第二章 メシヤ様の御経綸

 

三大迷信の打破

 

② 肥料迷信

 

肥料を使うと痩土化する」

 

「(前略)この人造肥料こそ土壌に対し非常な有害作用をするもので、これを用いる結果として、漸次土壌の活力は減退し、痩土化したのが現在我国の農耕地である。

元来あらゆる作物は土本来の栄養素を吸収して生育さるべく神が造られたもので、これが真理である、然るに人造肥料を施すと、作物の機能は変質するのである、即ち土壌から栄養を吸収する機能が土壌分より肥料の要素が多い結果、土壌以外である肥料からも栄養を吸収せざるを得ない事になるので栄養吸収性が転移し変質化するのである、此変質性となった以上、偶々肥料を減少、又は無肥にする場合、作物は栄養失調になるのは当然である、故に変質性が常態に復するまでに時を要する、その期間、即ち本来の土のみの栄養を吸収する機能が弱力化の為生育不良を呈する、それを誤って農民は肥料を施さないから悪いと思ひ依然として人造肥料に依存し今日に至ったのである、何よりの證拠は無肥料栽培の幾多の報告に見るも明かで、無肥料に転化した当座は生育不良にみて明かである、然るに其時を経過するに及び漸次良好となり、収穫時には意外に多量の収穫に驚くのである、今一つの例は人間に於る近来流行の麻薬中毒を見れば分る、中毒に罹った者は麻薬がきれると生きるに堪えない程苦しむのと同様である。」  

 (「無肥料栽培の勝利」昭和24年12月10日)

  

              

「藁は肥料ではない」

 

「今度、多くの自然農法の報告を見るとどうも藁に頼りすぎる傾きがある。本当をいふと、別段藁をやらなくても、増収に変りはないのである。只寒冷地などで土が冷へる場合、温める為に藁を使ふのである。そして藁は出来るだけ細かく切る方がよい。長いと根伸びを妨げるからである。どうも今迄の肥料迷信が抜け切れず、藁の成分に肥料があるやうに思ふやうだが、そんな事は決してない。いつもいふ通り、土自体が肥料の塊りのやうなものであるから、土を重視し、土の機能を充分発揮させるやうにすればいいのである。」                 

(「藁に就て」昭和25年12月20日)

 

 

「肥料迷信打破運動」

 

「抑々自然農法の原理とは、土の偉力を発揮させる事である。それは今日迄の人間は、土の本質を知らなかった。否知らせられなかったのである。其観念が肥料を使用する事となり、何時しか、肥料に頼らなければならないようになって了った。全く一種の迷信化したのである。何よりも私が最初の頃、如何程無肥料栽培を説いても、全然耳を傾ける者がなく、一笑に附せられたものである。それが段々報いられて、近年、年毎に自然農耕者が増加し、収穫に於ても、至る処驚異的成果を挙げている。然し今の処未だ信者の範囲を出でないが、漸次各地方に於ても未信者の間に共鳴者続出し、本栽培者は非常な勢いを以て激増しつゝあるにみてやがては、日本全土に行渡る日も、左程遠くはあるまいとさえ予想さるゝのである。右の如くであるから、本農法宣伝は端的に言えば肥料迷信打破運動と言ってもよかろう。

そうして、人肥金肥は一切用いず、堆肥のみの栽培であるから、其名の如く自然農耕法というのである。勿論堆肥の原料である枯葉も枯草も、自然に出来るものであるからであって、之に引換え金肥人肥は固より、馬糞も鶏糞も、魚粕も木灰等々天から降ったものでも、地から湧いたものでもなく、人間が運んだものである以上、反自然である事は言う迄もない。(後略)」

            (「土の偉力」昭和26年1月15日)

  

「不出来は肥料の為」

 

「(前略)素人栽培には斯ういう事がよくある。それは馬鈴薯など実付きが悪いとか、実が大きくならないとか、トマトや茄子など、花落ちが多かったり、鬆(ス)のある大根が出来たり、胡瓜など根虫が湧いて枯れるとか、漬菜類など完全な葉は殆んどなく、どの葉も穴だらけである。以上何れも人為肥料の為であるが、それに気が付かない為、素人は肥料が足りないからだと思い、益々多く肥料を与へるから、益々悪くなるという訳で、誰しも本当の原因が判らないから、専門家に訊くが、専門家も肥料迷信に罹っている以上、満足な解答は与えられないので困っている人が、世の中には如何に沢山あるか知れない。(後略)」

                          

 (「素人菜園に就て」昭和26年1月15日)

 

  

「肥料迷信」

 

「(前略)之も本教信者はよく知っており、今更かくまでもない事だが、之も第三者に対して少しかいてみると、本来土とは神が人間に食糧を作らすべく、素晴しい性能を与えたものであって、言わば土其物は、肥料の塊りとも言うべき貴重品である。それを何時の時代どう間違えたものか、肥料という土を殺し、土自体の栄養を阻止するような汚物を手数を掛け、農民の懐を絞り、反って減産に役立つものを使うようになったかという事で、全く驚くべき迷信にかかって了ったのである。何よりも現在我国の産米、一カ年二千万石も不足するという事や、年々虫害に苦しむ事なども原因は全く肥料の為である事は、私が長年に渉って警告している処である。(後略)」            

(「三大迷信とは何か」昭和26年8月29日)

 

 

「肥料迷信から脱皮する」

 

「(前略)どうも長い間の肥料其他の迷信から抜け切れず、兎もすれば私の説を軽視し勝ちで、自分の考えが幾分でも混る為、それだけ成績に影響を及ぼすのである。例えば水田は藁を細かく切れといってあるのに、非常に長く切ったり、其土地の習慣上堆肥といっても、糞尿とか馬糞などを交ぜたがる。又指導者の中にも自分の考えが多少混る事もよくある。といったように純粋堆肥を使わない人も幾らかあるようだが、充分注意されたいのである。

という訳で本当を言えば、自然農法に於ては指導者の必要はないのである。何となれば私の説をよく噛み締めれば、それで充分解る筈だからである。そうして不徹底な人の多くは、技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術は大して重視する必要はない。常識で考えただけで沢山である。何よりも此原理の根本は、肥毒を早く消滅さして、土自体の性能を発揮させれば可いからである。」

 

             (「自然農法の勝利」昭和27年7月2日)

 

 

「害虫が増えたのも、肥料が増えたから」

 

「(前略)それは近来年毎に害虫が増えてゆく傾向である。之も薬と同様肥料によって土を汚すから、掃除夫としての害虫が湧くのであるから、此虫もつまり人間が湧かせる訳である。而も近年害虫の種類の増えたのも、肥料の種類が増えたからである。では人間が何故肥料を用い始めたかというと、麻薬と同様肥料を用いると最初は大いに増産するから惚れ込んで了い、肥料を唯一のものとした結果肥料迷信に陥って、今日の如く害虫に悩まされ乍らも気が附かないのである。右の如く一時的実績に瞞されて、土は弱り種子は中毒に罹り、害虫は増え放題で収穫は減るのであるから実に愚かなものである。(後略)」

                             (「黴菌人間」昭和27年11月19日)

 

  

「土壌も種子も肥毒を抜く」

 

「(前略)次に栽培法について誤謬の点が相当あるようだから、ここにかいてみるが、本教信者になって私の説を読んだり、聞いたりし乍らも、素直に受入れられない人もあるが、何しろ先祖代々肥料迷信の虜となっている以上無理もないが、この際それを綺麗サッパリ棄ててしまい、私の言う通りにする事である。それについても種子であるが、報告中にある農林何号とか、旭何々などとあるが、これは何等の意味をなさないので、自然栽培に於ては一般に使う種子なら何でも結構である。つまり肥毒さえ抜ければ、どんな種子でも一級以上の良種となるからである。要は肥毒の有無であって、信者中から何年か経た無肥の種を貰うのが一番いいであろう。その場合種子も近い所程よく、県内位ならいいが、相当離れた他県などでは成績が悪いから止した方がいい。それと共に土の肥毒であるが、肥毒が無くなるにつれて快い青色となり、茎は固くしっかりし、分蘗も数多くなり、毛根も増え、土深く根張るから、倒伏も少なく、それらの点でよく分る。そうして堆肥についてまだ充分徹底していない様だが、最も悪いのは稲田に草葉を入れる事で、これは断然廃めた方がいい。稲作はいつもいう通り藁を短かく切り、土深く練り込めばいいので、余り多くてもいけない。というのはそれだけ根伸びを阻止するからである。又度々言う通り藁には肥料分はない。肥料は土そのものにある事を忘れてはならない。つまり藁を使うのは土を温める為で、寒冷地には使っていいが、温暖地には必要はない。これが本当の無肥料栽培である。

それから土の良い悪いであるが、これも余り関心の要はない。何故なれば悪土でも無肥なれば年々良くなるからで、連作を可とするのもこの意味である。又浄霊であるが、これは肥毒を消す為で、肥毒がなくなれば必要はない。以上大体気の附いた点をかいたのであるが、その他の事はその場所の風土、気候、環境、位置、日当り、潅漑、播種と植附の時期等適宜にすればいいのである。(後略)」 

 

              (「自然栽培に就いて」昭和28年5月5日)

 

  

「薬迷信と同じ肥料迷信」

 

「(前略)自然栽培は、最初から私の言うとおりにした人は素晴しい成績をあげているのです。昨夜来ただけの報告はみんな見ましたが、なにしろ薬迷信と同じ様に肥料迷信がしみ付いているので、私の言うとおりに思いきってしない人が非常に多いのです。最初はオッカナビックリ廐肥を混ぜてみたり、外の物を混ぜてみたりして、思いきってできないのです。それで年々減らしていって四年目にようやく全然無肥料にしたという人もあります。それも無理はありませんが、つまりそういう不徹底さでは本当の成績はあがらないのです。やっぱり大変な迷信にかかっているわけです。しかしだんだん方々の成績を見て、最初から信ずるという人も大分出てきた様です。それでもう二、三年たてば、これは大変な問題になります。

それからつまり指導者の人などで、まだ徹底してない人が大分ある様です。説明の仕方がまだ弱いのです。これは断乎として、土を清浄にしなければいかんという事を根本にして言わなければならないのです。しかし地方によっては、信者以外の人で自然栽培に切替えるという農民なども大分出てきた様ですから年々拡がって行きますが、要するに時の問題です。ですから最初は随分笑われたり非難されたりしたその苦しみをこらえるのがなかなか大変な様な話です。随分涙ぐましい様な事を書いてありますが、それも大して長い事はないのです。一時的のものですから、そこで迷わず屈せず、たて貫ぬくという、しっかりした決心を腹に固めなければいけないのです。(後略)」               

                        

 (御教え集19号 昭和28年2月6日)

 

  

「堆肥迷信ということも」

 

「(前略)自然農法の事で、堆肥迷信が大分あるのです。どうも土ばかりでは気が済まないで、何か肥料というものが頭の底に残っているのです。どうも堆肥という物に、そういう考えがはいるのです。ところが実は堆肥も本当はいけないので、土ばかりがよいのです。以前にも書いてあるとおり、土が肥料だから、土を邪魔するものはみんないけないのです。堆肥も土を邪魔するからいけないのです。

ではどうして堆肥を使うかと言うと、土が固まると根伸びが悪くなるから、固まらせないために堆肥を用いるというわけです。その場合にも堆肥はできるだけ腐蝕させて繊維(センイ)の無いようにしなければならないので、半分土に化したくらいの物がよいのです。ところが葉の筋があるのや、落葉でもまだ相当固いのを使いますが、そこで畑作での相当よい成績の報告がないのはそのためです。ですから若し土の固まらない所では〈それは古い土は固まらないから〉堆肥もやらない方がよいです。若しやるとすれば、大根、牛蒡、人参という根の物には、一尺以上の下に、これはそう腐蝕しない落葉や草でもよいですから、それを床にするのです。そうすると非常に温まるので成績がよいです。そういうように堆肥を使えばよいのです。あとは土に混ぜるのですが、土に混ぜる場合にはできるだけ腐蝕させるのです。

それからもう一つは乾く土地がありますが、これは天日に当てると乾きます。そこで堆肥を敷くと水分を保つから、雨なども乾かないで止まっているから、そういうためには結構です。果樹などの根の際(キワ)には堆肥を大いにやった方がよいです。これは水分が長持ちします。それは乾かさないためです。そういう工合に、堆肥もよく考えて適当にするようにすれば結構なのです。それを堆肥が肥料のように思って、何でも彼んでも堆肥さえ使えばよいと思っている事が間違っています。(後略)」

                           (御教え集25号 昭和28年8月26日)

 

 

 自然農法について、メシヤ様は、このようにおっしゃっておられます。ですから、色んな有機資材を使う農法は、自然農法ではないという事です。

 そうであるならば、メシヤ様の信者であれば、どのような農法で作物を栽培すればいいのか、もう一度、考える必要があるのではないでしょうか? 教団の認可とか、指示された農法が、果たして正しいのかどうか・・・もう一度メシヤ様のお言葉を確認することも重要であると思います。

 

 次の項では「無神迷信」について、学んでみましょう。