第二章 メシヤ様の御経綸

 

三大迷信の打破

 

④ その他の迷信

 

「法律迷信」

 

「(前略)之は前二者とは些か異る点がある。即ち法律の目的は、犯罪を防止するにある事は言う迄もないが、其手段として用いているのが、単なる取締りと刑罰だけである。然しそれだけでは予期の目的は達し得られないという事も分っている。何よりも今日の世相がよく物語っているからである。それは全く根本的重点に誰も気が付かないからである。では何故気が付かないかというと、ヤハリ一種の迷信に囚われていた為であって、迷信とは勿論犯罪の原因である人間の魂を無視して来た事であって、只単に表われた結果のみを対象として、それのみに腐心努力して来た誤りである。従って本当に犯罪を無くすとしたら、人間の魂を改善させる以外、方法のない事は余りに分りきった話である。処が其方法こそ宗教の力であってみれば、当事者は此事に気が付き、それを基本として、犯罪没滅の方針に出なければならないのである。此意味が心から分ったなら、何よりも先ず御自分が信仰に触れてみる事である。といっても今迄の宗教では先ず期待は出来まい。何となれば今日迄の処教育や道徳の方が、宗教よりも重用されて来た事にみても明かである。右の如き事情なるが為、止むなく法的刑罰主義を唯一の方便として行って来た訳で、之も無理はなかったのである。(後略)」

       (「三大迷信とは何か」昭和26年8月29日)

 

  

「唯物思想という迷信」

 

「一口に迷信といふと、どうも宗教に附物のやうに思はれるが、実は迷信は宗教には限らない、如何なるものにも迷信はある。唯気が付かないだけである。勿論科学にも、政治にも、哲学、教育、芸術にも悉く迷信がある。否迷信が多すぎて困る位だ。之等幾多の迷信によって、如何に人類は災ひせられ、不幸な目に遭ってゐるかは、計り知れないものがあらう。

その中の最も大きな迷信とは、何であるかといふと唯物思想である。彼等は見えざるものは信ずべからずといふ建前で、見えるもののみを信じて得々してゐる。此思想が罪人を作り、健康を損ね、貧困者たらしめる。而もそれに乗じて共産主義が発展し、遂に現在の如く第三次大戦の原因とさへなるのであるから、世界中の国といふ国は、何れも之に脅えてゐるといふのが現状である。之によってみても唯物思想の迷信が、如何に恐るべきかを知るであらう。

諸君は、無神論的共産主義のソ聯の人民になりたいか、それとも基督教的民主々義のアメリカの人民となりたいか、それだけ考えても判る筈である。(後略)」      

 

 (「どちらが迷信だ」昭和25年10月11日)

 

 

「嘘吐き迷信---無神思想が原因」

 

「迷信にも色々あるが、一寸人の気の付かない迷信に、此嘘吐き迷信がある。つまり嘘を吐いても、巧くゆく事と思う迷信で、現代の人間は実によく嘘を吐く、大抵の人は最早馴れっこになって了って、不知不識嘘を吐いても平気である。つまり嘘が身に付いて了って全然気が付かないのであろう。部下などがそういう時、私はいつも注意を与えるが、御当人は仲々分らないで、嘘と本当との区別さへつかない者が多い。そこでよく説明してやると、どうやら嘘である事が判って、謝るという訳である。此様に嘘と本当との限界が分り難い程、今の人間は嘘が当り前になっている。 (中略)

話は横道へ外れたが、つまり嘘を吐きたがるというその本心は、全く嘘をついても知れずに済むと思うからで、実は甘いものである。成程世の中に神様がないとしたら、それに違いないから、巧く嘘を吐く程悧口という事になるが、事実は大違いだ。何となれば神様は厳然と御座るのだから、どんなに巧く瞞しても、それは一時的で必ず暴露するに決っている。だから暴れたが最後恥を掻き、信用を失い、制裁を受け、凡そ初めの目的とは逆になるから、差引大損する事となるに違いない。只神様が目に見えないから無いと思うだけで、恰度野蛮人が空気は見えないから、無いと思うと同様で、此点野蛮人のレベルと等しい訳である。何と情ない文化人ではなかろうか、従って此理を知ったら、何程立派な働きを有っていても駄目であるのは当り前で、特に人の善悪を裁くなどという神聖な職責にある人達としたら、大いに其点に留意しなければならないのである。だからそういう人こそ、人を裁き乍ら、遂には御自分が神様に裁れる事になるのである。(後略)」              

                         (「嘘吐き迷信」昭和26年9月5日)

 

 

  

「宗教迷信の打破」

 

「(前略)今日迄の宗教は悉くといいたい程地獄的宗教であって、真に天国的宗教はなかったといってもいいのである。としたら我メシヤ教こそ、初めて生れた処の天国的宗教である事は、言う迄もなく、従って今日迄の宗教とは、何から何迄格段の異いさである。

(中略)本教は芸術を大いに奨励している。恐らく既成宗教も数あるが、本教位芸術に重きを置いているものは外にあるまい。というのはいつもいう通り、天国とは芸術の世界であるからで、即ち芸術は真善美の中の美である以上、最も重要なものである。言う迄もなく、人間にとって美から受ける感化は軽視出来ないものがある。美によって心を楽しませると共に、不知不識の内に品性を向上させ、平和愛好の思想が醸成されるからである。(中略)

既成宗教に於ては、此美の観念に対しては、昔から実に無関心であった。否反って美を否定する事が、宗教本来のもののように錯覚して来た事である。それは大抵な宗教信者は、熱心であればある程粗衣粗食、茅屋に住み、最低生活に甘んじているのである。之では全く真善美ではなく、真善醜といってもよかろう。斯ういう信者の家庭に入ると、何となく湿っぽく陰欝であり、全く地獄の感がするのは衆知の通りで、之を吾々は信仰地獄といいたいのである。その頭で吾々の方を見るから分りよう筈がない。何しろ地獄の眼で見る以上、本教の行り方が間違っているように思えるのであるが、実は此観方こそ恐るべき迷信である。従而、此迷信を打破し、目醒めさせ、天国的宗教こそ真の宗教である事を、認識させたいのである。

斯うみてくると、厄介なのは現代の世相である。それは科学迷信ばかりではなく、宗教迷信も加わって、地獄世界を作っているのであるから、此盲点を充分判らせなければならないのである。それには宗教以上の超宗教、即ち天国的宗教が出現する事であって、それが我メシヤ教である事を明言するのである。(後略)」    

                 (「天国的宗教と地獄的宗教」昭和26年10月24日)

 

  

「科学迷信の誤り」

 

「(前略)これ程文化が進歩発達したに拘わらず、人間の最大欲求である幸福はそれに伴わないばかりか、寧ろ不幸の方が益々深刻になりつつある現実である。ではその欠陥とは何であるかというと、これこそ科学至上主義の誤りであって、現代人は科学によれば何事も解決出来るとする科学過信というよりも、科学迷信の深淵に陥ってしまっている事である。ここに於て神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明世界を樹立すべく、人間を介して直接行動に取掛かられたので、これも全く時の然らしむる処である。そうしてこの迷信発生の原因こそは、見えるものを信じ、見えざるものは信ずべからずとする唯物一辺倒の為である。従ってこの考え方を是正するには、どうしても今日まで無とされていた霊なるものの実体を認識させ、一切は霊が主で物質が従であるという真理を会得させる事である。(後略)」

                       

(「救世教奇蹟集 序文」 昭和28年4月1日)

 

 メシヤ様のお書きになった、世の中に存在する「迷信」について、色々と学んできましたが、このような迷信を打破していくことこそ、メシヤ様の願われた、「宗教改革」に他なりません。

 メシヤ様の信者である我々は、そういったことをどこまで理解して、言葉に、また行動に表しているのでしょうか?。自分の信仰が問われているところです。

 また、この問題は、個人に止まらず、それぞれの宗教教団にもあります。各教団における教団方針は、この線に沿って出されるものでなくてはならないからです。

 

 ご自分の所属する教団方針はどうでしょうか・・・。

 一度再吟味する必要があるのではないでしょうか・・・。