第三章 信仰の向上を図るために

 

 6、智慧正覚について

 

 

「私がかく文章は神意其儘である」

「(前略)私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。ではどういう訳かというと凡ては文章を通じてかく人の想念が其儘映るものであるからで、此点充分知らねばならないのである。之を霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、此意味に於て私がかく文章は神意其儘であるから、其人の霊は浄まるのである。(後略)」
                         

 (「活字の浄霊」昭和27年11月26日)
 

 

「神は私を通して真理を説諭する」

「(前略)天の時来って茲に神意の発現となり、私を通して真理を説諭すると共に真理の具現を遂行さるる事になったのである。故に私が説く処の諸々の言説は、真理そのものを万人に最も解り易く宣示する以上、読む人は虚心坦懐白紙になって熟読玩味すれば、髣髴として真理は浮ぶであろう。(後略)」   

                           (「真理の具現」昭和25年1月30日)

   

「メシヤ様の御教えは主神様のお言葉」

「それからこう言う事を知らなければならないんですがね。それは、昔から宗教の教祖とか言う人が、何でも一々神様に御伺いするんですね。そうすると御託宣が出て、神様がこう仰言つた。とか言うんですがね。そうすると、それを聞いた人は大変有難がるんです。有難く思うんですね。処が私はそんな事はしないですね。唯、其場々々で簡単に言つてのけるので、有難味がないんですね。
だから、ともすればそれを軽く思つて聞き逃しちやう訳ですね。で、何かあると、こう言う事を以前にお聞きした。之だと言う事に気が附くんですが、初めは中々そう思わないんです。
それですから私の言う通りやらない人も随分あるんですよ。それは何う言う訳だと言うと、私は神様に聞く必要はないんです。私のお腹に居られる神様は最高の神様です。自分が言う事行る事が、その儘神様が行つている事と同じですからね。つまり直接なのですね。
処が、今迄の宗教の教祖と言うのは間接なんです。キリストにしろ、自分はエホバの命に依つて生まれたとか、天の父だとか、何とか言いますが、あれはやつぱり間接的なんです。
で、私に居られる神様は、エホバと同じなんですからね。そこで、私は神様を拝んだ事がないですね。何処の何の宗教でも、御祭だなんて言うとやつぱり神様に、教祖が恭しく礼拝するものなんですがね。私はやらないんです。
と言うのは、私が拝む神様はないんですよ。若し神様があるとすれば、私より皆下だからね。だから、神様の方で私を拝んで良いんですよ。それですから、御守を一つ書くにも、普通は斎戒沐浴して、羽織袴で恭しく書くんですが、私は夏なんか裸でアグラかいて書く。だから知らない人は有難味はないんですがね。
私は何んでも無造作にやつてのけるんです。難しくする必要がないからですよ。ですから、反つてその点を逆に考えられるんですね。逆に思われるんですね。誤解されるんですね。然しそれは、段々分つて来れば良いと思つている。だから一時的誤解は私は何とも思わないですがね。こう言う事も余り生神様らしく思わせることになるので、私は好かないので余り言わなかつたんですが、その為に私の言う事を軽く見る場合がよくあつて、その為に間違がよくありますから、その為に言つておいた方が良いと思つてお話するんです。
だから、その点を良く心得て居て、他の宗教や、教祖と較べればはつきり分るんですよ。一番分るのは、キリストの奇蹟なんかは、非常に有名になつてますが、私の弟子で、キリストと同じ様な奇蹟は盛んにやつているんですからね。それ以上の奇蹟さえあるんです。時間があつたら読もうと思つたんですがね。奇蹟以上の奇蹟と言うんですがね。(後略)」   

 (御教え集9号  昭和27年4月7日)

 

  

「信仰的に言えば、身魂相応にとれる」

「(前略)之は私の力のホンの一部分であって、全体を説明するには容易ではない。何よりも今後私のやる仕事を活眼を開いて見て貰う事である。智性の働く人なら或程度分らない筈はない。信仰的にいえば身魂相応にとれるのだから、此意味からいっても、信者は精々身魂を磨き、曇りのないようにしておく事で、そうすれば正覚を得て私の力徳が分る筈である。(後略)」
                           

 (「私の光」昭和27年5月25日)
 

  

一番の向上は智慧正覚、標準は御神書」

「(前略)それから向上という事は、一番の事は智慧正覚です。いろんな事が分る事です。分ると言っても間違った分り方ではいけません。その標準は御神書です。御神書に書いてある事が大体“なるほど”と思えれば、それは智慧正覚が大分上がっているのです。“どうも分らない”というのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智慧正覚が向上しているのです。病状をみて、この人はこの病気だという事を当てれるのは、余程智慧正覚が上がってなければならないです。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分るというのなら智慧正覚が向上しているのです。(後略)」                 

 (御垂示録22号  昭和28年7月1日)

 

  

「転換するという事が非常に良い」

「(前略)之は何事でもそうですが、浄霊なんかの場合も、つまり三十分なら三十分、一時間なら一時間やる場合にも、続けてやらないで一旦気を入れて、そうしてやると効果があるんです。
それで急所を見附け様と思つて、一生懸命やるが急所が見附からない。それで一旦気を抜くと、直ぐ見附かる場合がある。それも、そういつた転換の為ですから、転換するという事が非常に良いんです。で、やつてみてスラスラと行く事は良いんですが、一寸行詰つたり一寸考えに余つたり解らなくなつた時は全然それから離れて他の事をやる。そうすると先の事が反つて解るものです。
ですから私は一つ事を長くやらない様にする。大抵な事は最近一時間以上やる事は滅多にない。御守とか書をかく場合大抵一時間ですね。それから先はやつぱり能率が上らなくて、上手いものが出来ない。それから色んな指図ですね。大抵一時間から三十分です。それでどんどん変えていくんです。そうすると其一つ一つが割合旨く出来るんです。斯ういう事はつまらない事の様で、非常に仕事の上に影響があるんですね。
それから何か考える場合に、一つ事を考えていると結局解らなくなつちやう。だからあんまり考える事はいけないですね。何でも、少し考えてみて斯うと思う考えがわかなければ止しちやつて、他のことを考えて他の事をするんです。そうして良い考えは刹那にフツと浮ぶものです。考え抜いて浮ぶものじやないんですよ。
ですから、よく相談なんかそうですよ。何時間会議をしたとか――よく聞きますが、そんな事で決して良い案は出るものじやないんです。ですから何時か私は、信者の幹部の人で会議をするのに三時間とか四時間したというから、駄目だ。精々三十分か一時間で、それで案が出なければ止したらいいと言つたんです。良い案というのは一つしかないんです。三つも四つもないんです。一つしかないんです。ゴタゴタやつているのは其一つが見附からないからやつているんです。よく議会とか代議士会とか、一つ事をゴタゴタやつてますが、その一つの良い事が発見出来ないからやつているんですが、発見出来ないという事は頭が悪いからですね。頭が悪いという事は、頭が曇つている。曇つているという事は、今の人は薬を服んでいますから、そこで良い考えが出ないんです。(後略)」          

 (御教え集11号  昭和27年6月5日)

 

「良い考えが浮ばないと止す」

「(前略)それから私は、何か考えて一寸考えが出ないと、止(ヤ)めて了うのです。それをどうしても考え通そうとはしないのです。止(ヤ)めるのです。そうして忘れていると、或る場合にヒヨッと気が附くのです。あゝ之だという事になる。ですから一寸考えて良い考えが浮ばないと止すのです。考えが浮ばないという事は時が来ないのです。それで時が来ると神様の方でヒヨッと知らせますから楽なものです。ですから、苦しまないで実にスラスラ順序良くいくのです。兎に角此の味というものは、今迄の頭では信じられないのです。ですから私は苦しむ様な事はしないのです。(後略)」      

                                          

 (御教え集15号  昭和27年10月7日)

  

「考え過ぎても悪い---単純に考え、あとは神様にお任せする」

「(前略)それから、物事を難かしく考えてもいけないし、単純に考えてもいけないですね。
何うしてかと言うと、考え過ぎて結果が悪い事があるんですね。だから、出来る丈け単純にですね。私なんかも難かしくなる事があるが、極く単純に考える。そうして、あとは神様に任かせるんですね。だから始終気が楽です。人間は、気が楽だと良い考えが浮ぶんです。気が楽でないと、良い考えが浮ぶ余地がないんです。ですから、始終頭の中を空つぽにして置くと、良い考えが浮び易いです。
  それから、良い考えと言うのは、正守護神がヒントを与えるんです。神様は、人間に直接と言う事はない。正守護神に知らせて、それから来る。処が、頭に一杯あると、知らせても――アンテナが、働きが悪いんです。だから、良い考えが浮ばない。と言うのは、そう言う訳ですね。之は、一種のインスピレーシヨンみたいなものですが――始終、ゆつたりした気持でね。処が、色々な心配事や、気にかゝる事があると、そうはいかない。処が、やり様によつて、そうではない。私は、昔はよく気になる事が、色々あると、他の事は頭に入らない。処が、段々信仰に入つて、そう言う事は、神様にお任かせして了うと言うと、忘れちやう。
之は、そう言う癖をつけちやうんです。一種の修業ですね、よく他の人が、色々な心配事を言うが、私は笑つているので、喫驚りして了う。普通の人では、それが出来ませんよ。(後略)」
                         

 (御教え集4号  昭和26年11月15日)

 

  

「洗煉された言葉、急所を言う様に心掛ける」

「話をする前に一寸、今車の中で気のついた事があるので――余り、滅多に話をしない事を――一寸為になる話と思うので、その話を先にしますが――私はよく映画を見ますが、その時に――アメリカ映画ですね。その言葉が字幕に書いてありますね。あの言葉が、実に洗煉されているんですよ。日本人の言う言葉よりね。何時も、私は感心するんですが、それを考えて見ると、日本人の言葉が寔に洗煉されていないんですね。
だから、信仰者として人に話をする場合も、洗煉された言葉を使う様に心掛けるんです。之は或る程度実現出来るんです。と言うのは、洗煉されると言いますと、急所を言うんですね。余り無駄とか、ずれた事は言わないんです。
実際に事実に良く合つている事柄の表現を、上手く言い現わすと言う事ですね。之が法なんです。法に適うとか、法があるとか言うのは、言い換えれば道なんです。道にはずれない様に、道に合う様にと言うのは、それなんです。之は、ひとり言葉丈ではない。挙動から態度、考え方、行う事が、みんなそれにはずれない様にいくんですね。
例えて言えば、人の家に行つて格子を開けて、玄関に上つて挨拶をし、それから部屋に座つて、そこの家によつて――相手によつて、座り方も話の仕方も、やはり違わなければいけない。話でも、招ばれた場合の態度と話もあるし、それから先方に、こつちの都合で行つて話をするのと、それから話の内容ですね。先方に対する言い方から、受け入れさせ方――そう言う事もやはり法があつて、出鱈目ではいけないですね。
一番困る事は、自分の言いたい事を言つて、先方に喋らせない人がありますが、之が最もいけないですね。話上手より聞き上手――で、相手の話を充分聞いてやつて、それに応じてこつちが話をする。そうすると、先方は気持良く、話合える。それから多勢の話の場合に、人が話をしている時に、口を入れる――ひどいのになると、大きな声で、先方の話を打消す様にするんですね。その代表的なものが、日本の議会ですよ。喋つていると、打消す様にする。それから、地位のある人の会合ですね。大きな声で、喋つている人の話を打消す――ああ言うのは悪いですね。そう言うのは、歩き方にも態度にも、一切法があり道がある。
そうして道も――相手によつて色々違わなければならない。女は女に、年寄りは年寄りに、インテリはインテリらしく、平凡な人は平凡に、と合わしていく。合つていく――之が応身の働きです。そう言う事がちやんと――そう理想的にはいきませんがね――中々ね。幾分でもそう言う風に、合つていくと、その人の運命に非常に良くなつていく。人に好かれないとか、人が賛成しないと言うのは、相手の罪許りではなく、こつちにもあるんですよ。
一番ひどい――いけないのは、嘘を吐(ツ)く事でしようね。嘘を吐(ツ)くのも、悪意でなく一時的に嘘を吐(ツ)くのがあります。一時的に嘘を吐(ツ)くと、相手が喜んだり感心したりしますからね。つい大袈裟に言つたり、大掛りに言つたりする。そうすると、あいつがああ言うんだから、実際はこの位だろうと割引きされる。私なんか、割引きしますよ。だから、偶々本当言つても、割引きされちやつて、つまらないですよ。嘘を吐(ツ)かないんですね。あの人がああ言うんだから本当だ。と、その信用が大変なものです。
どうも、人が信用しないとブツブツ言う人がありますが、一人よがりだから、人でなく、自分に何処かやり方にいけない処があるので、それを省みて発見しなければならないですね。こんな事は、大して問題にする事もない――つまらない様な事である様で、肝腎な事ですね。
それから、愛嬌ですね。空お世辞なんか言うが、あれもいけないですね。信用に関わるんです。あいつはああ言うが、腹の中は何うだか解らない、となる。一つの臭味がつきますね。正直に言う事は、少しは先方を非難する様な事でも、良くとられるものです。私なんかも、随分ひどい事を言う事がありますよ。然しどつちかと言うと、先方を気持良くさせたいと言う気持で言うから、滑稽に言う。それで、先方がああと言つて反省する。そう言う事になると、難かしくなりますが、結局相手を気持良くさせると言う事が肝腎ですね。
だから多勢の場合は、中には厭な事や変な事を言つて一座を白けさせる人がありますが、ああ言うのは、極くいけないですね。人に快感を与える。つまり、態とらしくない――又正直に言うと良いものなんです。こう言う話は滅多に話をしないことですからね。一つのお説教的な事ですがね。然し、或る事によつて気がついたんです。こう言う話も一ぺん話して良いと思つてお話するんです。」 

                       (御教え集6号  昭和27年1月6日)