第三章 信仰の向上を図るために
6、智慧正覚について
② 智慧をいただくには
「救世(メシヤ)教は楽しみ乍ら覚者たり得る」
「(前略)今迄の宗教は立派な人間を作る――お釈迦さんが言つた覚者です。つまり覚りを得ると、そういつた――解り易く言えば立派な人間です。或る程度の資格を得た者です。魂の資格を得た者――それを覚者というんですが、それになろうとか、ならせ様とかいう事は、昔から人間はやつて居たんですが、今迄のは苦しみです。難行苦行――ひどいのになると断食したり山に籠(コモ)つたりしますが、その目的というのは矢張り覚者たらんとする事です。処がメシヤ教が行(ヤ)るやり方は新しい、反対の――楽しみ乍ら覚者たり得るんです。良い気持で魂を向上するという行り方なんです。之は今迄とは反対で、今迄にはなかつたんです。というのはメシヤ教は天国を造るというんですから、飽迄(アクマデ)も天国的の行り方なんです。大変な異いさがあるんです。今迄とは逆です。それを認識しなければならない。その内の一つとしての此美術館です。美術を楽しみ乍ら魂を向上させるという訳です。(後略)」
(御教え集11号 昭和27年6月15日)
「信仰的にいえば身魂相応にとれる」
「(前略)以上大体の説明であるが、之は私の力のホンの一部分であって、全体を説明するに
は容易ではない。何よりも今後私のやる仕事を活眼を開いて見て貰う事である。智性の働く人なら或程度分らない筈はない。信仰的にいえば身魂相応にとれるのだから、此意味からいっても、信者は精々身魂を磨き、曇りのないようにしておく事で、そうすれば正覚を得て私の力徳が分る筈である。」
(「私の光」昭和27年5月25日)
「御神書を読むと曇りが取れ智慧正覚が発達」
「(前略)何時かも言ったとおり、理窟に合わなければいけないという事で、つまりその理窟を考えるのです。考えれば分るのです。若し分らないとすれば智慧正覚が鈍っているからです。鈍っているという事は霊に曇りがあるのです。だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。それにはできるだけ御神書を読むのです。そうするとそれだけ曇りが取れて智慧正覚が発達しますから、よく気がついたり、理窟が分りよくなります。それで理窟どおりにゆけば総てが順調にゆくのです。時々いろいろな事の質問がありますが、何かある時には調べてみると必ず何処かに理窟に外れている事があります。だからこの理窟を知る事です。理窟を知る事は、要するに気のつく事です。だからお釈迦さんは“悟りを開け”“覚者になれ”と言ったのです。“覚者になれ”という事は、今言った智慧正覚がある程度まで発達する事です。ですから仏教の方ではよく“智慧”という事を言ってます。お釈迦さんの説いた事の眼目は殆んど“智慧”でしょう。そういうようで、“智慧”という事は、今言った智慧正覚、つまり“覚り”です。覚りという事は、あきらめという事ばかりでなく、“自覚”“覚者”という事ですから、それは大きい小さいにかかわらず何んでも理窟に合わせなければならないのです。そうするとその人のする事が、そう骨折らないで総てがうまくゆくのです。(後略)」
(御教え集26号 昭和28年9月7日)
「深い智慧程誠の強さから湧く」
「世の中で一口に智慧というが、智慧にも種々あり、浅い深いもある。それ等に就て解説してみよう。
智慧の中でも神智、善智、叡智は最上のもので此等の智慧を磨くべく大いに信仰を励むべきである。何となれば斯様な智慧は神を認め、正しい誠心からでなくては湧起しないからである。故に善智によって行動の規範とし努力すれば、決して失敗はなく真の幸福を獲得し得られるのである。(中略)
面白い事には、善智である程深く、悪智は浅いという事実である。之は昔から今に至る迄の悪人の経路を見ればよく表われている。非常に巧妙に仕組んだようでも、どこかに抜けてる処がある。その隙が破綻の因となり暴露失敗するのである。此理によって一時的でなく、永遠の栄を望むとすれば、深い智慧が働かなくてはならない。そうして深い智慧程誠の強さから湧くのであるからどうしても正しい信仰人でなくては駄目という結論になる。
今日の社会悪も、右の理が判れば何でもない。全く現代人の考え方の浅い為である。それは各面に表われている。例えば、政治家にしてもただ目先ばかりを考え、問題が起ってから周章ててその対策を講ずる。此点医学の対症療法とよく似ている。処が問題の起るのは起るべき原因があって起るので、決して偶然に起るものではない。又浅智慧では将来の見透がつかないから、本当の政策は立てられない。(中略)
以上の意味に於て、人間は大いに善智を養い叡智が働かなければ何事もうまくゆく筈がない事を知るべきで、それには信仰によるより外に方法のない事を知るであろう。」
(「智慧の光」 昭和25年1月30日)
「頭が良くなるには、頭の薬毒を早くとる」
「(前略)信仰でも何んでも一切は急所です。ですから急所を見付ける能力を養うわけです。それには頭が良くなくてはならないのです。頭が良くなるという事は、頭の薬毒を早くとるという事です。
ですから熱が出て頭が割れるほど痛いという事は非常によいのです。それは頭の深い所の毒が溶けて出る時は非常に痛いのです。神経の側だからです。頭の外側の場合はそうでもありません。そういう割れるように痛いのは頭の奥の方だから、それは非常によいのです。(後略)」
(御教え集26号 昭和28年9月5日)
「智慧証覚が物事に影響する」
「(前略)それから又時節というものが大変なもので、例えうまくゆく事でも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。それはやる事が悪いのでなくて、時節が来ないのです。そこを見通すだけの智慧証覚(チエシヨウカク)がなくてはならないのです。
それから又順序ですが、これが又実に大変なものです。うまくゆかなければならない、こうならなければならないのが何処かつかえている、うまくゆかないのですが、そういう時によく考えてみると順序が違っている場合があります。それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。ですからそういうような事を早く発見するという事が智慧証覚です。この智慧証覚というものが又大変な意味――というよりか、物事に影響するのです。それで智慧証覚があると気がつくのです。一番分りやすい話が、浄霊してどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。それで順序というものはやはり理窟に合う事です。合理的なものです。(後略)」
(御教え集29号 昭和28年12月5日)