第二章 メシヤ様の御経綸
三大迷信の打破
③ 無神迷信
「邪神は無神論を植え付けるのが一番の目的」
「(前略)邪神の方で一番恐いのは神様の方だからね。どうしても神様はないと言う無神論を植え付けるのが一番の目的なんです。そこで、無神論と言うものを人類に――一生懸命に植え付ける為に二千年もかかつているんです。つまり物質ですね。病気を治せると言う処を見せ様と思つたんです。それで一生懸命に――ユダヤは学者が多かつたからね――やつて来て、未だにそれに瞞まされている。その奥には邪神の親玉が居る。物質で治そう――病気を解決しようと、それ一方で進んで来たのが医学ですからね。(後略)」
(御垂示録2号 昭和26年9月1日)
「見えない未知の力の存在」
「(前略)現在科学及び人間の五感によって知り得たものとしては、電磁気、空気、物質元素等である。然るに私がいはんとする所は、科学的にも五感によっても未だ知り得ざる処の気体即ち霊気である。然し乍ら霊又は霊気といふ文字は今迄とても相当使用されて来たが、その多くは宗教又は心霊科学の面に限られてゐた。それが為に霊といふ言葉は兎もすれば迷信視せられ寧ろ霊を否定する事を以て、識者の資格とさへ見らるる如き傾向があった。然るに何ぞ知らん。此霊なるものの本質こそ、驚くべき力の根原であって、森羅万象凡ゆる物の生成活動変化は之に由るのであって、之を私は不可視力とも言ふのである。(後略)」
(「自然力」昭和22年2月5日)
「奇蹟は奇蹟」
「宗教に奇蹟は附物である。否附物であらねばならない。観音教団には奇蹟が非常に多い事は信徒諸士の常に体験する所であろう。奇蹟によって信仰が深くなり、熱が加はる事も亦明かである。然るに近代の宗教は奇蹟が少い為、反って奇蹟の多い宗教に対し迷信呼ばわりをする傾きのあるのは遺憾であるが、勿論それらは唯物主義者であるから止むを得まい。一体奇蹟とは何ぞや、言ふ迄もなく有り得べからざる事実があり得る事である。例へば幾人もの医者に見放されたる重患者が信仰によって全治する事がよくある。又交通機関等の事故によって危き所を助かったり、負傷すべき筈なのに何等の被害も受けなかったり、特に戦時中外地に於ける出征者や、内地に於ける被空襲等の危機を免れた人々の余りにも多い事である。
宗教的奇蹟を迷信視するジャーナリストにも困ったものであるが、無理のない点もある。成程世間には低劣極まる宗教や、神憑的怪げな信仰も相当あるにはあり、社会に及ぼす害毒も尠くないので之等の弊害を防止すべく迷信を警告するに対しては吾等も賛意を惜まないが、但だ玉石混淆的に、新興宗教でさへあれば一応は迷信視するという態度は感心出来ないのである。科学のメスによっての検討もせず、論理的に研究する事もなく、独断的に否定し去るといふ事は、文明に背反する態度ではあるまいか。正しい信仰は事実に於て人類社会の福祉を増進する大いなる役目を果しつつある事を認識されると共に反省を促したいのである。もし奇蹟が迷信であるとすれば彼のキリスト教も迷信といふ事になろう。何となればキリストが水を葡萄酒に化し、数十人分の量がたちどころに甕(カメ)に満ちたという事や、盲の眼が開き、跛行者(ビッコ)の足が立ったりする等の話は立派な奇蹟である。
私は思う。悠久極りなき此地球上に於て、何時如何なる時代に、奇蹟の宗教が表われないと、誰か言い得るであろう。」
(「奇蹟」昭和24年1月25日)
「迷信でないものを迷信とする迷信者」
「(前略)いくら勧めても、此世に神などあるものか、それは迷信に過ぎないと絶対否定する人も少なくないが、斯ういふ人こそ吾等からみると、迷信でないものを迷信とする迷信者であり、反って気の毒な人と思ふのである。何となれば、迷信と言はれる吾々の方は、常に安心立命の境地に住し、此険悪なる世相の中にあって何等の不安なく、楽しき人生を送ってゐるからである。(後略)」
(「当局に望む」昭和25年10月30日)
「主観を捨て、白紙になって批判すべき」
「(前略)見えざるものは信ずべからず、見えざるものを信ずるのは悉く迷信であるとして排斥する人達で、現在有識階級に最も多いやうである。勿論唯物主義者である以上、宗教を学問的に扱ふのを可としてゐる。故に彼等は宗教を云々する場合、悉く理論化し哲学化されなければ承知しないので、吾等から観ても、其論旨なるものの多くは外皮的浅薄極まるもので、吾等を批判する場合も単なる悪口にすぎないのである。従って本当に宗教を批判するとしては、其宗教に深く没入し、内容に向って鋭い眼を以て、其実体を見極めるべきである。そうしてどこ迄も主観を捨て去り、白紙となって批判すべきである。由来宗教の本質は、外容的のものではない。内存的のものである。としたら彼等の批判的態度も大いに革(アラタ)める必要があらう。
右の如くであるから、本教にしては批判の場合外廓だけをみて、現当利益本位だから世俗的信仰だと決めて了おうとする、不親切な軽率さである。之を改めない限り百の批判も意味をなさないといってよかろう。故に本当に本教を検討すれば判るが、本教は世俗的信仰でもあり、理論的宗教でもある。未だ嘗て人類に経験のない超宗教と言ってもいい。そればかりではない、本教の主張は独り宗教に関するもののみではない。医学も、農業も、芸術も、教育も、経済も、政治も人事百般重要な部門は悉く対象としてをり、最高の指針を与へてゐる。之を一言にしていえば、信仰即生活の理論を如実に表はそうとするのである。」
(「現当利益」昭和25年11月8日)
「苦しみの根本は無信仰の為」
「(前略)みんなが言っている色々の苦しみは、其根本は悉くといいたい程無信仰の為であって、信仰者になりさえすれば、雑作もなく解決が出来る性質のものであるが、それに気が付かないのだから、可哀想な世の中であり、何時になっても苦しみから脱却出来ないのである。此様に無信仰者が多いという原因は、全く既成宗教を信じ得ないからで、それは余りに無力であるからであろう、としたら人民ばかりを咎める訳にはゆくまいであろう。
従而、何としても宗教の信用を快復し高める事で、それ以外決して方法はあり得ないのである。といっても之は又大変な仕事である。何となれば其条件こそは、信仰をしてる人は、してない人よりも沢山の御利益があり、大いに幸福に恵まれるという現実を見せなければならないが、それによって神様のある事が信じられるのである。処が厄介な事には、今日偉い人程、現当利益を蔑視し、低級宗教的に扱うのだから、自然信仰者が出来ないという訳で、彼等の唯物迷信の為、如何に多くの不幸者を作り、人民の幸福を妨げているか分らない程である。そうして現当利益こそ尊いものはないが、之こそ奇蹟を見せる事であって、之より外に最良の方法はないのである。此意味に於て本教位奇蹟の多い宗教はないにみて、多くをいう必要はあるまい。(後略)」
(「無題」昭和26年9月26日)
「信仰によって神の実在を認識させる事」
「(前略)彼等の心理に一大欠陥がある事である。それはどんな不正な事でも巧妙にやり、人の眼にさえ触れなければ旨く済んで了うという唯物観念である。処が意外にも予想もしない処などから暴(バ)れて了うので、大いに驚くと共に首を捻るであろうが、其場合の彼等の心境を想像してみると、斯んな処であろう。俺はアンナに巧くやったんだが、遂々暴れて了った、俺だって法律上の事位相当知っているから、間違っても法の網に引っ掛かるような間抜けな事はしてないつもりだがそれが斯んな結果になるとはどうも分らない、併し出来た事は仕方ないから、成可速かに軽くなるようにすると共に、若し今度再び役人になった節は、もっと巧く行ってやろうと思うのが其殆んどであろう。中には殊勝な公務員もあるだろうが、そういう人は今度のような汚職事件を起したのは全く間違っていた、俺が悪かった、此上は潔く罪に服し、之を契機として立派な人間に更生しようと決心するであろうが、成程一時はそう思っても日の経つに従い、其決心は段々緩んで了い、元の木阿彌となるであろう。というのは其原因が何れも無神論者であるからである。
では此問題を根本から解決するにはどうすればいいかと言うと、言わずと知れた信仰である。信仰によって神の実在を認識させる事である。それ以外効果ある方法は、絶対あり得ない事を断言するのである。それというのは彼等の犯罪心理は前述の如く、此世に神仏などは絶対ないと信じ切ってをり、此地球の上は空気だけで、外には何にもありはしないという、至極単純な観念である。処が、吾々の方は眼には見えないが、神は必ず在ると言うと、それは迷信に囚われているからだと決めて了うのである。処が真に実在しているから実在していると言ってもそう思われない処に、恐るべき無神迷信が伏在しているのである。とすれば実に憐れむべき彼等であって、此考え方が犯罪心理の温床となっているのであるから、此迷信を打破する事こそ、問題解決の鍵である事は余りにも明白である。では何故彼等は其様な迷信に陥っているかというと、言う迄もなく子供の時から唯物教育を散々叩き込まれた結果、唯物主義至上の迷信に囚われているからで、此啓蒙こそ吾々の仕事である。つまり彼等の再教育であって、事実之によってのみ犯罪を犯さない人間が作られるのであるから、為政者も智識人も此事に目醒めない限り、他の如何なる方法も一時的膏薬張りに過ぎないのである。つまり人の眼は誤魔化し得ても、神の眼は誤魔化し得ないという只其一点だけを、彼等の肚の底へ叩き込む事である。」
(「無神迷信」昭和26年12月12日)
「無神迷信を打破し、再教育をする事」
「(前略)現代文化に対し、私としての観方を卒直に言えば、驚く勿れ其大半は恐るべき迷信に陥っているのである。そこで之を大別してみると、三つの大きな迷信がある。第一は医学迷信、第二が肥料迷信で、第三が無神迷信である。此内最初の二大迷信は常に説明しているから、茲では略すとして、
第三の無神迷信であるが、之も今迄相当唱えては来たが、まだ言い足りない点もあるので、茲でかいてみるが、言う迄もなく此世に神などはありはしないという無神思想である。それが為反って有神論者を目して、迷信と看做す逆迷信である。之なども森羅万象に対し、心を潜めてよく検討すれば、神の実存が分らない筈はないのであるが、そこまで研究しようとする人が寔に少ない現在である。という訳は何しろ生れ乍らにして、唯物教育を散々叩き込まれた結果、無神思想になり切っているからで、いつも言う通り野蛮人が空気は見えないから、無いというのと同様で、何と未開人的ではなかろうか。従ってどうしても此無神迷信を打破し、再教育をする事こそ、文化向上の最緊要事であって、それより外に真の文明世界実現の方法は、決してあり得ないのである。(中略)
処が本教の信者になると、実に不安というものがなくなる。之はお蔭話に沢山出ているから読めば分るが、現在の世の中で本教信者位安心感を得ている者はあるまい。といっても禍いは絶無とは言えないが、それは世の中に罪穢の全然ない人はないからである。然し仮令禍いがあっても、其原因がハッキリ分り、禍いは浄化であるからそれが済めば幸福が増すという楽しみがあるので、反って感謝の念さえ湧くから、結局不安のない人間となるのである。仮に家を探す場合などもそうで、神様の御守護で思った通りの家が見つかるか、若し見つからなければ、まだ時期が早いから待てという意味で、何れは予期以上の家を与えられる奇蹟は常にある。万事がそうであるとしたら、文字通り安心立命の境地に住し、迷いなど起る筈はないのである。即ち標題の如く、本教には迷信がないと言う事が分るであろう。」
(「本教に迷信はない」昭和27年2月13日)
「無神思想が悪い世の中を造る」
「(前略)政治界と経済界というのは、全く腐りきっているのですが、この根本原因というものは、やっぱり無神思想です。神は無いというだけの話なのです。神が無いとすればそうやるのが本当です。私でも、神が無いということを本当に知れば、できるだけずるく、うまい事をして出世をしようとします……出世をするかどうかは分らないが……。ところが神様を知ってしまった限り、これはどうしようもないです。良い事をするよりないです。それで、同じ良い事をするなら、できるだけ大きく良い事をする、つまり世界的良い事をするというそれが救世教になったわけです。
そういうわけで、何んとしても、問題は神が有るか無いかというそれだけの話です。ところが神が有るか無いかということを教えるのが宗教ですが、宗教と言ってもいろいろありますが、本当にしっかりした、そういう神様を認めさせる力ある宗教は、大いに援助するのが本当です。ところがそういう宗教の本当の面が分らない点がありますが、分らないという事は、本当に調査研究しないから分らないので、そういう事をしないで、頭から“宗教なんて迷信だ、いけない”と決めているわけです。そうすると、悪い事をした方が得だという事になりますから、悪い事をすることになるのです。どんな偉い人でも、教育がある人でも、それを認めない限りそうします。ただ偉い人は上手にやる、引掛らないようにやるというだけのものです。(中略)
そういうわけで、とに角日本人に、何んとかしてもっと神様の実在を信じさせる事が一番肝腎です。」
(御教え集31号 昭和29年2月16日)
「悪を行はないのは、神様が見ておられるといふ観念による」
「(前略)抑々人間が悪を行はないといふ事は、見えざるもの、即ち神様が見て御座る--といふ観念に仗(ヨ)るからで、此世界に見えざるものは何にもないと思ふ心は、人に見られない、知られなければ如何なる悪事をしても構はないといふ観念になる。故に此思想を推進めてゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。従而唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは衷心からの善人ではなく、信用を保たんが為の打算的で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いはば功利的善者でしかないといふ事になる。読者よ、斯ういふ偽装善人があまりにも多い現代社会ではあるまいか。此意味に於て見えざるものを信ずる人こそ真の善人でありと断定して差支へないのである。(後略)」
(「善と悪」 昭和22年2月5日)
「霊の実在を認識させる手段が奇蹟」
「(前略)唯物、唯心の両科学が霊主体従の法則に従い歩調を共に前進する事こそ平和幸福の文明世界を生むべき根本真理である。換言すれば宗教と科学が一致する時代でもある。それには何よりも霊の実在を認識させる事であるから、その手段としての奇蹟であり、その担当者としての私という事が分って貰えばいいのである。(後略)」
(「世界救世教奇蹟集 序文」 昭和28年9月10日)
「悪の根を断つ元は神霊に目醒めさせる」
「(前略)信仰生活の時を閲するに従って斯ういふ事を悟ったのである。それは私の失敗の原因であった社会悪減少の為に、志した新聞などは未だ効果が薄い。どうしても神霊に目醒めさせる-之だ。之でなくては駄目だ。どうしても人間の魂をゆり動かし目覚めさせなければ、悪の根を断つ事は不可能である事を知ったので、それからといふものは、寝食を忘れ、神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦等の研究に没頭したのである。と共に次から次へと奇蹟が表はれる。例えば私が知りたいと思ふ事は、何等かの形や方法によって必ず示されるのである。そうだ確に神はある。それも頗る身近かに神は居られる。否私自身の中に居られるかも知れないと思ふ程、奇蹟の連続である。それ処ではない。私の前生も祖先も神との因縁も、私の此世に生れた大使命もはっきり判って来たのである。(後略)」
(「入信の動機」 昭和24年12月30日)
「魂を改善させる方法こそ宗教の力」
「(前略)本当に犯罪を無くすとしたら、人間の魂を改善させる以外、方法のない事は余りに分りきった話である。処が其方法こそ宗教の力であってみれば、当事者は此事に気が付き、それを基本として、犯罪没滅の方針に出なければならないのである。此意味が心から分ったなら、何よりも先ず御自分が信仰に触れてみる事である。 (後略)」
(「三大迷信とは何か」 昭和26年8月29日)
「問題の核心は人間の魂の向上にある」
「(前略)問題の核心は人間の魂にあるのであるから、この向上こそ真の解決法であり、これ以外にない事は勿論である。ここで今一つの譬えをかいてみるが、有神観念と無神観念と両方並べて、どちらの方が政界を腐敗させるかという事で、これ程明白な話はあるまい。」
(「再び汚職の母体」 昭和29年3月10日)
ここでメシヤ様は、唯物至上主義に陥った無神思想の人間に対して、信仰を通して、奇蹟を通して神の存在を理解させると共に、そうした営みを進めていくのが、我々の役目であると述べられています。
そうしてさらに、そのような人間の魂を改善するのが、宗教であり、わが救世(メシヤ)教であるとおっしゃられています。
そうしたお言葉を噛みしめながら、日々の生活の中に活かし、啓蒙運動をすすめていきたいものです。
次の項では、その他に言われている「迷信」について、学んで見たいと思います。