第六章 正神と邪神
5、龍神、狐霊、天狗、その他の動物霊について
「低級霊からは邪気を受ける」
「序でに注意するが昔からよく「鰯の頭も信心から」と謂う事があるが、之は大変な間違いであって、すべて信仰の的は最高級の神仏でなければならない。何となれば高級の神仏ほど正しき目的の祈願でなくては御利益を与えて下さらないと共に、人間が仰ぎ拝む事によって清浄なる霊光を受けるから、漸次罪穢は払拭されるのである。鰯の頭や低級なる的に向って如何に仰ぎ拝むとも、低級霊から受けるものは邪気に過ぎないから、心は汚れ自然不善を行う人間になり易いのである。それ等を知らない世間一般の人は、神仏でさえあれば皆一様に有難いもの、願事は叶えて下さるものと思うが、それも無理はない。尤も昔から神仏の高下正邪等見分け得るやうな教育は何人も受けてゐないからである。そうして狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、力の強弱もあり、正邪もあるが、頭目になると驚くべき力を発揮し大きな御利益を呉れる事もあるから信者も熱心な信仰を続けるが、多くは一時的御利益で、遂には御利益と禍いとが交互に来るというような事になり、永遠の栄は得られないのである。以上説く処によって、信仰の場合一時的御利益に眩惑する事なく、其識別に誤りなきよう苦言を呈するのである。」
(「正しき信仰」S24.1.25)
「昔から、宗教に奇蹟は附物とされているが、全く其通りである。此点自画自讃ではないが、我救世教程奇蹟の多い宗教は、恐らく古住今来例があるまい。然らば、何故本教がそれ程奇蹟が多いかという事を、簡単にかいてみるが、それは本教の主宰神である神様が、最高最尊の御神格を有せられるからである。
世間では、神様とさえ言えば、それ程差別はないものとして、同一に見て拝む傾向がある。処が単に神様と言っても、上中下の階級があって、最高の神様から段々下って、産土神から天狗、龍神、稲荷等までもあるのだから、此点をよく認識しなければならないのである。だから神様の階級について詳しくかきたいが、そうすると他の宗教の神様を暴露する事になり、どうも面白くないから、遠慮してかかないのである。(後略)」
(「宗教即奇蹟」 S26.4.11)
「生前の想念や行為で畜生になる」
「(前略)畜生道は勿論人霊が畜生になるので、それは如何なる訳かといふと生前その想念や行為が人間放れがし、畜生と同様の行為をするからである。例えば人を騙す職業即ち醜業婦の如きは狐となり、妾の如き怠惰にして美衣美食に耽り男子に媚び、安易の生活を送るから猫となり、人の秘密を嗅ぎ出し悪事の材料にする強請の如きものや、戦争に関するスパイ行為等、自己の利欲の為他人の秘密を嗅ぎ出す人間は犬になるのである。然し探偵の如き世の為に悪を防止する職業の者は別である。そうして世の中には吝嗇一点張りで金を蓄める事のみ専念する人があるが、之は鼠になるのである。活動を厭ひ常にブラブラ遊んでゐる生活苦のない人などは牛や豚になるので、昔から子供が食後直ちに寝ると牛になると親が窘(タシナ)めるが、之は一理ある。又気性が荒く乱暴者で人に恐れられる、ヤクザ、破落戸(ゴロツキ)等の輩は虎や狼になる。唯温和しいだけで役に立たない者は兎となり、執着の強い者は蛇となり、自己の為のみに汗して働く者は馬となり、青年であって活気がなく老人の如く碌な活動もしない者は羊となり、奸智に長けた狡猾な奴は猿となり、情事を好み女でさえあれば矢鱈に手を付けたがる奴は鶏となり、向ふ見ずの猪突主義で反省のない者は猪となり、又横着で途呆けたがり人をくったような奴は狸や貉(ムジナ)となるのである。」
(「天国と地獄」自叢三 S24.8.25)
「生前の罪によっては畜生道に堕ちる」
「私は以前から、人間の死後其罪によっては畜生道に堕ち、再生の暁畜生となるという訳をかいた事があるが、今度其生々しい事実を報告して来たから左に載せるが、之を見たら何人と雖も、最早疑う余地はあるまい、之に就て些か茲に解説してみるが、如何なる訳で畜生道に堕ちるかという事である、それは生きている内に、畜生と同様の想念を持ち、畜生の如き行いをするからで、形は人間であっても、霊は已に畜生になり切っているのである。
死とは、勿論亡骸を娑婆に打ち棄て、霊だけ霊界へ入るのであるから、霊界に入った時は畜生そのままという訳である、そこで、どんな人間でも改心せざるを得ない事になるが、といって仲々簡単にはゆかない、そこで殆んどの霊は、生前の罪を悔ひ、如何なる難行苦行をしても、一日も早く人間に生れ変りたいと思い世の為人の為罪の償いをするのである、であるから畜生は好んで苦難を求め犠牲になりたがる。其意味を知らない人間は以前も私は書いた事があるが動物虐待防止などを可いとして行うが、実は畜生にとっては有難迷惑なのである。
然し畜生道といっても種々ある、というのは、現世に於ける時、その行為に相応するので、例えば執着の強い者は蛇、人を騙した者は狐、横着な奴は狸、スパイ行為は犬、無鉄砲な奴は猪、怠け者は猫、奸智に長けた奴は猿、チビチビ金ばかり貯めたがる人間は鼠、年中ブラブラして活動を嫌う者は牛、獰猛な奴は虎や狼、又ノド自慢を種に罪を作る者は小鳥等に生れるものである。
特に、○○主義者の如きは、霊界へ往くと悪龍又は鬼となるものである。従而、これなどは、再生迄に長年月苦しむのは当然で、之も仕方がないであろう。
以上、概略かいてみたが、要するに人間生きてる間に、神を信じ出来るだけ善事を行い、死後の準備をなしおくべきである、その結果安楽往生を遂げ、霊界に往くとすれば天国の天人となり、再生の場合幸運者となるのは明かである。之は私の長い経験によって帰納された結論で、一点の誤りのない事を断言するのである。」
(「人間の死後と畜生道」S25.12.6)
「悪霊とは、狐、狸、龍神、其他の動物霊」
「 (前略)いつもいう通り、悪人というものは悪霊が憑依して、本守護神を押込め、正守護神を蹴ッ飛ばして、早くいえば其人の霊の大部分を占領して了い、悪霊自身が主人公になり済まし勝手気儘に振舞うからである。
其悪霊とは、言う迄もなく、狐、狸、龍神、其他の動物霊であるから、其行為は動物と大差ない事になる。従って人としたら到底出来得ない程の、無慈悲残虐な事を平気で行る処か、反って面白がる位だから、如何に人間離れがしており、常識では考えられないかが分るのである。
といっても人間誰しも副守護神、即ち動物霊は生れながらに憑いている事は、私が教えている通りであるが、之も人間の生存上止む事を得ないので、それは体欲が必要だから神は許されているのである。処が悪人となると新しく動物霊が憑る場合と、元から居る右の副守護神が動物の本性を表わす場合との両方がある。ではどうして其様になるかというと、つまり其人の霊に曇りが生じ、其曇りが濃厚になるに従ってそれ相応の動物霊が憑く事になり、憑くと前述の如く、人間の本霊の方が負けて了うから、彼の思い通りになって了い、活躍するのであるから、悪人とは即ち霊の曇りが原因であって、其霊の曇り通りに血液も濁るから、何れの日か猛烈な浄化作用が必ず起るのである。其場合曇りの程度の苦痛が生れる。それが不時の災難や、病気其他の不幸の原因となるのである。面白い事にはよく大悪人が些かでも反省の念が湧き、仏心が起ると間もなく悪事が露見し、捕まるという事をよく云われるが、それはヤハリ浄化が発ったからである。又悪旺んなれば天に勝ち、天定まって人に勝つという諺なども其意味で、つまり人間は心に曇りが溜ると、苦しみによって浄められる天則の為である。
斯うみてくると、悪人になる原因は吾々から見ると霊の曇りで、立派な病人なのである。勿論大悪人程、浄化も猛烈であり、大苦痛が起り、大病人となるのは言う迄もない。処が霊に曇りが生ずるという事は、本守護神に力、即ち光が足りないからで、それを免れるには宗教によらなくてはならないという訳になる。従って信仰に入り、常に神に向っていれば、霊線を通じて神の光が魂に注入され、光が増えるから曇りが減るので、その為動物霊は苦しみ、居候の方は早速逃げ出すが、元からいる副守護神は縮んで了い、悪は出来なくなるのである。此理によってみても、神に手を合わさない人は、何時如何なる時、何かの動機に触れて悪人になるかも分らない危険があるのだから、無信仰者は危険人物といってもいいので、現代社会は此危険人物が多いかは、右によっても分るであろう。全く社会悪が一向減らないのも右の理に因るのである。従って現在如何に善人であっても無信仰者である限り、真の善人ではなく、言わば悪人の素質を有っている善人に過ぎないので、無信仰者には絶対気は赦せないのである。昔から人を見たら泥棒と思えというのは、無信仰者を指したものであろう。(後略)」
(「悪人は病人なり」S26.11.21)
「龍神とか狐と思つたら天津祝詞」
「 (霊の御浄霊に就きまして、御伺い申し上げます)
狐の場合は天津祝詞。善言讃詞は柔らかいから、祖霊の場合です。動物霊と、はつきり判らないが――感じで、龍神とか狐と思つたら天津祝詞ですね。御神前の場合はお願いしてやる。霊の手榴弾を投げつける様なものです。」
(御垂示録6号 S26.5.1)
「 (稲荷様や龍神様を御祭りする時は、祝詞はどの様な気持であげてよいものでしょうか。又、「何」守り給へ幸倍給へと言えばよろしいのでしょうか。)
祀る時は幽世の大神でよい。天津祝詞でよい。」
(講話集補 年代不明)