第三章 信仰の向上を図るために

 

5、御神業の奉仕について

 

② 献金奉仕の道

 

「感謝感激の表われが献金となる」

「(前略)本教が常に言う通り御利益の顕著なる事は宗教史上未だ例があるまい、十数年に渉って治癒しない難病や、医師から死の宣告を受けた絶望的患者が、短期間に起死回生健康を恢復したり、医者と薬から離れられない家庭が、本教入信によって無病家族となる等によって、絶大な感謝感激は安閑としてはおられない、その表はれが献金となるのであるから、お義理やお附合で出すものより、その額も違うのは当然である。(後略)」
                         

(「本教を認識せよ」昭和25年1月7日)
  

「献金は凡て自発的で自由」

「(前略)本教の収入が多いという事は、本教の御利益が素晴しい事を物語ってゐる、又御利益の多いという事は、神様の救の力が強いからで、それは最高神が主宰され給ふからである、そうして本教の方針として決して搾取手段は用ひない、献金は凡て自発的で自由である、処が医師から死の宣告を受けた者が助かったり、数十年来の難症が短期間に全治したり、病人の絶えない家庭が健康家庭になったりする以上、その絶大な感謝感激は止むに止まれない其結晶が献金となるのである、之等体験者の涙の滲むような報告はおかげばなしとして本紙に載せ切れない程来るので、此記事を一読しただけでも右の言の些かも偽りのない事を知るであらう。(後略)」    

(「本教の収入に就て」昭和25年4月1日)

  

 

「大きな救いには沢山の金が要る」

「(前略) 私に人を紹介する時、よく紹介者が「いや、この人は立派な人物です、第一慾がないから」なんて言ひますが、之は可笑しいんです。私は慾のないのはいかんてよく言ふんですよ。慾にもいゝ慾がありますからね。慾張りって言へば神様が一番慾張りですよ、全世界を救はうっていふんですからね、これ程の慾望はありませんよ。だから、慾だって決して悪くありませんよ。
よく「観音教には金がある、金儲けがうまい」なんて言ひますがね、今、多くの人を救ふにはどうしても金が必要ですよ。いくら素晴らしい力があり、教へがよくても、機関がなくては駄目だし、地上天国を築くのにも天国の模型が要りますしね、――今、私はその模型を作ってゐるんですがね。何をやるにしたって金が必要ですよ。その為に金を集めるんなら結構ぢゃないですか。大きな救ひには沢山の金が要るんですよ。(後略)」 

                                           (御光話録8号  昭和24年3月)

 

 

「献金にも小乗と大乗がある---はやく地上天国を造って救わなければならない」

「(前略)最近斯ういう事があつたですね。或信者で、メシヤ教は天国を造るんで、家庭も天国にしなければならない。そうするとお金は、つまり余つてからあげる。あげても経済的に差障りがない丈の金をあげる。そうすれば金の苦しみがないから、それが本当のやり方だ。苦しんで金をあげるという事は矢張り一つの苦しみを作るのだから、それは神様の御趣旨に合わない。昔からいう「信心は徳の余り」という訳ですね。それを聞いて、或る信者は感心したんですよ。それが段々広がって――苦しんで金をあげるからだから家庭が天国にならないんだという事に迄なつた。
そうすると又一方神様は今非常にお金が御入用だ。人間は少しは苦労をしても神様の方にあげなければならない。という両方の説が対立した。然しどうも後の説が負けるんですよ。最初の方が勝っていくんですね。どうもゴタゴタしているので、私が呼んでよく話してやつた。私の話は斯ういう訳です。最初の、家庭が困らない様にするという事も合っている。確かにそれに違いない。
それから、神様はお金は沢山必要だから――はやく地上天国を造って救わなければならないので、どんなことをしても金をあげなければならない――どんなに苦しんでもあげなければならない、という事も合っている。両方とも合っているんだ。只大乗と小乗だ。最初の方は小乗的考え方ですね。後の方は大乗的考え方ですね。じや、後の方は金をあげて苦しむかというと、決して苦しまない。
金をあげてそんな苦しむ様な神様だつたら拝むのを止めたらいい。だから試しにあげて御覧なさい。苦しむ様にあげて御覧なさい。十倍になって返って来ます。苦しむどころじゃない。大変な金にだぶついて来る。そう言つてやつたので、両方共――小乗的の方はよく解って、つい此間謝りに来ましたがね。そういう事があるんですよ。ですからそういう事も心得て置かなければならないという事を今話したんですがね。」  

 (御教え集11号  昭和27年6月7日)

 

信仰的献金は自由意志で---気持よく献納する事こそ真の浄財になる」
 
「昔から悪銭身に着かずという言葉があるが全くその通りである、それに就て私は霊的に解釈してみよう。
  投機といえば、株式相場を初め、商品の上り下り、競馬の賭等々種々あるが、その中の代表的のものとして株式相場に就て解釈してみるが、私も無信仰者時代には株相場に手を出し、数年間売ったり買ったりしたが、終に大失敗をした、それが信仰生活に入る一の動機となった事も勿論であると共に、霊的方面を知るに及んで決して為すべきものではないという事を知ったのであるから、此一文を相場に関心を持つ人に対し、是非読まれん事を望むのである。
  相場なるものは、先ず百人損をして一人儲かるという事をよく謂われるがその通りである、一時は一攫千金の儲けによって成金となっても、それが長く続く者は先づ一人もあるまい、而も大儲けをする者程大損をするものであって、儲かれば儲かる程その人の前途は断崖が口を開けて待っているようなものである、先づ霊的にみれば斯うである、損を蒙った大多数者は、口惜しい残念だどうかして損を取返したいと思うのは人情である、従而その怨みの想念がどこへ行くかというと、自分の金を吸いとった人間に行かうとするが、それは何処の誰だか判らないので、自然取引所を目がけて集注するばかりか、それが紙幣に集まるという事になるのである、此際霊眼によって見れば取引所にある紙幣の面には怨みの人間の顔が何千何万となく印画されており、その一つ一つの顔と、その本人とは霊線で繋っているから、取返そうとする想念がそれを常に引張っているという訳で、その紙幣は所有主の金庫には決して永く安定してはいない、何時かは引張られるから大損をし一文なしになってしまうのである。
  右は投機ばかりではない、金銭上の凡ゆる事に共通するのである、謂はば不正によって得た富や与へるべき金銭を与へなかったり、故意に減らしたり、借金を返さなかったりする場合、先方は怨むから矢張り前述の如く吐き出さざるを得ない事になるのである。
  今一つ知らなければならない事は、昔から宗教上の建物が、火災の為よく灰燼に帰する事がある、浄財を集めて建築された清き社寺や殿堂、伽藍等が焼失するといふ事は不可解に思はれるが実は理由がある、といふのは、その基金を集める場合無理をする、例へば信徒又は末寺に対し一定の額を定め強要する事があるが、之は自然ではない、信仰的献金としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当である、気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである、今一つはその建造物を利用する上に於ても神仏の御心に叶うやうにすべきで、間違った事をしたり、汚したりするような事があってはならないに関はらず、そうでない場合火の洗霊を受ける事になるのである。
  但し、相場をとる目的でなく、金利即ち配当をとる目的で買ふのは結構であって、之は何等怨みを買ふような事にはならないのみならず、寧ろ産業発展の為有要な事であって大に奨励すべきものである。」            

(「悪銭身に着かず」 昭和24年6月25日)

   

「金の使い道は、この教えで使うのが一番」

「(前略)信者だからって怠けてゐて何もしなければ危いですよ。信者ぢゃなくてもいゝ行ひをして正しい心の人は救はれますよ。たゞ信者は助かるべき方法を教へて頂けるんで、この御道で人を助ける事によって罪が減るんです。丁度ね、金が手に入っても、たゞしまっておくだけぢゃ何にもならないし、又くだらない事に金を使っちゃ却って害になる位がおちで、使い道のいゝ所に使はなくちゃいけません。その方法をこの信者になると教はるんですよ。金の使ひ道は、この教へで使ふのが一番有効な道ですからね。折角その道は教はっても、実際にやってゆかなくちゃ何にもなりませんよ。つまりね、人を助ける最善の方法を教はるのが教修なんですからね、教修を受けたゞけで、人を助けなければ何にもなりませんよ。」           

 (御光話録7号  昭和24年4月23日)
  

 

「神様に上げた金は何倍にもなって帰る」

「(前略)みんな――信者の人なんかと言うのは霊的の借金がうんとあるんですよ。之は自分許りでない、祖先以来ですからね。要するにそれが罪穢――メグリですね。それを、病気――色んな苦しみに依つて、借金を減らしているんですがね。だから、大本教のお筆先に「皆メグリは沢山あるから、一日も早く借金なしにして下されよ」と言うのがあるんですよ。そんな訳で、金の御用をすると言うのは、それ丈罪を減らすんですから、無理をしない限り――出来る丈沢山した方が、早くメグリが取れる訳ですね。
そうすれば、それ丈苦しみが減るのと、あべこべに徳が多くなるですね。私は今迄余り言わなかつたですが、神様に上げた金は何倍にもなつて帰るんですよ。目覚ましいものです。之は、経験すると分りますよ。支部で財政が苦しいと言うのを、よく聞きますが、それは金の御用をしなかつたからと、よく言います。他の宗教みたいに――天理教みたいにスツカラカンになつて苦しむと言う事は絶対にないですね。そんな気の利かない神様だつたら、信仰止(ヤ)めた方が良い。ですから、今教団の方で金が要らなくなると――今の内に御用をした方が良いと言う事になります。そうすると、何んだか旨く言つて、金を出させ様と、そう言う風にとられると困るんです。私は正直だから、有りの儘を言うんです。(後略)」                 

 (御教え集9号  昭和27年4月6日)

 

「お金(献金)をあげると言う事は、神様に御礼をする事」

問:「金を出さなくても命を捧げれば良い。だから『金を出せ』と言う幹部は邪霊が憑いている。又お前達の家庭が地上天国になれば、それから奉仕すれば良いんだ。先ず家庭が地上天国の形になつてから説くのが当り前だ。と言う事で、波紋が起きております。それで私は、キリストは天国は近づけりと言い、釈迦は抜苦与楽を説いた丈で、明主様は地上天国を御造りになられるのだから、金も要ると言う事を言つても、徹底しないので御座います。明主様よりも――」
答:「(前略)それから金ですが、余裕が出来て、その中の出せる可能性のあるもの丈出すと言う事も合つてます。それで良いですよ。それ丈じや、自分は気が済まない。之丈のお蔭を戴いて、命迄あげたいと思う事は構わない。教団に、少しでもお金の御用させて戴きたいと、之も良いです。他のものを倹約してあげる。之も本当です。どつちも間違っちゃいない。その人の思う通りで良いです。之が間違つている、之が本当だ。と決める事が間違いでその人の信仰の浅い深い――その程度に依つて考え方が違うから、それで良いです。家が物質に困らないで、良い状態を人に見せると言う事は大変結構ですよ。唯、どつちも考え方は良いんですが、極端に行くといけない。そこが伊都能売で行かなければいけない。お金を御奉仕したいと言うのに、家がピーピーしているのにあげると、世間の人が見て、あんなにピーピーして、とてもメシヤ教には行けないと、そう迄してはいけない。併し又、余つたら一つ御用をしようと言う――それ丈になると、大変お蔭を戴く事に対して適当しない事になりますね。お金をあげると言う事は、神様に御礼をする事ですからね。本当から言えば、無い命を戴いたとすれば、沢山――全部あげても良いですよ。較べて御覧なさい、「お前財産が良いか、命が良いか」と言えば、命が良いと言うに決つてますからね。命が無くて財産許りあつても、しようがないからね。それも理窟に合つてます。そうかと言うと、お金をあげる事が、親戚から見て「幾ら命を貰つてもあれじやしようがない」と、誤解を受ける様でも良くないからね。だから、程々ですよ。丁度良い位ですよ。
それから、皆罪の重荷を一杯背負つてますからね。病人を助けるのも結構だし、金の御用をして、早く地上天国を造ると言うのも結構ですし、そこが丁度良い処ですね。中々難かしいですがその人なりに、自分はこの位が良い、こうすべきだ。と言う程度にやれば良いんです。それで、そう言つた信仰の関係や理窟は、御神書を読んで、教師は私の話を、質問したり聞いたりする事。それから不断、先輩の先生――資格者から聞いたり、質問したりして、段々磨いていくんです。(中略)」   

 (御垂示録8号  昭和27年4月1日)

  

「献金を上げる時は思いが大切」

「(前略)それから面白いもので、私は前から金を損するんです。信者さんの血や汗の金ですからね。出来る丈使わない様にするんですが、何時の間にか無くなる。ヒヨツと瞞される――瞞されると言うが、馬鹿々々しい無駄な金を毎年使うんです。何んだと言うと、信者さんから寄附金が来ますが、その金の中に、段々洗いあげて行くと、やつぱり不純なものが――穢れたものが出来るんです。何の金が穢れている、何の金が穢れていないと言うんじやないんですよ。神様は全部の金を選り別ける――浄化ですね。そうすると、カスが出来る。それ丈は何うしても、地上天国を造る上に於て使う訳にはいかない。それ丈は何うしてもなる。この間の自動車――あれもそれなんです。ですから、之は大乗的の説き方ですがね。大乗から見ると、人間の判断では簡単に分らない事が良くある。それですから、何かあつた場合でも、大きな――全体的に大きな見地から考えて大体分る訳ですよ。

                     (中略)」 (御垂示録8号  昭和27年4月1日)

 

 

「一人でも多くの人を救うには、金はいくらでも要ります」

「(前略)それもやっぱり大乗的に考えなければいけないのです。だからつまり救世教なら救世教は金が非常に集まるというのは、何か金儲けの様に誤解する人がありますが……美術館が出来てから余程違いましたが……けれども、一人でも多くの人を救うには、やっぱりそれだけの設備機関が大きくなくては、それだけの人は救えないから、そういう意味において金はいくらでも要ります。大いに欲張るというので、それでいいわけです。それで金というものを非常に軽蔑するのは……特に日本人はそうですが……それは悪い所に使うからです。金そのものが穢れているからです。しかし良い事に使えば、これほど便利な力のあるものはありません。
ですから私は鉱山もやっているし、金儲けにはなかなか抜目はありません。しかしその金は、多くの人を救うという意味において、その方が一人でも多く救えます。たとえてみれば誰が見ても、立派な殿堂があり、立派な庭園がある、それでは立派なものに違いない、値打があるものに違いない、と思ってはいって来れば、その人は救われます。ですから昔の様に乞食坊主の様では、その人が死んでから何年もたってからなら良いでしょうが、人類を早く救うにはそれではいけないのです。それが小乗的考えと大乗的考えの違いです。今までは小乗的考えが多かったのです。
今まで日本は経ですから、非常に階級があって小乗的だったのです。その点アメリカは大乗的ですから、何でも金を儲ければ良いというので、ああいう様に発展したのです。だからその調和はどっちも必要なのです。経も必要なら緯も必要なのです。それをうまく調和させるのが本当です。その調和させるのが救世教です。」 

 

                      (御垂示録19号  昭和28年4月1日)

  

「人間の想念はお金に非常に入り易い」

「(前略)私の所でも毎年不思議に必ずまとまった金が出て、相当な額になるんですが、之は沢山入って来る中にごくひどく穢れた金があって、神様の方ぢゃそれだけはどうしても使ふことが出来ずに出さなくちゃならないんですよ。実際ヘンテコな事でひょいとなくなってしまふんです。なくなるってよりも出さなくちゃならなくなるんですがね、そういふ意味ですよ。……
  人間の解釈ってのには、まるでアベコベの事が多いんですよ。今迄はね、喜ぶべき事を悲しんだり、悲しむべき事を喜んだりして訳の判らない事をやって来たんです。だから益々訳が判らなくなるんですよ。
金なんかにしたって、金ってばみんな同じだと思ってますが、霊的に見ると同じ金でも大変違ふんです。金銭にも曇りがあるんですからね。どうしてかって言ふと、人間の想念は金に非常に入り易いからなんです。
今は株が高くて沢山の人が手を出して儲けたがってますが、今の株は――株ってものは本当は利益配当をとるのが目的なのに、今はそうぢゃなくて、相場をとるのを目的にしてるから本当のものぢゃないですが、その為に株で動く金には相場で食ってる人の怨みが沢山ついてる訳なんです。相場ってものは儲かるのは一人で、損する人が九十九人ですからね。だから儲かって取引所から持って来る金には損した人の怨みが沢山くっついてるんです。損してくやしがる、その執着や怨みや、或は儲けた人に対して羨しいっていふ想念が、そのまゝやって来て、皆おさつへ懸って来るんですからね。
だから株のおさつは物凄いもんですよ。執着がくっついてますからね。霊の見える人が見ると紙幣に小さい顔が沢山あるんだそうですよ。みんな泣ッ面したり、くやしげな怨めしげな顔をしたのばかりがね。そんなのを儲かったって喜んで懐へ入れてるんですからね。(笑声)そんな金は決して長く懐に置かれないんで、皆出ちゃふんですよ。「悪銭身につかず」って言ふ言葉がありますが、全くよく言ったもんですよ。(後略)」  

                          (御光話録18号  昭和25年4月23日)

  

一人だけ御用をすれば他の人は救はれない---多くの人が御用できるように」

「(前略)そして、こういふ事もあるんですよ。教団で金が要りますね、そうすると一千万や二千万なら使って貰っていゝって言って来るのが時々あるんですが、私は何時もそんなの真平御免だって断はるんですよ。どうしてかって言ふと、神様は多くの人を救はなくちゃいけない、そして大勢助かるには一人でも多くの人が神様の御用をして徳を頂いて浄化されなければいけないんで、その徳によってそれだけ罪がとれるんですが、一人だけ御用をすれば一人だけ徳を積んで他の人は救はれない事になっちゃふんです。
どっちも一千万円なら同じものでありそうだけど、大変な違ひがあるんですよ。又ね、本当にそんな多額な金を寄附するなんてことは、まあ、ありゃしませんよ。若しあるとすれば屹度そのかげに何か野心があるんです。その金で何かやらうってね。この前も請負の成金がやって来て一千万や二千万なら御用するって言ふんですが、これなんかも将来観音教団や五六七教会の建築を請負って寄附した金を差ッ引いてとらうとか何とか野心があるんですよ。それ位判りますからね。だから、そういった金は寄附して貰はない方がいゝんですよ。
本当は寄附してやるって言ふんぢゃなくて、寄附をさせて頂くんです。寄附をさせて頂き、神様に金を使って頂くって事が有難い事なんですよ。」                 

(御光話録18号  昭和25年4月23日)

  

「雛型建設にお金は要ります」

「(前略)美術思想なんかを植えつけると言う事は、非常に良いんです。そんな事にも、非常に金が要りますがね。私は、その金を始終心配している。然し、今迄はどうやら、それ丈の金は集まるんです。箱根の美術館なんかも、始める時は殆ど余分な金はないんです。
だからまあ、やって、旨く出来るかどうか、実際おっかな喫驚りだった。だけども、神様の方では非常に急がれる。だから他の方で調子が良くなって、段々進んでいくので、之は良いだろうと思って始めると――十一月に始めると、十一、十二、一月とスラスラとそれ丈の金は集まつた。現金は未だそれ丈ありませんが、申込み丈は大体ね。で、まあ――ホツと安心した訳です。(後略)」

        

(御教え集7号  昭和27年2月17日)

 

「(前略)前にも言う通り、神様は、金が要る丈はちやんと何処からか集つて来る。箱根の美術館も、建築から総ての設備から、三千万円かかりますね。昨年秋の形勢では、とてもそんな金は集りそうもないと思つたんですが、それを発表すると、信者さんが夫々一生懸命に誠を捧げた為に予定通り忽ち集まる。今迄もそう言う事は色々ありましたが、実に――神様はその時に応じて、経綸の進め方によつて、自由自在にやつて呉れるんです。(後略)」

           

(御教え集9号  昭和27年4月5日)
  

 

「お金の御用をすれば、罪穢がそれだけ減る」

「(前略)本当言うと、お金の御用と言うのは、罪穢をそれで減らしていくんですからね――神様にね。ですから、成可く信者にお金を上げさせたいんです――私の方はね。信者は浄まりますからね。(後略)」

                  (御教え集8号  昭和27年3月26日)

  

「献金は御利益があり本当に有難いという感謝の気持で上げるのが本当」

「(前略)大体、なおったら御礼するという事も、今までは神様を傭って使うようなもので、賃金をやるようなものです。これだけの仕事をするから、これだけの賃金をやろう、という事では神様だって横を向かれます。そこがなかなか難かしいのです。
又あんまり御利益のないのに金を上げろというのもいけない事です。前に、天○教の教師で、病気で苦しんでいる時に幾ら幾ら金を上げれば助かるという事をよく言うのです。それでその幾ら幾らを上げるのですが、なおらないで死んでしまう事がありますが、私は、それでは神様がやっているのではなくて、神様の取次者が詐欺をやっている、とよく言った事がありますが、これは御利益があって本当に有難いという感謝の気持で上げるのが本当の事で、受け売り仕事でさせるのはいけないのです。
しかし又、それだけの御利益があり、命まで助けてもらいながら、それを忘れたり、余計なつまらない金にはウンと使って、御礼の方には少しばかり上げるという事も理窟に合いません。ですからこの前も言ったとおり、理窟に合わなければいけないという事です。(後略)」

                  (御教え集22号  昭和28年5月27日)

 

  

「神様を取次ぐ者が詐欺をする」

「(前略)病気の時にどうしても治らない、お医者でも治らないというので、信仰を求めるというと、まずどんな宗教でも“信心すれば治ります”と言うのです。よくこういう事があります。
即ち随分一生懸命に信心しても良くならないと言ってこぼすのです。そうしてその宗教の先生に言うと“それはあなたの信仰が足りないのだ、もっと信仰をしなければいけない”と言うのです。この“信仰が足りない”という事は、結局金の上げ方が足りないという事なのです。
それは信者をつくるという手もありますが、それは相当の先生格にならなければなかなかそうはゆかないです。救世教では直きに信者をつくれますが、外の宗教ではなかなかそうはゆきません。だから手取早いのは何んと言っても金を上げることです。この方の親玉は天○教です。
その金の上げ方のひどいのになると、前によくこういう事がありました。“あなたは幾ら幾ら金を上げなさい。そうすればきっと治る”と言うので、その人はひどく工面して、借金したり質に入れたりして、先生の言う額を上げたのです。そうしても治るわけがないから結局死んでしまったのですが、そこでどうせ死んでしまうのなら金を上げなければよかった、と言うのです。“それは神様の詐欺にかかったのだ”と言ったら、“神様が詐欺をしますか”と言うから、“神様は詐欺はしないが、神様を取次ぐ者が詐欺をするのだ”と言ったら“へえ、恐ろしいものですね”と言ってました。(後略)」

 

                    (御教え集26号  昭和28年9月15日)

 

「(前略)救世教の方は信仰が足りても足りなくても治りますが、普通世間の宗教での一番の逃げが“信仰が足りない”です。このために被害を受けているのが大変なものです。ところが前にも話した事がありますが――ある大きな宗教での事です――其処の妻君から聞いたのですが、親父が病気で“二百円寄附すれば治る”と言うので、一生懸命に金をこしらえて二百円寄附したのです。ところがそれから間もなく死んだのです。“どうしたものでしょう、掛け合おうと思ってますが”と言うから、“掛け合いなさい、しかしおそらく返さないでしょう”と言ったのです。それで“信仰には懲り懲りした”と言ってました。“それでは神様が詐欺をするようなものです。しかし神様はそんな事はしないが、神様を看板にしてその教師が一つの詐欺をしたのだ。これは相手が信仰だから、まさか裁判に訴えるわけにゆかないし、そういう法律もないのだから、しようがないですね”と言ったのですが、そういう事があるのです。そうすると宗教を看板にして詐欺をするわけです。この被害が又大きいのです。大体一番大きな害というのは、それがために宗教の信用を傷つける事で、これは大きいのです。これもお蔭話によくありますが、救世教の信仰を奨められて、今までいろんな宗教で懲り懲りしたというような事を書いてあります。そういうようで、つまりこっちが大いに宣伝したり拡張する場合に、この宗教の妨害というものが大変です。宗教というものは駄目だ、おまけに新宗教というのはみんなインチキだ、と思わせるような事です。それは言論機関などもそう言います。それから又自分が信仰してみて、御利益があると言っていながら、ないという事もありますから、救世教をあんなに奨められたが、やっぱりそんなものだろうと思う、その妨害というのが大変なものです。(後略)」        

 

 (御教え集26号  昭和28年9月16日)

 

  

「病気が治る、その感謝感激が献金となる」

「(前略) “救世教が非常に僅かの間に大きくなったという事は不思議だ”と、そういう事を思っている人も大分あるようですし、時々聞かれもします。それで私は“それは病気が治るからだ。それでその感謝感激が献金となるので、それで金が集まる。それが急激に発展する一番の動機だ”と言って話してやりますが、あなた方もそういう事は始終聞かれるでしょうが、それについて書いてみました。」

                

(御教え集26号  昭和28年9月15日)

 

「(前略)病人を治してだんだんゆくという事もよいですが、これは遅くて暇(ヒマ)がかかります。そこで神様は一度に分らせようとして、つまりその方法が、地上天国という美術的のことを、そういう方法でやるわけですが、考えてみると、実に抜目(ヌケメ)がないと言うか、流石(サスガ)は神様と感心してます。そういうわけで、“これほど立派なものが十年そこそこで出来たというが、一体金はどうするか”という事になります。
それは、どんな病院でも博士でも治らない病気が簡単に治って、その感謝のためにみんなが自発的に金をあげる。それが集まってこういうものが出来たという事を分らせるようにします。“それでは救世教の病気治しというものは余程素晴しいものに違いない”という事を考えるわけです。ですから地上天国というものがそういうような大きな役目をすると思います。(後略)」
                        

  (御教え集30号  昭和29年1月2日)


「(前略)私は“戦後ボツボツ集め始めて、本当に集まった期間はまず三年だろう”と言ったところが、喫驚して“とても信じられない。それはどういう訳だ”と言うから、“どういう訳と言えば、奇蹟と言うよりしようがない。つまり神様がそうされたという事より他に言いようがない”というように言ったのです。でも、はっきりは分らないのです。
そこで私が言ったのは“兎に角集まるという事は、やっぱり金が集まらなければ品物は集まらないのだ。それで金はどうして集まったかというと、医者に見放された病気や死ぬような病気が治る結果、そこで感謝のあまり金を献げるというために金が集まって、これだけの美術品が買えたのだ”と言ったのです。(後略)」  

                                          

 (御教え集33号  昭和29年4月6日)

  

「体的にも建設をしてゆかなければならない」

「(前略)神様の事は総て型でゆくのですから、例えて見れば何処か拡がるとか出来るというと、やはり御神業の方もそれだけ増え、拡がってゆくわけです。つまり小さい型を拡げれば、大きいものも拡がるという事になるわけです。ですから建増しとか地所を拡げるという事は非常によいのです。支部などもそうで、拡げれば拡がっただけは必ず御神業の方も発展します。これが型です。
  昔の宗教が小さな所に楯籠(タテコモ)って、ごく地味にやっているああいったやり方とは全然違います。昔とても立派な堂宇(ドウウ)や伽藍(ガラン)を作るには作ったが、それはかなり成功してからの事で、最初は誠にそういった事にはあまり関心を持たなかったのです。
ところが救世教の行き方はそれとは違うのです。今までは一切衆生を救うという建前でしたが、救世教の方は地上天国を造るという建設が主になってますから、やっぱりこっちの根本がそういったようになってますから、体的にも建設をしてゆかなければならないのです。(後略)」

 

          (御教え集27号  昭和28年10月15日)

 

  

「救世(メシヤ)教へ献金するように神様がさせる」

「(前略)なるほど金の力と言ったところで、それを元から持つているわけではないし、政府事業や何かではないので、つまり救世教に献(ア)げる人がなくてはならない。それを誰がやるかというと、神様がやるのです。(後略)」

 

      (御教え集32号  昭和29年3月5日)

  

「献金等、強制してはいけない」

(これは本当に失礼と思ひますが、教団の資金はどういふ風に?会費とか御賽銭とか……会費は月幾らでせうか?)


  月、三十円です。


  (あとは?)


  寄附です。こういふもの(早雲寮の事)を作るんでも、造営基金を募るんです。所が、死ぬ所を助かってピンピンしてしまふと、有難くて仕方がないんでその人の所に金が入るとこっちへ持って来るんです。


  (物も持って来ますか?)


  物もあります。


  (強制といふ事は?)


  いや、強制的に持って来させるなんて事はしませんよ、税金ぢゃないんだから。(爆笑)」       

 (御光話録13号  昭和24年7月13日)

 

「(前略)同情はしてもそれを行為に表してはいけない場合がある。苦しんでゐる人も何かその人に苦しむ必要があって苦しむ事があります、こんなのは却って助けてはいけないのです。程度を超えて慈悲をする事も反対に懶け者を作る様になる事もある。(中略)
又もう一つは病人で苦しんでゐる人は何が何でも助けてやるべきです。私も家の者が苦しいと云へば寝てからでも又起きてやってやります。
  (御礼金が出せない様な場合は如何でせうか?)
  本当に出せないのなら仕方がないが、出せるくせにケチで出さない人もある。之は勿論いけない。」    

 

(御光話録3号  昭和24年1月28日)

  

「御利益を頂いてるのに御礼をしないのは罪」

「(経済的に不遇な方が、更に病気等の御浄化を頂いて居ります場合、その人が一日も早く健康にさせて頂けます様に――との気持から、その人には話さずに(従って御玉串も御上げする事なしに)教導師が神様に御守護を御願ひ致す事は宜しいでせうか。)
  これはね、なかなか厄介なんですよ。出来るだけ御礼をやすくしてやるとか、場合によっては貧乏人にはたゞでしてやるといった風に社会事業的にするのは一応尤もな事ですがね、然し、之は大変な間違ひなんですよ。今迄の大した御利益のない宗教ならいゝが、このすばらしい神様には感謝するのが当り前ですよ。(中略)
  不思議な事にはね、私がしてゐた時御礼を高くする程人が大勢やって来たもんですよ。――全く、これで救はれた感謝は金には替へられませんからね。先にもね、どれ位御礼したらいゝかっていふ人があるんで、有難いと思ふ気持だけでいゝ、本当に御礼するとしたら大変だから、(笑声)その時分で、まあ、十万円位はしなけりゃならない、(笑声)だからあんたの出来るだけでいゝって言ったんです。――実際、価値には替へられませんからね。今迄のは、まあ一銭上げて家内安穏、商売繁昌、無病息災、なんて願ったもんでしたがね。(笑声)だから、そういった意味でたゞでやってやるのはいけません。その人が罪をきてしまふんです。神様から御利益を頂いてるのに御礼をしないってのは罪ですからね。だから治ってから御礼するのは嘘で、治る前に御礼――御願ひをするのが本当ですよ。何故なら、治ってから御礼をするんでは神様を雇ってる事になる。丁度人を雇って、これだけ働いたからこれだけ御礼するっていふのと同じですからね。これぢゃ人間の方が上になって神様は下になってしまふんです。だから、そのやって貰ふ前に誠を捧げて神様に御願ひすべきなんです。(後略)」

 

           (御光話録13号  昭和24年7月23日)
  

「生命を救はれたら財産の半分位献金してもよい」

(貧困な人達を見ても一様に同情せず、その美しい心の持主に対しては屹度将来救はれると思ひ、その醜い心の持主に対しては当然そうなるべき因縁を持つのだ――といふ風に考へます事は無慈悲な心でせうか。)


  之はね、どっちって決められないんですよ。例へば浄霊にしても、その人が丸ッきり金がないんなら施療にしてやって上げてもいゝが、幾分でも出せれば出すべきです。人間的な考へも大切だが、それは余程違ふ事もあるんです。教導師が人を浄霊して上げた場合、生活に費用がかゝるんだから、御礼を貰ふのは当り前です。そして余裕があれば神様に御上げするのが本当ですよ。だから、御礼は身分に応じてするのがいゝんです。だから施療なんかしてる間は嘘ですよ。普通の人は施療なんか出来ないんですから。
  以前、たゞで治療しろっていふ人が居ましたが、勿論、観音様は御礼なんかいらないが、取次する人は家に住んでゐるんだし、まさかカスミを喰って生きる訳には行かないですからね。――金持ちはうんと御礼を出したらいゝんです。生命を救はれたら財産の半分位出したらいゝんですよ。だから、私は以前よく言ったんです。御礼は未だ貰ってない、手数料なら貰ったけどってね。(笑声)実際、生命を救はれるって事は大変ですからね。だからね、心よく出せる御礼は出すのが本当であり、又受取るのが本当なんですよ。
  以前、或る熱心な婦人で人を大勢やってたんですが、その御礼が一円の所を二、三円多いからって返しに行ったんだそうです。之はその婦人の御主人から聞いたんですがね。然し、これなんか飛んでもない間違ひですよ。神様を侮辱する事甚しい。一生懸命やって乍ら全く見当が外れてるんです。で、その婦人は震災で死んでしまいましたがね。


  (信者の方に御礼することを判らせる事は如何でせうか?)


  神様に御任せしておけば、神様がちゃんと先方から御礼を出させる様にして下さいますよ。ケチで頑固な人の場合は、神様はその人からでなく、外の人の手を借りて御礼をさせますよ。「あんなにしてやったのにふざけてやんな。馬鹿にしてる」と思ふ事もよくありますが、然し、御礼する様にって謎なんかかけるのはいけませんね。(笑声)ちゃんと神様が旨くやって下さいますよ。」                      

                           

 (御光話録15号  昭和24年9、10月)

 

 

「献金は御守護に見合った額を・・・自発的に出すのが本当」

「(前略)観音様の信仰は、人によって早く上へ行く人と、おそい人とあり、それは、その人の尽し方による。尽し方とは、観音運動の為にする手柄によるので、そうして、天国に相応すればいい事ばかりで、災難はなく苦しみもなくなってくるのであります。
  次に之は話しておかなくてはならぬ事ですが、観音会は或種の宗教の如く、搾取はしない事に前からなってゐる。よく信仰によると、金を上げろ、金を上げなければ罪はとれぬ、と有る物を皆上げなければならぬといふので、結局餓死線へ行かなければならぬ事になるのがある。
  観音会はそうではない。然しここに大いに問題がある。観音会が発展するに就て、本部が狭くなったので、家を造らなければならぬ。その金は、銀行が背景で沢山ある訳でもなく、政府から来る訳でもない。やはり信者の誠から出なければならぬ。で、本当ならば私の方で黙ってゐて、信者さんの方から自発的に出したいと出されるのが本当であります。
  例へば、病気なら病気としても、もはや殆んど生命のない所を、観音様に戴いた人が沢山あります。又、病院へ入れば五百円千円もかかる病気でも、百分の一位の入費で、医者ならば再発といふ事もあるが、再発もなく済んだ人もあり、又、今迄医者の方の支払が、月々二三十円位宛払ってゐた人が、観音会へ入ってからは、そういふ支払もしなくてすむやうになったやうな人も随分沢山にあります。そういふ人達も医者に払ふ半分位は上げるのが当然の事なんであります。所が、実際を暴露すれば少くとも医者に支払ふ金の三分の一さへ上げる人もないのであります。
観音行はすべて当然の事をする事なので、此病気が治るには此位の費用はかかるべきものだから、此位は出すべきものだといふのは当然の事で、当然の事をすれば金は余る程入るんであります。治療代さへ払へばいいといふんだが、でも、之は吾々の手数料として支払はれるので、治ったといふ事に対し、当然の事しても、当然の半分でもよい出すべきで、仮に、御神徳を貨幣に換算するのも変ですが、その価値にしても、観音様から価値にして百円位のものを下されば、それに対し十円も上げる人は大したもので、或信仰によると、最初金を上げれば病気を治してくれる。観音様はそうではない。最初に病気を治し、生命を助けてやらう、その後でお金を上げるなり、お礼するのは任意にしてある。で、之は最初に治して下さるんだから、搾取とは違ふ。
  も一つ信仰に入ると、段々商売が繁昌する。又、いろいろな御利益もあり、思はぬ金が入ったりする。そして御利益戴き、それでは之だけ上げやうといふ人は殆んどない。然し、観音様の方は強制的な事はお嫌ひですから、何とも仰有らぬ。ですから、観音行をすれば金などは余る位になると思ふのであります。今迄の或信仰は、今迄ある財産なら財産、これを上げろといふ。観音様は今迄のものは上げる必要はない。新たに儲けさしてやるから、その儲けたものから上げろといふ訳ですから、財産の減るといふ事はないのであります。搾取的のものは非常にわるいが、観音様は銀行からいくらでも無限に出す訳ではないから、やはり金は要る。
  こういった金銭上の事を言った事はありませんが、偶にははっきり言っておく必要があると思ってお話したのです。金銭について疑問に思ったり、迷ったりする人もありますし、お話するんですが、仮りに、みすみす死ぬべき人が助かったなら、一生涯尽すといふのが本当なんであります。
  世の中の人の心はそうなってゐる。観音行は当然の事をするんで、当然の事を世の中の人がすればいいのであります。当然の事をする人が少いとすれば・・・。
  観音様に救はれ、或程度観音様に上げないと罪になる。そうして、それが折角向上しやうとする妨げになる。それではいけないから止むを得ず幾分でも上げるやうにいふかもしれませんが、その点をよく認識されたいのであります。今迄の宗教は、極上等で二百円使って百円のお礼を戴く。然し観音様は、一円のものを上げるとして、百円の御利益を戴くのであります。御利益の価値を貨幣に換算するとは卑しい事ですが、そういふ訳になる。それで九十九円はいたゞく事になる。それではあまり安すぎるのです。之は序ですから、本当に救はれる為に、も少し出しなさいと言はれるかも知れませんが、あまりにもたれてもいけず、搾取されてもいけない。程よくすべてがいいといふ所に落付くのが本当であります。
  最近或信者の方で、此方は非常な或事情で金の御用をしなければならない関係のある方で、一旦死ぬ所を助かって、その時家庭の事情があって金をお上げして尽す事が出来なかった。それを、少しも痛まず、それだけの御用をさせる為に、その人の家を、二三千円の相場のものを一万四五千円に売られたんで一万円といふものは、只でもらったやうなものなんですが、之は観音様がそうされたもので、私の方でその一万円を借りる事になった。一カ年間五朱の利息で、支払ふやうに観音様からお知らせがあった。銀行に預けても三分三厘の利息なのに、それを五朱でかりる。その利で元金もふえるんですから、本当いへば、一万円差上げねばならぬ事情があるのを、そういふ風にして済まして下さるのです。そういふ特別の方でありまして、実に大慈大悲の御心と思ふのです。そういふ工合ですから、金銭問題について、迷はれてゐる方がありませうが、略々之でお分りの事と思ふのであります。(後略)」

 

             (「御講話」昭和10年12月11日)

  

「献金すれば、御神徳を戴く」

「(前略)最初、玉川のあの土地も変な工合で、十万円位のものが一万円位で手に入りました。之は、観音力でありますが、所が十二月二十日迄に第二回の支払として、二万一千円を払はなければならぬ。年末に差掛って、第一回に一万一千円払ひ、それから三月で二万一千円払ふなどといふ事は、人間の考えでは絶対不可能な事ですが、やはりその日迄に出来た。之も観音力で、要用だけの金はちゃんと出来るんであります。
  病気治しのみが観音力ではない。凡ゆる事を観音力で自由に出来る。之からどんな仕事するにも、金などは一寸も心配はない。観音様は自由自在ですから、どこからでも金は集められる。唯、何か宮など建てる場合など、いざといふ時、この金で建てる事になってゐる。所が、多くの人を助けなければならぬ上に於て、今度は大光明世界を建設するんですから、その光明世界建設に際して、いくらかでも、その人に御用をさしてやるといふお慈悲ですから、敢て御用はしなくとも金は集る。たゞ御用をすれば、それだけの徳を戴くんであります。
ですから、是非共永遠の為、御用さしていたゞく。無理して金を突込む事はないが、そして御神徳を戴くんであります。ですから、こちらから頼むとか、請求されるといふ気であってはならぬ。どうかお使ひになっていたゞきたいといふ気でなくてはならぬのであります。(後略)」 

              (「御講話」昭和10年12月21日)