、邪神にやられてもスースーいくんです。そこで叡智です。大乗ですね。小乗でスースーいくのは危ぶないんです。大乗と言うと――何うかと言うと、仮にこの人を助けると言う場合に、人間の力は限度があるから、両方助ける事が出来ない。較べてみて、どつちが大きいか考える。一番大きい事は世界人類を助けると言う事です。 (後略)」
(御垂示録4号 昭和26年11月1日)
「邪神がかかる場合も、因縁がないと憑れない」
「【問】私は二十年秋入信させて頂き、二十三年元日狭心症で倒れ、医師に見離された所を、平本先生の御浄霊で助けられ、家族中入信、大光明如来様も祭らせて頂いて居りますが、二十三年二月頃より悪夢を見ると極端に身体の工合悪く、其の都度御浄霊を頂くと必ず悪霊が浮き、最近は「サタン」と名乗り大暴れをし、黒龍と言っては大あばれをし、踊る神の本尊狐と名乗り、御神前で大暴れをし、平本先生の御浄霊に依り鎮まって居ますが、之は如何なる因縁で御座いませうか。
【答】何千年か何百年前、邪神の幹部の系統である。そういふ因縁がないと憑れぬ。邪神でも団体みたいになっている。口惜しくて邪魔しようとするか、助けられたいかだが、そこまで行ってはいない。大分弱ってはいる。改心しても――。(邪神にもよいわるいがある)」
(講話集補 S25・2・3)
「邪神の妨害、三例」
「(前略)今から十数年前の事である。某資産家のT夫人(四十余歳)の病気を治療し、漸次快方に向ひ、非常に信頼を深めつつあった頃、或日T夫人が午睡をなし夢を見たのである。その時姿は判らないが言葉だけ聞えるのである。それは「お前は近頃岡田を非常に信用してゐるが岡田は良くない人間で、何れはお前の家の財産を捲き上げるやうになるから、今の中に手を切れ」と曰ふのである。それに対し夫人は『私は難病を助けられ、現に日々よくなりつつあるのであるから、岡田先生とは絶対放れない。』と言ふや、彼は「お前が俺の言ふ事を聞かなければ斯うしてやる」といって喉を締めつけたので、その苦しみで眼が醒めたのである。それだけなら普通の夢であるが、茲に驚くべき事があった。それは首を締められる時に、その指の爪が喉の皮膚に強くあたって紅く腫れ上り痛むので、電話で私を呼んだので、早速赴(オモム)いてみると、成程爪で強圧した為の爪の痕がありありと残り、紅く腫れて一見痛そうである。どう見ても現実的に指で強圧したとしか思はれないのである。之によってみても邪神なるものの如何に力があり、恐るべきものであるかといふ事を倩々(ツラツラ)窺はれるのである。
次の例は、廿歳位の某家の令嬢から、朝早く電話で招ばれたので早速赴いてみると、矢張り夢を見たのであるが、その夢とは、半年位前に死亡した或知合の青年が、突然ピストルを妾の心臓目がけて打ったので、その痛さで目が醒めたといふのであるが、目が醒めるや全身が痙れ、歩行が出来ないので、這づって便所へ行ったといふのである。早速私が治療に取掛ると、心臓の附近に血が出てゐるやうな気がするから見てくれといふ、私はそんな事は全然ないと言った。又心臓に弾が入ってるやうな気がして痛いから抜いて呉れといふので、私は指で勿論霊的に弾を取出したので、心臓の苦痛は除れたが、全身の痙れは多少は良くなったが全治はしなかった。私は夕方までには治るからといって帰ったが、その時熟々思ったのは、夢の出来事が、覚醒してまでそのまま苦痛が続いてゐるといふ事実が不思議に堪へなかったのである。
右の原因として考へられる事は、その日の夕方から私の家で座談会を催す約束があったので、邪神がそれに出席出来ないやうに右の如き手段をとったのであると想ったのである。何となれば右の令嬢は私の療法を信頼し、宣伝など熱心な為に邪神から睨まれたのであらう。勿論其晩右の会へ出席したのである。
次は、某海軍大佐N夫人は非常に熱心な本療法の推奨者であった。宣伝など何事を措いても熱心に維(コレ)努めるといふ程であった。勿論二人の御子息と一人の令嬢が本療法によって命拾ひをしたといふ為の感激もあるので、その体験と熱意に動かされない人はない位であった。
此様な次第で、N夫人によって本医術を知り、私の所へ訪問する人も時々あったのであるが、不思議な事には某国務大臣の夫人及び某医学博士を連れて来た時であった。此二回とも不思議にも、その晩病気ではなく非常に苦しんだのである。処が二回目に苦しんだ時面白い事があった。それは其時御主人が不在で、御子息と女中が治療に取掛り、二十分位でやや苦痛は薄らいだが、傍に居た十歳になる令嬢が、ふと母親であるN夫人の身体から人頭大位の黒い円形のものが抜け出るのが見えた。「アッお母さんの身体から黒い玉が出た」といふが否や、N夫人の苦痛は去ってケロリとしたのだそうである。私は翌日右の話を聞いて、邪神が苦しめた処、治療によって憑依不可能となり抜け出たのを見たといふ事が判った。
すべて霊が移動する場合、人霊と雖も玉形となるのである。昔から人魂を見る場合、何れも玉形である事は人の知る所である。そうして神霊は光輝を発し、人霊は白色又は薄橙で光輝がなく、悪魔は黒色であるのである。
N夫人が二回ともそうなった原因は、その日に連れて来た人は、何れも有力者であるから、邪神として今後そういふ事をさせないやうに懲らそうとした為である事は勿論である。
右の三例によってみても、邪神の妨害の恐るべき事を知らるるであらう。」
(「正邪の戦」明医三 昭和18年10月23日)
「礼拝する場合、第一義的正神でなくてはならない」
「(前略)抑々人間が、信仰的信念を以て拝む場合、其本体即ち、的である処のものは、飽迄も崇高なる神格と、正しい第一義的の神霊でなくてはならないのである。それは、如何なる意味かと言ふと、崇敬し、拝跪すべき御神霊は、人間よりも、霊的段階の最上位の御神格程良いのである。何となれば、常に礼拝する御神格が高ければ高い丈、人間の霊魂はより向上すべきものなのである。
此理に由って、鰯の頭を拝めば、鰯の頭以下の霊格に墜ち、狐狸を拝めば、四ツ足以下に墜ちるのは当然である。故に斯ういふ低級信仰を続けるに於ては、不知不識、其人の心性は四ツ足以下に下劣となり、利己的となるものである。其結果、善に属する事よりも、悪に属する行為をし勝ちになり、それが又、罪を構成するから、其罪に由って何時かは不幸を招き、悲惨な境遇となるのである。故に熱心な信仰をしながら、不幸や病気、災難などに、次々悩まされるといふ訳は、其信仰の的たる神霊が、実は、低位の神か又は邪神系統に属する神なのであるから、其点を充分注意しなければ、反って信仰すればする程、不幸な境遇に陥るのである。
真に正しい、高位の神仏を信仰、礼拝するに於ては、月日を経るに従ひ、病人は無くなり、物質は豊かになり、一家円満にして、自然に栄えてゆくものである。然し、斯ういふ信仰は洵に少いので、世の中を見渡しても、殆んど見当らない位である。
大抵の信仰は、如何程信仰しても、不幸が消えないので止むを得ず、不幸は神の試練だとか、罪障消滅の為だとか、種々苦しい言訳を作り、果は不幸を楽しむのが、真の信仰に徹底した人の如に謂ふ様になったので、実に間違ひも甚しいのである。之を以てみても、今日迄の信仰の価値は想像出来るであらふ。」
(「鰯の頭も信心とは 大いなる誤りである」昭和10年)
「邪神のつけ込むスキがないように・・・」
「(前略)大いに警戒しなければいけません。三つも問題を起こすという事は大変なものです。これが一番悪いです。これが御神業に対して非常なお邪魔になります。つまりみんな邪神に負けるのです。負けるという事は、それだけタガがゆるんでいるのです。こっちがチャンと知って居れば、邪神のつけ込むスキがないのです。やっぱりこっちにスキがあるから先が打ち込むのですから、抜身の中に居るつもりで居なければ、何時抜身でやられるか分りません。しかしこれは薬になります。少しタガを締めてもらわなければいけません。
それでなにしろ御神業というものは千変万化ですから、これからはできるだけ医者にかけさせる方針にするのです。それより他にしようがありません。医者にかかる事と問題を起こす事はどっちが悪いかというと、問題を起こす方がずっと悪いので、医者にかからせた方がずっとよいのです。問題を起こさないという事が第一です。ちょっと危ぶないと思ったり思うように行かなかったら、医者にかけるか、さもなければ手を引いてしまうのです。病気がスラスラとなおってしまうのはよいですが、どうもうまく行かないとか、スラスラと行かないのは、手を放すか医者にかけるかどっちかです。ですから和戦両様の準備をしなければいけません。死んでも問題は起こらない、助かれば結構だ、というどっちに行っても問題は起こらないというやり方にするのです。これはあらゆる事がそうです。(後略)」
(御垂示録21号 昭和28年6月1日)
「邪神は心の隙を狙っている」
「(前略)普通信仰者の最初の中は至極真面目に御神徳や奇蹟に感激し、熱心な信仰を続けつつあるのであるが、正しい信仰である以上おかげは著るしく自然多数の人から尊敬される事になり、生活境遇も大に恵まれるので、本来なれば愈よ神恩に感謝し、一層身を慎しみ報恩に尽すべきに拘わらず、凡人の悲しさ、不知不識恩に狃(ナ)れ、慢心が生じ、心に隙が出来るのである、処が邪神は此隙を常に狙ひつめてゐるので、得たり賢しとその隙に入り込み、その人を占領し肉体を自由自在に操るようになるので、実に危い哉というべきである、而も覇気あり役に立つ人ほど邪神は狙ふのである、然し本当に正しい信仰者でありとしたら邪神は手が出ないので
諦めて了ふから安全であるが、中には引っ掛る人もあるので此点仲々むづかしいのである。
然し、之も標準に照してみればよく判る、つまり自己愛の有無である、神様の為、人類の為のみを第一義とし自己の利害など考えず驀らに進めばいいので、斯ういう人こそ邪神はどうする事も出来ないのである、処が少しうまくゆくと自惚が出る、自分が偉いと思う、此時が危いのである、終に野心を有つようになる、それが為自己を偉くみせようとし、勢力を得ようとする、実に恐ろしい事である、一度斯うなると、邪神は益々魂深く入り込み終に占有して了ふ、而も大きい邪神になると相当の霊力を発揮する、勿論一時的霊力ではあるが、病気を治したり奇蹟なども表はすから、慢心はいよいよ増長し、終には何々の神の身魂とさえ思はせられ、生神様となって了ふのである、斯ういふ生神は世間に沢山ある新宗教の教祖などは殆んど此類である、然し本当の神様ではないから、或時期までで没落して了ふのである、茲で注意すべきは、そういふ宗教の教祖とか生神様とかいうものの態度を厳正なる眼を以てみればよく判る、その著るしい点は、愛の薄い事と、信仰は小乗的戒律的で厳しいと共に、自分のいう事を聞かないと罰が当るとか、自分のグループ又は信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいって脅かし、離反を喰止めようとする所謂脅迫信仰である、斯ういふ点が些かでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。
私が常にいふ通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活である、処が反対に秋霜烈日の如き酷(キビ)しい戒律信仰は邪教であり、信仰地獄である、特に注意すべきは、之は人に言ってはいけないなどというような、聊かでも秘密があれば邪信と思っていい、正しい信仰は何等秘密がなく明朗そのものである。」
(「神は正なり」 昭和25年3月18日)
「観音会を潰すのは獅子身中の虫」
「(前略)先方が悪く言っても意趣返しせぬ方がよろしい。観音会を潰さんとする邪神は、獅子身中の虫である。(後略)」 (
講話集補 年代不明)
「邪神に属する神様と高位の神様の違い」
「(前略)又、斯ういふ事もよくある、それは思うように御利益がないと其教師なり先輩なりが決って言う事には、あなたの信仰がまだ足りないからと言い訳をする。恰度御利益なるものは、神様から恵まれるというよりも、人間の努力で引き出すように思うらしい。本来神様は大慈大悲であるから、御願いしただけでも、必ず御利益は下さるものである以上、人間が一生懸命になり、度を越すと反って、本当の神様ならお嫌いになる。特に断食とか、茶断ち、塩断ち、水を浴びたり、お百度参りするなどは、最も神意に添わないのである。何となれば、神様の大愛は、人間の苦しみを厭わせ給うからである。考えてもみるがいい、人間は神様の子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はないではないか、故に苦行によって仮令御利益があっても、それは本当の神様ではなく、邪神に属する神様である。何よりもそういう御利益は、必ず一時的で長く続くものではない。処が、本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。
要するに、御利益を得たい為、無理に信じようとするのは、低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、之が高位の神様の證拠である。」
「宗教即奇蹟」 S26.4.11)
「御神書を聞かせることで、邪霊は段々萎縮していく」
「(前略)御神書を本人に聞かせるんです。そうすると――御神書を聞かせると言うのは、霊に聞かせると言う事もあるし、その人の曇りが取れていくので、邪霊は段々萎縮していくと言う事があるんです。(後略)」
(御教え集6号 昭和27年1月26日)