第三章 信仰の向上を図るために

 

 5、御神業の奉仕について

 

③ 先達、側近奉仕者に学ぶ

 

「報告を怠る事は、御用をおろそかにする事」

 

ある日、明主様がご揮毫をお始めになる時の事である。ご揮毫の場合、その日お願いする「おひかり」なり、「御神体」の数を、お書き戴く直前に必ずご報告申し上げ、お願いさせて戴く事になっていた。ご報申し上げる人は決っていました。丁度この日は、明主様が部屋に入られ、皆々一緒にご挨拶を済ませた時、突然ラジオに雑音が入ってきたので、ご報告する人が調節にいき、ご報告が後廻しになってしまった。明主様は墨の鉢に筆を入れられ、お書き始めれる態度をおとりになったが、報告がないので、そのまましばらくお待ちになっておられた。それでもご報告がなかったので、『どうしたんだ。私は何を書くんだ』とご注意があった。

○○氏は「はい、申し分ございません。ラジオの雑音がとれないものですから……」と、言い終らないうちに、明主様には、『私は何を書くのかと言っているんだ。肝心な事をほったらかしにして、私を待たせるとは何事か。そんな了見では私の仕事を手伝ってもらう訳にはいかん。お前は明日からこの仕事は一切やっちゃならん』と厳しくお叱りになった。

側にいた他の二人にも

『お前達、黙って見ているとはどういう事だ。誰の前でもいざとなって、ちゃんと発言できるようでないといかん。それでないと近代人とはいえない。結局、喋れない人間は活動がないし、発展もしない

何についても一応常識として知っていて、自分の意見をもっていなくちゃいかん

報告を怠る事は、御用をおろそかにする事だ

『沢山の邪神が、私を不快にしよう。私の仕事を邪魔しようとして絶えず隙を狙っている。然し、どんな邪神でも私には寄り付けないから、私の側の者に憑って邪魔するのだ』

『信仰が深くなって、神様のお仕事----私のする事は、生命をかけてもお守りしようという真心があれば、邪神も憑く隙がないのだ』

信仰というのは行いなんだから、行いが出来なければ何にもならない、そんなのは信仰の幼稚園だ、此の日はついにお仕事は中止、明主様はお帰りになってしまわれた。ご報告が遅れ、ご注意をいただいた○○氏は、神様の御用を妨げたという事で、とうとうお許し戴けず、それから50日間、御書体に関する一切の御用に従事する事が許されなかった。

 

                 (昭和27年秋  側近奉仕者 ○○)

  

 

「足が痛くて御用ができるか---足とはお前の我だ」

 

昭和二十二年ごろ、私は足にネン毒が出で困っていました。秋田の鉱山の御用をしていたのですが、その鉱山から帰って来て、箱根に伺い、明主様にご浄霊をお願いしました。ちょうどその日は御面会日で、同じようにネン毒に悩んでいる信者が三人ほど、明主様からご浄霊をいただいていました。それが済んで私の番になる訳ですが、私のご浄霊までなさると、午前11時からの御面会の時間が過ぎてしまう、そう思ったので、「私はたいした事はありませんから、ご遠慮申し上げます」とご辞退して下がって来ました。明主様は、それから御面会にお出ましになりました、その翌日の事です。私はまた秋田へ行かなければならないので、お居間に伺って、「これから行ってまいります」とご挨拶を申しましたが、明主様は返事をなさいません。私はもう一度、「行ってまいります」と申し上げました。すると、明主様は『そのまま行くのか』とおっしゃるのです。「はい」と言いますと、『どうして、そう我を張るのか』とのお言葉です。我?私にはその意味がわかりません。黙っていますと、『わからないか、じゃ教えてやる。おまえは誰の用で秋田へ行くのか』ときびしいお顔です。「明主様の御用でまいります」『足が痛くて、わたしの用が十分出来るか。私の用が大事なら、痛みを我慢していて、その仕事が出来るか。早く痛みをなくして、十分に御用をしたいというのが本当ではないか。私が“足”というのは、おまえの“我”なのだ』私はハツと気づき、それまで痛いので横座りしていた体を正して、頭を下げました。

 

              (昭和22年夏頃  ○○○教会長)

 

 

「浄化の奥に潜むもの---神の愛」

 

私は昭和18年、第366号潜水鑑の水雷長として従軍中、パガン作戦の際、敵飛行機の爆撃を受け、当直中であった司令塔から爆風のため吹き飛ばされ、背骨をきつく打ったため歩行困難となり、横須賀帰投後、種々いたしましたが、はかばかしくなく、やがて熱海の療養所へ送られて加療していた間にご神縁に恵まれ中島先生のご浄霊をいただく事になり奇蹟的に快復して、漸く歩行も可能となりました。けれども、今一歩のところで全快せず、傷めた背骨も硬直したきりで、曲らずに困っておりました。そこまで癒され歩けるようになったありがたさが分からず、また口第58号潜水艦長にも任命されましたので、―日も早く軍勢に帰りたさの一念から、やがて感謝はまだ治らぬか、まだ治らぬかのあせりと不平となった毎日でありました。

 そんなうちに、昭和19年ごろの春、初めて私は中島先生のお供をして、箱根で明主様の御面会をいただきました。明主様は、私をご覧になるなり、あなたは、生命がないぞと非常に厳しくおっしゃいました。私は、自分はここまでよくなって、やがて全快をと待っているのに何という事をと、当時まだ明主様のことが、わからぬままに、それが素直に受けとれず、またその意味も分からず、また命に関係したことだけに、明主様の外のお言葉は今全然覚えておらないほど大いに悩みました。

その夜、中島先生から、あなたはここまでよくしていただいた感謝を、不平不満だらけだから、明主様はひと目でそれを見抜かれ、お叱りいただいたのだと、ひと晩中お説教されました.それからの毎日は、信仰は感謝であるということをはじめ、いろいろと厳しく信仰のあり方について勉強させていただき、実践にも努めましたが、私の身体はそのままよくならず、ついに軍務に帰れぬまま、昭和20年8月15日の終戦を迎えたのです。ところが、平和を迎えてから、私の身体はみるみるよくなって、ついに健康体に復し、それ以来御神業にお使いいただいているわけです。その時初めて、明主様の命がないとのお言葉の奥に潜むものをわからせていただきました。あの時、すぐ癒っていれば、おそらく沖縄作戦で私の生命はなく、それを生かして御神業にお使い下さるために、また、私の信仰向上と修行をさせるために、終戦まで待たれたのだと、いまさらに当時の苦しかった病の記憶を越えて、感謝の念が一杯であります。

                     (昭和22年夏頃  ○○ 宝山教会長)

  

 

「どんな遠くの出来事もお見えだった」

 

「(前略)明主様は、不足なものがあると、高頭先生に頼まれたようでした。それをお届けするのが、私の御用でした。(中略)

私の家は都内の下十条でしたが、そこから箱根までも大変なのです。でもその切符も私はほとんど並ばずに買えたのです。「神様の御用に役立つなら」と実家の方で種々の品物を揃えてくれました。それで明主様ヘの献上はもとより、駅の方々に特別に配慮することができたのです。本当に有り難いと思いました。当時は、汽車に乗るのも証明書を書いて、そして切符を買わなければなりませんでした。一度、東京駅で困っていると、一人の青年が現れ、「どこまでですか」と尋ねるのです。そこで駅を話すと、「じやあ、僕が買ってきてあげましょう」というのです。そして箱根までの往復切符を買ってきてくれたのです。お礼を言おうと思って見ると、もうその青年の姿はどこにもないのです。

箱根に着くと、明主様が『どう、今日はちゃんと買えたか』とおっしゃるのです。どうして今日に限ってそんなことをお尋ねになるのだろうと思いましたが、ウソをついてもすぐわかるのです。いやもう、とうに知っていらっしゃるのです。そこで「実はこういう駅で……」と正直に申し上げると、『それはよかった、それはきっと神様のお計らいだよ』とおっしゃるのです。明主様には、どんな遠くの出来事もお見えだったのです。(後略)」 

 

                       (大○益○ 生和教会)

 

  

「行き詰まった時は、私を思いなさい」

 

(前略)当時の先生方が、布教で行き詰まった時等、明主様の所へご指導を頂きによく上がられていたんです。明主様はその先生方の話しをジーッとお聞きになられて、それは、『うまくいかないという事は、頭が浄化しているんです。神様のお光が不足しているんだ。』と仰言られ、先ず浄霊をして下さったそうです。それから、ご指導下さったということです。又、浄霊と言うのは、単に病気を治すだけでなく、自分というものを改造してゆくもんだ。とも仰言っておられます。明主様から浄霊を頂き、御教えも頂いて、勇気づけられた当時の先生方は、布教の第一線に出発する。そして又、現場で起きた問題を持って、明主様のところへ力を戴きに帰ってくる。この繰り返しの中から本教の教線は伸びていった訳であります。又、『魂が浄化されて浄まってくると、人を救いたいという気持ちになってくるんだ。だからだから行き詰まった時は、私を思いなさい』と仰言って、浄霊こそは全てを解決する根本だと、こういう事を明主様は、身を以て教えて下さった訳です。

                 (高○信○ 教会長)

 

 

水晶の心になるよう修行し、言われた通り実行する」

 

昭和29年7月5日、メシヤ様は、樋口氏を呼ばれ、『部屋に活けてある山百合の匂いがあまりにも強いので捨てて来なさい』と仰せられる。捨て場所までご指示になられたので「ハイ、畏まいりました」とご返事申し上げる。お花を持ってお勝手まて来たところ、奥様にお会いする。「その花どうするの」と仰言ったので、「捨てに行くところです」と申し上げる。「チャンと活けてあるから神山荘で使う」と仰言られたため、「お願いします」と申し上げ、お勝手にお花をおいてお部屋に戻る。

メシヤ様は奥様との会話が聞こえるはずがないのに、『今の花はどうした?』と仰せられる。樋口氏は吃驚し、ありのままに「実は奥様が神山荘の方であの花をお使いになる、とおっしゃったので、お勝手に置いてまいりました」と申し上げる。するとメシヤ様はすごくお叱りになられ、私のすることは塵一つ、紙屑一つでも言った通リしなさいと仰せられ、直ちにお詫びし下がらせて頂く。

再度山百合を捨てるべくお勝手を出、阿部執事宅の前を通る時、阿部夫人より、「その花どうするの」と声がかかり、「捨てに行くところです」「きれいな花ね、誰かよその人にさしあげましょう。おいていきなさい」といわれ、あげてしまう。樋口氏は後になってメシヤ様の仰せられた通りにしなかったことがいつまでも気掛かりとなる。

 翌日午後1時、メシヤ様は樋口氏をお呼びになり、『きのうお前がやってたことは間違っている。咲見町へ行って修行せよ。毎日御神書を拝読せよ。神様は厳しいから少しの間違いも邪念も許されぬ。きっと又、ご奉仕のお許しがあるから楽しみに修行せよ。御教えのすべては、ご讃歌にあり、これを何遍も心をひそめて拝読すれば何が大切で、何をしなければならないか分かってくる』と御教え頂く。

また、『お前の我の働きが信念になっており、とても性格が固いところがある。また、物事を決めてかかり、己の考え方で、他を振リ回すことが時に見られる。如何に気・心配るも神意に添わねば無駄である。一切を無にして、心よリ神を敬愛して生きよ。授かる幸せ、明るき幸せ、神の慈悲に感謝して生きよ』とおさとしの言葉賜る。

更に、『水晶殿は、水晶世界の型である。水晶世界になれば、水晶の心にならねばならぬ。一寸の邪念があってもいけない。一切を無にしなくてはいけない。我があっては神意に添わない。その水晶の心となるように修行すれば、神様より素晴らしい力が頂ける』とご垂示あらせられる。(後略)」

 

     (○口 ○ 側近奉仕者)

 

  

「人類救済のためにも、メシヤ様を真似る」

 

昭和29年7月13日、メシヤ様は、『人類救済のために余を真似よ』『メシヤ教の教えは厳しくなり、少しの間違いも許せない』と仰せになる。(後略)」

                         (側近奉仕者)

 

「少しでも徳を積み、美しき行いをしておかなければならない」

 

昭和29年7月26日、メシヤ様は、『現実の破壊と創造は日々世界各地に於て行われている。将来、腰を抜かすような大きな経綸が行われる時、天地上下は引っ繰り返るのである。その時のために少しでも徳を積み、美しき行いをしておかなければならない。天地が引っ繰り返る程の大浄化が起きた時は、信者でも残るのは2割位は難しいであろう。しかし、本当に改心し、善徳を積めば、その大峠も易々越せるのである。昭和29年6月15日から本当の世界歴史が始まったのである』と仰せられる。

(側近奉仕者)