第二章 メシヤ様の御経綸
三大迷信の打破
① 医学迷信
三大迷信の中で、一番大きな迷信がこの「医学迷信」です。この「医学迷信」について、この項では学びたいと思います。
「薬は毒」
「(前略)昔から薬に対する強い信頼感で、薬とさえいえば効き目の方ばかりが頭にあって毒の方は軽視し勝ちである、現代人が如何に薬剤に憧れを以てゐるかは日々の新聞紙上多数の売薬の広告をみても判るであらう、処が吾等からいえば麻薬中毒とは現在はっきり分ったもののみではない、凡ゆる薬剤は麻薬中毒と殆んど同一の作用である、ただ麻薬中毒の如く、短期間に強烈に来ないで至極緩慢な経過を辿るので、誰も気がつかないだけである、勿論中毒であるから一時は苦痛緩和の効果がある為、医師も患者も、それで治ると錯覚するのである、此結果薬剤によって病気を造る人や、生命を短縮する人の如何に多いかは測り知れないものがあろう、吾等が常に薬毒といふ事を唱えるが、右の如き薬害を世人に知らしめんが為である。(後略)」
(「科学迷信」昭和24年12月3日)
「(前略)薬と名の付くものは悉く毒であり異物である以上、消化吸収されず、体内に残って病原となるといふ簡単な理屈が分らないというのは、全く医薬迷信の虜になってゐるからである。」
(「薬の逆効果」昭和28年)
「薬服用が病気を作る」
「今日迄、西洋医学に於ては二千五百年以前ヒポクラテス創始の医道以来、又支那の医祖伏羲が、五千年前創始せられた医道は固より其他幾千万の病気療法の方法は尽く浄化作用停止又は一時的苦痛軽減の方法以外には出でなかった事は再三述べた通りである。そうして最も効果ありとしたものが、薬剤療法であった。
そうして薬毒なるものは、啻(タダ)に浄化作用停止だけではなく、その人間の健康に及ぼす悪影響は実に想像されない程の恐るべきものがある。私の長い経験によれば、凡ゆる痛苦は悉く薬毒の結果であって、痛みも発熱も不快感も疲労も神経衰弱も原因はそれであり、全身的新陳代謝の衰耗も機能の弛緩も、咸(コトゴト)く薬毒の結果である。従而、人間の健康の良否も病気の軽重も“薬毒の多寡に因る”といふも過言ではないのである。
今日迄、人間が一度病気に罹るや、浄化作用を薬毒によって停止するが、それ以外、薬毒なる新しい毒素を追増するのである。その例として、何よりも周知の事実は、医師が医療を行ひつつ、余病が発生するといふ事である。最初の病気を治癒する目的であるに拘はらず、第二第三の病気が発生するといふ事は甚だ不合理ではあるまいか。即ちその療法が適正であるならば、最初の病気が軽減しつつ余病など発生すべき訳はない筈である。即ち拾の病気と仮定して、時日を経るに従ひ、九となり八となり七となるやうに、漸次軽減しなければならない筈である。然るに何ぞや治療を施しつつあるに関はらず、十一となり、十二となり、十三となる------といふやうに増加するとは洵に不可解極まる話である。之に対し、患者も医家も、何等の疑念を起さないのであるが、これは全く、医学が一種の迷信化するまでに到ったためであると思ふのである。
故に、私は斯う想像するのである。日本人が薬剤使用を全く中止し拾年経たなら恐らく病人は半減するであらう。従而日本人の寿齢は延長し、数十年を経るに於て平均寿齢八拾歳位は易々たるものであらう。何となれば短命とは病気に因る死であるからである。所謂不自然死である。病気が減少すれば自然死が増加する。自然死といへば、少くとも九拾歳以上でなければならない筈である。又人間が死に際会して苦痛が伴ふといふ事は、天寿ではないからであって、天寿を全うして死ぬといふ場合は、例へば樹木が樹齢尽きて自然に仆れるが如く、聊かの苦痛もないのが当然である。
そうして死の苦痛の原因は何か、言ふ迄もなく、薬剤其他の方法によって浄化作用の停止を行ふからである。即ち自然である浄化作用を、不自然なる抑止をする--その摩擦が苦痛となるのであって、而も、衰弱し切った肉体であるに於て、苦痛は倍加するといふ訳である。
古から“人は病の器”といふ言葉があるが、之は大いに謬ってゐる。実は“人は健康の器”であり、健康が原則であらねばならないのである。神は人間をして、神の理想を此地上に顕現せんが為に生ませられたものである--と私は信ずるのである。従って、其使命を遂行するに於て不健康であってはならない。故に不健康といふ事は、人間が何等かの過誤即ち神の摂理に反してゐるからで、その過誤の最大なるものが“薬剤使用”である。(後略)」 「薬毒」明医一 昭和18年10月5日)
「(前略)私は二十数年前から、病気の原因は薬毒である事を唱えて来たが、初めの内は中々信じられない人が大部分であったが、信者になって長くなる程徹底するのである。しかしそれも無理はない。何しろ先祖代々病は医者と薬という合言葉同様になっている位だから、一度や二度で掌を返したように分る人は、先ずないといってよかろう。それでも近頃は大分判り方が早くなって来たようで、それだけこちらを見る眼が異って来た訳である。併し前記の如く浄化が段々強くなる以上、分る人も愈々増えるのは勿論である。というのは医療の固め方法が一日増に固らなくなるからで、それに引換え浄霊の方は溶かす方法である以上、逆になるからで、つまり時節が浄霊に味方する訳である。
そうなると病人は増える一方で、今までにないような種類の病気も多くなり、医師はどうしていいか分らない事になって、二進も三進もゆかなくなるのは当然である。又今迄なら直に効いた飲み薬も注射も、全然効かない処か逆効果となって、医師が手を附けるや忽ち悪化したり、死んだりするというような恐怖時代が来るであろう。斯うなると政府始め専門家も一般人も医学の真価が分って、医療をボイコットせざるを得なくなるから、これこそ大問題である。そこで初めて救世(メシヤ)教の説に頭を下げざるを得なくなると共に、アノ時随分変な説と思って悪く言ったが、実に申訳なかったという事になり、茲に初めて目が醒めるのである。
而も斯うなったら命には代えられないから、インテリもジャーナリストも、束になって救いを求めて来るのは勿論だが、そうなったら一どきになる以上、コチラはやり切れない。マァー事情の許す限り救ってはやるが、誰も彼もという訳にはゆくまいから、御気の毒だが外れた人は自業自得と諦めて貰うより仕方があるまい。(後略)」
(「大恐怖時代来らん」昭和28年2月4日)
「医学には一大欠陥の伏在している」
「(前略)凡ゆる病患は医学の進歩によってのみ解決せらるべきものとの根強い迷信によって徒労に等しき努力を続けつつある-之が医師及び医学者である。(後略)」
(「病患と医学の誤謬」昭和22年2月5日)
「(前略)死の一歩手前まで追詰めたといふ抑々の責任は一体誰が負ふべきであらうか、何よりも先づ此事を深く考えなければならないとすれば、此責任は当然これまでに悪化さした医家が負ふべきものであらう、然し乍ら医家として一々その責任を負ふとなったら、医業をやめるより外はないといふ事になる、そこで今一層深く掘下げてみると、実際問題として医家には責任はない事になる、それでは一体誰が負ふべきかといふと、そこに意外なる或ものがある、その或ものとは医学といふ学問である、即ちその学問に一大欠陥の伏在してゐる事を未だ知らなかったのである、故に如何に進歩したように思はれてゐる医学でも、人類から病患を取除く事は絶対不可能である、それを簡単にいえば、医療の凡ては一方に効果があるだけ他の一方には害があるといふ訳で、専門家も一般人も効果のみをみて害の方に気がつかない、恰度秤と同様一方が上れば一方が下るといふ訳である、何よりの證拠は頻繁に新薬や新療法が表はれる事実で、其訳は真の決定版が生れないからである、特に結核に対する特効薬がそうである。(後略)」
(「宗教と医学」昭和24年4月25日)
「病気は医療や薬によらなければ治らないと決めている」
「(前略)本教浄霊の場合如何に効果ありとしても偶には予期に反する事もある、すると世間はソレッとばかり非難攻撃を浴せるが、それに反し医師が同様失敗した場合よほど顕著でない限り、当然の事のように些かも咎めようとはしない、という事実にみて、宗教による治病が如何に冷酷に取扱はれているかが判るのである、此例はひとり右のような場合のみではない、よく斯ういう事がある、医師と浄霊と併せて行う場合、失敗した時は医療を咎めないで本教にのみ罪を被せ、成功すれば本教浄霊の為ではなく治る時節が来たからとか、医療による為と解釈するのである、その都度吾等の感ずる事は、病気は医療や薬によらなければ絶対治らないと決めているその確信の強い事である、又サンザ医療で治らないのみか悪化一方なのでやむにやまれず本教に縋る場合、殆んど例外なく周囲の者は、信仰療法などは迷信であるから止めよと言い、医療を続ける事を奨めるのであるから如何に医療を信ずるかは殆んど迷信邪宗の信者と何等変りはない程である、処が事実は医療で治らないから止むに止まれず、邪教迷信といはれるものに走るので、斯んな、判り切った事が判らない程に科学迷信に陥ってゐるのである、勿論其場合患者は最初は疑念に満ち恐る恐る浄霊を受けると共に、周囲からの反対はいよいよ激しいに拘はらず浄霊の効果は素晴しく病勢一転治癒に向ふので、之はおかげばなし中に無数に出てゐるのでも分る、 (後略)」
(「批判は公平であれ」 昭和25年1月21日)
「薬剤迷信に陥った医学」
「(前略)今日迄、病気の浄化作用を知らず、それを固める事のみ専念したが、固めるという事は勿論浄化発生以前に還元させる事で、本当の事が判った眼からみれば愚の一字に尽きるのである。勿論自然は毒素を排除しようとするのを一生懸命に排除させまいとする事を治る方法と錯覚したのであるから全然反対であった。随而今日までの医学は健康者にしないように一生懸命骨折って来た訳である。
然らばどうして其様な誤謬に陥ったかというと、浄化は苦痛が伴ふので薬剤を使用すると、苦痛が幾分か緩和するから、之で病気が治ると思ったのである。一言にして言えば、一時的効果に眩惑され、不知不識医の本道を踏違え今日に至ったのであるから、薬剤を唯一のものと思ったのも無理はなかったのである。これが為長い間薬剤本位に進んで来た医学は、真の医道ではないから治りそうで治らない為次々新薬が出来る。此結果現在薬の種類の多い事は恐らく何百何千に上るであらう。而も今以て新薬の出現が絶えないのは右をよく物語ってゐるのである。
右の如く薬剤迷信に陥った医学であるから、今日吾々が病気の原因が薬剤の為である事を説いてもあまりの意外に到底信じ得られないのである。
よく言ふ言葉に、薬はいくら服んでも注射してもさっぱり効かないとは長い病人のいつもいふ言葉であるが、之を聞く毎に私は斯う答えるのである。薬が効かないなどとはとんでもない間違ひである。効かないものなら心配する必要はないが、実は効き過ぎる位効くのである。といふのはよく効くのではなく悪く効くのである。即ち薬は病気を作るからで、もし人間が薬を用いなくなれば病気は消滅して了ふであらう。とすれば人類史上之程意外であると共に大問題はあるまい。之によって私は薬毒を知らしめる事が、先づ人類救済の第一歩であると信じ徹底的に説くのである。
随而、此地球上に薬といふものは一つもない。全部毒である。毒によって人体を衰弱させ、浄化停止される程よく効く薬といふ訳である。(中略)
そうして薬毒によって一時的苦痛緩和の結果はどうなるかというと、その薬毒は人体に残存するのである。処が医学では副作用のある薬毒もあるにはあるが、薬毒は凡て消失するといふのであるが、之程の間違ひはない。それは薬毒発見までに医学は進歩してゐないからである。何となれば、人体の消化器能は天与の食物のみに限定されてをり、それ以外の異物は処理されないように出来てゐるからである。実に造化の妙は自然の二字に尽きるので、処理され得ない異物である以上、薬毒は殆んど残存する。それが時日を経るに従ひ、各局所に集溜し固結する、之が凡ゆる病原となるのである。
何よりも医療を受ける程病気は殖え次第に悪化するにみて明かである。又余病発生といふ事もその為である。即ち一の病気を治そうとして二となり、三となるといふように病気が殖えるのは、医家も常に経験する処であらう。もし真に薬剤で治るとしたら三の病が二となり一となり零となるべき順序ではないか、此判り切った事に今迄気がつかなかった事は実に不思議といふべきである。
右の理によって罹病するや、放任しておけば大抵は治るものである。もし容易に治らないのは薬毒多量の為であるから、そのような場合気永にすれば漸次治癒に向ふのは当然である。処がその理を知らない医学は、人為的に治そうと骨を折れば折る程逆効果となり、漸次重体に陥り死に迄至るのである。
嗚呼、医学の誤謬たるや何と評すべきか言葉はないのである。(後略)」
(「薬毒」 昭和25年4月20日)
「医学迷信こそ、世界で一番大きな迷信」
「(前略)誰も気の付かない点に重大原因があるので、其原因こそ吾々が常に曰う如く、現代医学というものは、治りそうにみえて実際治らないものであるからである、然し今日迄其点に気が付かなかった為、医学は進歩していると思い込み、之で病気は段々治る様になると教育されて来たので、お医者さんもそれを信じ切っているのである、私はいつか医学に騙されている医師という論文をかいた事があるが今も此説の間違っていない事は、事実がよく證明している、つまりお医者さんは医学に迷信していると云ってもよいので、而も当局も一般も悉く同様であり、其本元である学者さえも、やはり既成医学の理論を信奉し、之を進歩させさえすれば、病気は治るものと思っているのである。
此医学迷信こそ、世界中一番大きな迷信であって、之を打破しない限り病無き世界などは痴人の夢でしかないのである、処がこういう吾々の方を迷信呼ばわりをするのであるから、全く主客転倒甚だしいと言わねばならない、何よりも医学と吾々の方との治病の効果を比べてみれば、事実がよく立證している、茲に於て吾々が冀う処は、一日も早く此迷夢を醒ます事でそれが一日早ければ早いだけ、人類は救われるのである。」
(「医者は果して無責任か」 昭和26年7月25日)
「薬剤迷信」
「之に就ては私は常に充分解説してあるから、改めてかく必要はない位だが、第三者に知って貰いたいからかくのである。今日何人も病気の場合、何よりも一番頼りにしているのは、勿論薬剤であるが、驚いてはいけない。之こそ実は人間の健康を弱らせ、病気を作り、命まで危くするものであって、世に之程恐るべきものはないのである。それ程のものが今日迄何故気が付かなかったかという疑問が、当然起らなければならない筈だが、それは全く薬剤迷信に深く陥っていたからである。従って人類を救うとしたら、此迷信を打破し、目醒めさせる以外他に方法はないのである。(後略)」
(「三大迷信とは何か」昭和26年8月29日)
「(前略)現代医学こそ迷信であり、我医学こそ正信であると断言出来るのである。つまり医学を信じて生命を失うか、信じないで助かるかのどちらかであろうと曰ったら、恐らくこれを読んで愕然としない人はあるまい。
(中略)このような明らかな道理が今日まで分らなかったのは、全く過去の亡霊に取憑かれていたからであり、それを発見する人も出なかった為でもある。又世間こういう人がよくある。若しそんな事で病気が治るとしたら、医者も薬も要らないではないかと言うのである。全くその通りで医者や薬が無くなったら、世の中に病人はなくなると答えざるを得ないのである。以上の如く現代医学こそ、世界的迷信の最大なるものであって、人類から病を無くすとしたら、何よりもこの迷信を打破することこそ先決問題である。」
(「医学療法と信仰療法」昭和27年12月10日)
「薬の迷信」
「(前略)薬というのは全部麻薬です。一時良くするのです。丁度頭の悪い人が麻薬を注射すると、頭がはつきりして来る。だから小説を書くにしても、あれが流行つている。急ぎの原稿を書くのに、あれをやると馬鹿に良く書ける。それで中毒になる。それは麻薬丈ではない。一切の薬がそうです。食慾がないので、薬を飲むと一時増えたりして良い様に思えるのです。だから次々に飲んで、結局それが癖になつて段々中毒症状になる。然し、直ぐに大いに効くのは麻薬として取締つているが緩慢に効くのは分らない。発見出来ない。だから急速に効くのは麻薬として排斥するが、緩慢に効くのは良いとして奨励するのですから、この無智なやり方頭の悪さです。又それに慣れ切つているのです。それを教え様、解らせ様と思つて我々は骨を折つているのです。そういつた麻薬を、麻薬でないと思つている迷信です。それを言うと、こつちの方を迷信という。その位頭が悪いのです。(後略)」 (御教え集12号 昭和27年7月15日)
「薬を体内へ入れなければ、病苦の味は知らなくて済む」
「(前略)薬毒といっても洋薬ばかりではない。漢方薬も同様で、只症状の異いさがあるだけで、洋薬の苦痛は尖鋭的であるが、漢方薬は鈍感的である。何よりも凡ゆる痛み、痒みの原因は悉く薬毒であるから、人間薬さえ体内へ入れなければ、一生涯病苦の味は知らなくて済むのである。要するにこの薬毒迷信を打破しない限り、人類から病気の苦悩は絶対解決されない事を断言するのである。」
(「種痘と薬毒」昭和28年1月1日)
「信頼を措けない医学に頼る医学迷信」
「(前略)今日一般人が医学を絶対のものと信じてゐるのもよく判るのである。処が其医学なるものは、実は病気を治す処か、其反対である事を知った時の私は、如何に驚いた事であらう。然し之が真理であってみれば、信ずる外はないが、そんな訳で現代人が医学迷信に陥ってゐるのも無理はないと思へるのである。忌憚なく言へば自分自身の体を弱らせ寿命を縮められ乍ら、医学は有難いものと思ひ込み、それに気がつかないのであるから何と情ない話ではないか。従って此迷信を打破する事こそ、救世の第一義であらねばならない。といっても之を一般人に分らせる事は実に容易ならぬ問題である。前述の如く医学迷信のコチコチになり切ってゐる現代人であるから、実際を見聞しても、自分自身や近親者の難病が浄霊によって治ったとしても、直に信じ得る人と、容易に信じられない人とがある。だが大抵な人は医学でも凡ゆる療法でも治らず、金は費ふし、病気は益々悪化する一方で、遂に生命さへも危い結果、中には自殺を計る者でさへ、偶々浄霊の話を聞いても、容易に受入れられない程、医学迷信に陥ってゐる現在である。(中略)
以上は、現代人が如何に病気を恐れてゐるかといふ事と、医学を如何に信頼してゐるかといふ事で、前者は全く医学では治らないからでよくある事だが、一寸風邪を引き、熱でも高いと之は大病の始まりではないかと案じるが、其半面之しきの風邪位が何だと打消そうとするが、肚の底では万一の心配も頭を擡げて来る、といふのは誰しも経験する処であらう。之は全く医学そのものに、全幅的信頼を措けないからである。(後略)」
(「擬健康と真健康」昭和27年)
「本教の教えを乞ふ日が必ず来る」
「(前略)仮に医学に対し批判をする場合、その欠点を警告しようとしても、医師法違反とか、医療妨害とかいふやうな鉄の扉があって、他の如何なる卓越せる意見と雖も、扉を開かうとはしないのである。従って迷信打破をしたいとしても、限られたる或面だけであって、今はそれで我慢するより外、致し方ないのである。
然し、私は些かも悲観はしない。何となれば、凡ては神様が救世の力を揮はれてゐる以上、問題は時期である。時期が来れば吾等を迷信と見てゐた人達が、実は自分の方が迷信であった事に気がつき、本教に教えを乞ふべき日の、必ず来る事を確信して、其時を待つのみである。」
(「どちらが迷信だ」昭和25年10月11日)
「メシヤ教は迷信退治をする」
「此人の病気である腹の塊りが、いとも簡単に溶けて排泄され、非常な苦しみが一晩でケロリと治ったと共に、その後の経過も良好なので、大変な喜び方である。此例にみても、病気は余計な事さへしなければ簡単に治るのであるから、吾々の方では、病気は必ず治るものであって、何等心配はしないとしている。其理を知らず、態々治らないやうにし、苦しむ人間の愚かさは、何と言っていいか言葉はない。之も医学迷信の為であるから、世を救ふには、此迷信から片附けなければならないので、神はメシヤ教を造られ、私をして迷信退治をされるのである。」
(「之も奇蹟」昭和28年)
「薬という迷信をぶち壊す」
「(前略)薬の恐ろしさという事は、今まで充分に説いてありませんから、これから説きますが、結局ミロクの世というものは、人類から薬を無くしてしまう事で、これでミロクの世が出来るのです。ただ薬という迷信が根強くはいってますから、その迷信をぶち壊すという手数がわれわれがやる仕事です。神様が浄霊の力を与えたのは、浄霊というのは薬をとる事です。薬を減らす方法です。(中略)そういう様で、薬を征伐するというのが根本の仕事と思えばいいのです。」
(御教え集18号 昭和28年1月16日)
「薬毒は体から出すのが大変」
「色んな変化があります。結局、薬毒ですよ。ですから、薬毒を簡単に思うが、薬毒は大変なものです。私は浄霊始めてから20年になるが、未だ解決しない。今でも毎日やつてます。慣れつこになつて了つたが、年々治つて来ます。薬を入れたのが昭和三年ですからね。未だ取れない。薬毒の少しひどいのは10年、20年は何でもない。だから3年位ではね。迷つたり、懊(ジ)れたりしては神様に申し訳ない。命がないんですからね。それに感謝する事で、それに一寸でも――何うかすると、御守護が切れます。」
(「御教集2号」昭和26年9月8日)
この世の中から、薬を無くしてしまいたいという強い思い、また人間に真実を可能な限り一人でも多くの人に伝えたいという強い思いが伝わってきます。
この強い思いを受けて立ち上がり、社会の人に伝えていくのが信者としての使命であると思いますが、信者自ら薬を多用して、浄霊を受けるとは・・・よくよく考えていただきたいものと思います。
もし、浄霊が効かないとするならば、どこか間違っているところがあると思います。その間違ったところに気が付くためには、智慧を磨く必要があります。その為の「御教え拝読」であります。
さらに薬や現代医学の誤謬について、メシヤ様が御詠みになっておられるお歌を「参考文献 5」として掲載しましたので、そちらも目を通していただいて、メシヤ様の御心をご理解していただきたいです。そして、薬毒の弊害について、一層徹底してご理解いただきたいと思います。
以上のように「医学迷信」についての学びが許され、理解が深まったところで、次の項では「肥料」という迷信について、学んでいきたいと思います。