概 論
5,我々の幸福と本来のあり方
5-③ 本来のあり方
「人間が現世に生まれるという事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。この事を真に把握せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に終る惧れがある。然らば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界言変えれば地上天国を建設する事である。(中略)」
(「霊層界」 S22,2,5)
「それから神様に選ばれた人間だと思う事はいいけど、別に高く評価する必要はありません。無論選ばれたには違いないが、それだけじゃ高い価値はありません。この教えにも因縁、系統で入ったんですからね、それから働きがあって非常に仕合せになり、いい地位になったら、それだけ高く評価するのはいいですけどね。だからこの信者になったからって、ただ選ばれただけで何もしないって言うのは間違いです。」
(S24,4,23)
「(中略)人間の罪悪を分類してある。之(罪穢)を滅する方法は人を助け徳を積む事である。苦しむ事――いろんな苦しみにより滅するのは、骨が折れて効果が薄い。然しもっと楽で効果的なのは信仰で、教修を受けるのは罪穢を消滅する方法を覚える事である。であるから、教修を受けただけではいけない。罪穢を除るといふのは、一人でも人を幸福にするとか、導く事をするのである。(中略)」
(「受教修の意義」講補 S24,3,20)
「この人は入信してからどういふ事をしてゐました?
(やっぱり眼科医を続けて居ります。奥さんの方は御浄霊をして居りました。)
この御道を弘める方はやってないんですね?
(はあ、全然やって居りません。)
ですから御守護がないんですよ。この「入信し放し」っていふのは何にもなりませんよ。入信するって言ふのは人を救ふ力と、救ふやり方を教はるんですからね。丁度学校へ入って学問をする様なもんです。だからそれを生かさなくちゃ駄目ですよ。そして、それを活用した人を神様は御守護なさるんですよ。神様は一人でも多く助けようとなさるんですからね、人を救はなくちゃ駄目ですよ。それでなくちゃあ生存の価値がありませんからね、御守護だって頂けませんよ。(中略)」
(「光話7号」 S24,4,4)
「(中略)ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういう事は考えない方がよいです。ぶつかって来た人は救えという事なんだから、それはやればよいのです。」
(S28,6,7)
「(中略)之はね、矢張り御母さんが沢山人助けをして徳を積むんですね。御母さんがよくなって浄まれば、親子は霊線が繋ってゐるから、それによって娘さんもよくなります。先づ御自分が徳を積む事です。之によってその魂が光りますから、その光が娘さんに及んで、邪魔してる霊は次第に萎縮して遂には離れてしまひます。すべて一家の中で或者が反対してゐる場合でもそれでいゝんですよ。」
「ですから観音様のご都合により、その時の仕事の上において誰を使うか判らぬ。今後といえども観音様は必要があれば誰でも使う。もし使われた人が、俺がこうであるから使われたとか、俺がどうだからと思うと間違いがある。
観音様からこういうお見出しにあずかるということは、一生涯の光栄で、それに対してはただ感謝よりほか何もない。感謝してありがたいと思えば後また使われる。少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使いにならぬ。
この点は大変重大なことで、観音会がだんだん発展する上においても、観音様は非常に和らかくて厳粛で、たくさんな人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、ただパッと拡げない。
世間ではよく形だけみせるようにするが、こういうやり方は非常に観音様は嫌われる。場当りのいいある一時的の仕事などはなさらない。要するに真実で飾り気のないこと、人間のように衒いも何もない。
本当のお試しとは、自己というものを全然みない。本当に世界人類を救わなければならぬというやむにやまれぬ状、またこの世の中の状態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、見てはおれぬ、しかし人間の力ではどうすることもできぬ、しかし観音様が観音力を揮われるにつき、その一部にも加えてもらって、そして力限りやらしてもらうというそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。こういうように、ちょっと考えが違うと、大きい違いができることになる。どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様のためと思うと、その人の存在は大きい存在となる。」
(「御講話」 S10,8,11)
「(中略)ただ神様の見方、神様の解釈、要するに神霊観を、今までの考え方と違えなければなりません。それで一番神様の思召しに適うという事は、多くの人を助け、人類を救うという事です。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるという事が一番です。
だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になる事です。神様が、その人を見放しては神様の方に損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞を沢山奏げるという事は、決して悪い事ではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かつて多くの人を助けるという動機になるわけです。
ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。ですから私は前に大本教にはいった頃に、家内が"自分はどうも地獄に行きそうだから、天国に救われたい"と言うから、"オレは地獄に行っても結構だ。世の中の人をみんな天国にあげてやって、それで地獄に行くのなら行ってもよい。君とはあべこべだね"と言ったのです。そうしたら"それはあなたは男だからです。女はそうはゆきません"と言うのです。
ですから地獄に行きたくない天国に行きたいという事と、自分は地獄に行っても人を天国にあげたいという事は根本的に違います。ところが実は、人を天国にあげたいと思うような人なら、自分も天国にあがります。それで自分が天国に行きたいと思う人は、地獄に行く事はないでしょうが、天国の下の方か中有界ぐらいでしょう。」
(「御教え23号」 S28,6,27)