5、「天津祝詞」「善言讃詞」について
ここでは、朝夕奏上する「天津祝詞」「善言讃詞」について、どのようにメシヤ様は仰っておられるのか、学んでみたいと思います。
「祝詞・善言讃詞の言霊の偉力」
「よく病気の苦痛は勿論、諸々の苦痛に対して、祝詞または善言讃詞によって、偉効を奏することがある。これに就いて不思議に思うのであるが、これは立派な理由があるから書いてみよう。
これこそ言霊の偉力であって、それは霊界に於ては、大言霊界、即ち七十五声の言霊が鳴り響いているからである。しかし、これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。勿論、正なる言霊は霊界の汚濁を軽減させるが、これと反対に、悪の言霊は汚濁を増すのである。これは何故かといえば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基は善悪如何である。即ち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とは、一つ一つの単語の綴り方が、真善美に適っているからである。これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、何故快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。しかるに、悪の言霊は、魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。(中略)
善い言霊は魂に響くから魂の光が増し、それによって心の曇りが減り、副守護神は畏縮する。畏縮するから悪を好まなくなる。というわけで、人間を苦しめていた副守護神は善言讃詞によって畏縮または離脱することになり、心の曇りも減少するから苦悩から解放されるのである。
右によってみても、善言讃詞の言霊は、いかに善美きわまるものであるかが判るとともに、善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。特に今一つの重要事がある。それは言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。即ち、魂の清い者程、言霊の偉力は発揮されるのである。それは、霊的階級が上位であるからである。(後略)」
(「言霊の偉力」 昭和25年)
「祝詞・善言讃詞が、一家を浄める」
「(前略)光明如来様をお祀りして、祝詞を奏げますね。善言讃詞とか――あれが、そこの一家を浄めるんですからね。(後略)」
(御教え集5号 昭和26年12月6日)
「祝詞の言葉は霊界を浄める」
「(前略)祝詞を奏げる一番の目的は霊界を浄めるにある。又祝詞を奏げると霊が沢山来る。祝詞を聞くと霊が向上するからである。又祝詞は神に対する感謝の意が中心になつている。」
(教えの光 昭和26年5月20日)
「(祝詞を御称へ致します理由について――)
祝詞の言葉は霊界へ響く(浄)。言霊は霊界を浄める。先に言霊の見える人があって、悪口などをいふと煤みたいに見える。良い言霊は光になる。狐など憑いてると除(ド)いたり萎縮する。祝詞は善い詞(コトバ)が組んである。
御讃歌も言霊に注意してある。七十五音の並べ方がスラスラとつかえないで行かなくてはいけない。 それ故、読んでスラスラと気持よい。霊界でよく通るのである。」
(昭和24年7月29日)
「祝詞は浄め方が強く、善言讃詞はずっと柔らかい」
「(前略)天津祝詞――あれは浄め方が強いですから、そこで苦しい。善言讃詞の方はずつと柔らかい働きをするから(後略)」
(御教え集4号 昭和26年11月11日)
「朝は天津祝詞、夜は善言讃詞」
「(千手観音様の御参りは、朝は天津祝詞、夜は善言讃詞で宜敷いので御座いましようか)
良いですよ。」
(御垂示録9号 昭和27年5月1日)
「これからは朝の礼拝は天津祝詞、夕方は善言讃詞を上げる。神は昼、仏は夜だから。(後略)」
(御光話録 昭和23年2月18日)
「朝拝は天津祝詞、夕拝は善言讃詞でよい。仏前へは幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍座世だけでよい。」
(昭和24年6月9日)
「参拝時の注意」
「(前略) (今迄は平伏の時に御願ひ事をさせて頂いて居りましたが、只今はその時間がございませんが、これは――)
大勢の時は御願ひなんかしない方がいゝですよ、時間がかゝって仕様がないから。普段必要な時に御願ひすりゃあそれでいいですよ。
こっちは神道ぢゃないんですからね、神主的意味で御丁寧にやらなくていゝんです。この道は神道でもあり、仏教でもあるんですからね。拍手にしたって坊さんは拍手を打たないでしょ。だからそこんとこは臨機応変にすればいゝですよ。たゞ敬ふ形は崩さない様にね。(後略)」
(御光話録12号 昭和24年6月3日)
「神社礼拝の仕方」
「一般神社にはきまりはない。その時と的によって臨機応変にすればよい。改まった場合はのりとをあげる。
神社には天津祝詞、寺院には善言讃詞をあげる。産土神社には、産土大神守り給へ幸倍給へ、一般神社はその祭神の名を唱える。」
(昭23年7月25日)